朽ち果てた廃墟の町並みは、静かに息づいている。それは時に廃屋に潜り込んだ野犬たちの蠢く気配であり、街路を徘徊するゾンビの足音であり、張り巡らされた暗渠を疾駆する変異獣の咆哮であった。
夜の帳が降りても、廃墟に真の静寂が訪れる事はない。夕暮れが近づいた時間帯など、朽ちた町が不思議と微かな喧騒に包まれることもある。
黄昏の騒めきを圧倒して、耳をつんざくような強烈な発砲音が吹きすさぶ風に乗って少女の耳に届いたのは、もう日没も目前の時刻だった。
怪物は騒音と血の匂いに誘われる。野犬や巨大鼠などは銃火を恐れて遠ざかりもするが、特に変異獣とゾンビは危険な存在で、廃墟の深い領域では探索者が迂闊に銃を使えない原因として恐れられている。
にも拘らず、廃墟の中心地帯から途絶えることなく発砲音が伝わってくる。
(……23……25……28……32……)
響き渡る銃声に誘われたのか。小型ビルの昏い谷間から、壊れた人形のようなおぼつかない足取りで人影がにじり出てきた。二匹や三匹ではない。塵と埃に塗れた死者たちの隊列が、闇から滲み出るように疎らに姿を顕してくる。臓物をのたくらせ、地面へと引きずるゾンビの空っぽな眼窩から灰色の鼠が飛び出した。何年も眠るように動かずにいたゾンビを巣にしていたのか、少女の脳裏をどうでもいい思考が掠めた。不意に風に乗って腐敗臭が鼻腔を刺激し、軽い吐き気を催した少女は、気持ちを落ち着ける為に、軽く人差し指を嚙んだ。
(……38……42発……46発……)
休むことなく銃声をカウントするが、戦闘音は一向に鳴りやまない。悲鳴や叫び声も風に乗って途切れ途切れに耳に入ってくる。
(……51……55発……58発……)
発砲音を正確にカウントするには、少しコツが必要だった。二つ、三つ、重なった時に口で余分を無視しつつ、指だけを折り曲げる。指の数が十を越えるか、発砲に間が空いたら、数字を足す。もっとうまいやり方もあるかも知れないが、兎も角も、体感時間で十二分ほど。発砲数はおよそ六十二発。±2発で収まった。
最初にかなりの乱射が行われたが、後半はほぼ一定のペースで散発的に発砲していた。廃墟において怪物に追い詰められた者は大抵、最後に派手に乱射する羽目に陥る。(さもなくば弾切れとなって断末魔だけが聞こえてくる)今回、発砲していたグループが何者にしろ、此処が先途と撃ちまくった形跡はなかった。
木板の渡りで繋げた商店街の屋上から、少女は蹲踞の姿勢を保ったまま考え込んでいた。
(多分、最初に包囲を突破するために乱射した。その後は移動しつつ、要所要所で交戦して振り切った……推測だけど)
発砲音は、途絶える事なく定期的に鳴り響いた。銃声も少しずつ移動していたように思える。つまり戦闘を行った集団は、最初から最後まで統制を保ちながら、戦闘を継続しつつ移動していた。大きなパニックに陥らず、使いどころを見極めて弾薬の消耗を抑え、逃げ切ったとみていい。
(……かなり腕利きのグループ。廃墟の奥まで踏み込む探索者たちにも、そう引けを取らない)
だとして……それが『なに』を相手に戦闘を行った?少女としては是非に確かめておきたいけれども、もう日没がぎりぎりまで迫っていた。
近場にシェルターが無い訳でもないが、自宅ほどに頑丈でなく、さほど隠蔽が施されているわけでもない。所詮は一時的な休憩所として使うのが関の山な、小さな空間に過ぎない。
大規模な戦闘の直後など、廃墟の怪物たちも気が立っている。思いもよらぬ奇矯な行動に走ることもあり、出来れば堅牢に守られた自宅に戻りたかった。
それにしても、あれほどの銃弾を費やして退けるような脅威が西区画に存在しているとは少女も思いたくない。なにしろかなりの近場である。
(多分、戦った相手は人間ではないか……にしても、ご近所さんがヤバイよぅ)
弾薬の貴重なご時世における人間同士の銃撃戦。たとえ片一方の側しか銃を持っていなくとも、銃声はもう少し異なるリズムを刻んでくる。
なぜなら、人間は遮蔽を取るし、同じように飛び道具を用いるからだ。
隠れた人間相手に弾幕を張ったり、牽制射撃を行うのは、さほど良い戦術ではない。忽ちに弾薬が枯渇してしまう。貧しい放浪者などは、もっと絞ってケチケチ撃ち合うし、プロの密猟者《ストーカー》でも弾薬を節約するのが普通だった。
発砲音からすると息を合わせての斉射を二度以上は行っていた。斉射、となると銃を恐れずに迫る類の怪物に用いられる事が多い。後半に行くほど発砲の間隔が開いているので、銃撃はかなり効いて敵の数を削っていたと考えられる。
一方で、それなりに長時間となった戦闘から、追跡者は次々と脱落しつつもかなりしつこく追撃したとも推測できる。野生動物の類は銃火に晒されれば逃げるし、そこまで好戦的にはあまりならない。相手は単独や少数の怪物ではなく、相当数のゾンビか、或いは変異獣でも特に獰猛な類の
多数で群れる怪物と言えば巨大蟻も該当するが、これは鈍足であった。加えて、特に兵隊蟻や戦士蟻となると外骨格も強固で生中な銃は効きにくい。足の遅い蟻が相手なら、もっと早く振り切れるだろうし、兵隊蟻に囲まれていたら人間など抵抗の間もなく肉団子となる。なので、他の怪物の方が可能性が高いと思えた。
だけど、多分にあれもこれも推測に過ぎない。実は、穴だらけの推測かもしれない。
「やだなぁ、もう」吐き捨てるように少女は呟いた。
生き延びられるか自信が無かった。ここ数日で危険や異常が起こり過ぎている。
迫った侵入者グループや、彼らの戦った脅威の正体を確かめておくべきだ。が、何が起こっているにせよ、危険へと飛び込むのは気が進まない。
所詮、廃墟に慣れてるだけの小娘に過ぎない。派手な銃撃戦直後だ。怪物たちとて気が立っている。加えて、日没まで時間がない。
何が起こっているのか多少なりとも確かめておく方が生き延びられるか?
それとも慎重を期して引き返し、後日、確かめたほうが安全だろうか?
どちらだろう、考え込んだ頭の奥に疼痛を感じた。それで、少女は考えるのをやめた。
後回しにする。今日は引き上げよう。今日は色々とあった。思考力も、注意力も鈍っている。こんな時に廃墟を進んでは、とても命が足らない。明日だ。明日にしよう。
「……ちょっと恐いな」寒さを感じて、震える掌で両の腕を掴んだ。腕も震えていた。怪物たちが挙動を変えていたら、今日にも命を落してもおかしくない。
廃墟での生活は常に死と隣り合わせだった。何時までこの緊張感に耐えられるだろうか。注意力が衰えた瞬間に、素早い怪物と出くわしたくはない。
二、三度の深呼吸。こみ上げてきた恐怖をいつも通りに抑制する、迫りつつある夕暮れの闇に脅えながら、音もなく街並みを駆けだした。
帰宅した少女は、夕食を手軽に済ませると早々に寝床についたが、相当に疲労していたようだ。寝床に入るまでは神経が張り詰めていて眠れないと思ったが、夢一つ見ないで泥のように眠り、鈍い頭痛を覚えながら目覚めた。体感時間での眠りは一瞬だったが、夕暮れ直後に床に入ったはずが、窓のバリケードの隙間から陽光が差し込んでいた。
窓の隙間に顔を近づけて空気の匂いを嗅いでみる。すんすんと吸い込んだ匂いは、かすかに濁ってて早朝の澄んだ空気とは異なっていた。
思ったよりも寝過ごしてしまった。昨日はかなり動いたので無理もない。
歯を磨き、朝食を済ませれば、気持ちも落ち着いてきた。
建設的な気持ちになって今日できる事を考え始めた。
(自宅を捨てるべきだろうか?しかし、【住宅街】中央まで足を踏み入れるような無謀な真似をするとは……。いや、だけど、実際に近づいてきている。そもそも彼らが住宅街に踏み込んできた目的はなにかな?)
屋上の畑は目立ちすぎる。連中が高架道路へと足を踏み入れれば、自宅はかなりの確率で見つかるだろう。相手が何者であるか分からない現状、念の為に避難すべきか。
来訪者がやってくるとして、いつ頃来るか?
まずは、知らない廃墟で移動するなら、およそ時速2キロ半が平均的な足取りとなる。
抜け道自体を見つけ出すのには、さほど手間は掛からない。早ければ、今日の夕刻にはやってきてもおかしくない。一方で、分岐路で異なる道を選べば、5~6日掛かっても不思議はない。
廃墟での到着時間は予想が立てられない。幅があり過ぎる。
途中で怪物に出会うかも知れない。道を見失うかも知れない。広大な廃墟は、それだけ危険だった。地図もない廃都市の中心に踏み込むなど正気じゃない。文字通りに狂気の沙汰だった。
【住宅街】に十年以上暮らしてきた少女すら踏み込んでない街路があり、近寄らない建築物がある。廃墟探索者ですら大半は浅い部分で金属や調度を回収するだけで満足する。廃墟の深部まで踏み込むような連中は、常軌を逸した好奇心の塊みたいな狂人だけで、装備も重装備かつ集団か、回避と隠蔽での廃墟探索に特化したような一握りの熟練者に限られてるし、そんな彼らでさえ長居はしない。
にも拘らず、少人数で踏み込んでくる。かなり中心に近い場所まで来ていた。道理に合わない。
命を捨てる気だろうか?と、ふと思った。割に合うものなどない筈なのに。
兎も角も、仮に来訪者たちが押し寄せて来たら、少女に自宅を守ることは出来ない。或いは、単に廃墟の中心に近づくために近道を辿っているだけかも知れないが、やり過ごせない場合が恐かった。
取りあえず、連中に自宅を発見され、踏み込んできた状況に備えて、逃げ隠れする為の水と食料を準備しておく。
特に水が重要だった。食べ物は、数日を粗食にしても耐えられるが、水が無いと死ぬ。あるだけの水筒を持ち出すことになる。
食料はどうする?缶詰や保存食の備蓄を持ち出しておく。
第二の自宅には、どの荷物をどの程度の量運べるか。まずは浄水装置。あれは生命線だった。作るには手間がかかっている。二度と作れない。砂と小石と炭を同じ分量集めるなど、無理な話だ。
でも、大きい。動かすには中身を出さないと。随分と手間暇が掛かる。
(……あとどれくらい時間がある?)
浄水装置を運び出すため、少女はすぐに動き出した。
時間が惜しいという経験は少なかった。普段は、時間だけは余っている。
多分、手落ちも出るだろうが、生き残るためにもやれるだけのことをやる。
庭に下りて浄水装置と化した大きな樽を前に、改めて唸り声をあげる。
大きい。そして中には砂や砂利がぎっしりとつまっている。
駄目だ。とても動かせない。中身を出すだけで半日掛かる。
取りあえず、近場の隠れ家へと隠そう。分解してもいい。
分解しなければ動かせない。分解?どれだけかかる?組み立てられるのか?
無理だ、と思った。樽は動かせない。中身を出すだけで体力を使い果たしてしまう。
見つからないことに掛けて、屋上の芋畑を隠蔽するべきだろうか?
毎日、何時間もかけて少しずつ拡張した畑を?土は何百キロある?
破棄するのか?なにもかもを?他にこんな都合のいい邸宅が見つかるだろうか?
少女は途方に暮れた。そして庭の片隅に座り込んだ。
「……これは無理かな」無力感に苛まれ、呟いてから己の顔をぺちぺち叩くと立ち上がり、一度だけ庭の浄水装置を撫でてから諦めた。浄水装置は捨てる。それに屋上の芋畑も。
小型の浄水装置だけは運ぶ。あとは缶詰と水。そして他の隠し畑で食い繋ぐ。
算段を数秒でつけた。見切りは早かった。そうでなければ、生きていけない。
廃墟の生活ではこれまでに何度も失い、奪われた。なにかに拘泥すれば、命を落とす。しかし、人間による脅威は、自然や怪物とはまた異なっている。悪意に果てがなく、際限なく奪われ続けるかも知れない。
荷物を背嚢に詰め込みながら、いっそ自宅に火を放つべきだろうか、とも思案する。
乗っ取られるよりはマシではないか。暮らしやすい拠点を奪われたら、ずっと居座られるかも知れないと脅えたが、次いで、しかし、外で暮らしていた連中が【住宅街】に長居するとも思えないとも考えなおす。
兎も角、今は第二の拠点に運べるだけ運ぼう。缶詰と水筒やペットボトル。若干の食器と本、そして熊の縫いぐるみを背嚢に詰めて、少女は引っ越しを始めた。
まずは手近なシェルターに荷を運びこんで、一時的な中継地点とする。
守りにも隠蔽にも不安が残る隠れ家に過ぎないが、運べるものをおおよそ運んだら、そこから第二の自宅へと引っ越しする。
一往復に一時間。人間は、安全で平坦な土地であれば一時間に4キロ歩ける。
廃墟では精々2キロ半。慣れても3キロ。辺りに神経を払いながら、少しずつ慎重に歩を進める。曲がり角では一々立ち止まって、そっと覗きこまなければならない。
四時間を掛けて三往復した。一定の荷を運び込み、取りあえず自宅を追われたら、すぐに窮状に陥るという事はなくなったと判断する。
かなり動いたので少し多めに昼ご飯を取る。クタクタになるまでは働かない。常に余力を残しておく。廃墟の暮らしでは、いざと言う時に激しい運動ができなければ、命を落としかねないからだ。
芋を多めに焼いた。炊煙はわずかに出る。煙突代わりの小さな穴に布切れを張って漉すことで、外では目立たない細い煙となる。風の強い日にはすぐに散らされるが、代わりに暫く家の中は少しだけ煙たい。なので料理の時にはゴーグルをつけることで眼病を予防している。
少女は一心に芋を焼いた。胸中には家で過ごした思い出が去来していた。もしかしたら、自宅で採る最後の食事になるかも知れない。
だから、屋上の蓋がカタン、と音を立てた瞬間、少女は文字通りに飛び上がった。
恐怖に凍り付いた少女の真上で、小さなノックが三回。
「ヘーロウ」
ついで耳に届いたのは、お姉さんの呼びかけだった。