自由都市『ズール』に拠点を置いている商会が、顧客への支払いに用いる通貨は主に三種類。
1つは商会通貨《マーチャント・チケット》。商人や隊商、商会などが私的に発行している通貨で、商会の規模や経営状態によって信用と価値は上下する、殆んど手形である。いずれも都市と近隣でしか流通していない企業通貨で、基本的には古くからの取引相手の他、囲い込んだ農村や立場が弱い従業員の賃金にあてられることが多い。ちなみに発行元の商会が倒産したり、隊商が壊滅した場合、当然に紙屑へと転生する。燃やして暖を取るくらいにしか使えない。
変種として、統治機構である商会連を通して商会通貨が発行される場合もある。此方は商会連合へと預けた貴金属や資産、信用の高い外貨などの担保に応じて発行される為、発行元が倒産したとしても一定の価値が保証されている。キャラバンが壊滅したニュースを聞いたからと言って、早まって紙幣を燃やしてはいけない。
2つめが、自由都市を運営している商会連合が発行した都市通貨《ズール・クレジット》。自由都市ズールの経済力と軍事力が価値を担保している為、商会通貨とは信用も段違いであり、都市そのものが滅びたり、占領されない限りは紙切れとなる事もまずない。発行した自由都市での買い物や取引では額面通りの価値を持つ為、取引の多い外部顧客への支払いに用いられる事も多く、ズールの商圏内ではかなりの量が流通している。
3つめが、遥かに強力な商業都市連盟《リーグ》、通称【リーグ】が発行しているギルド・クレジット。複数の商業都市が軍事・経済的な同盟を結んだ領域国家であり、その通貨は外国でも使用されている。リーグの領域外である曠野の地ですら、地元のズール・クレジットよりも高い価値を保有しているほどだ。ちなみにリーグ・クレジットではなく、ギルド・クレジットなのは連盟《リーグ》【リーグ】の前身が商人に拠る自治組織《ギルド》【ギルド】であったからだ。
「さて、お支払いはいかがいたしましょう」ミヒャエル会頭がソファから穏やかに問いかけてきた。
「ギルド・クレジットでお願いしたい」とスタンフィールド氏。商会通貨は主に都市内でのみ流通し、都市通貨は都市の商業圏内で用いられているが、いずれにしても都市から離れるほどに信用価値が低下する。それに比べてギルド・クレジットは広範な領域で使用することが出来、遠来からの外国人商人への支払いにも充てられていた。
「遊牧民通貨は、品薄で高騰しています。そこを鑑みて……1ゴールに対して1.4ギルド・クレジットでいかがでしょうか」会長が取引条件を提示した。
スタンフィールド氏は、マギーを一瞥する。隊商の一員として様々な地域を訪れた経験を持っているので、マギーは通貨価値に関してもそれなりの見識を備えている。
助言を求められたマギーは、少し躊躇してから壁際を離れると、予め書いておいたメモのページを雇い主にそっと差し出した。
【悪くはないけど、粘ればもう少しいけると思います。 ■■ 1.5 5000は即金で】
一部塗り潰して書き直したメモを一瞥し、スタンフィールド氏が考え込んだ。交渉の余地を示唆されたものの、結局はこの条件でも悪くはないと判断したようだ。
「なら、それで結構」会長に対して鋭い視線を送りつつも、微笑みを浮かべてうなずいた。
ゴールの値上がりはあくまで僥倖。時期によっては遊牧民同士の内紛やら小競り合いで値下がりしていた可能性もあった。交渉の経験を積んでみる選択肢もあったかも知れないが、スタンフィールド氏は数百クレジットで長々と時間を費やす気になれなかったし、初老の会頭に幾らかの好感を抱いていた。傍らのマギーには甘い判断だったのか。幾らか動揺したように身じろぎしたが、すぐに平静を保つと元の壁際の位置へと戻った。
基軸通貨であるギルド・クレジットの価値は高いが、自由都市《ズール》でも中堅のプロイス商会であればそれなりの量を保有している。
ギルド・クレジットの支払いを要望したスタンフィールド氏の眼前に、ギルド・クレジットの銀貨と紙幣が積み上げられていった。スタンフィールド氏も、数枚の銀貨と紙幣を抜き取ると、ルーペを用い、或いは銀貨を叩いて品質を確かめてから、頷いて手を差し伸べた。二人は握手を交わし、取引が成立した。
マギーが5600ギルド・クレジットを革袋に仕舞っている傍らで、スタンフィールド氏とミヒャエル氏はコーヒーを楽しみつつ、世間話に興じていた。
「今だから言うが、1.6までは妥協するつもりだったのだよ」
若い両替商を相手に種明かししつつ、悪戯っぽく笑うミヒャエル氏。
「そちらのお嬢さんの出した数字は、それくらいではなかったかな」
「あまり欲を掻いても、持ちきれません」本物の珈琲の香りを楽しみつつ、スタンフィールド氏の冗談にミヒャエル氏が品良く笑った。老舗商会の会頭と和やかに話しているスタンフィールド氏の姿を見ると、何時もの変人振りとは別人のようだ。やはり育ちがいい。ご両親はしっかりと教育となさっていたんだろうな、とマギーはどうでもいい事を考えていた。
会頭とスタンフィールド氏は世間話に興じていた。話題は、流行の品から警戒すべき略奪者《レイダー》軍団の動向、曠野や街道における治安。そして僻地の物流に到るまで及んで話は正午過ぎまで続いた。
「ご存じかと思われますが、ポレシャは巨大蟻の侵入を受けたばかりで色々と物入りです。こちらで建材など、取り扱っているでしょうか?」
「それほど多くは。しかし、必要とあらば用立ていたしますよ」手元の珈琲に視線を落としてから会頭が応えると、スタンフィールド氏が頷いた。
「若干の木材とセメントを融通していただけると有難いのですが……いずれ頼らせていただくかもしれません」物資の値段や量について幾らか触れてから、最後に二人は立ち上がって握手を交わした。
「色々と助かりましたよ」とスタンフィールド氏。
「こちらこそ、良い取引が出来ました」微笑んでいる会頭にスタンフィールド氏は頷いて同行者へと視線を向けた。
「実は、マギーが紹介してくれまして」
会頭から視線が向けられたマギーは「オーがあなたは信頼できる、と……」武力行使はないと判断して、腕組みして壁に寄り掛かっていたが、それだけぶっきら棒に呟いた。
「……ツンデレだ」馬鹿なことを呟いた若い男を、会頭が咳払いして鋭く睨みつけた。
「愚息が申し訳ありません。最近の若い者は全く……」
普段のスタンフィールド氏なら、むしろ気が合いそうだなとマギーは思った。
商会ビルから出たマギーは驢馬を引きながら、それとなく周囲に視線を走らせていた。驢馬に載せた革袋には、5600ギルド・クレジットが詰められている。都市の防壁内に家屋を買えるし、或いは、土地を借りて商売も始められる。都市近郊で耕作可能な土地だって購えるだろう。商会で取引を終えたばかりの人間に目を付けるスリや盗賊はいないかと警戒したが、特にマギーの感覚に引っ掛かる人物はいなかった。
「あぁ、緊張した」スタンフィールド氏が伸びをしながら、唸り声を上げた。
「……危ない橋を渡りましたね」マギーが少し刺がある口調で囁いた。
「もしかして、いきなり現金見せたの失敗だった?」
「性質の悪い商会だったら、今頃、二人とも殺されてました」マギーの言葉にきまり悪そうな顔をするスタンフィールド氏。
「現金見せた瞬間、事務所の空気がピリッと緊張したからな」
「小口で何度か交換した方がより安全だったとは思いますが、結局は良い方向に転んだようです」マギーが笑って肩をすくめた。
「いつも通りのため口でいいのよ」スタンフィールド氏が言うが、マギーは首を振った。
「ポレシャに帰って仕事が終わるまでは、この口調で通させてもらいます」
すでに落日も近づいていた。今夜の寝床を求めて彷徨う浮浪者《ホーボー》や乞食。家路を急ぐ
二人も今日の寝床を求めて、高めの宿がある通りへと足を向けた。
「ついて来てもらってよかったよ」大いに頷いたスタンフィールド氏は、マギーの予想以上の働きにご機嫌だったが、マギーは疲れた表情でぼやきだした。
「わたしは、早く帰りたいですね。ニナが心配です」手をひらひらさせて愚痴っている。
「おう、麗しの田舎町ポレシャがもう懐かしくなったかな?」スタンフィールド氏は、まだ田舎者云々を根に持ってるようだった。
「入院費払って貰った手前、案内しますけどね」驢馬を引きつつ先を歩くマギーは、時折、首を捻りつつ、迷路のような街路を進んでいた。
「俺も自宅のベッドに飛び込みたいよ。しかし、首を捻られると不安になるなぁ」言いつつ、マギーの後ろから歩いていった。
ポレシャにある診療所の奥まった病室に、奇妙に甘ったるい匂いが漂っていた。包帯でぐるぐる巻きに巻かれ、古の映画のミイラ男みたいになってベッドに横たわっているニナは見た目ほど重症ではないが、数カ所の打撲傷にべたべた塗られた自然由来の膏薬《ペースト》がきつい刺激臭を放っている。
「こうして我々は、打ち捨てられた廃病院の奥深く、古代文明のミイラを発見したのだった」
「なんだぁ、てめぇ」見舞いに来てた友人たち。路地裏の王女さまとノルベルト君にデリック君、ナイナちゃんら探検隊とミイラ娘のニナはきゃうきゃうと騒ぎすぎて、看護婦さんに厳重に注意された後、見舞いの品であるオレンジを切り分けた。
「オレンジだよう」とナイナちゃんが器用にナイフを使って皮を剥き、切り分けてから皿の上に載せた。
「久しぶりかな」と言ってニナも手を伸ばした。
少年少女はいずれも労働者階級の子弟で、身分は下層の居住者から
そういう訳で、五人はオレンジへと貪るように喰いついた。
こ、これがオレンジ。オラ、こっただうめえもん初めて食っただ。
うぅ、うめえ、うめえ。三日ぶりのめしだぁ。
最近、居留地の子供たちに流行しているひもじい農民ごっこであった。飢えと紙一重の世の中でありながら、尚更に美味く感じられるのがとても不思議な罪深いごっこ遊びだ。
安全な居留地に暮らしながら、何処か狂気めいた雰囲気を漂わせ、子供たちが一心不乱に瑞々しいオレンジを味わっていると開いたままのドアをノックされた。振り返れば、扉の傍に居留地ではそれと名の知られたシエルお姉さんが寄り掛かっていた。
「い、何時から見てました」ナイナが狼狽した声を漏らした。
「探検隊がミイラを発見したところからかな」とシエル。ナイナの両親は時々、農場で働いている。農場主一家として、労働者や家族に色々と手厚く接するシエルお姉さんは、一部少年少女にとってそれなりに人望があるらしい。顔を赤面させたナイナは、ぴあ!と奇声を上げると屈みこんでしまった。
「ニナと話したいのだけど、少し二人きりにしてくれるかな?」大した付き合いのないシエルの言に、ニナはわずかに首を傾げた。
路地裏の王女さまは雰囲気には流されないのか。確認するような視線を向けてきた。ニナが大丈夫、と頷くと「分かったのだわ」と立ち上がる。
それでもシエルの育ちから来る命令に慣れた雰囲気と整った容貌は、純朴な少年少女に憧れのお姉さんを演出するには充分らしい。ニナとほぼ同年代の少年たちも緊張を隠し切れないのか、誰かが屁をこいた。
「屁をこくなよ」
「お?他人に擦り付ける気か?」睨み合う少年たちの肩を掴んで、路地裏の王女が命令した。
「やるなら、外でやりなさい。病人に迷惑なのだわ」
そのまま病室の外へと二人を引っ張りながら、去り際に、またね、と女王様が別れを告げた。
ニナの交友関係は、それほど広くない。同世代のグループを除けば、保護者であるマギーと、なにかと目を掛けてくれるキャシディ副保安官。それで留まっている。
お店や近所の人々と多少の挨拶と世間話くらいはするが、踏み込んだ話をする大人なんて二人だけ。付き合いの浅い地主の娘がどうして病室を訪ねてきたのか。やや戸惑いを隠しきれないニナだが、取りあえず向き直った。
「それで、可愛い妹分を放置してマギーは何処にいるのかな?」シエルの言から、マギー目当てと合点してニナは素直に答えた。
「仕事。入院費稼いで来るって。キャロおじさんと一緒にズールに出掛けた」
「ズールか。しかも、出不精のスタンフィールドさんと」不機嫌そうなシエルの表情に剣呑なものを感じ、余計な事を言ったかもとニナは若干の警戒を覚えた。
ニナの感情は読み取られたらしい。シエルが苦笑を浮かべた。
「心配しないでも大丈夫。私はキャシディの味方でマギーもそう。マギーからは……聞いてないか」そう肩を竦めてから、シエルは抱えた紙袋を差し出した。
「お見舞いの品だよ。マギーが戻ったら、顔出すように伝えといて」見れば紙袋にはキャンディと小さなチョコレートが入っていた。伝言を託すだけなら、とニナは承諾した。
「チョコレートはキャシディから」面倒くさそうに言ってそれで用件は済んだのだろう。踵を返したシエルに、ニナはひとつ尋ねてみた。
「キャシ……副保安官は?」
「顔は出せないと。忙しい」手を振ったシエルに重ねて尋ねる。
「大丈夫なのかな?妙な噂が流れてるけど」不安を抑えきれず、重ねて尋ねる。
「あーぁ……喧嘩の原因もそれだったね」面倒くさそうに応えたシエルだが、思い直したのか足を止めてくれた。
「参事会への報告や弾薬やら装備の更新手続きと色々と働いている。民兵たちと、予算を取り合ってるのさ。ま、今のところは大丈夫」シエルは気楽な調子で請け負ったが、副保安官を巡る情勢にニナは顔を曇らせた。
「……今のところは、ね」思わず洩らした不安そうな呟きは、問答を意図したものではなかった。兎も角も用件を了承する。
「分かった、マギーに伝えておくよ。シエルさんもお見舞い有難う」心配しているニナを気の毒に思ったか。シエルは扉の位置に留まりながら、もう少しだけ詳細を教えてくれた。
「保安官事務所を縮小して、予算を民兵隊へ廻そう、みたいな噂は聞くね。実際に参事会で出ている訳ではないけど」
「……早いね」ニナの返答には苦々しさが籠っていた。
「早いとは?なにが?」シエルが問いかけた。
「噂が出るのが早すぎる」繰り返し呟くと、ニナはシエルに訴えた。
「だって、戻ったその日のうちには流れてた」ニナの言葉に、やはり多少の違和感をシエルも覚えていたのか。
「言われてみれば、か……意図して、誰かが流してる節はあるね」農場の娘も記憶を絞るように苦い表情で考え込んだ。
「そんなに聞きます?シエルさんの……つまり市民の耳に入るくらいに?」
「いや。市民には、まだ届いていない。今は居住者たちかな。私の場合はジョーやレオン爺が教えてくれた。市場で一、二度は耳にしたらしい」シエルの実家は豪農で、親しくしている使用人からは色々と噂が入ってくるようだ。
「まだ届いてない」ニナの呟きに「いずれは届くかもね」シエルは冷淡に返した。
「……副保安官罷免されるなんて話も耳にした。勿論、無責任な噂だけど……防壁の外だとあまり雰囲気は良くない」
「参事会に罷免の動きはないよ。今はね」一応の慰めにもニナは安心する気にはなれなかった。
居留地における保安官などの役職任命権は、富裕な市民層から選ばれた参事会が有しているが、単なる居住者や移民からの人気、信望が選挙や市政に幾らかの影響を与えない訳でもない。噂を広めているのが誰であれ、いずれはキャシディを罷免して、チェスターに権限を集めるように運動するだろう。巷間の評判があまりに一方的となれば、参事会とて動かされないとも限らないのではとニナは懸念していた。
とは言え、どうすればいいのか、と途方に暮れている。映画や小説を好んで嗜む性分とは言え、ニナやシエルは
「しかし、悪質な噂だな。怖気づいただの、無能だの。特に正面切って言ってこないところが嫌らしい。反駁することも出来ない」シエルがぼやいている。
「ここまで噂を流して、何らかの罪には問えないのかな?」ニナが疑問を呈する。
「噂を流してる者たちに心当たりが?」シエルは具体的に尋ねてみた。
「ない。けど、いるのは知ってる」
「妙な答えだ」地主の娘は、眉を顰めた。
「詳しそうな友達に聞いた。噂を流してる連中はいるけど、誰かは話せないって。市政の争いごとで、どちらかに肩入れすることは出来ないって言ってた」ニナの返答にシエルは肩を竦めた。しかし、シエルも同じ立場なら同じ解答をするだろう。
片方が民兵隊の幹部で、片方が副保安官と成れば、なおさらだった。
「兎に角、チェスターの為に働いている誰かがいるのは、確かだと思う」ニナの言葉にシエルは頷いた。
「賢い友人だね。あからさまに味方すれば、負けた時には色々失う羽目になるかも、だ」
シエルの言葉を聞いて、ニナはため息を漏らした。
「……チェスターの為に働いてる人たちは、果たして、そこまで考えているのかな?」