黄昏のガンダルヴァ   作:猫弾正

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廃墟の子_21 地獄の唄

 遠い昔に撤去されそこなったまま風化した季節の飾りつけを踏みつけて、レギンは呵々大笑しながら、商業ビルの一階フロントを見回した。

「クリスマスの飾りつけか。うん、いいじゃないか。季節外れのメリー・クリスマスだ!サンタさん、プレゼントを貰いにきたぜ!」

 商業ビルに踏み込んだレギンは、まるで躁鬱病でも患ったかのようにはしゃいでいた。連中を追い詰めたが、間違いなく死に物狂いになって抗ってくる。

 問題は此処からの筈だが、レギンは既に大金を手に入れたとでも思っているかのようだ。その言動と態度は、恐れを知らないと言うよりも、想像力の欠如のようにジルには思えた。自分が死ぬかもしれないとは、欠片も考えていないのか。知恵を誇る割には色々と詰めが甘い。もっとも、表情から蔑みの色を隠しきれない雇い主の事だ。似たような感想を部下であるジルやトニーに対して抱いているかも知れない。

 

 逃げ惑う獲物の足跡を辿るのは、ジルにも中々に骨が折れた。そういう言い方が出来るなら、なにしろ相手は地元民だ。難儀したと言ってもいい。

 

 連中は二人組。廃墟民だろう餓鬼に隊商の生き残りの女。かなり重い荷物を背負っているが足は速い。足跡はかなり残されていた。一方で廃墟には慣れている。少なくとも地理はよく知っているようで、細い抜け穴や建物を通り抜けては度々、此方を撒こうと試みてきてた。

 

 ジルにとって手掛かりとなったのは、主として地面に刻まれた足跡だが、【住宅街】は生憎と風が強く、土埃の少ないコンクリートの上では足跡も所々で薄れていた。

 僅かな草地を抜けた時などは、さすがに折れた草のような痕跡を残していたが、食事跡や建物を抜けた際の痕跡は薄く、或いは巧みに隠蔽されていて、ジルの目利きと怪物どもの騒音で辛うじて引き離されないで済んだ。それでも連中が態々、怪物どもを迂回して時間を浪費してくれなかったら見失っていただろう。

 

 大したことのない巨大鼠の巣窟も避けている事から、二人組が戦闘力に欠けているようにも思えるが、追いつかれた時の為に弾薬を温存していてもおかしくない。いずれにせよ、此方は何度か発砲せざるを得なかったので、距離は把握されていただろう。

 

 正直、今辿っている道が正しいか否か、怪しく思えた時にはひどく迷わされた。一度など二十分も追跡を続けたにも関わらず痕跡ひとつ見つからなかった為に、危うく引き返しかけた。連中の刺激した野犬共が狂ったように遠吠えを上げなければ、きっと追跡虚しく見失っていただろう。追っているうちに連中の目的地が町の西側だと読めてきて、それ以降は姿も減った怪物どもの縄張りを突っ切ることで、時間差を大分詰める事に成功した。

 

 二人組が戦闘を避けていると読んでからは、野犬や巨大鼠が群れ成してる通路も追跡からは除外した。距離が詰まってくれば、あとは幾つかの街路の候補から土が残された足跡やら、人間が駆け抜けた直後にざわついてる怪物たちの気配を辿って、後を追いかけるだけだった。

 それでも度々、痕跡を見失っては高い位置に昇って大きな道路を見張った。人間が駆け抜けたあとに連中に反応して吠え立てる野犬の遠吠え、ネズミどもの甲高い叫び声、ゾンビの呻き声。皮肉なことに怪物どもが連中の跡を教えてくれた。

 

 時間的距離にして十分から十五分ほどか。なんとか日没より前に、ほぼ指呼の距離まで詰める事が出来た。仮に夜陰に乗じて逃げられたら、手の打ちようがなかった。廃墟の民相手に夜の廃墟で追いかけっこなど、殆んど自殺行為に等しい。

 

 そうして遂に、ジルたちは獲物を追い詰めた。連中が逃げこんだ商業ビルを突き止められたのも、僥倖だった。ビルの目前で野犬の群れが激しく吠え立てていなければ、怪しいとも思わずに素通りしたかもしれない。

 

 二人組は裏路地を抜けたり、或いは、痕跡を残してから引き返すなど偽装や欺瞞まで用いて、かなり巧妙に【住宅街】を逃げ続けた。ジルたちが連中を見失わずに済んだのも、通り過ぎる二人の居場所を知らせるように怪物たちが吠え立てたからで、幸運の賜物としか言いようがない。

 

 幸運……本当に幸運か?

 連中が通り過ぎた後に怪物どもが騒ぎ立てなければ、追う事は難しかった。

 だが、出来過ぎてる。なぜ、怪物どもは連中に対してあれほどに騒いだ。

 こちらが通り過ぎた時はどうだ?あそこまで騒ぎ立てただろうか?

 

(だが、何かが嚙み合わない。何処かがおかしい)

 何かが引っ掛かるのだ。異常とも言い切れぬような小さな違和感が、奇妙にジルの心を騒めかせる。狩人としての経験が、心の奥深い所からジルに何かを警告していた。

 

 ジルは町の様子を思い返してみた。

 そこまで注意は払っていなかったが、今にしてみれば通り過ぎてきた怪物どもの様子が、何かおかしくなかったか?野犬共や巨大鼠どもは、奇妙に忙しなく動き回っていた。まるで何かに脅えていたかのようだ。あれはジルたちに対しての恐怖だろうか。それとも……

 

 何かがおかしい。ここまでの道筋も、まるで誰かに誘導されているようにすら感じる。しかし、一体、誰が誘導するというのか?逃走の必死さを見れば、隊商の生き残り連中である筈もない。筋が通らない。だが、だとしたら、怪物どもは、何故あれほどに警戒の遠吠えをしていた?廃墟の恐ろしい怪物どもが一体、なにに対して警戒していたのだ?

 

「メリー・クリスマス!出てこいよ、マギーィィ!パーティーしようぜ!」

 ジルは、考えを中断して舌打ちした。馬鹿がでかい声で叫んでいる。反響した声が伽藍洞の空間にわんわんと響き渡ったが、怪物が動いたような気配は微塵も感じられなかった。

 

 商業ビルのフロントには、恐ろしい数のゾンビの残骸が転がっていた。軽く見まわしただけで十指に余るほどのゾンビが頭蓋を破壊され、手足を切り落とされ、顔面を踏み潰されていた。

「こりゃあ、一体……」流石に太鼓腹トニーが、顔を強張らせていた。

「……多分、密猟者《ストーカー》の仕業かね。倒れてるのは古い服を着込んだゾンビばかりで、人間の死体は無し。殆んど一方的だったようだよ」

 転がるゾンビの手首をライフルの先で突《つつ》きながら、ジルは囁いた。

 

 柄の折れた手斧が死骸の頭にめり込んでいる事から、何者かが白兵戦でゾンビたちを破壊尽くしたのだろう。戦闘技術に長けた密猟者《ストーカー》の一団でも商業ビルに踏み込んできたのか。だが、本当に幸いなことに、埃の積もり具合と腐敗から見るに、戦闘が起きたのは二、三か月以上も前の事のようだ。

「安心しな。戦闘が起きたのは、大分前だ。連中が何者か知らないけど、もうとっくに家に帰って祝杯上げてるさ。なんなら、今頃は次の仕事に入ってるかもね」

 そう言ってジルが示したのは、一階奥に広がる店舗跡だった。

 何の店舗かは分からないが、商業ビル一階奥の店舗は手際よくシャッターを切断されており、商品を運び出したような二輪の痕跡が床に刻まれている。連中が何者にせよ、目的のものを入手して、立ち去ったようだ。

「入り口近くで戦闘は最小限。被害もなしで目的を果たし、素早く撤退、か」とジル。

「有能な作戦立案で羨ましいぜ」ぼやいたトニーが鼻を鳴らしてレギンを眺めた。

 兎に角も、ゾンビの群れを片付けた手際からするに恐ろしく手強いに違いないだろう密猟者《ストーカー》と思しき徒党とは、かち合わないで済むようだ。

 

「マギー、マギィィ。出ておいでぇ。プレゼント交換しようぜぇ!」

 歌うように大声で呼びかけているレギンが、ビル吹き抜けの螺旋階段を昇りだした。

 目立つ場所から上機嫌で女の名前を繰り返しているが、螺旋階段の中心には太い石柱が屹立しており、遮蔽が取れない訳ではない。

 

 それでも、こいつ、実はゾンビに噛まれて自暴自棄になってるんじゃないか、と疑念を抱く程度には、迂闊な行動だった。相手が銃を持っていたら、真っ先に上から狙い撃ちされる螺旋階段に身を晒すなど、ジルなら絶対にやらない。

「レギンめ、ラム酒の飲み過ぎで頭でもやられたのか?」トニーが罵った。

 舌打ちしたジルは、トニーと目配せすると素早く左右に別れ、姿勢を低く遮蔽を取りながら後方からレギンを援護できる位置へと移動する。連中が何処から撃ってきても、左右から挟み込んで牽制できる位置に陣取った。

 

 上の方の階から女の声で呼びかけが返ってきた。

「レギンか?!どういうつもりだ?!」

「俺はツイているぜ。友人を殺さないで済んだんだからなぁ」

 両手を広げたレギンはヘラヘラと笑っていたが突然、憤怒の表情に切り替わって怒鳴った。

「割符を寄越せ!マギー!そうすりゃ、命だけは助けてやる!」

 

「……友だち?」上階の奥からやや幼い声が響いた。

「……まさか」露骨に嫌そうなマギーの即答。

「昔の同僚。嫌な奴でさ。隊商の小銭くすねて首になったアホだよ」

 筒抜けに会話が聞こえてくる。トニーは意地悪く笑い、顔を歪めたレギンが銃をぶっ放して吼えている。

「糞アマぁがぁ!顔だけはいいから助けてやろうってのに!」

「……そもそも割符って、なんの話だ?」

 おまけにマギーとやらは、とぼけてるのか、とことん察しが悪いのか、話が噛み合ってないようだ。

「とぼけるんじゃねえ!」

 怒り狂ったレギンが銃を連射しているが、怪物の分布も西区画では随分と薄くなってきている。銃声で群がってくる恐れもない。

 

 案の定、マギーが反撃に移った。五階あたりから激しく撃ってくる。レギンも石柱に身を隠しながら反撃しているが、夕闇が広まりつつある中、商業ビルにも闇の帳が降りつつあった。互いが狙い合うも中々、当てられない。奥からは、なにかガンガンと叩くような音がひっきりなしに響いてくる。

 

 案の定、螺旋階段の途中にしゃがみこんで釘付けにされてるレギンを他所に、鼻を鳴らしたトニーがジルに向かっていった。

「ジル。奥の方から妙な音がするぜ」

「そうだね。連中、何か企んでいるみたいだ」

 階上の踊り場で、下手糞同士で無駄に弾薬を浪費しあってるレギンを見上げて、ジルは吐き捨てた。

「用心しなよ、トニー。ここまで来て死んでも馬鹿らしい」

「精々、用心するさ。お前もな、ジル」

 別口の階段を見つけたトニーが低く口笛を吹いた。ジルは走って合流。

 二人で一気に階段を上り、五階に到着すると再び素早く左右に展開。

 

 そのままレギンとくだらない言い合いを続けてるマギーの左右斜め前方へと回り込んだ。

「爺さんの割符なんて持ってる訳ないだろ!新参だぞ!」

 マギーの叫び声に、レギンが怒鳴り返していた。

「生き残りはてめえだけだ。てめえがもってなきゃ誰が持ってるってんだよ!」

 

「おい!ジル!トニー!どこ行った!」

 射すくめられたレギンが叫んでる。他の敵を警戒したのか、遮蔽を取ったマギーが撃つ手を休めた。此方の気配を探るように、荒い息遣いだけが聞こえてくる。

「なにやってんだ、あいつ……無様かよ」ジルは舌打ちした。

 勝手に進んで、そのまま敵を引き付けてくれればいいものを射すくめられて、挙句に餓鬼みたいな癇癪を起して怒鳴り始めている。

 

 底が割れたか、とレギンを見限った。マギーとやらの言動に嘘がなければ、割符も手に入るまい。途中までは相当、巧妙に物事を運んでいた側面もあったが、他人を働かせる事は出来ても、自分で動くのは苦手らしい。

(面倒くさ……射すくめられて、もう、どうにもならなくなってやがる)

 約束の倍の報酬とやらも手に入りそうにない。骨折り損のくたびれ儲けに終わりそうな気配だが、生きて還れるだけ御の字だろう。

 レギンは、自分が死んだら金は払われないと念を押していた。助けるのも癪だが、死んだら金も貰えない。仮にゾンビに噛まれていたとしても、報酬をもらうまでは人間のままでいて欲しいものだと、叫んでるレギンから視線を転じると、ジルも撃ち始める。

 

 殺してはならない、とはレギンに言われてる。割符を持ってるなら兎も角、隠していた場合に喋らせなければならないらしいが、知った事じゃない。

 トニーも発砲を開始した。それなりに練達の銃使い二人による十字砲火。当てないように加減しつつ、しかし、死んだら死んだで構わない。ジルにとって、レギンもマギーもどうでもいい人間だし、自分の命ははした金よりも遥かに大事だった。

 

 先ほどまでとは逆に、今度は射すくめられたマギーがたまらずに後退していく。

 商品売り場の展示台やレジスターを遮蔽に使いながら、伏せたまま奥の方へと撤退していく手際だけは、レギンよりはずっと上等な体の動かし方をしていた。

「割符を寄越しな、マギィ!死にたくはないだろぅ」レギンが不気味な猫撫で声で呼びかけている。

「無いって言ってるだろ!ミーシャにでも聞け!」 

 奥に並んだ複数の巨大植木鉢を盾にしながら、騙される訳もなくマギーが怒鳴り返した。

 

「チャンスをやったのに、馬鹿な女だ。皆殺しにしてから探すとしよう」

 嘯いたレギンの眼前の床に、何処からか放り投げられた金属片が転がった。

 ジルたちの背後から放物線を描いて。

 床に当たり、金属音を響かせながら、転がっている。

 ジルは動きを止め、側面のトニーと顔を見合わせる。

(……誰が投げた?)

 

「割符!割符だぁ!ああ、これで俺は大金持ちだぁ!」

 熱に浮かされたように割符を掴んだレギンの目の前で、粗末な手製マシンガンを構えた女。マギーだろう。隠れもしない。

 恐怖に顔が大きく歪んでいた。目を瞠り、口をパクパクと虚しく開閉している。

 筋肉の一部が麻痺したかのように歪な表情で、あ……あ……と声にならない声を喉から漏らしていた。

 人間の表情がこれほどの恐怖を露わにした瞬間も、ジルは初めて見た。マギーの背後から顔を出した小娘も目を見開き、ぜいぜいと喘いでいる。

 

 大胆不敵なオーの部下が。ここまで勇敢に抵抗してきた女が。恐怖に涙を零していた。

 見ているのはジルの背後。ブラフとは思わなかった。

 

(……何がいる?)

 

 振り返ったジル。

 

 最初に目に入ったのは、巨大な天井。背景の闇に浮かび上がるようシルエット。背を曲げて、桃色の蠢く樹木に似た形状のなにかが女の顔でジルを見ていた。

 ゴム製の不出来な人形のように、若い女を醜悪にカリカチュアしたような顔が蠢いていた。太い唇から不気味な体液が垂れており、生きたまま溶かされている鼠が牢獄のような歯の隙間から必死に首を振っている。金魚のように異様に光る瞳がジルを音もなく見つめている。幹に埋め込まれた形のいい耳に綺麗な金色と蒼石製のイヤリングが揺れている。

 

「み、みぃしゃぁ?」

 レギンが音程の外れた声で言葉を発していた。

 

 太い、古木の枝のように太い複数の腕の一本が軽く振るわれ、ジルはとっさに左腕で庇った。横殴りの衝撃。へし折れたボキンという軽い音。次の瞬間、ジルは空を飛んでいた。目に映る景色が回転し、商品棚に叩きつけられる。残っていた商品が床に落ちたジルの体へと雪崩のように崩れ落ちた。

 

 臆病からは程遠い筈のトニーが、意味もない言葉を絶叫して発砲し始める。

 少女が棒立ちとなってる隊商の生き残りマギーの腕を掴んで、柱の影へと走った。

 桃色の人間の顔によく似た歪んだ顔の獣たちが螺旋階段を蠢く肉の波のように駆け上がって殺到してくる。

 

 崩れ落ちていたジルが、潰れた化粧品の箱を踏みつぶしながら立ち上がった。右腕だけで銃を構えて、怪物の顔に狙いを定める。

「……くたばれ、化け物が」

 怒りとともに引き金を引き絞った。

 

 

 

 少女が動けたのは、かつて失っていたからだろう。姉を失った時から、何度も夢を見た。どうすれば、失わずに済んだのか。どうすれば、救えたのか。どんな時も諦めてはならない。廃墟で諦めれば、絶望することになる。足手纏いになってはならなかった。

 正気を失うような怪物を遠目とは言え、幾度となく見て、心の壊れるような体験を幾度か味わって、それでももう一度頑張ろうと、そのたびに心を癒着させて生きてきた。

 頭が麻痺しても、体が勝手に動くように訓練してきたから、他の人間たちが全て凍り付いていた時に、いの一番に先手を取れた。

 

 お姉さんの腕を引っ張って柱の影に飛び込むと、ジャンク・シュート。地下のゴミ捨て場直通の穴へと押し込んだ。

「入って!途中で減速して!一回試して大丈夫だったから!」

 叫んだ。まだ、あえいでいるお姉さん。一時的な狂気に陥っているのか。目つきが怪しい。頬を張り飛ばした。

「早く!」

 のろのろと。思考が麻痺してるのか。苛立たしくなるほど動作が鈍かった。それでも頷き、幾分か正気に返った表情でお姉さんはジャンクシュートの穴へと飛び込んだ。地下のごみ捨て場へと続くだろうジャンクシュート。後は、地下で合流するだけだ。

 

 自分も飛び込もうとして、デブが駆け込んできた。

「俺も入れてくれぇ!」

 少女は、先に飛び込んだ。金属のダクトに手足をついて上を見れば、遅れてデブがジャンクシュートに顔を突っ込んできたが、絶望的な表情を浮かべる。腹がつっかえていた。入らない。

 

 叫ぶように口を開きかけたデブが、吸い込まれるように恐ろしい力で一瞬で消えた。

「引っ張られ……」

 それがデブの最後の台詞、桃色の何かが太鼓腹に絡みついていたように見えたが、目の錯覚かは分からない。

 

 デブを引っ張ったなにかが姿を見せる前に、少女は手足を縮めて飛び降りた。

 が、がくん、と、背嚢が引っ掛かっている。

(吊り上げられている)

 少女は上も見ずにポケット。飛び出したナイフが背嚢の紐を切り裂いた。

「さよなら、お姉ちゃん」

 落下しながら、背嚢の蓋から顔を出した熊の縫いぐるみに別れを告げた。

 

 途中、何度か減速する。体がぶつかったが、命が掛かってる。話にならない。

 早く地下へと逃げるべきだ。

 落下中。遅れて、背筋がぞわっと総毛だった。間一髪。だけど、まだ終わってない。

 

 地下の処理場まで降りると、正気に戻ったお姉さんが素早く引っ張り出した。

 きびきびした動作で周囲を窺っている。既に一面、暗くなっている。

 この時の為のライターをつけて、素早く裏口の通風孔。積み上げておいた木箱の上。鉄格子を外して、そっと音を立てずに置き、商業ビルから這い出た。

 月明りに照らされて、お姉さんが袖で頬を拭いて、初めて自分が涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになってることに気づいた。

 

 凄まじい音。

 商業ビルからは激しい銃声と変異獣たちの凄まじい数の雄たけびが重なっていた。

 駆けだす声に一目散に逃げだして、幸いというべきか。町中と錯覚するほど、彼方此方で野犬が吼えたて、巨大鼠たちがキイキイと泣きわめいて、祭りのような喧騒に包まれていた。

 

 巨大蟻たちが深夜にも関わらず一塊になり、縄張りの境を守っている。

 

 背後を駆けてくる。追ってきた。多分。一度も振り返らなかった。恐怖と吼え声に追い立てられながら、しかし、一度ならず怪物同士で争うような激しい物音に、月明りだけを頼りに路地から路地へと死に物狂いで駆け抜けると、

 深夜に給水塔の近くで荷物を回収する時もビクビクし通しで。

 それから、後ろも見ずに、二人は町から逃げ出した。

 

 

 

 

 紫の幻想的な月明りの下、無限の曠野だけが静寂に包まれながら広がっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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