ニナは鼻血を出してひっくり返っていた。手鼻で押さえても止まる様子がないので、今は放置している。二対一である。途中で四対一になった。身体が痛い。鼓動は激しく早鐘のように高鳴っている。熱い息を吐いて様子を窺った。鼻血を舐めてから、乱れた呼吸を整える。
地面にひっくり返った姿勢で、青空を見ながらニナは考えた。まあ、骨はいってないと思うが、随分と遠慮なくボコられた。青痣くらいは出来てるに違いない。大人たちが止めてくれなければ殺されていたかも知れないが、喧嘩が一方的になれば見知った周囲の大人が止めてくれるとも計算していた。実際、袋叩きに入った時点で、屋台の大人たちが引き離してくれたので、ふらふらになって休むだけで済んだ。姑息と言わば言え。子供には、子供のズルさや計算を持ち合わせているものだ。
立ち去る前に連中、屋台の商人に厳しく窘められていた。『保安官を罵るなんてどういう心算だ』厳しい声音で叱責されて初めて、年長の少年少女が顔色を青くしていた。実際、流れ者の子が法執行官を悪く言う事がどれだけ危険か、考えが及んでいなかったようだ。ポレシャなら兎も角、他所の居留地によっては、流れ者なんて簡単に処理してしまう保安官もいるのだ。
チェスターこそ腰抜けだ、と罵ったのが少年少女らの怒りを買ったようだ。後は、キャシディを悪く言うなとか、チェスターが味方を見捨てて逃げ出したとも叫んだ気がする。言いたいことを言って、随分と気分もすっきりした。チェスターを悪く言った件については……ニナも頭に血が上っていた側面もある。まあ、ポレシャなら多分、大丈夫だろう。チェスター中尉も態々、子供の喧嘩に突っ込んで来るとも思えない。
ニナは精々、獰猛に見えるように笑ってみた。少しだけマギーに似ていたかも知れない。やればできるじゃないか、そう自画自賛してみる。生れて初めて子供同士で全力で喧嘩した。実の姉は常に優しかったし、普段、つるんでる連中は楽しくて気が合う仲間なので、ニナは生まれてこの方、喧嘩一つしたことなかった。廃墟にいた頃、殺し合いだけはしていたが、それはそれで健全ではない。やんちゃで許される間に一度でいいので子供らしい喧嘩をしておきたかった。だから、正面から殴り合ってみた。思い切り負けたが悔いはない。ひんやりと冷えた石段が痛みに熱く火照った背中に心地よかった。
「あと五秒あったら必殺のフックがさく裂してたのに……運のいい奴らだよ」負け惜しみしつつ、呻いてるニナのところに中年の女性市民が消毒液と水で冷やしたタオルを持ってきてくれた。合成医薬品は全てが外部からの輸入に頼っている為、それなりに高価な代物だが、呆れたような目と共に傷を手当てしてくれた。
今日までいい子で通してきた信望貯金を使い切ったかも知れないが、厳しい処分が下される事もないとニナは踏んでいた。ここ一年を居留地に暮らし、他に子供同士の喧嘩を目にしたこともあるが大抵、放置されるか、両成敗。余程に度を外れなければ、目溢しされると踏んでいた。多分に、子供同士の諍いも危険な終末後《ポストアポカリプス》の世で生きる為の予行演習と見做されている節がある。
兎も角、近くにいた市民たちの反応は悪くない。見慣れぬ子供らがキャシディを悪く言ってたのに対し、ニナは慕ってるキャシディの為に怒っていた。他人の為に怒る子供を悪く思う大人はあまりいない。実際、ぶっ倒れてるニナの周囲で、喧嘩の原因についてキャシディやチェスターと言う単語が幾度か飛び交った。
さて、市民層におけるチェスターの信望は、果たしてどの程度だろうか?
倒れたままのニナが中々、間近で聞けない市民同士の囁きに耳を傾けれてみれば、キャシディとの信望の差はそれほど無いか、むしろ副保安官の方がやや上回っているように感じられた。これは嬉しい情報だった。とは言え、ニナの体感に過ぎないが。
市民であれば、手続きすれば戦闘詳報も閲覧できる。と言っても、一方的な噂が幾ら流れようとも心配ないとは言い切れない。全員が小競り合いにまで興味を持つはずもなければ、書類から数字や経緯を正確に読み取れる訳でもないからだ。それに噂が延々と流され続ければ、何かしらは影響を受けもする。兎も角、ポレシャの市民が万事、慎重で保守的なのはよろしい事だ。強固な防壁に守られた心理的要因に拠るものだろうか。
ポレシャ市民は、平均して路地裏の
とは言え、中世社会と違って、文明の爛熟を経た末に衰退した社会の末裔たちは、情報戦で自分たちが扇動されることもあり得ると承知しているようだ。ソクラテスの言う無知の知が、居留地の保守的な人々には観念として根付いている。これなら、一方的な噂に基づいた魔女狩りが起きにくい。今は、それが知れただけで充分だと結論し、ニナは再び微笑んだ。
地面に横たわって思索を巡らせているニナの顔に、影が落ちた。
「やっ、暴れん坊。鼻血は止まった?」逆光に立つ人物が問いかけてくる。
「どうかな?まだジンジンしてる」ニナは呻き混じりで答えた。
「もう少し賢いと思っていた。あの人数相手に突っかかるなんで無謀なのだわ」
自称・路地裏の王女さまである友人は、ニナを覗き込むようにしゃがみ込むとチシャ猫のように笑った。
「そんなにキャシディを愚弄されたのが許せなかった?」どうやら一部始終を見ていたらしい。その割に加勢してくれなかった王女さまの質問に、少し考えてからニナは応えた。
「実は一度、喧嘩して見たかったんだ」
「思ったよりも、馬鹿だったのだわ」路地裏の王女はぼやきつつ、ニナの状態に目を走らせた。擦り傷に打撲。手当する必要があるし、掴みあって衣服まで破れていた。服も布を当てて色々と繕う必要があるだろう。お金だって掛かる。
もう少し計算高いと思っていた、などと呟きつつ「立ち上がれる?」と王女さまが問いかけてきた。
「……まだ、暫く無理かな」
叩きのめされながら、ニナは頭と内臓だけは庇っていた。致命傷を負わないよう、後遺症が残らないよう、腕や足で蹴りや棒切れを受け流した。最悪、折れても構わないと覚悟していたが、かなりの打撃を喰らってしまった。為に今も四肢に力が入らない。
「酷い痣ねえ。今夜には熱が出るわよ」と言いながら、ただ隣に座ってニナを見つめた。
「まあ、今日はこのくらいで勘弁しといたるわ」とニナ。
「お、そうだな」子供たちがネット文化に毒されているのが、保護者達の悩みの種だった。
「で、仕返しすんの?」
そう王女さまの問いかけに、まさかぁ、と間延びした言葉を返した。
「連中にとっては命の恩人だし、腹も立ててない」
言ってから、ニナは路地裏の王女さまに歎願してみる。
「でも、絡んで来たら助けてくれる?」
「いいわよ。向こうから絡んできたその時はね」
敢えて手出しを誘うような真似はしない、と二人ともに言外に約束事として承知してる。暗黙の了解や、微細な機微などそうした空気を読めない相手とは王女さまは気軽に約束事を交わしはしない。
終末《ポストアポカリプス》の世だけあって、居留地にいてさえ時々、とんでもない道徳的モンスターと遭遇するし、廃墟民やら部族《トライブ》、或いは孤立した小集落には生活のみならず論理や価値観、行動原理まで中世や古代に後退した集団も少なくない。危険な世界で身を守るための法則の一つが、付き合う人間を慎重に選ぶことだ。
残念ながら、居留地《ポレシャ》の
路地裏の王女さまが、ほい、と冷えた水をコップで差しだしてくれた。近くの屋台で購入した飲料水。
(小銭ひとつ分、借り)脳内のメモに書き加えつつ、「ありがと」遠慮なく受け取ったニナが口に含むと酷く染みた。どうやら切れている。贅沢に飲料水でうがいをして、赤く染まった水を地面に吐いた。
ふぅい、と二度目には水を飲み込むと、身体に染み渡る感覚と共に痛みと熱がぶり返してくる。どうやら麻痺していただけのようだった。再び、ひっくり返って目を閉じ、押し寄せてきた痛みを浅い呼吸で受け流した。これはどうしたって、夜には痛みで涙する羽目に陥るのは決定事項だろう。
初春の青い空に白雲が流れている。
三十分、一時間、二時間。石段をベンチ代わりと寝転んだニナの傍らに、路地裏の王女さまはずっと静かに座っていた。 家の周りの掃除や片付け、そして手入れに洗濯。親の作業や家事を手伝ったり、さもなくば他の子供たちと遊んだりと、人生楽しまなければ損とばかりに毎日、居留地を駆けまわっている路地裏の王女さまなのに、ニナが動けるようになるまで傍にいることにしたらしい。
夕刻も間近になった頃合いに、またチェスターが無法者を追い散らした話が耳に入った。ニナが一瞥して見れば、話題にしてるのはいずれも若い近隣の農民と
「世の中の半分は、単純な馬鹿なのだわ」耳元に囁かれて、口に出ていたかと、ニナは舌打ちした。
「顔に書いてあったのだわ」と王女さま。
「……人の心を読むの禁止ぃ」無言のうちに思考を読み取られ、反撃しようにも今頃に押し寄せてきた痛みで思考が纏まらない。
「今日は読みやすいのだわ」路地裏の王女は、クスクスと笑ってから真面目な表情となった。
「あの人らは、自らが英雄を称揚していると信じ込んでいるのよ」王女さまは静かに語り始めた。
「迂闊に口を出せば、特に単純な人なんか、貴方の事を賊の仲間か!なんて決めつけて排斥しようとしてくるわ。それも執念深くね」王女さまがシビアな意見を口にする。
「そんなに?」とニナ。
「そんなによ」断言された。
「いや、だろうね」人間の愚かさに関しては、ニナもおおよそ同感だった。
分かっていたさ、と嘆息する友人を眺めて王女さまは再びくすくす笑いをした。
「一々、腹を立てていたらきりがないし、誰も彼もに噛みつくほど馬鹿じゃないのはいい事ね」と王女さま。少し考えてから、「マギーに詳しいことを聞いたのでしょう。それともキャシディから直接かしらん?」そうニナの耳に囁いてきた。
ニナは上半身をゆっくりと起こしてから、微笑みを浮かべた。
「そっちもそっちで随分と事情を知ってるみたいだね。耳が早い」
「チェスターの手勢にも、キャシディの部下にも
「それに戦場に行った兵士は女を求めるものよ。男の人はベッドで口が軽くなると母様も言ってたのだわ」
「わぁ、Hなことは分からないよぅ」とニナが首を振った。
「なに言ってんだ、こいつ」
王女さまは深くため息をついてから、やや皮肉っぽい微笑みを浮かべた。
「私たちの徒党には娼婦はいないのだわ」王女の言葉に、ニナは無言でうなずいた。
「でも、酒場で春をひさいでる
流石に成り上がれる人物は滅多におらずとも、多少の才覚がある者なら下層にだっている。商店や隊商、民兵組織などで下働きしつつ、便利使いで終わらずに重用される役についた人物も幾らかはいるし、同じの出自の気安さから時に横の繋がりでちょっとした内輪話が聞ける事もあった。そして二十人からの小徒党とは言え、耳にした噂を集積すれば世間話だって馬鹿にならない。世慣れた
「ねえ」とニナの呼びかけに懇願の色が混じった。
「ダメよ」敏感に感じ取ったのだろう王女さまは、しかし、ニナが依頼を口にする前に断固として首を振った。
「
王女の言にニナは苦笑するしかない。
「危険を避ける為だから、こそこそしても目溢しされている。特定の誰かに肩入れしたら……」
王女の立場であれば、きっとニナも同じことを言ったに違いない。
「父様の徒党は小さくて、渡り人《オーキー》は常に弱い立場にある」
続く王女さまの言葉には、やや厳しいものが漂った。
「それにマギーは明らかにエヴァンス副保安官に肩入れし過ぎだわ。流れ者としては、危うい立ち振る舞いね」
「不味く見える?」ニナは尋ねた。
「地雷原の上でタップダンス」と王女さま。
「そんなに」
「そんなによ」二度目のやり取りを終える。与してしまってから忠告されても、無意味なことは二人とも分かってる。第一、マギーとニナが親しくなった時点では、キャシディは保安官助手の一人に過ぎなかったのだ。
(キャシディが負けたら、逃げ出すべきかな。手下の粛清まではいかないと思うけど……うーん、分からん。一番、良いのはキャスが勝ってくれることだけど)
数秒を不毛な嘆息に費やして、ニナはぼやいた。
「実のところ、流れ者じゃないから機微に疎い。ずっと廃墟で暮らしてた。マギーと出会うまでは」
「廃墟生活者にしては、ニナはいい線行ってるのだわ」と謎の上から目線。
ニナがため息を吐くと、路地裏の王女はやや苦い口調で、しかしはっきりと告げてきた。
「予め言っておくけど、この件に関して味方は出来ないのだわ。どちらが勝つか分からない。大きな居留地で軍事指導者を決める有力市民の争いに関わるなんて、自殺行為なのだわ」
マギーを見つめる王女さまの視線には、憂慮が込められていた。
ニナは微笑んで肩を竦める。と王女は改めて、ニナの青痣や擦り傷を眺めて呟いた。
「それよりも、マギーが相手を殴り殺さないか心配なのだわ」
「みんな誤解してるよ、マギーは……一緒に言い訳してくれる?」
マギーの激怒を想像した路地裏の王女は、真顔になった。
「お断りなのだわ……いや、マジで」
落日の残照が居留地を紫に染めていた。建物は夕焼けに照らされ、日没前のギリギリまで働いていた人々が家路へと急いでいた。市民や労働者たちは、家や宿での食事や暖かな炎を思い浮かべながら、帰路を急いでいる。通りがかった路傍のテントや小屋からは、家族と思しき笑い声が響いてきた。
空にまだ残照が残るうちにバリケードに守られた区画へと帰り着かなければならない。終末世界《ポストアポカリプス》での日没後の時間帯は、人の世界ではない。居留地に間近な門前町や街外れ一帯でさえ、怪物が侵入しないとは言い切れない。
それでもバリケードが松明やドラム缶の炎で照らされ、見張りが立っているだけに住民の多い区画はマシと言えた。ポレシャ近郊でも一軒家や孤立したアパートなどは、日没後には頑丈なドアを閉ざし、外来者が訪れてもドアを開くことはない。
「もう危ないから、帰りなさい」
日没直前の診療所、肩を撃たれて入院中のスタンフィールド氏は、見舞いと称して半日、病室に居着いている年下の若い娘にそう告げた。
「え?やだぁ、お泊りしてお世話するぅ」変に甘えた声を漏らしたメリッサは、浮かれた様に尿瓶を抱えて、くるくる踊るように回った。趣味のゴスロリ装束だが、背中のベルトには抜き差ししやすいショートバレル・リボルバー拳銃を差している。
コンクリートや廃車、廃ビルを繋げた強固な防壁にライフルを携えた歩哨に守られたポレシャ中心部には、流石に怪物が出没することは滅多にない。発電機によって夜も煌々と電灯が輝いている病室で、ため息を漏らしたスタンフィールド氏は古い工学雑誌を広げた。
「キャロおじ。好きだったよね。そういうテクノロジーの本」
メリッサがシャツとセーターの間で暖めていた、薄い本を取り出した。
「まあ、ありがたいが、良く手に入ったな」
変な念が込められてそうな雑誌を受け取らない方がいいような気がしたが、知的好奇心には勝てなかったよ。
生暖かさに閉口しながらも、スタンフィールド氏は工学雑誌を受け取った。
「マギー姐さんが、本を扱ってる
「……マギー君ね」
複雑な想いを抱えて、雑誌のページをめくる。
殺し屋じみた風格だが、実際には随分と年下。しかし、殺しの手管だけは相当の腕前だ。機械じみた正確で素早い早撃ちには、背筋が凍り付いた。しかし、そのマギー曰く、賞金首の無法者はどいつもこいつも同等以上に腕利きだとのことだ。戦った無法者どもの動作や射撃の正確さを見るに、過度の評価とも言い切れないのが悩ましいところだ。よくもまあ生きて帰れた。メリッサを眺めながら、スタンフィールド氏はふっと微笑んだ。
シエル嬢が議会に持ち込んだ作戦計画……実際は、恐らくキャシディが立てた計画通りにいけば、まず無難に勝てる筈だった。事前に作戦計画を説明され、これはイケると志願したスタンフィールド氏だが、チェスター中尉の暴走で作戦が初っ端から狂うのは流石に想定外であった。計画通りにいかないから帰ります。とも言い出せずに、あれよあれよと死地に陥ってしまう。
つまり、スタンフィールド氏が死に掛けたのはチェスターの責だし、作戦の失敗もチェスターの責だ。にも拘らず、妙な噂が流れているようで、その点でスタンフィールド氏はキャシディ副保安官に大いに同情していた。
帰還できたのは、まあ、マギーのお陰だろうが、色々と運も良かった。とは言え、罪のない少女が犠牲の羊となったことをスタンフィールド氏も多少は気に病んでいる。マギーの昏い瞳に罪の意識を読み取ったスタンフィールド氏も、彼女の判断を責める気になれなかった。スタンフィールド氏の心情では、己も同罪だったからだ。
逃げ場のない狭い岩場で十人近い手練の無法者と相対しては、名うての賞金稼ぎとて打てる手はなかった。マギーは狙撃がそれほど得意ではなく、狙撃に自信のスタンフィールド氏も肩を負傷。対する無法者どもは数で圧倒し、銃弾もたっぷりで武装においても連携においても優越していた。キャシディのように早撃ちも狙撃も並外れた人間など滅多にいないし、その副保安官でさえ、あの状況では大したことは出来なかったと思う。人間、出来ることには限りがあるのだ。
それでも連れ去られた少女の事を考えると、スタンフィールド氏は安穏と眠る気になれなかった。寝台に身を横たえながら目を閉じると、絶え間ない少女の不幸や絶望に関する考えが彼の心を支配した。元来が善良で想像力の強い性質のスタンフィールド氏にとって、目の前で一時の自由を得ながらも、ふたたび奴隷の身に転落した美少女の悲劇はいささか堪えた。
(……ジョナス君も性癖、捻じ曲がるな)
なのでスタンフィールド氏は、麻酔で眠りについた短時間を除いては目を閉じず、夜の闇を眺めながら時折、少女とジョナス少年の気持ちに想いを馳せては押し潰されるような罪悪感に襲われていた。
居留地で唯一……ではなく、随一の医者である担当医グレイ先生の見立てに拠れば、スタンフィールド氏は二、三日の入院で家に帰れるとの事だ。
長期入院をする気にもなれないスタンフィールド氏は、煌々と照らされた病室で眠る気にもなれず、かと言って、うろうろと歩き回る気にもなれなかった。
殺風景な白い壁と天井に囲まれて、夜長にやることと言ったら壁に掛けられたゴッホのひまわりの模写を眺めるか、差し入れの工学雑誌を読むか、目を閉じて身体を休めるしかない。
「私も泊まったほうがいいかな」へへ、とメリッサが笑っていた。それなりに可愛い娘で、昔から好意を隠さなかったが最近、とみに露骨になっていた。
幼児期においては、若きスタンフィールド青年に『結婚するの』と宣いながら一日コアラのように抱き着いていたメリッサである。成長すれば、幼い恋心なんて泡のように消えるだろうと気楽に構えていたスタンフィールド氏も、十年以上もアプローチが続いては流石に真剣に向き合わなければならないと感じていた。いずれにせよ、ともすれば沈みがちな気分が、メリッサの明るさに救われてる側面はある。
広場や防壁の上には歩哨が立ち、しかし、居留地は人口に比して広大な面積を占めており、昼間でも人の影がまばらな区画や路地が目立っていた。監視の目を盗んで怪物が忍び込むこともあれば、防壁を構成する廃ビルの壁や入り口の封鎖が崩れてることもある。
流れ者や出稼ぎ労働者も、市民とほぼ同数が門前や町はずれの区画に滞在していて、強盗や強姦などの凶悪な事件はまれだが、スリや窃盗などは日常茶飯事だった。
日が沈むにつれて、暗闇が徐々に町並みを飲み込みつつあった。防壁内ですら、数年に一度は怪物に襲われたと思しき犠牲者が出る。大抵は、老人や女子供だが、多少の訓練を受けたとはいえ、メリッサ一人を夜道で帰す気にもなれない。苦笑したスタンフィールド氏が看護婦を呼んで別室を用意してもらおうとした時、病室のドアが些か乱暴にノックされた。
防壁内でさえ夜間の移動は危険を伴う。だから当然に新手の見舞客だとは考えず、入室を促すと、病室へと入り込んできたのは、年上の友人モージズ・ベンソン。
「ええ、日没間際だぞ」大の男でも、こんな時間帯にうろつく奴は殆んどいない。
呆れてるスタンフィールド氏を前に、お洒落なコートを纏った中年男は息を切らしつつ、開口一番。
「よう、キャロル。金貸してくれ」
「帰れ」