分厚い雲が低く垂れこめていた。所々が崩れ落ちたコンクリートの建築物も相まって、廃墟の景色は常に圧迫感を感じさせる。
先頭を行くレギンは疲れを知らず、また迷いを持たないかのように一目散に廃墟を歩き続けている。その気力、或いは執念がどこから出ているのかは分からなかったが、無数の怪物。道を彷徨う十数体ものゾンビの集団や、吐き気のするような醜悪な外見をした変異獣《ミュータント》たちを瓦礫の影で息を潜めて躱し続けるたび、ジルの神経はやすりに掛けられたかのように削られていた。
廃墟で抜け道や抜け穴を見つけ出すのは、実際に大した技能と言えるだろう。少なくとも、ジルには不可能な芸当だった。
何しろ周辺から漂ってくる怪物の気配が尋常ではない。悪夢みたいな巨大な蟻や変異獣《ミュータント》、ゾンビが街路を彷徨い、建物に巣食い、吼え声や唸りを上げては、這いずるような足音を立てながら移動している。
手頃な廃屋に安全を確かめてから踏み込むと、見張りを立ててから休憩に移った。
部屋の隅にへたり込んだジルは、しかし、手製ライフルは手元から離さずに、同時に半ば機械的な反応でクロスボウの手入れを行っていた。
歩哨は、順番に行っている。今は、レギンが引き受けていた。恐らく表通りの近くを軽く歩き回って、廃墟の住人たちが作り上げた次の抜け道を探しているのだろう。
クロスボウの弦を引き締め終えたジルの隣に、太鼓腹のトニーが腰掛けた。
「お前、どう思う?」
何気ない世間話をするようなトニーの口調に、ジルは応えた。
「レギンか?」
「……なにか知らんが、妙に焦ってる」
「金を貰えるなら、どうでもいい事さ」
入り口に立ってた巨漢のダグが口を挟んできた。
「そうだね」ジルも掠れた声でつぶやいた。
喉が渇いたが、少ない水は節約しなければならない。【住宅街】入り口には、近場の井戸から運んできた水樽が残されていたが、持ち歩ける量は荷物との兼ね合いとなる。並んだ邸宅の庭には、枯れかけた灌木がまちまちに生え、街路の割れ目にへばりついた僅かな雑草の間を、羽虫が飛び交っていた。
植物が繁茂している以上は、廃墟の何処かに水が湧いていても不思議はないが、地下水が枯渇した為、破棄された居留地も少なからず存在している。
「契約は三日。明日一日、死体を探す。見つからなかったら一日、帰還に費やすとして。明後日には帰れる」水の残量からして、延長は有り得ないと考えていたジルだが、太鼓腹トニーは懐疑的なようだった。
「本来なら、そうだな。だが、明日一日、無事で過ごせると思うか?」
「何が言いたいのさ」
「何が言いたい?」
期せずしてジルとダグの発言が一致した。
「俺たちは、もうかなり危険なところまで踏み込んでいる」
「あぁ」
ジルにも異論はなかった。【住宅街】での探索は、小さな廃集落に踏み込んでの変異獣《ミュータント》狩りとは訳が違う。ここはもう、ジルの乏しい経験が通用するような生易しい廃墟ではなかった。
「ここからさらに深く潜って、生きて還れると思うか?」
「ちょっと待ちな!」
鋭い声で制止してから、ジルが太鼓腹トニーを睨むように眺め、次いで巨漢のダグの様子を伺う。でかい図体してる癖、落ち着かない様子でジルと太鼓腹のトニーの間に、何度も視線を往復させていた。
戸惑っている態度を見る限り、巨漢のダグは、トニーと予め同調している様子ではなさそうだと、ジルは見て取った。そして太鼓腹トニーも、まだ決定的な言葉は口にしていない。
太鼓腹トニーの言葉は、まだ、ただの不満で済ませることが出来る。
だが、此処から先を口にすれば、冗談では済まなくなる。
太鼓腹トニーが造反を持ち掛けるか。少なくとも、その切っ掛けになりうる危険な内容にまで踏み込もうとしているのはジルにも予想できた。
巨漢のダグがどう出るかは分からないが、しかし、ジルも現状には危機感を覚えている。
下唇を舌で軽く湿らせると、それから用心してジルは口を開いた。しかし、太鼓腹トニーの言葉は、不安を覚えてるジルにとっても共感できるものだった。
「……一応、あたしも地図は描いてる。一応ね。
ただ、これ以上、先に進んだら生きて戻れるかどうかの自信はないね」
太鼓腹トニーが頷いてから、言葉を続けた。
「レギンは必死だ。
ああいう人間は、引き時を間違えやすい」
それから、トニーは先を促すようにジルを見た。
「……潮時かも知れないね」ジルの声は掠れていた。
多少の後ろめたさは覚えたが、吐いた唾は呑み込めない。
ジルの返答を聞いた太鼓腹トニーは、人の良さそうな表情から一転、獰猛な笑みを浮かべた。得たりと大きく頷いてから巨漢のダグへと視線を移した。
毒を食らわば皿まで、とトニーに同調したジルも鋭い眼差しを向ける。
巨漢のダグは、少なくとも動じる様子は見せなかった。しばらく沈思してから、図体とは裏腹に囁くような声で賛同を示した。
「確かにな。お前の言う通りだ。トニー」
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三階建て屋上に吹きすさぶ風は冷たかった。包まった灰色シーツを掻き合わせて、寒さに耐えながら、少女はじっと目を凝らして町の西側を見つめている。
危険な【住宅街】の地形を少しずつ調べ上げ、抜け穴や逃げ道を築き上げるのに、少女は長い歳月を掛けてきた。その抜け道や逃げ道を辿り、徐々に近づいてきている者たちがいる。
気づけたのは、警戒を怠らない日頃の習慣の賜物だった。常のように屋上から街並みの様子を伺っていたところ、かなり遠来の建物。少女が屋上に渡り廊下を設置した【入り口方面】の屋上に、普段は見かけぬ光の反射を見出した。何者かが屋上から望遠鏡と思しき光学機器などを用いて周囲を偵察している。
何者かは分からない。少女が先んじて捕捉し得たのは、此方が遮蔽物に隠れながらの偵察だったからか。
相手が少女に気づいてないと言い切れるだろうか。考えて肯定する。
屋根と同色の灰色シーツを被って覗き見た光は、少女が気づいてからも数十秒ごとに明滅していた。
相手が、広範囲に対して見回しているのであれば、特定された恐れはまだ小さい。多分、おそらく。先手は取れたと推測できる。
そして接近しつつある何者かは、少女の街中に設置した移動用の縄梯子や木製の架け橋を逆に辿って、着実に近づいてきている。
すでに昼下がりに入っていた。帰宅に要する時間と日没までの猶予を計算に入れ、かなりぎりぎりまで観察を行ったが間違いない。
縄梯子や木製の架け橋の使用を確かに目視した。視認できるのがゴマ粒程度の人影とは言え、複数で動いていれば、少女の視力で見誤ることはない。
「3人っ……4人?!」抑えた声だが小さく悲鳴が漏れた。
(……これはよろしくない。とってもよろしくない)少女の脇に嫌な汗が噴き出た。
もとより戦利品目当てではあるまい。みすぼらしい小娘一人を捕まえても金にならない。
この相手は違うようだ。時間を掛けて、着実に距離を詰めてきている。
時期がよろしくない。1つ。【住宅街】に何か良くない動きの予兆が起こっていた。2つ。それと、家からほど近い隠し畑が『なにか』に荒らされていた。3つ。加えて訳の分からない追跡者。
(異なる危険が三つ……対処できない。優先順位ぃ。どれもまずいよぅ。どうしよう。どうしろと?)
むしろ鈍いのではないかと思うほどに気持ち的には落ち着いているが、思考がキャパシティを越えていた。思考を落ち着かせるために少女は二、三度、深呼吸を行った。水筒の水で唇を湿らせ、屈みこんで目を閉じる。
改めて、必死に脳髄を振り絞る。考えは思いつかないどころか、甘いもの食べたい、なんて欲求が浮かんでくる。糖分が足りぬ。
根本的な解決策は諦めて、目前の危機に思考を絞ってみる。
焦りすぎかもしれない。本当に迫ってくるだろうか?分からない。
「目当てが私と限らないぞ、うん」
いや、違う。よく見ろよ。と少女の脳みその冷静な部分が忠告してくる。
幾度か迷いながらも、少女の自宅へと続く経路を辿ってくる。これは誰がどう考えても、少女の家の発見を目的としているように思えた。
で、相手が諦めるならよし。諦めなかった場合は?どう対処する?
よさげなものを二、三見繕って持ち去ったことは何度かある。その時も、価値が高そうな宝飾品やら、貴重な銃器、弾薬には手を出してない。書籍も重いから滅多に手を出さない。複数の本から、面白そうな漫画や役に立ちそうな専門書などを偶に一冊。
それで執着されるだろうか?知らず知らずに、価値のあるものを横取りした?思い出の品でも取ってきたか?
耳を澄ませても、銃声は響いてこない。着実に怪物を迂回して、設置された抜け道を短時間で突き止めて迫ってきている。
(廃墟の中でこれほどに動けるとしたら、何者かな?)
少なくとも素人ではない。
まずは、熟達した
しかし、
かなり注意深くて運動神経のいいお姉さんでも【住宅街】では惑ったし、武装した放浪者たちも道を見失うのを恐れて早々に引き上げた。
「……参ったな。やり過ごす手がない訳でもないけど」
イラついた猫のように、少女は灰色の髪をカリカリと搔いた。
人間に追跡される状況を想定していない訳ではないが、真剣な対策を練ってきたとは言えない。時間も物資もリソースは常に限られているのだ。
一応、予備の隠れ家を準備する程度に備えはあるが、最悪なことに自宅から色々と持ち出せるほどに時間の余裕があるとも思えなかった。
それなりの腕を持つ
特に隠してはいない上、使いやすい場所に一定距離ごとに設置してある。それを使って、
だが、廃墟にある程度、踏み込むための近道に使うのと、廃墟の中心近くまで踏み込むのでは訳が違う。移動だけでかなりの時間を費やす上、未知の深部に踏み込むことになる。割に合わない。金で命は買えない。後先を考えれば、やらない筈だ。
当然の話だが、逃げ道は自宅を中心に放射状に設置してあった。少女の自宅に当たりをつけて、抜け道を逆に辿れば、ある程度まで近づける。とは言え、自宅に近づけば近づくほどに、設置された抜け穴や逃げ道は増えるし、必ずしも自宅方面へと向かう道とは限らない。
抜け穴の配置だけは、持ち歩いているノートにも記していない。ある意味で、少女の命綱だからだ。ノートに記すのは危険に過ぎた。探索者の捕虜になった際、抜け道の情報を独占するために殺される恐れもあった。
抜け穴を記した秘密の地図は、暗号化し、誰も知らない隠し場所だけに存在している。
少女は、記憶している限りの抜け穴の配置を脳裏に浮かべる。縦横無尽に張り巡らされた複数の経路は、自宅近くとなれば、より高度に隠蔽された抜け穴も増える。多少、目端が利くだけで自宅まで到達するとは考えにくい。少女の技量でも、ほぼ偶然に頼るしかない。
しかし、少女の家は、屋上に畑を設置してある。
(……目立つよね。間違いなく)
運次第では見つかる可能性もあるだろう。最悪、しばらく家から離れたシェルターに移ればいいと結論する。
完全に脈絡なく離れた家なので、息を潜めていれば見つかることはまずない。
食べ物と水を大量に自宅においてある。場合によっては、かなり捨てる事になる。
色々惜しいが仕方ない。ただその前に、何者かは確かめておいた方がいい。多少の危険を冒してでも、相手の正体を突き止める必要があった。それとも今、罠を仕掛けて仕留めておくべきだろうか。
時期的に考えて、お姉さんを追いかけた放浪者の仲間説に一票。他には……難民かな?或いは、単なる放浪の旅人集団。こちらの家を奪うつもりとか?
いや、まさか。好き好んで【住宅街】に住むなんて正気じゃない)
やむにやまれぬ事情があるのか?だとしても巻き込んで欲しくないと少女は思う。
(……食い詰めれば、人間なんて何を考えるかわからない生き物だし)
最悪、家を奪われる、か。命には代えられない。少女は割り切ることにした。
割り切れなければ、廃墟では命を落とす。予め、いくつかの缶詰は、隠れ家に運び込んである。幸い、肉は殆んど消費してしまっていた。自宅に戻ったら、水を運んでおこう。浄水器は、簡易な方は移動させよう。ああ、それと、熊の縫いぐるみを忘れないようにしないと。
悔しいが仕方ない。畑荒らしの方とは、おそらく別件と考えられた。家の近くの畑を荒らして【住宅街】入り口付近から近づいてくるのでは、あまりに距離が離れすぎている。それとも先行した偵察者と無線で連絡を取り合っている?畑の位置を掌握されたのが痛い。
迫りくる来訪者の一団と畑荒らしが仲間であれば、移住する気だろうか?
別の集団としても、あちらもこちらも友好的とは思えないし、正体も分からない。
「……まいったなぁ」
戦うか、観察にとどめるか、逃げの一手か。どうしよう。
彼方では、空が茜色に染まりつつあった。少女は危機感を募らせながら、早足で廃墟の狭い路地を駆け抜けた。
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それは、あまりにも巨大な獣だった。人間や動物より自動車と比較した方がいいほどの巨躯が動くと僅かに地面が揺れ、ぬめぬめとした肌から饐えたような悪臭を漂わせていた。
生臭い匂いがジルたちの隠れている廃屋の窓越しにもプンプンと漂ってくる。陸生の山椒魚にも似ているが、遥かに醜く変異していることを考慮しなければ、たどたどしい足取りも何処かユーモラスに感じられたかも知れない。
化け物は、口に獲物を咥えていた。成人よりやや小柄な程度の変異獣でぐったりとして動く様子はない。山椒魚の化け物が口をぺちゃぺちゃと動かすたびに変異獣が少しずつ吞み込まれていく。
ジルはお守りのようにずっとライフルを握りしめていたが、精々が拳銃弾より少しマシ程度の威力しか持たない安物の32口径弾では、全弾撃ち尽くしても化け物山椒魚に大して効くとも思えなかった。それは或いは恐怖が生み出した過大評価かも知れなかったが、街路を塞ぐほどの化け山椒魚が獲物を完全に呑み込み、それからのろのろと移動しても、暫く室内には誰も動こうとするものはいなかった。
「日が落ちる前に、もっと安全な根城を見繕う」
レギンが表情を強張らせながら部下たちを見回したが、被せるように太鼓腹トニーが吐き捨てた。
「……うんざりだぜ」
挑戦的な響きの太鼓腹トニーの口調に剣呑な緊張感が漂った。
「レギンさんよ。此処までだ」
太鼓腹トニーの言葉に、レギンが口を引き結んで向き直った。
「怖気づいたか?」
「ああ、怖気づいた。此処までだ。これ以上は、とても俺たちの手には負えねえ」
太鼓腹トニーが床に唾を吐き捨てた。風で塵かなにかがぶつかったのか。叩いたような物音が壁から小さく鳴った。
「……契約は、あと二日ある。反故にする気か?」
レギンの腕は一見、脱力したようにだらりと垂れ下がっていたが、拳銃捌きが相当の腕なのは幾度となく証明していた。
「帰還に一日。あと一日でこのバカでかい廃墟で人ひとりを見つけ出す気か?
馬鹿も休み休み言え」
一方で、油断なく構えている太鼓腹トニーもかなりの銃の使い手だが、抜き打ちにはレギンに及ばないだろう。他人の射線を塞がずに巧みに援護するなど、戦闘の際の立ち回りがトニーの持ち味だった。
「痕跡が残されてる」とレギンがいった。
「あんた一人が分かってるらしき痕跡がな」
何か当たったような小さな物音が、また壁から響いてきた。
沈黙した室内で、レギンは他の二人も様子を伺っているのに気づかされた。
「お前たちも同意見か?」皮肉っぽくレギンが呟いた。
「さあ。あんたの回答次第かな」ジルは返答する。
再び沈黙が立ち込める。街並みの何処かで彷徨うゾンビたちの呻きがただ遠来から響いていた。
レギンは、確かに廃墟で生きる為の術を知っていた。その知識や技術は、生中な廃墟漁りにも見劣りしないだろう。
人間大の獲物を巣に吊るした巨大蜘蛛がビルの側面を這っていた時は、背筋が凍り付いた。レギンが注意を促さなければ、気づかずにその下を歩いていた。ジルが焦燥し、怯んでいた時も、レギンは廃墟に隠された
廃墟のどの場所に何が設置されてるかを、あらかじめ心得ている人間のみが、廃墟での抜け穴を容易に探し出すことが出来る。時に道を見失い、後戻りすることも珍しくなかったが、ジルや他の二人には到底、不可能な歩調でレギンは廃墟を進んでいた。
或いは【住宅街】での探索にも、なんらかの成算は見込めるのかも知れない。だが同時に、これ以上を廃墟に踏み込んだ場合、レギン無しでは戻れなくなることをジルは危惧していた。
怪物の気配が其処かしこから漂ってきている。絶え間ないゾンビたちのうめき声もまた、四六時中の緊張を強いた。
遭遇する回数も増えてきている。二度、三度と、手に負えない規模の群れを目にした。
苦虫を嚙みつぶしたようなレギンは、天井に視線を彷徨わせたが、しかし、気を取り直したように部下たちへと向き直った。
「約束の倍。いや3倍出す」
油断なく雇い主を睨みながら、太鼓腹トニーが再び床に唾を吐いた。
「何故、執着する?そこまで賞金首になるのが恐いか?」
信じられないとでも言いたげなトニーの口調に、レギンは初めて自信を無くしたようにうつむき、視線を彷徨わせ、それから忌々しげに吐き捨てた。
「金だ!」
「金?」と巨漢のダグがいった。
「割符さ。オーの商会の割符。
老いぼれの死体は持ってなかった。
服をバラバラにして、老いぼれの胃袋やケツの穴まで調べた」
レギンの言葉に期せずして想像力が仕事をして、ジルは思わず顔を歪めた。
「……肌身離さず持ち歩いていた。それなりに厚みのある掌に収まる程度の金属片だ」
語気も荒く吐露すると、レギンは雇い兵たちを鋭く睨みつけた。
「手に入れば、商会の預金が下ろせる。これが生き残りを追いかける理由だ」
「そう簡単に下ろせるものじゃない筈だけど」
レギンの言葉に、ジルは肩を竦めた。
放浪者《ワンダラー》であれば、追剝や盗賊《バンディット》に知己の一人、二人はいて、多少の事情は耳にする。まともなギルドであれば、本人認証がなければ預金は下ろせない。奪い取った割符が誰にでも使えるならば、奪い取った追剥や盗賊はやりたい放題になってしまう。
「言っておくがお前たちが割符を手に入れても、金は手に入らないぜ」
釘を刺したレギンは、不機嫌な表情で拳を打ち鳴らした。
「下ろせる手筈を整える為、俺は老いぼれの下で何年も働いたんだからな。
割符さえ手に入れば、俺と仲間たちなら金を引き出せる」
レギンは自分たちも警戒しているな、とジルは見定めた。ケチな雇い主と出会ったばかりの雇い兵に信頼関係などある筈もないが、使い捨てにされるのも御免だった。
それにしても心なしか、ゾンビの呻きが増している気がする。酷く気が散る。いやな兆候だった。ジルは窓の外に警戒の視線を走らせる。異常は感じられないが、場所を移った方がいいだろうか。
「一体、幾らなんだ?」巨漢のダグの問いかけに一瞬、躊躇してからレギンは金額を口にした。
「ギルド通貨で……最低でも七万。恐らくは十二万程度は期待できるはずだ」
ジルは思わず口笛を吹いた。レギンが口にしたのは途方もないもので、貧しい放浪者たちでは、生涯お目にかかれないだろう金額だった。
三人は顔を見合わせたが、しかし、太鼓腹トニーは首を振った。
「金じゃ命は買えねえ。悪いが此処までだ。
レギンの旦那。宝探しは一人でやってくんな」
怒りの為か、レギンの頬が激しく痙攣した。
雇い主のレギンが何かを言いかけた時、再び、壁に何かがぶつかるような音が響いた。
「なんだ?さっきから」舌打ちしたレギンが、不機嫌そうに吐き捨てる。
「……外に何かいない?」
ジルが尋ねるが 戸口に一番近いダグは首を振った。
「いないぜ。誰も見当たらない」
だが、今度は、音は止まなかった。二度、三度と連続して段々とリズムが早くなる。
「……何の音だ」レギンが言った。今度は、低く警戒するような口調だった。
覚えのある匂いを感じて、ジルは喉を鳴らした。
「……血の匂いするね」
ジルの言葉に、全員が沈黙した。
ジルは扉の傍にそっと忍び寄り、顔だけ出して周囲に視線を走らせた。
(……誰もいない。)
バシッ、バシッと連続する物音が、家の曲がった先から幾度となく響いている。
心臓が早鐘のように音を立てて鳴っていた。ライフルを構えながら、角を曲がる、と、そこで顔から血の気が失せた。
鼠。小さな鼠が地面に積み重なっていた。臓物を割かれ、血まみれの鼠の死体が小山を為している。壁に血の跡が残っている。何者かがジルたちの籠った廃屋へと投げつけていたのだ。
濃密な血の匂いが鼻に突いた。
「この血の匂いは……マズい」
立ちすくむジルの耳を打ったのは、背後から響いてきたゾンビの呻き。確実に大きくなっている。仲間に警告を発しなければ。よろめきながら振り返ったジルは、今度こそ頭が真っ白になった。
街路の彼方から、疎らな人影が押し寄せてくる。のろのろとした動きで、しかし、着実に近づいてくる人波のさらに後ろでは、逃げる隙間もないほどに密集した死者がそれこそ波のように殺到してきている。二百や三百では効かない恐ろしい数を目にしたジルは、足から力が抜けて崩れ落ちた。
思考が麻痺したように恐怖に声も出ない。皮膚が粟だっている。
(あ……死ぬ)
戸口の方で、太鼓腹トニーが何かを叫んでいた。味方が射撃を開始したことに少しだけ正気付いたジルは、恐怖で発狂寸前になりつつも機械のように手を動かして狙いを定め、発砲を始める。連続する発砲音に死者の群れは速度を上げながら、廃屋目がけて街路の先へと雪崩れ込んでいった。