雨が降っている。小糠雨だ。天幕の下で寝ていたマギーの頬に水滴が弾けて消えた。
「……役に立たない天幕《テント》だな」愚痴りながらマギーはのっそりと長身を起こした。抱き着いて寝ているニナが抗議するように唸って身じろぎする。
マギーは空を見上げた。雲は分厚く高い空を覆っている。鼻を鳴らして匂いを嗅げば、風に強い湿気が混じっている。本格的な雨になるなら、その前に天幕を抱えて避難せねばならない。何しろ天幕は新聞製だ。以前の貯蓄なども切り崩してビニールを張り、少量のペンキなどを購ってはテントを補強していたが、所詮は薄紙。土砂降りになったら壊れてしまう。
路地裏の薄暗い狭間にはどこぞで拾った木箱や木製の食器などが所狭しと並べられていた。高度文明の恩恵に浸る人々が見れば、ホームレスの
ビニールを張った木箱やら洗面器を地面において水を貯めながらも、降りしきる小糠雨に「どうしたものか」とマギーは呟いた。マギーとニナがポレシャの町はずれに移り住んでから、数ヶ月が経っていた。居留地でも、貧しい者たちが暮らしている一帯。これでも住環境は当初よりマシになっている。安売りの古新聞紙やチラシなど露店で見つけた時は、壁の上に張り巡らせた紐に乗せ、樹液から作ったニスなど塗って天井を作ってみた。此方も偶に破れビニールを使って補強もしていたが、慣れぬ素人細工であるし、面積も狭いために雨漏りは避けられない。マギーは掌を出して、細やかな滴を受け止めた。
屋根も無く寒空の下で路地裏や街路で暮らしている自由労働者や
マギーとニナは、寄る辺もない
来年の今ごろ、自分たちがどうなってるか。或いは、冬を越えられるかさえ、しがない
「……直ぐには止みそうにないな」呟いたマギーに、ニナが頷いた。
二人は、新聞紙のテントと毛布、そして乏しい財産の詰まった背嚢を背負って、近場の屋根のある廃墟へと避難すると決めた。ボロボロの木箱は置いていくが、こんなものすら盗まれる事があるとのこと。置いてくガラクタが盗まれぬよう祈りつつ、二人がめぼしい財貨を纏めるのに二、三分ほど。風が少し強めに吹いて、天井の下にいたニナの瞼で雨滴が弾けた。不満げに唸るニナを見て面白げに笑い、マギーは一緒に近場の廃墟へと向かった。
道中、路地裏の住人が食器やプラスチック容器、金属の盥などを並べている姿が目に入った。比較的に綺麗な雨水は、僅かな煮沸で貴重な飲み水ともなる。少年か少女か。小さな人影が無言のまま、じっと空を見上げ、降りしきる小糠雨が器に溜まっていく様子を見守っていた。
ポレシャの年間降雨量は、700~1000mmと言った水準で、気候もやや乾燥しており、湿度も低かった。雨が上がれば、新聞紙のテントもすぐに乾くだろう。
雨を凌げそうな廃墟の入口にたどり着いた二人は、ひび割れたセメントを踏みしめながら中へ入った。薄暗い室内の隅で固まっていた先客たちが鋭い視線を向けてきたが、手を上げて会釈したマギーとニナの顔を見ると、会釈を返し、再びひそひそ話へと戻っていった。
最近になって、ようやくに近所の人々より向けられる警戒の視線が薄くなった気がする。ポレシャはかなり治安のよい居留地だが、それでも窃盗や暴力事件も発生するし、町外れでは怪物や野生動物が出没することも間々あった。時にゾンビや変異獣などと言った怪物が悪天候に乗じて入り込んでは、不運な犠牲者に牙を突き立てるなんて事例も年に一、二度は発生する。黄昏の時代、殆んどの人々が危険と隣り合って生きている。貧しい人々は特に。
薄暗い廃墟には、かつての家具の残骸や散乱した瓦礫が広がっていたが、可燃物は何年も前に焚き付けにされてしまって見当たらない。壁も天井も方々が崩れ、雨や風が入り込んでくるが、それでも外の冷たい雨風の直撃からは逃れられる場所だった。マギーは、濡れた毛布を広げ、乾いた場所に座り込んだ。
「この場所がよさそう」とマギーが提案すると、ニナは小さく頷いて保護者の傍らに腰を下ろした。二人の目の前に広がる割れた窓から、小糠雨の彼方にぼんやりとした街の景色が浮かび上がっていた。マギーはバットをすぐ手元におくと、肘を枕にして壁へと寄り掛かった。目を閉じているが、雨音の中の異音を聞き分けようとしているのだとニナは知っていた。夜中でも、僅かな物音がすればマギーはすぐに起きてジッポライターを付ける。他にも幾人か、窓際や入り口に寄り掛かり、それと無く外を警戒してる者たちがいた。
ニナも耳は鋭いが、マギーのように真正面から向き合う勇気には欠ける。なので怪物に遭わないよう工夫する方向に心を砕いている。窓から町の景色を眺め、怪物や妙な人影が見当たらない事を確認してから、手提げ鞄から古びた本を取り出した。勇敢な小人が指輪を火山に捨てに行く物語だ。暇な時にはいつも読んでいるが、流石に飽きもしている。続きが読みたい。二人はしばらくの間、静かに雨音を聞きながら過ごした。雨足は徐々に強くなり、止みそうにない。
何処かで犬が激しく遠吠えし、銃声が響いてきた。犬の遠吠えがまだ続いているところを見るにコヨーテか、野犬。或いはもっと恐ろしい何かが防壁か、バリケードに寄ってきたのか。警戒用に飼われてる犬たちが激しく吠え立てていた。
廃屋に小さなくしゃみが響いた。
「……寒ッ」ニナの漏らした呟きに、マギーが目を薄っすらと開いた。
「ニナ……本を読む前に、タオルで頭を拭いた方がいいよ」言うと、タオルを取り出してニナへと放った。
「こっちにおいで」毛布を広げたマギーは、ニナを包み込むように後ろから抱きかかえた。
「マギーも濡れてる」ニナがマギーの髪に触れて囁いた。
「大人はそう簡単に風邪を引かないんだ」
毛布を二重に羽織って薄ら寒さを凌いでるうち、ニナが次第にうつらうつらとしてきた。
「……お風呂入りたいねぇ」マギーの腕に寄り掛かりながら、そんなことをニナは呟いている。
部屋の隅で、火を焚き始めている初老の男がいた。挨拶を交わす程度に知った顔の近所の住人だ。幾らか払って火に当たらせてもらえないかと、マギーは思案してみる。薪とて只ではないが、一人、二人が邪魔をしない程度に火の傍に当たらせるだけで小銭が入るなら、そう邪険にされまいとマギーは立ち上がった。
「当たらせてくれないかな」
「雨水を貯めてきてくれ。そしたら、金はいらん」火のそばにいた男が金盥を指さして答えた。彼は石を焼いている。マギーは頷いた。
廃屋の入り口に洗面器などを置き、溜まった水を金盥へと運べば、引き換えに沸騰したお湯が手に入った。
ニナを起こしてから、上着を脱いで熱いお湯とタオルで身体を拭った。
恥ずかしげもなく、マギーとニナは火のそばでお湯と布で身体を拭いていた。廃屋の隅で踊る炎の揺らめきが、小麦色の肌に淡い暖かさを投げかける。
穏やかな安らぎに浸りつつも、マギーはふと視線を感じて振り返った。近所の男がマギーの背中に焼き付けられた蛇の入れ墨を黒い瞳で追っている。
ポレシャ程度の文明地なら、普通は礼儀として異性の肌をそんなに堂々と見つめないものだ。しかし、近所の男の視線は興味深げで、しかも、尊敬の念が滲んでいた。マギーは一瞬、入れ墨を隠そうとするが、結局はそのままにした。
「……スケベ」とマギーはぶつぶつと呟いた。入れ墨を見せないようにしながら、肌を大胆に晒していることに、僅かばかりの戸惑いを感じていた。
「……格好いいと思うよ。私たち、そんな上等な身分でもないし」マギーの背中に抱き着きながら、指先で入れ墨に触れたニナが囁いた。
「……あんた、あのスネイクバイトか」男の問いかける声は緊張に掠れていた。
「昔の話だよ」マギーは眉を顰めて、少し不機嫌そうに応えた。
「頼みがある」身を乗り出した男の表情からするに、賞金稼ぎだった頃の獲物の縁者でもなさそうだが、厄介ごとの匂いをかぎ取って、マギーは嫌そうに告げた。
「……チームは抜けたんだ。悪いけど、もう荒事はしたくない」
「話だけでも聞いてくれないか?」
ううむ、とマギーは唸った。男からは邪念も感じないし、悪そうな顔もしていなかった。しかし、目的がなにか見えないし、人物眼がどの程度当てになるかもマギーには自信が持てなかった。
近所の男が根負けしたマギーとおまけのニナを案内したのは、路地を抜けた空き地だった。中央に佇む小さな丸太の建物を指さしながら「見てくれ」と近所の男が告げた。
丸太小屋というには小さすぎる建物に「なにこれ?……物置?」怪訝そうにニナが言った。
「蒸し風呂だよ」と近所の男が答え、マギーが口笛を吹いた。
興味が乗ったのか。興奮した猫のようにサウナの周りをぐるぐると廻って、換気口を覗き込んだり、地面の設置部分を調べてから「いいね、こいつは。こいつはいい」と頷いている。
「ここまで作り上げるのに八年かかった」と近所の男が示しながら説明する。
「換気口もあるし、自分で試してもみた」扉を開いて内部を見せながら、近所の男はサウナの機能や部品調達にどれだけ苦労したかなどを熱っぽく語った。
「防壁内や門前町なら風呂やサウナもあるが、町外れにはない。こいつで商売をしたいと思ってる」
「いいんじゃないか?」マギーが腕組みしながら賛意を示した。
「……誰かやってそうなもんだけど」首を傾げてニナが疑問を投げかけたが、近所の男は首を振るう。
「十年前は、町外れはもっと小さかった。区域もここまで大きくなれば、わしがやらんでも、いずれ誰かがやっただろうが……」サウナを眺めると、近所の男は嘆息混じりに唸りを上げた。
綺麗な水と幾らかの金で蒸し風呂に入れる。値段次第だが、踏み倒す奴もいないだろうし繁盛するだろう。
ふんふんと頷いてから「何が問題なんだい?」マギーは問うた。
「問題が一つ」
近所の男が渋い表情を見せた。「わしはギャングに借りがある。」
「曠野を越えてポレシャに移り住む時にな。力を借りた」近所の男はぽつぽつと静かに語った。
「商売が上手くいったら、絶対に嗅ぎつけてくる。
連中が纏まった居留地通貨が手に入る機会を逃がすはずがない」男の表情には嫌悪と警戒が滲み出ていた。
あー、とマギーは呻いた。
「今、こぶ付きになったから、危ない事したくないんだ」ニナの肩を抱き寄せながら「この子は、私の命と同じくらい大事なんだよ」
嬉しそうに腰に抱き着いているニナの頭を撫でた。
「しかし、ギャングなんかいるのか」とマギーは疑問を呈した。ポレシャの居留地に移り住んで二、三か月が経っているが、それらしい悪党の匂いを感じたことはない。
「廃墟のギャングだ」渋い表情で近所の男が唸った。
「居留地に税を払うのを嫌って町の外……廃墟に暮らしてる」その男の言葉にマギーはニナと顔を見合わせた。
「税金……あー、私も払ってない」マギーが頭を掻きながら呟くと、男は肩を竦めた。
「移り住んだ時に地区の顔役に名前と住所を申告しただろう?」男の問いかけにマギーが頷いた。
「あれが人別帳だ。居留地で働いていれば、追い出される事は無いだろうな」近所の男の言葉に「なるほど」マギーが頷いた。
「税を払ってるなら、保安官に助けてもらえないん?」黙って聞いてたニナが訝しげに尋ねた。
ポレシャの警備隊《ガーズ》は、略奪者《レイダー》や盗賊《バンディット》にも引けを取らない武装や練度を誇っている。廃墟で粋がってるギャング団など、鎧袖一触に違いない。彼らがとち狂ってアサルトライフルなど仕入れたとしても、百人近くを民兵として動員できるポレシャに勝てるはずない。
しかし、ニナの問いかけに近所の男は嘆息を重ねた。
「残念ながら、町外れの渡り人《オーキー》や廃墟生活者の揉め事なんかに、保安官は一々出向いてくれないものだ」
考え込んだマギーを前に、近所の男は懇願するような眼差しを向けた。
「考えておいてくれないか?わしももう働くのが辛い年齢になってきた。そろそろ楽な商売で食っていきたいんだ」近所の男はそうつぶやいた。
結局、マギーは答えを保留した。見捨てるのも忍びないが折角、手に入った穏やかな生活をかき乱されたくはない。賞金稼ぎであった頃から、荒事から引退したいとは薄々、思っていたのだ。ギャングとの揉め事など御免である。
「楽な商売で食っていきたい。そりゃそうだ。気持ちはよく分かる。私だって同じことを考えている」翌日の涼しい午前。町外れのさらに奥まった場所で地面を掘りながら、マギーは鼻を鳴らした。
大型馬車の荷台から、組み立て式の小さな木の小屋が降ろされて、地面の穴の上に設けられている。公衆トイレの設置事業。労役所で募集していた仕事の賃金が良かったので、マギーも応募していた。
「今日のお仕事は穴掘りです。ここに深い穴を掘ってもらいます。三メートルくらいの深さで」
監督役である農園の娘さん。シエルが身振り手振り人足たちに指示を出していた。
雇い主と雇われの立場を越えるほどの交友は持ってないし、持とうとも思ってないが、比較的近い年齢の若い娘なので仕事以外でも会った時には立ち話くらいはする。
「シベリアの流刑囚みたいだな」とブツブツとつぶやきながら穴を掘ってる髭の大男。
「古いウンチ穴とか、掘り当てちゃいけないね」と誰かが笑い飛ばす。
「大丈夫さ。一年もあれば土になるって話だから」とのんびりとした声が応じた。
「もしかしたら、ここも昔はうんち穴だったかもしれないよ」
「とりゃ!」と若い男がシャベルでかき分けた土を隣の友人に掛けた。
「小学生なの!もう!真面目にやってくださいよぅ!」ポレシャ市民シエルさんが地団太踏んで怒鳴っていた。
「夕方までには三メートルの穴を掘り終えなきゃ……うぅん。七つも?これ絶対に間に合わなくね?」仕様書を眺めながらシエルが唸っている。
「あー、間に合わないかもね」マギーは汗を拭きながら呟いた。
地面が固い。粘土質の土壌が人足たちの前に広がっている。少しずつ穴を深めていくが、これはどうにも骨が折れそうだった。
シエルが財布を取り出した。中身を見てから、人足の人数を数えると、うんうんと悩まし気に唸ってから「間に合った班には、一人一ポンド余計に出します」宣言した。
マギーはやる気を出した。
「お給料がいいから頑張る。ダイジョブ、マニアウ」心をロボットにして、マギーはひたすら穴を掘った。お金が燃料のマギーロボットだ。
地面は固く、 穴の深さはまだまだ足りない。シャベルが粘土質の土壌を掻き分ける音が響いた。幾人かは息を切らしつつも、仲間たちと肩を並べて作業を進めていた。髭をたくわえた大男が「シベリアの流刑囚よりはマシだな」と笑った。
結局、マギーと大男が前払いの賃金に加えて一ポンドをせしめた。残りの者にも幾らかの貨幣が支払われたようだが、それは市民の娘さんの持ち出しなのだろうか。
三々五々に散っていく人夫たちを見送りながら、シエルが呻いて蹲った。
「あー、今月のお小遣い。まあ、仕方ないか」とシエルがため息をついた。
「……お小遣い?」近くで座っていたマギーが思わず口走ると、シエルは肩を竦めた。
「自分で稼いでる身じゃないからね」シエルが言うには、役所から公共事業の監督を割り振られたとの事だ。居留地でも、シエルの家系は一目置かれている。比較的に大きな農地を所有し、祖父と祖母は参議の椅子に座っている。いずれはシエルもその席に座ることを期待されてるのだろう。
「金持ちには金持ちの苦労があるのかね」言いつつも、食べるに苦労する身として、やはり食べるに困らない程度の財産はマギーも欲しいと思う。
マギーはニナを。シエルは召使い娘のジョーを。身内が迎えにくるのを待つ間、マギーは座って時間を潰していた。午前一杯、汗を流しながら穴を掘り続けていた為、マギーの上着のシャツはびしょ濡れになっていた。
暇を持て余したシエルは、自らの胸とマギーのそれを見比べて、不満そうな表情を浮かべた。
「形のいい胸しやがって、もう。なに食べてるの?」
「最近は、麦と芋と葉物。トマトとチーズと牛乳にエール」マギーは率直に答えた。
「嘘だぁ」信じられないと言いたげに呟いた後、まじまじとマギーの胸を見つめたシエルは、好奇心を抱いた表情で、揉んでみるという暴挙に出た。
「……本物なんだ」と、シエルは感心したように呟いた。
マギーは潤んだ瞳をシエルに向けると、腕を掴んで抱き寄せた。
「え?ちょ……まっ??まっ!」
シエルは戸惑いの声を上げたが、マギーは妖しく微笑んだ。
「嬉しいな。可愛いと思ってたんだ」
耳元に囁かれた言葉に、シエルの顔が赤くなったり、青くなったりした。
「わあ!お兄ちゃんに全然靡かないと思ったらそっちだったか!」
「この体つきだと慣れてないのかな?大丈夫、一緒に気持ちよくなろう」
「なんて罠!ちょっと待った!待って!」シエルが焦りながら喚くと、マギーが止まった。
それから、くすくす笑いながら離れると、シエルを指さして笑う。
「ほ、本気で焦った声出して。ウ、ウケる!」
揶揄われたと気づいたシエルは、鼻息荒くマギーのお腹に拳を叩きこんだが、鋼鉄の腹筋に手が痛くなっただけだった。
「ああ、もう!余計な汗掻いた」ため息を漏らしたシエルに、マギーが少し考え来んだ。
「ちょっと汗を流すにいいところがある」
蒸し風呂がこの近くに。告げたマギーにシエルは胡散臭そうな目を向けた。
「聞いたことないけど……襲わないよね」
「襲って欲しいの?まあ、無理には勧めないけど」とマギーが肩を竦めた。
普段から身なりに気を使い、かなり綺麗好きに思えるシエルだが、今は土埃に塗れてる。一緒に来ると誘ったマギーだが「蒸し風呂かぁ」とシエルは唸っていた。
「蒸し風呂嫌いなん?」
「昔、別の居留地で蒸し風呂令嬢誘拐事件と言うのがあって。設置型の蒸し風呂に入った市長の娘さんが、そのまま車に吊り下げられて誘拐されたのを思い出した」
言ってから、シエルが肩を竦めた。
「まあ、大丈夫かな。ニナもいるし」可愛がってる同居人がいるので、マギーが犯罪に手を染めたりはしないだろうと判断したようだ。
マギーは、入り組んだ路地をシエルと肩を並べて歩いた。やってきたニナとジョーだが、先に家に帰らせた。少女二人は、蒸し風呂に入る程には汚れてはない。
やがて十分ほど歩いた静かな路地裏の空き地に、ただひっそりと佇む蒸し風呂屋があった。
「ここ?分かりづらいな」シエルが呟いた。
物置のように小さくて、一見すると通り過ぎてしまいそうな外見だったが、マギーは自信を持って案内している。
「シエル・ガライさん。市民の女の子で参議の孫」マギーが蒸し風呂屋の主人に素性を耳打ちすると、主人の表情が興奮でほんのりと赤くなった。
「サービスしなよ」マギーが微笑むと、主人は微かに頷いた。
シエルが蒸し風呂に入って三分ほど経過してから、マギーもお邪魔してみた。
「お背中流しましょうか?お嬢さま」
ご奉仕しようとしたマギーだが、普通に嫌そうな顔をされて胸を隠された。
「ところでシエルちゃん様。一つご相談させてください」とマギーは恭しく話し掛けた。
「何か怪しい雲行きだぞ」湯気に浸かりながら、シエルが睨んできた。
「怪しくない。怪しくない」と胡散臭そうな口調で一生懸命に訴えるマギー。
「で、なにさ?」怪しいと言いつつも、シエルはマギーの言葉に耳を傾けた。
「此処の主のアンドレ。蒸し風呂屋を開こうと考えてるんです」
「すればいいんじゃないかな?小さいけど悪くない」ため息を漏らすシエル。
「問題が一つ」
「うん?」とシエル。
「彼はポレシャに移住してくる際に、ある徒党に護衛を頼んで曠野を越えました」
何かに気づいたのか、シエルが瞳を細めた。
「アンドレは何とかうまくやったのですが、身内や徒党はポレシャでの暮らしに適応できず、今は町の外の廃墟で与太者めいた暮らしをしています」
マギーはそこで言葉を区切った。シエルに考えを纏める時間を与えたが、市民の娘は数秒で尋ねてきた。
「……それで?」用心深そうにシエルが尋ねてきた。
「アンドレに5ポンド投資していただけませんか?」とマギー。
市民が出資者であれば、ギャングも大人しくなるだろう。多分。
「以降、利益の一割五分。アンドレが生きてる限りお返しします」そのマギーの提案にシエルは応えなかった。
サウナを出たシエルは、手酌で冷水を少しだけ浴びるとゆっくりと服を着た。それからマギーとアンドレに振り返る。
「利益の四割。飲めないなら、他の市民を探すこと」
「おう!思ったよりも強欲だぞ」と驚愕するマギー。
「名前を安売りするの良くない。あと特定の家系が力持ち過ぎないよう、居留地の法で出資や保有できる事業数に制限ある。うちは大分、ゆとりあるけど……」淡々とシエルは告げた。
唸ったマギーは、アンドレを眺めた。
「……安くないね。どうする?他に探す?ギャングに払った方がマシかも」
「連中は信用ならん。わしを殺して、商売乗っ取っても不思議ない」蒸し風呂屋の主人は、苦い表情で首を振った。
「まあ、条件を話し合ってもいい……家《うち》で話し合う?」シエルが提案してきた。
蒸し風呂屋が町外れに開店してから間もなく、地元の住民たちによってよく利用されるようになった。盛況というには物足らないが、もとより金欠の客層である。それでも、地域コミュニティの憩いの場としてそれなりに機能しているようで、近隣の者たちが足しげく通っており、空き地に客足が途絶える日もない。今も蒸し風呂の周囲で二、三の客が涼んでおり、町外れでの事業としては、まず繁盛していると言っていいだろう。
柄の悪い三人の男女が訪れてきたのは、蒸し風呂屋が開業して数日後のことだった。フードやマスクで顔を隠し、派手な入れ墨を施した男もいた。部族と呼ぶには野蛮すぎず、凶悪な武装も見受けられないが、良民とも言い難い雰囲気を纏っている。
「よぅ、アンドレ」と男の一人が旧知である蒸し風呂屋の主人に声をかけた。掠れた声の響きは威圧的で、それだけで広場に不穏な空気を漂わせた。
「なんのようだ」或いは、この事あると予期していたか。アンドレの反応は淡々としていた。
「儲かってるようじゃないか。友人が立派になって俺も嬉しいぜ」表面上、友好的な言葉とは裏腹に、粘着質な視線は場に不穏な影を落としている。不穏な気配を嗅ぎ取ったか、客の一人がそそくさと立ち去っていった。
「わしはただの雇われだよ。こりゃは市民の持ち物」アンドレは平静を装って応じなつつ、懐から商業許可証を取り出してみせた。
「誤解されてもつまらんから、先に見せておくかの」
示された書類を眺めた来訪者の男が目をひん剥いた。
「商業許可証……持ち主・エウスタシオ・ガライ。あのガライか?」居留地でも幾つかある有力な家の家長の名が記されている。
「其のガライじゃよ」淡々とアンドレは頷いた。
「……ほ、本物か?」思わず馬鹿な質問を投げかける来訪者の男。
「流石に、偽の書類にガライの名前なんか載せたりせんよ」アンドレは肩を竦めた。
「俺はてっきり……お前が一国一城の主になったと思ったぜ」
「わしはもう無理さ」とアンドレは皮肉っぽく笑いながら、首を振った。
それから空き地の横に置かれた薪の束と水の入った壺を一瞥して、肩を竦める。
「もうじき十二時。集金人が薪と水を持ってやって来る……怒らせんでくれよ。この年齢で馘首になるのは御免だからな」
来訪者の男は無言で踵を返した。その背中にアンドレが声をかける。
「入っていくかい?奢るよ」来訪者の男は半笑いの表情を浮かべながら天を仰いだ。
「止めておこう。お前が元気にしてると知れただけで充分さ。友人」
不穏な来訪者たちが立ち去ってから、客の一人として寝椅子にくつろいでいたマギーは、身を逸らしてアンドレに話しかけた。
「で、良かったの?」
空き地横に建てられた東屋に入り込んだアンドレは、ただ無言で肩を竦めた。
「一国一城の主になりたかったんじゃ?」マギーが言葉を重ねるが、事業を売り飛ばしたアンドレは皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「農場の離れに寝床も貸してくれるそうでな……この年齢で安楽に暮らせるなら、それ以上望むことはないさ」東屋の机に座り、帳簿を付け始めたアンドレの何処か諦めたような言葉に、マギーはため息を漏らした。
「おじさんが不満がないならそれでいいさ……しかし、富めるものはさらに富み、か」
「おぬしこそ雇用をどうして断ったんじゃ?」アンドレが逆に尋ねてきた。
「用心棒なんて碌な立場じゃないよ」マギーは手をパタパタと振って言葉を続けた。
「常雇いの暴力要員なんていざという時は鉄砲玉扱いだし、荒事になったら一番危ない位置に立たされるに決まってるからね」
世の中、何時なにが起こるか分からない。だから徒党に組みこまれないように距離を保った方がいいのだとマギーは考えていた。
それにマギーにも、心に期するものはある。何時かは、小さくとも自分の徒党を組みたいのだ。そして、誰かに使われて有用さを示せたとして、必ずしもその経歴が後で役に立つとも限らない。便利な駒を手放さないよう雇い主が邪魔してくることだってあるのだから。
気楽な立場の方がいざという時、逃げるに躊躇しないで済むと熱弁する若い娘に奇妙なものを見るかのような目を向け、アンドレは肩を竦めた。
「寄らば大樹という諺もあるんじゃが……まあ、お前さんはまだ若い。好きにすればええわ」帳簿を付けながらアンドレは独り言ちるように呟いた。