レギンと部下たちは、廃屋の連なった狭い通りを順調な足取りで進んでいた。
危険は殆んど感じられなかった。時折、野生動物らしきの影が物陰を横切る事もあったが人間たちの前に出てくる様子はなく、一度だけ遭遇した野犬の小さな群れもクロスボウの斉射を受けると、悲鳴を上げながら忽ち逃げ去った。放浪民《ワンダラー》の若者たちが嘲笑を上げる。
離れた街路の片隅に死者《ゾンビ》たちがあてどもなく彷徨っている姿も見かけたが、一行には特に反応を示すこともなく、静かに進んでやり過ごした後も、ただ陽炎のように揺らめき続けていた。
「……こんなものが【住宅街】か」
無謀な挑戦者を何百人と飲み込んできた遺跡としてかなり名を響かせている【住宅街】は、だが、噂の半分ほども危険とは思えず、レギンも思わず脱力していた。
(……噂に惑わされ過ぎたか。この程度なら、さっさと自分で踏み込むべきだったか?)
だが、冷静になって考えれば、
熟練と称する古参にしてからが、疫病や賊の襲撃で人の消えた集落を好機と漁っては小銭を稼ぐのが関の山な火事場泥棒たちだ。金のない若い頃、村を出たばかりのレギンは一時期、こうした漁り屋や廃墟民たちと多少の交流があった。碌な思い出ではないが、仕入れた知識は幾らかの役に立っていた。
貧民窟上がりの
仮に狂暴な略奪者や敵対的な放浪者の集団と遭遇すれば、一溜りもなく蹂躙されてお終いだろう。
行きにも帰りにも襲われる可能性があるとなれば【住宅街】から戻ってこれない連中がいても不思議はない。
むしろ、廃墟帰りの
(いい稼ぎになるかも知れないぜ……いや、住宅街に挑むような命知らずの廃墟漁りは、流石に早々はいないか)
結局のところ【住宅街】が鬼門として知れた廃墟だとしても、あくまで
(……ってことは、だ。逆に言えば、ミーシャや他の連中も生き延びてるかもしれねえ)
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静かに呼吸を吐きながら、お姉さんは対峙している変異獣《ミュータント》の呼吸を図っていた。
思考を言葉にするのは苦手だった。ただ、筋肉の緊張や呼気のリズムから、行動の起こる機は読むことが出来て、対決の瞬間に備える。
人間以上の膂力を持つ怪物に対し、対人用格闘のセオリーが何処まで通用するかは不明だが、やるだけやらなければならない。後ろには少女がいた。
似たような形体として巨大鼠と戦ったことはある。野犬なら何頭か仕留めている。
(……大きいな。私と同じくらい背丈がある)
先日、戦った巨大鼠より、一回り以上大きい。腕も足もずうっと太い。降り立った時は二足歩行だったのに、今は四足に移行しているのが意味不明な挙動だ。不気味。
「……糞尿もなく、足跡もなかったのに」
ぶつぶつと愚痴りながら、少女がお姉さんの傍らに並んだ。
逃げてくれればいいのに、とお姉さんは思った。
視線を変異獣《ミュータント》に固定したまま、槍を構えてお姉さんに告げる。
「引き付けるから、公園を真っすぐ通り抜けて。
私一人だけなら、凌いで逃げられなくもない」
「……馬鹿を言わない」こちらも一瞬も視線を外さずにお姉さんが呟いた。
「手はあるんだよぅ」或いは、少女は真実を告げてるかも知れないが、気は進まない。
灰色の獣。体毛はなく裸の皮膚に円形の不気味な瞳を持った怪物が、微かに上下させていた身体で前兆も無く跳んだ。
手には筋張った長い指。人間のようだが、鋭く長い爪を有してる。
来る、と起こりを察知したお姉さんが衝撃に備えて腰を落とす。次の瞬間、七十キロの体重が変異獣《ミュータント》の強い圧力に押されて靴が地面に擦れた。
(速くて強い!……が、対処できない程じゃない)
たたらを踏む事はなかったが、力づくで突進を止めた腕にしびれが走っている。
飛び掛かってきた変異獣《ミュータント》が、牙を剝きだした。頬が裂け、がま口のように巨大な口にはびっしりと牙が並んでいる。
「蛙だったか!」ハッと笑いながら反撃を試みるが、連続して振るわれる腕の強い圧力で支えるのが精いっぱいだった。
力が強い!叩きつけられる変異獣の前腕をバットを横にして防ぐが、木片が顔に当たる。
「……バットが削られるッ!?」
「へやぁ」気合の抜けそうになる叫びと共に少女が変異獣《ミュータント》に飛び掛かり、左手の一撃で視界の外に吹っ飛んだ。怪物の一撃で槍がへし折られている。
「……くっそぉ」
強い、早い、ヤバイ、殺意の塊、洒落にならない。
腹を殴りつける。体重の乗らない、背筋も使えない、腕の力だけの打撃。効かない。硬い。
頑丈そうな筋肉質の体、肉体と一体化してる首、殴って効く訳がない。
じりじりと押される。体幹を維持しきれない。姿勢制御の余地が削られ、押し倒される。持って大体、あと七秒。
(その前にぃ……!!)
覚悟を決める。お姉さんは、自分から右手に倒れ込んだ。灰色の変異獣《ミュータント》が口を開いた。首を狙って齧り付いてくる。
お姉さんが左腕を上げた。巨大な牙がジャケットに食い込む。
「左腕はくれてやる!お代はお前の脳みそだ!」
伸ばしたお姉さんの右手が、目当てのものをしっかりと掴んだ。
顔面に刃物の刃を叩きつける。鋭い刃が容赦なく顔面を削り、流石に苦痛だったのか、怪物が悲鳴を上げた。槍の穂先はよく切れる。少女が切れ味を自慢する逸品だけはある。
二度、三度叩きつけてから、喉を狙って下から突き刺す。
喉を突き刺し、抉り、耳や目と思しき穴に刺そうとして、変異獣《ミュータント》が死の痙攣に捉われているに気づいた。
動かなくなった変異獣《ミュータント》を前に、荒い呼吸を繰り返しながら、折れた槍を落とすと、お姉さんは地面へとへたり込んだ。
少女はすぐにすっ飛んできた。運よくか、身体の柔らかさ故か、怪我はなかったようだ。
お姉さんの身体をぺたぺたと触り、大きな怪我がないことを確認して、ほうっと安堵の吐息を漏らした。
「バットが……削れて……杖になってしまった」
言い過ぎだったが、痩せたバットをまじまじと眺めてお姉さんが途切れ途切れに呟いた。それから死んだ変異獣《ミュータント》に視線を移して
「脆弱で助かった……」
荒い呼吸を繰り返しながら、お姉さんは笑った。
「脆弱って……」戸惑ったような少女の声。
灰色の変異獣《ミュータント》は、時に連発銃を携えた
「脆弱だよ」大きく息を吐いてから、よいしょ、と立ち上がったお姉さんの腕は、疲労に激しく震えていた。短時間だが、変異獣《ミュータント》に抗するのに全身の力を振り絞ったのだ。
周囲に他の変異獣《ミュータント》がいないか視線を配り、左手を握ったり、開いたりして調子を確かめてから、お姉さんはよし、と頷いた。
「虎やライオン並みだったら、腕の一つも食いちぎられていた。少なくとも幾らかの肉は」
頭が廻る分だけ筋力が低いのか、四足と二足を切り替えられるから、構造として、弱いのか。確かに恐ろしい怪物だが、精々がデカくてかなり強い人間程度の膂力なのは幸運だった。そこまで考えてから、お姉さんは天を仰いだ。
「……どうでもいいか。毒がないといいけど」
毒はない、と少女は請け負った。
「灰色でよかったかも。黒いのはもうちょっと強くて大きいから」
傷の手当てをする為、コンクリートの滑り台の真下まで移動する。
ぼろ装束の大きなポケットから応急キットを取り出しながら、少女が碌でもない事実を教えてくれた。
「それは恐い。黒い親戚には会わないように祈るとしよう」
うんざりした口調で言いながら、お姉さんはジャケットを脱いだ。
少しだけ痛んだが、傷は浅かった。精々が牙の食い込んだ肉からわずかに出血しているだけで、大きく抉れている部分はなく、肉もひしゃげてもいない。
水筒を傾けて傷口を洗浄した。ついで少女の取り出した琥珀色の小瓶に、お姉さんの視線が止まった。
「血管には届いてなさそうな……それはラム?」
少女が無言で頷いた。
「一口くれ」
お姉さんは、気つけに呷ると、大きくため息をついた。
恐怖なのか、興奮なのか。いまだに腕が震えているが、痛みは殆んど感じない。
応急キットの小さな革鞄を開くと、少女は錠剤と注射器を取り出した。
「これは?」
「飲んで」差し出された錠剤ケースには抗生物質と記されていた。
「そちらの注射の中身は?」錠剤を飲みこんだお姉さんが尋ねると、注射器から空気を抜きながら少女は首を傾げた。
「分からん」
「分からんですか?」お姉さんは驚愕した。
「まず、落ち着いて話を聞いてほしい。
そもそもが死んだ
「うん」
「ただ、
「ふむ」
「害はないと思う。ないんじゃないかな?
この応急キットは、かなりいい装備の
まあ、ちょっとは覚悟しておけ」
「おい」
「止めておく?」
モルヒネあたりかな?或いは、狂犬病のワクチン?
質の悪い戦闘薬(覚せい剤)の類かも知れない。
変異獣《ミュータント》と白兵戦なんてお姉さんには初めての経験で当然、
「変異獣に傷つけられた時に注射を打ってたんだね?」
少女は付箋の付いたノートを取り出した。パラパラめくって
「正確には大きな怪我かな。変異獣《ミュータント》が多いけど……」
「違うチームでも持っていたの?」質問に少女が頷いた。
一定以上の水準の
ふむん、と考え込んだお姉さんが首を縦に振った。
「やってくれ」
静脈に注射した。特に痛みが弱まった感も、感覚が鋭くなった感もしない。
最後に、煮沸済みの布切れを包帯として傷口に巻きつけて、処置は終了する。
「よし、と」お姉さんが立ち上がる。行動に支障はなさそうだ。
公園を抜けた先の街路には、瓦礫が転がっているのが見える。そしてその先には、ひび割れた乾いた地面に砂の道が続いていた。大地の匂いは、もう曠野と区別がつかない。猫ほどもある緑色の虫たちが日光を避けるように廃墟の影に蹲っている。
ここから先の地形は、少女も知らない。そこはもう曠野の一部で、少女にとっては完全に未知の領域だった。公園と違って、遠目に窺ったことすらない。
一歩だけ踏み出した足が、小さく震えた。
建物は疎らで、風化が目立った。風に吹かれて砂煙が路上に小さく渦を巻いている。
獲物となる小動物が豊富で、水場の周辺には植物が繁茂してる【住宅街】に比べれば、曠野は野生動物や変異獣《ミュータント》も少ないが、隠れられる場所も減少するだろう。
曠野と廃虚のどちらが危険かは、少女には判断がつかない。少なくとも廃墟での生き延び方は知っている。だから、少女は曠野に足を踏み入れたことはないし、これから先も、きっとないだろうなと思った。
「曠野だよ」コンクリート製滑り台の影に隠れながら、曠野への道を見て少女が呆然と呟いた。
それからハッとした様子で、背嚢をごそごそ漁り、細い雅な箱を取り出した。
「こ、これは……ちゃんとお店で拾った奴。曠野は日差しが直で照り付けるし、廃墟漁りとか遊牧民がよくしてる」
綺麗な茶色の布を取り出すと、お姉さんの頭にターバンのように巻き付ける。
為すがままにされたお姉さんは、ターバンの手触りを楽しんでから、自分のスカーフを外すと少女に巻き付けようとしたが、くすんだ赤いスカーフが高そうな布と交換する贈り物として相応しいのか、廃墟での視認性が上がって危険かも、と考えて硬直した。
しかし、少女が期待した目で見てるので、視認性に忠告してから巻き付ける。
少女は、スカーフを嬉しそうに撫でてからぼろ装束の下にしまい込み、隣で覗き込んでいたお姉さんに寄りかかる。
「……寂しくなるぅ」
泣きそうな少女をお姉さんはぎゅっと抱きしめて囁いた。
「ありがとう」
少女は泣きそうになり、少し鼻が痛くなった。
「途中、気を抜かないでね。生き残ることを優先して。
一人旅なんだから」
「ん」とお姉さん。
「当たり前と思うけど。プロの廃墟漁りたちや密猟者だって、それで死ぬことがあるんだから」
胸に埋まりながら、少女は言葉を続けた。
「ほんのちょっとだけ欲張って深入りしたり、怪物に追われた時、あと少しで助かるのに仲間や、まあこれは責められないけど助けに行ったり……戦利品を惜しんで命を落としたり。
だから、助かることだけ考えて、余計な寄り道しないで。目的地に着くことだけを考えて。そうすれば、運に恵まれやすくなる」
「分かった」
曠野の旅と廃墟探索は、色々と要領も違うだろうが、少女にとって知っているのは廃墟探索のセオリーだけで、しかし、懸命にアドバイスを送った。
お姉さんは、闊達に笑った。
「地図もあるし、バットも……ちょっと削れて杖っぽくなっちゃったけど。水も食料も貰った」
「元気で」と万感の思いを込めて少女は別れを告げた。
「そっちも。幸運を祈ってる」廃墟で注意を怠るのは危険と分かっていたが、お姉さんは名残惜しそうに振り返って手を振るい、それから彼方の曠野へと歩いていった。