※今回は閑話。
凄まじい断末魔の叫びが夜の静寂を切り裂いた。死人だって起きそうな叫び声に、眠りを破られたものは身を震わせ、恐れ慄いた。
隻眼のリリーも完全に目を覚ましていた。そっと目を見開けば、周囲は完全な闇に包まれている。
深夜だ。夜の叫び声。居留地の外れの区画。何があったか、考えるまでもない。
貧相なバリケードを破って怪物が忍び込んできたに違いない。そして眠っていた誰かしらを牙に掛けた。叫び声からするとすぐ近所に違いなかった。年に何度かは、寝ている人々が襲われる。ただし、これほどの近所で起きたのは初めてだった。考え得る限り、最悪のシチュエーションに置かれて、リリーは小便を漏らしそうな程おびえた。
路地裏の固い煉瓦の壁に寄り掛かりながら、リリーは微かに息を吸って、吐いた。
大きく深呼吸すれば、それを嗅ぎつけて『やつら』が寄ってくるかも知れない。
そんな恐れから、指一つ動かすのさえ恐ろしくて耐えられない。
胸の奥では、心臓が割れ鐘のように激しくトットッと鼓動を刻んでいる。
だが、動かないリリーの周囲からは物音一つ響いてこなかった。
そうするうちに、ふと思う。あの叫び声は、なにかの間違いかも知れない。
(……夢かな。悪い夢を見たんかも知れん。だってずっと静かやん)
そう音がしない。ならば、布団を被って眠り直そう。そうすれば、何事もなく朝起きられるかもしれない。
危険な願望と知りながら、リリーは毛布を掴んでいた。だけど、眠れなかった。恐怖で動けない。生理的反応で頬を涙が零れ落ちる。重りを付けたか、水の中にでもいるように四肢が重たい。
(うちは臆病や……嫌やな)思っても、変異獣に目を抉られた記憶や幼少から脅かされていた日々を思い返せば、どうしても身体は恐怖で竦んでしまう。
夢だったらいい。と願いつつも、ぜいぜいと荒い呼吸が耳に入ってきた。
リリーではない。闇に包まれた周囲から響いてくる。路地裏の隣人の恐怖が入り混じった呼吸音。段ボールや新聞紙、タープ(ブルーシート)製で作られた小さな家々に住まう哀れな
(……あかん。夢やなかった)リリーも声には出さない。声を出すのは恐い。月齢は新月。闇の中に怪物が彷徨っているとすれば、ただの一匹でもこの路地に迷い込んだ、アパートの住民たちは全滅しかねない。
リリーは、
しゃがみ込んで寝るのがやっとの段ボールの塒《ねぐら》だが、暖かくて風雨を凌ぐには便利だった。そんな塒《ねぐら》でも、作るにはかなりの材料を必要とするので、リリーは僅かな金を払って段ボールの家の一つを借りている。
火を付けるのも恐い。誰かしらライターやマッチくらいは持っている。だけど、誰も火を付けようとしない。火事を恐れると言うより、怪物が明かりや物音に魅かれて、寄ってくるのを恐れているようだった。
(……みんなビビっとる。此の侭、息を潜めてた方がええやろうか。それとも様子を見に行くべきやろうか)
偶々、迷い込んだ巨大蟻や巨大鼠なら、男手がこん棒で対処してくれる。或いは、巨大な獣が忍び込んだとしても、精々一人か、二人で満足し、獲物を引きずって立ち去るかも知れない。だけど、ゾンビであれば、今も闇の彼方で増殖し、十数体が解き放たれているかも知れない。
頭の奥が痺れたように思考力が働かない。正解なんて分からない。
ただ恐怖だけが想像の中で姿を変えていく。怯えて固まってるうちに時間だけがただ過ぎていった。一時間にも感じたが、実際には三分か、五分くらいだったかもしれない。
僅かな星明りの下、それでも闇に目が慣れて来たのか。段ボールの家から這い出てきた隣人たちの姿が闇の中にうっすらと浮かび上がっていた。
発砲音が響いて、リリーは身体をビクリと動かした。かなり近い。それから風に乗って何処からか人の声が聞こえてくる。遠く、誰かしらの冷静な話し声に少しだけホッと安堵した。手に負えない変異獣の大群であったり、ゾンビが蔓延しているならば、こんな風に悠長に話していない。
変異獣によって故郷が滅びたと語る古老に拠れば、夜中に
思考力が戻ってくる。闇の中、手探りで枕もとを探し、棒切れを掴んだ。
甚《はなは》だ頼りない薪ざっぽうに過ぎないが、それでも怪物や野生動物相手に素手で殴りかかるよりかは幾分かマシだろう。居留地の中心から時折、犬の遠吠えが聞こえてきた。民兵や保安官が来てくれるといいのだけど。思ったリリーだが、すぐに首を横に振る。視界の開ける朝方までは来ない。そもそもが『町外れ』は、緩衝地帯の役割も割り振られている。
『町外れ』は、貧しい流れ者や
再びの発砲音。何度か断続的に響いてくる。戦闘が続いているようだ。かなり近い発砲音もあった。多数の怪物が侵入したのだろうか。それとも手強い相手なのか。
多分、十中八九は朝までに誰かしらが処理してくれる。ただ、リリーが夜明けまで生き残れるかどうかは分からない。
リリーは自分の小さな段ボールの家と周囲を見回した。段ボールの小さな塒が並んだ路地は、袋小路となっており逃げ場がなかった。
アパートの住人たちも、大抵が身一つで暮らしている。槍やバット、手斧、バールと言った比較的に入手し易くて強力な近接武器も、誰か一人くらいは所持していてもおかしくないのに、見当たるのは精々がこん棒やのし棒。料理用ナイフくらい。
比較的安全なポレシャに油断したか、住人たちは大して働かずに僅かな日銭もすぐに費やしてきた。僅かな家賃で借りられるこの路地裏は、貧しい者たちにとって暮らしやすい楽園だったが、いざ脅威が身近まで襲来した時、闇の中で棒切れや小さなナイフが、怪物相手にどれだけ役に立つだろう。段ボールの塒に籠っても、どれほど持ちこたえられるはずもない。一口で言えば、無力で無防備。
リリーは考え込んだ。これほど頭を悩ませたことは此処数年無かったと言っていい。町外れ一帯の出入り口を兼ねたバリケードには、武装した門番たちが屯っている筈だ。此の侭、路地裏の段ボールアパートに息を潜めながら留まるべきか。それとも夜警たちのいる場所へ逃げ込むべきかも知れん。
闇に包まれた町を、松明の明かりを目指して移動するのか。(……ありえんわ)リリーは怖気づいた。かと言って、段ボールの家々に閉じこもってようが、怪物が踏み込んで来たら餌食にされる末路しか思い浮かばない。狭い路地裏で入り口に怪物が現れたら、逃げ場も無く、順に餌食とされてしまうに違いない。あまりの恐怖でお腹が痛くなってきた。
多少の物持ちであれば、夜寝る前に入り口を木箱や机、椅子などで出来る限りに封鎖してから眠りに就く。段ボールアパートの面々は、貧乏かつ、怠け者の面々ばかりだ。気の良いものもいれば意地悪なものもいるが、共通して頭の出来はそれほどよろしくない。リリーも含めて。
それでも誰かが闇の中で小さく囁いた。
「……出入り口、塞いだ方がよくないかな」
「何処にそんな荷物があるんだよ」隣人の一人が、低い声で不満げにケチをつけた。
かと言って代案は出さないし、自分で動くこともしない。
時折、僅かな囁き声と共に不安そうに身じろぎするだけだ。
時間が経つにつれ、リリーの胸の内で恐怖と不安がじわじわと増してきた。
或いは、外で怪物が待ち受けていて飛び出したら犠牲になるかも知れない。そんな想像に怖気づきそうにもなるが今、いる場所が死地ではないか?
外の怪物がそう多くいるとも思えない。夜警たちが十分に怪物と戦えているなら、逃げた方が助かる目が多いかも知れない。
「……うちは、外に出とく。一緒に来るんはおる?」焦燥感に押されたのか、或いは自棄になったのか。自分でも正しい判断と自信のないままにリリーは口にした。
リリーの言葉に、数人が顔を見合わせる。外に出て歩き回れば生き残れる気もするが、もしかしたら街路を彷徨う怪物に襲われるかもしれない。どちらが正しいかは誰にも分からない。
「……此処にいた方がいいよ」そっと誰かが囁いてきた。
「かも知れん……うちにも分からん」リリーも迷った。
どちらが危険なのだろうか。逃げ場のない路地裏で留まり続けることと、怪物が潜んでいる街路に彷徨い出ることと。
もぞもぞと囁き声が漏れる。誰もが恐怖に縛られ、動くことができないようだ。
誰もリリーを強硬には止めなかったし、一緒に行こうともしなかった。
いつも通りに消極的な現状維持。それが段ボールアパートの住人たちの処世術であり結論らしい。
リリーは肩をすくめ「じゃあな」と寂しげに呟くと、そうっと足を踏み出した。
もしかしたら、朝方にはリリーは死体になっていて、残った住人たちに安全な路地裏から逃げ出した判断を嘆かれているかも知れない。さして親しくはないが、悪い連中ではないので、死んでも嘆くくらいはしてくれるかも知れない。
リリーの姿が闇の中に消えていくのを、残された住民たちはただ見送った。静寂が再び支配する中、リリーは不安と恐怖を抱えて一歩一歩慎重に歩き、路地裏からそっと顔を出した。
夜の街は、しんと静まり返っていた。星明りに照らされて青く眠る町並みは、深海の底のようにも見える。
バリケード出入り口までは、ほんの二、三百メートル。ゆっくりでも五分も掛からない。普段なら。だけど闇の中、歩く速度はゆっくりにならざるを得ない。ふわふわと酷くおぼつかない足取りで進んでいくリリーに、重苦しい空気が粘りつくように身体に纏わりついていた。
怪物が本当にうろついているのだろうか?リリーには、分からない。断続的に発砲音が何処からか響いてくる。路地裏の入り口の一つで焚火がドラム缶で燃やされていた。数人の男女が鉄砲や弓、槍を手に当たりを見回していたが、リリーは近づかなかった。
「撃たんといて……撃たんといてや。これからバリケードの方まで非難するんや」路傍の影から声を掛けるも、入り口の男女は此方に銃口を向けて構えた。が、幸いにすぐには撃ってくる気配はなかった。火縄銃にしろ、クロスボウにしろ、弾込めに二十秒から三十秒ほど掛かる。初弾を充分に引き付けてから撃つのが怪物と戦う際の心掛けとは、リリーも故郷の農村で教わっていた。
ドラム缶の集団は、間違いなくピリピリとした剣呑な気配を漂わせていた。街外れでも貧富の差はある。リリーは貧しい新参者で、近所づきあいも少ない。迂闊に付き合いの薄い人々に近づいて撃たれるのも恐かった。此処は不寝番たちが屯するバリケードの傍まで行くべきだろう、と結論する。夜警たちはポレシャの行政府から僅かばかりだが賃金や食糧・弾薬の配給を受ける代わりに、住人たちの保護も役目としている。声掛けしつつ近づけば、すわ不審な人影め、と問答無用に撃っては来ない筈だ。多分。
果たして、侵入してきたのはゾンビか、変異獣だろうか。或いは狼やコヨーテ、野犬。最良で巨大鼠や巨大ゴキブリなら、リリーでも立ち向かえなくもない。
途中で数カ所、小さな天幕や小屋、路地や廃屋の入り口で焚火が焚かれていて、中には近隣から避難したのか、数人の女子供が固まっている場所もあった。其処に留まるべきか。それとも、門番たちのいる場所へと逃げ込むべきか。リリーは真剣に悩んだ。居留地の防壁方面には向かわなかった。
闇に包まれた街外れの街路を、ふわふわと泳ぐような感覚で進んでいく。記憶だけを頼りに十二歩、十三歩、十四歩と進んでは、時に手探りで道を曲がると、明るい光が見えた。バリケードだった。
あっさりと付いた。自分でもビックリしながら「おーい」とリリーは声を掛けた。
ホラー映画なら背後から襲われそうな状況だが、此処で声を掛けない選択肢はない。
闇の中からの人影の接近に、門番たちが銃やクロスボウを構える。大抵は古びたり火縄銃やフリントロックもあるが、中にはえぐい散弾銃を構えたものもいた。
「おーい」もう一度言いながら、離れた道路の先でリリーは手を振った。
門番の一人で散弾銃を持った男が物陰に半身を隠しながら、仲間たちに告げた。
「人間の首を使って簡単な会話をする変異獣もいる。油断するなよ」
「こわッ!なんやそれ!」リリーはまるで喚くように言ってから「撃たんで。撃たんといて」懇願するように両手を上げながら、少しずつ近づいた。
明かりで照らし出される位置にやってきて、門番たちが顔を見合わせた。
「……リリー。大丈夫、知ってる奴」幸い、一人がリリーの顔と名を知っていたようだ。ビクビクしていたリリーもホッと安堵の吐息を吐いた。
「普段より、見張り少ないけど……」バリケードを見回し、口を開いたリリーを、門番の一人が冷たくあしらった。
「家に閉じこもってろ」
「家が安心できんから、やってきたんや」情けなさそうに告げると、門番が納得したように鼻を鳴らした。
「ああ、そういや段ボールアパートか」
「その……怪物は?」リリーは恐る恐る質問した。しかし、門番は乱暴にリリーの腕を掴んで遠くへと追いやり、木箱や廃家具を積んだ台の上から鋭い視線でじっと見下ろした。
「どこからか入り込んできた。今、三人とか、四人一組で……」説明しかける門番の言葉を遮るように、発砲音が響いた。かなり近かった。リリーはびくりと身を震わせる。数発続けざまに銃声が轟いてくる。喚くような叫び声や白兵戦のような鬨の声に混じって、遠くで女たちの悲鳴が聞こえたような気がした。
闇に包まれていた街の影絵。崩れかけた廃屋や細い路地など、物陰や死角も多かった。すぐ近くの路地で入り口に火が点った。松明を掲げた男女が出てきてドラム缶に薪を入れると、慌てた様子で火種を放り込んだ。
夜の闇に囁くようなざわめき声がさらに大きくなり、発砲音も増えている。
近所の若い男が駆け寄ってきて問いかけた。
「……野犬の群れとか?いや、吼え声ないから違うか」
「蟻とか、虫かなんかが、かなりの数が入り込んだんかな?」とリリーも不安そうに尋ねた。
「ゾンビの群れだ。古くなったバリケードを破って入り込んできた。何匹入り込んだか見当もつかないが、相当の数だ」門番の答えに、リリーも男も息を呑んだ。
リリーが想定しうる最悪の返答だった。明るい開けた場所で十数丁の銃があれば、自警団は易々と負けはしない。ただ月明りない闇夜に多数のゾンビが街路を彷徨っているとしたら、恐ろしい被害をもたらしかねなかった。
リリーから距離を取って近づけないのも、ゾンビ感染を疑っているのだろう。
「……うちは噛まれてないよ?」リリーは必死に訴えた。
「証明できるか?」門番は冷たく返す。
「女の門番だして。裸になるわ」そう言った。肌を晒す程度なら、覚悟と言う程でもない。
クロスボウを構えた女門番が駆け寄ってきたので、松明の炎が届いている曲がり角で、リリーは服を脱ぎ捨てて全裸で廻ってみせた。肥満した中年女は大きく安堵の吐息を洩らしてから「確認したよ。服を着な」そう、ぶっきらぼうに告げてくる。
(……ホラー映画やとこういう瞬間に襲われたりするんやけどな)しかし、襲い掛かってくることもなく、素早く服を着込んだリリーは門番たちに保護された。
飛び道具を持った門番たちが警戒する中、小型クロスボウを押し付けられたリリーは、台の上に腰を下ろした。飛び道具持った人間相手なら狙い撃ちされそうな最悪の場所だが、しかし、怪物《クリーチャー》相手なら、油断していても簡単には襲われない場所だ。
「じゃあ、背中の方、見張っててくれるか?」背中合わせの門番が言ってくるのに頷いた。ゾンビの頭蓋骨に通用するか。甚だ疑問な玩具みたいなクロスボウを抱え、見張り台で毛布に包まってリリーは丸くなった。
あちらこちらの家で火が灯されていた。やや高い位置から見れば、ほのかな明かりが、町外れ一帯にある彼方此方の廃墟の壁や天井を照らしている。
門番たちは周囲の監視を続けた。ビクビク怯えたリリーも、本人の意識的にはまんじりともせずに、しかし、実際には時々、船を漕ぎそうになりながら一晩を台の上で頑張った。リリーが生欠伸を噛み殺す間も、銃声が散発的に響いては、静けさがふたたび立ち込めた。
リリーたちのすぐ傍らで、小さな松明が揺れ、かすかな明かりが門番たちの緊張した顔を照らしていた。恐怖と疲労が入り混じる中、リリーは自分の小さな段ボールの塒を思い出しながら、少しでも安全な場所で夜を越えられるのは幸運だと自らに言い聞かせていた。
「ゾンビだ。路地裏一カ所に入り込んで住人全滅だろうな」歩み寄ってきた警邏の一人が呟いた言葉がリリーの耳に右から左に通り過ぎた。次いで意味を理解した瞬間、氷を突っ込まれたような寒気が背筋を襲った。荒い呼吸を繰り返しながら、恐れていた状況が現実となってしまった光景が頭をよぎった。
「今、入り口をバリケードで封鎖して、銃を集めている。槍とかな」と別の警邏が続けた。
「攻めるのは朝方だな」門番が告げたその背後でリリーは心底、脅えていた。夜の町は依然として不気味な静けさに包まれていて、時折聞こえる銃声と悲鳴が人々に恐怖を刻み続けている。永遠に続くようにも思えた夜の間、陥落したのが自分の暮らす路地裏ではないことをただひたすら願い続けるうちに、いつしか東の空が白んでいた。
曙光に照らされる町並みに、彼方此方の路地や天幕から安堵の声や笑い声が響いてくる、
重い足取りでリリーが自分の塒に戻ると、自警団員たちに入り混じって、居留地の保安官や民兵らが街路を封鎖していた。保安官や民兵たちが所持する銃器や弾薬は、そこら辺の貧しい流れ者は勿論、武装を自弁してる自警団員も比較にならないほどに高性能だった。朝の光の下では、ゾンビの数匹程度は容易く処理できるだろうと、近隣の住人たちが安堵したようにため息を漏らしていた。
「バリケードには当てるなよ!狙え、撃て!」号令と共に、銃声の連なった時の雷鳴にも似た音が響き渡った。
見れば、路地裏の入り口は机や梯子、棚、木箱などで塞がれていた。路地の内側では何匹ものゾンビが槍やクロスボウ、それに銃弾で倒されて地面に積み重なっている。ゾンビ特有の青白く変色した皮膚の屍の幾つかは、リリーの良く見知った者たちだった。
「片付いたか?」民兵指揮官の声に、バリケードに昇った保安官助手が頷いた。
「見える限り、動くものなしです」
入り口のゾンビを鉤の付いた棒で引きずり出し、道路に積み重ねる一方で、盾と長槍。銃を構えた自警団員の一団が路地に入ろうとしていた。出入り口のバリケードを片付けて、しかし、段ボールの塒には、まだゾンビが潜んでいるかも知れない。
「段ボールの塒に警戒しろ、中に潜んでるかもしれない」民兵の士官が注意を促した。
「ちょ、ちょっと待ってや!」リリーが割って入った。「ま、まだ誰か生きとるかもしれん」
リリーの訴えに一瞬その場が静まり返った。誰もが、彼女の言葉に込められた意味を理解していた。幾人かは、リリーに哀れみの視線を向けてくる。
「乱暴に対処する前に、確かめさせてや」リリーは必死に続けた。
「噛まれたら、君も処分されるんだぞ?鉱山のカナリアになりたいのか?」民兵士官が冷たく答えた。
「分かっとる」声は震えていたが、リリーは翻意しなかった。
民兵士官はしばし沈黙した後、頷いた。「なら、よし。ただし、何かあったらすぐに戻れ」
槍を構えたリリーは深く息を吸い込んで、路地裏に踏み込んだ。踏み込んで、いきなり口元を抑え、後退った。転がった古ゾンビから漂う凄まじい悪臭と腐敗臭。凄まじい血の匂いに凄まじい吐き気が押し寄せてくる。
一度、街路まで引き返して涙目で深呼吸する。冷たい朝の空気が彼女の肺に刺さるようだったが、後戻りするつもりもなかった。もう一度、リリーは祈るような気持ちで、薄暗い段ボールの間を進んだ。もしかしたら、誰か生き残っているかもしれない。ゾンビを恐れながら、一歩一歩、慎重に進むと「誰か……生きとるんか?」リリーは小さな声で呼びかけた。
段ボールハウスに声を掛け、一つ一つ確かめていった。そして生存者はいなかった。誰も。しまり屋で口の悪い大家の婆さん。色々教えてくれた色っぽい姉やん。出稼ぎのおっかさん。恋人と結婚する日を待ち望んでいた働き者の娘さん。親を探していた少女。夢見がちな娘っ子も全滅だった。段ボールの家は血しぶきと臓物に塗れて完全に使い物にならなかった。リリーはため息を漏らした。黄昏の世界では、さして珍しい結末でもなかった。親しくは無かったから、親しくならないようにしていたから、心にそれほど強い衝撃は受けなかった。ただ多少、その死を悼んで、人生の無常さを儚んだ。
リリーが出てくると、入れ替わりにガソリンのペットボトルを手にした自警団員が路地へと入っていった。焼くのだ。路地は油を撒いて全部焼く。それから石灰を撒いて殺菌する。リリーは僅かな荷物を盗まれないように持っていた。だから、今は家以外には何もなかった。燃え上がる炎と街路で焼かれる死体。遠巻きに取り囲む人々。
「……うちの家が」奇妙にも笑いの衝動が押し寄せてきた。浅い付き合いとは言え、一晩のうちに幾人も知己が死んだ。リリーも一歩間違えれば死んでいたし、中には友人と言ってもいい程度には、仲のいい娘もいたのに。
呆然としてるリリーを見て、民兵隊のなんたら云う士官が鼻を鳴らした。
「もうちょっとマシなところに引っ越せ。少なくとも出入り口に簡単な扉くらいは付けた路地にな」それから鋭い視線でリリーを眺めた。
「さもないと長生きは出来んぞ」
「金がないんや」リリーの答えに舌打ちすると、士官は手元のメモ帳に住所を書いてから渡してきた。
「不動産屋だ。チェスターに紹介されたと言えば、安くなるはずだ」
『町外れ』区のさらに外にある廃墟のコテージは、頑丈そうに見えるが周辺の雰囲気が恐かった。『通り』区のテント村がある空き地は、義務とか決まりとか多そうで、ちょっと堅苦しい。『門前』区の古い食堂跡は仕事もついていたが、男所帯に混ざるのは躊躇われた。同じく『門前』区の廃墟ビルは、割り引いて貰っても家賃が高すぎた。
立地と家賃を兼ね備えたものもいるが、リリーは暫くは集団生活はうんざりだった。彼方此方と見て廻って結局、残ったのは街外れの路地だった。何と無料で借りられると聞いて簡素な手書き地図をみれば、曠野に面したバリケードのすぐ近く。怪物が侵入しやすい、封鎖された街路も目と鼻の先だった。
「死ぬやん」リリーは地図を見て呟いた。
「いや、意外と安全だぞ。バリケードに近いから、何かあれば門番が見にくる」住所の管理を行う不動産屋がそう言って勧めてくる。
「うちがゾンビに喰われたら、止め刺しに来てくれるんかな?」とリリー。
しかし、結局、無料と言う魅力には勝てずに廃ビルの谷間の路地に決めた。
(これで、うちが殺されれば、何かしらが侵入してきたと自警団も知ることが出来るって訳やな)はなはだ散文的な事実に嘆息しつつ、リリーは契約書にサインした。
それから幾らかの金を払って、段ボールの塒をひとつ借してもらう。買うだけの金はなかった。小さな路地裏に段ボールの家。なにもかも殆んど変わらなかった。一つだけ違うのは、今度は路地裏で一人暮らしと言う訳だ。
結局、貧乏人は一番、危険な場所で暮らすしかない訳やなぁ。無常や。愚痴りながら、リリーは新しい住所へと向かった。
不動産屋に貰った地図は下手糞な上、彼方此方と省略されていて分かりづらい。
「02-14、02-14」住所を呟きながら、壁にペイントされた住所を探していたリリーがバリケード近くの街区へと足を踏み入れる。
「14へ行けって……あかんな。なんか縁起悪い数字やで」ブツブツ呟きながら、角を曲がった瞬間、人に当たりそうになったが、僅かに触れた相手が恐ろしい反応で飛び退った。
「ああ、すんま……でかっ!はやっ!」ぶつかりかけた相手の威圧感と反射神経に、リリーは思わず声を漏らした。
「何だ、いきなり失敬な」相手の女性。美人だけど190cm近くありそうな娘さんが不機嫌そうに言う。
「失敬な?」巨娘さんの後ろについてる小柄な少女が声を重ねた。
「あー、すんません」気を悪くした様子の相手に謝りつつ、でかいってのは失敬なんやろか、とリリーは思った。
二人組も下手糞な地図を手にしていた。見覚えある手書きの地図だ。
「00-13 この近くの筈だけど」少女が呟いてるが「00-13?そこ、かなり危険やで」リリーはビックリした。
「おや、教えてくれるのかな?」と背の高い娘さんが視線を向けてきた。
「さっきは、ちょっと失礼したみたいやからね」詫び代わりだとリリー。
「危険なの?」少女が聞いてきた。
「バリケードのすぐ間近や」リリーの言に、背の高い娘が肩を竦めた。
「家賃が無料だし」
「ふうん、仕方ないね」と少女。
「そう、仕方ない」背の高い娘さん。
「00-13は、この先やで」二人組に住所を告げてから、リリーも尋ねてみた。
「そや。うちも探してるんだけど、02-14って分かるかな」
「すぐそこを曲がったところ」と長身の女性が教えてくれた。
「おおきに」礼を言うと、少女が興味深そうな視線をリリーに向けてきた。
「あれ、ご近所さんかな」
「ご近所さん。そうなるかな」リリーも笑顔を浮かべた。
「うちはリリー」隻眼の娘が自己紹介すると、長身女性も形のいい胸に手を当てた。
「マギー。こっちが……」しかし、女性の連れの少女は曲がり角の先を覗き込んで喚いていた。
「ひ、人が多い」緊張した様子の少女は、震え声でつぶやいてる。
「通りに人がいるよ‼マギー!十人も!」
「自由都市ほどではないでしょう」とマギー。
「あれは背景だったけど、こっちはご近所だからお付き合いしないと……ちょっと吐きそう」少女の顔色は、本当に悪かった。
「どういう田舎から来たんや」リリーが言うと、少女は端的に応えた。
「廃墟。もう何年も、ご近所さんはゾンビと変異獣だけだった」
「ええと、マギーちゃん。そして人が多いちゃん……可愛いお名前ですね?」
「ニナです」少女が真顔になる。
「ニナちゃん。そしてマギーちゃん。よろしゅうな。何年の付き合いになるか分からんけど」
「ふむん、こんな路地裏からは出ていくぜって野心の表明?」マギーが尋ねたのでリリーは肩を竦めた。
「いんや。来年には、うちか、そっちが死んでるかも知れんから。つい今朝もゾンビに襲われて、うちのアパートと隣人、全滅したけど。あの煙、燃やしとるんや」やや冗談めかして告げる。
「マギー。ポレシャは安全なところって言った」不信と不満を表明して抗議するニナを、リリーは慰めた。
「この辺りだと間違いなく一番安全やで。流石に無料の場所は、安全面に割と問題あるけど。お姉さんと一緒なら、そんな緊張する必要ないで」手を振りながらリリーが言うと。
「うーん。それでも、今までいたところよりはマシかな」とニナは落ち着いた声で応えた。
「出来るだけ長い付き合いになるとええな」言って、リリーは笑った。