黄昏のガンダルヴァ   作:猫弾正

80 / 88
02_25 『門前』『中町』『町外れ』

 黄昏時の自由都市《ズール》に聳え立つ尖塔群が夕暮れの赤い光に染まっていた。

 今宵の安全な寝床を探しているのか。夕暮れ前の門内広場を幾つかの人影があてどもなく彷徨っていたが、やがて路地や廃屋、枯れた地下水路の出入り口へと一人消え、二人消えていき、いまは数えるほどにしか残っていない。

 

 機銃が備え付けられた城塞都市の強固な防壁とは言え、夜陰に乗じて人喰いラプトルやら変異獣《ミュータント》の群れが門外の居住区域を襲ってくることもあれば、時に大規模な襲撃には重機銃の掃射でも対応しきれずに警備兵を突破して門内に怪物の群れ(ホード)が雪崩れ込んでくることもある。それでなくとも巨大鼠や変異したモールラット、大型昆虫などの狂暴な地棲生物が穴を掘ったり、はたまた枯れた下水道から市街地へと紛れ込んで、路傍で雑魚寝していた哀れな浮浪者が餌食となることも珍しくない。

 

 みすぼらしい風体をした流れ者の一団が、路傍を重い足取りで進んでいた。広場から商業地区へと向かう街路脇の大きなレンガ造りの建物の前を通りかかった際、高い壁の向こう側から愉快そうな笑い声が響いてきた。明るい光が洩れてくる鉄格子の窓からは、蝋燭や薪に贅沢な電灯までが入り混じった輝きが洩れてくる。

 薪が燃やされている暖かな室内ではオニオンと醤油ソースを絡めた鹿肉ステーキが振舞われており、ついでワインや果実汁が配られ、林檎とクリームチーズの巨大なパイがテーブルの真ん中で切り分けられていた。驚くほど肥満した商人が乾杯の音頭を取ってワイングラスを掲げ、まだ熱い鉄板の上に料理人が腕を振るうと、香辛料やソースを振りかけた肉の芳ばしい香りが道路まで漂ってきて、娘の後ろを遅れまいと歩いていた幼子が保護者の服の裾を離して思わず足を止めてしまった。

 

 親子だろうか。或いは少し年が離れた姉と下の子かも知れない。まだ年端もいかぬ子らの手を引きながら前を歩いていた若い娘が、立ち尽くした後ろの子に気づいて逸れてはならないと厳しい声で叱りつけた。都市における貧富の差は、屋根や壁を備えた寝床の有無の違いであり、それはその儘に命の価値の軽重に繋がっている。怪物だけではなく人攫いもいれば、使役される役獣にも小さな人の子には危うい獰猛な獣もいる。忙しなくすれ違った馬車の轍から小さく泥が跳ねて幼子の服を汚した。日も暮れかかった時分《じぶん》からなんとか寝床を工面しなければならない宿無しの身には、もう一刻たりとも無駄にできる時間などなかった。

 

 梨とヨーグルトのよく冷えたムースを金のスプーンで味わっていたキャラバン主の子供たちは窓の外で阿呆のように口を半開きにしていた同年代の子供に気づくと、無邪気に。或いは残酷に首を傾げてみせた。宿無しの身には縁遠い会食の風景を食い入るように見つめていた放浪者の幼子が、厳しい声で叱りつけられてふたたび足を動かし始める。高級なホテルの門前には腕の立つ重武装の警備たちが張り付いていて、あまり長く足を止めていれば、流れ者にとっては愉快ならざる事態を招くかもしれない。

 

 仲間の人影はすでに雑踏に消えてしまっている。家路を急ぐ行商人や庶民に混じって、他の放浪者たちは先に行ってしまった。瞬く星明りの下、子供の手を足早に引きながら、若い娘も急ぎ足で黄昏の町の小路へと消えていった。

 

 

 門内広場に面する宿泊施設は、一概に高級志向とも限らない。贅を尽くした高級ホテルが聳える一方で、身軽な旅人向けの質素な木賃宿も佇んでいる。

 旧世界の建築物を内装に到るまで再利用した高級ホテルは、古代の美麗な装飾に旧文明最盛期の建築が入り混じったポストモダンの建築物。ガーゴイルの彫像に見下ろされながら入り口を潜れば、アラス織に倣った絢爛なタペストリーの内装で裕福な旅人や地元の富裕層を魅了していた。対照的に質素な木賃宿は、崩れかけた廃屋を現在も入手できる木材や鍍金されたトタン板(アイアンプレート)で補強したあばら家だが貧しい巡礼や行商、放浪者などが身を寄せる場所であり、暖炉には旅の疲れを癒すための温かな火が揺らめいている。

 

 さて僻地の居留地から態々、自由都市を訪れた二人組。金はあるけど無駄遣いできない立場のスタンフィールド氏は、片割れであるマギーお勧めホテルへと泊まることになった。外見は余計な装飾の殆んどない、冷え冷えとしたコンクリートの豆腐ビルのロビーで金を払い、部屋へと案内されると「汚い部屋だなぁ」開口一番、思わず愚痴を零したのも無理はなかった。それなりの大枚叩いて一番いい部屋を頼んだ筈が、案内されたのはコンクリ打ちっぱなしの殺風景な建物最奥の一室であった。

 

「一番いい部屋ですよ、少なくともこのホテルではね」都市の案内人兼護衛として雇い入れた顔見知りのマギーちゃんは、ずけずけとそう主張した。

 此処までの同行中で言う事、やる事、ほぼ全てに適切な理由や動機が存在していたマギーのことだ。大抵の事情はきちんと説明してくださるだろうと、スタンフィールド氏も恨みがましい目を向けつつも宿を変えるとは言いださなかった。

 

「右手をご覧ください。こちらコンクリの壁でございます」

 都市の案内人を兼ねてるマギーは、古い時代の落書きが残る薄汚れたコンクリ壁の前で、親切にも僻地住まいのスタンフィールド氏にご丁寧に教えてくださった。

「おぉー……オラたちの村でも見たことあるべぇ」

「脆くなったところは本物のセメントで補強されております」コンコンとセメントを叩きながら、マギーは説明を続けてくれた。

「窓には鉄格子。扉は鉄製。蝶番は5つ。とても頑丈で御座います」

「頑丈で重たいねぇ。開け閉めするだけでまだ腰と肩が痛いんだけど……」

 スタンフィールド氏の皮肉っぽい突っ込みにマギーは重々しく頷いてから、両の掌を前に出して宥めるように解説を続けた。

「なので、変異獣が忍び込んできても、宿の他の泊り客がいきなりゾンビになったり、麻薬でイカレになっても、安心安全で熟睡できるで御座いますことよ?」

「言ってることは分かる。物凄く分かるけど……さぁ。ボク、もうちょっとだけいい風景の部屋に泊まりたいなって言った覚えがあるんだけど」

 美人だけど殺し屋みたいな目つきのマギーちゃんが整った相貌を近づけてきてスタンフィールド氏の耳元で囁いた。

「都市を一望できる最上階でソファに身を沈め、リキュールでも呷りながら夜景をを楽しみたいの?」

「素敵じゃない?」

「都市有力者の伝手もなく、護衛もつけずに大金抱えて高級ホテルに宿泊ですか。まことに結構でございます。都市から出たその日の夜には、曠野に身包み剥がれた死体が二つ捨てられてますね」この不用心な子豚ちゃんが!と副音声で聞こえたような気がして、被虐嗜好などない筈なのにスタンフィールド氏はゾクリと背を震わせた。

 

 ホテルの夕食である豆のトマトスープ煮込みは悪い味ではなかった。地場産の若鳥の肉も程よい口触りまで煮込まれていたし、塩胡椒で適度な下味もつけられている。

 玉ねぎや人参も柔らかくて食べやすいよう調理されて、新鮮な味わいを楽しめた。 

 タイムやシナモン、クローブ、ナツメグと言った香辛料も一皿のうちにバランスよく調和している。少なくとも料理人は、シェフと呼ぶに相応しい腕前の持ち主に違いなかった。白パンも、一口でポレシャ産の上小麦と舌が教えてくれた。しかし、これはスタンフィールド氏が期待していたディナーとは、ちょっと違うのだ。

 

「知り合いが自慢するんだよ。一万都市の夜景を眺めながら飲む酒は最高だとさ」夕食をエールで呷りつつ、スタンフィールド氏は愚痴を洩らした。エールも若く豊潤で悪くない。多分に近隣の農村などで醸造されたものに違いない。エールを堪能しつつ、しかし、スタンフィールド氏は、自由都市の巨大な市場に魅力と同時に危険性を嗅ぎ取っていた。

「ポレシャの使節団としてズールを訪れた評議員の誰かですか?」とマギー。

 スタンフィールド氏は少しだけ慎重に頷いた。案内人であるマギーは以前、自由都市《ズール》の商会で働いていた。有力な居留地からの使節団がどのように歓待されるかも、そこで耳に挟んでいたのだろうか?

「エチチなお姉さんを口説いたり、世話してもらったり……」言ったマギーが考え込んだ。「知り合いのお店から、呼びます?」

 男の人の生理現象に理解面でそんなことを提案する案内人のマギーちゃん。

「いいよ。そう言うのじゃないんだよ。求めてないから」単に友人らに対して見栄を張りたいだけのスタンフィールド氏は、いささか鼻白んだ。

「部屋まで案内してくれた娘さん。いたじゃないですか?結構、可愛かった」

「うん、かわいい子だったな」うなずいたスタンフィールド氏にマギーが提案した。

「スタンフィールドさんならOKだそうです」

「……若い女の子がそういう事言っちゃ駄目でしょ?」とスタンフィールド氏。

 なにかを小さく呟いたマギーが、肩を竦めて苦笑を浮かべた。

「一応、伝えてくれと頼まれまして。優しそうでお金持ってる人が相手してくれると、あの娘も助かります」

 友人であるモージズ・ベンソン含め、ポレシャの評議員たちが自由都市からどのような歓待を受けたか調べておいた方がよさそうだ。(女の子を相手側評議員に宛がうだけでポレシャの麦を安く買いたたけるなら、俺だって宛がうだろうよ)脳裏でそう予定表に書き加えつつ、スタンフィールド氏は心労の滲んだため息を漏らした。

 

 比較的に栄えているポレシャ居留地すら住人は四桁に届かないのに、自由都市の人口は五千を越えている。終末《ポストアポカリプス》の世においては巨大都邑と言っても過言ではない。

 しかして、都市とはそれ単独では成立しえない。構築した勢力圏から様々な産物が集積されて成り立っている。言い方を変えれば、近隣から膨大な収奪をしなければ存在できない巨大消費地が都市であった。スタンフィールド氏の認識において、貿易や交易は、ある意味で暴力を用いない戦争でもある。貪欲な胃袋であるズールに対して相対的に小さな居留地となるポレシャ市民としては、強力な自由都市との付き合いには十二分に警戒をしても足りると言う事はないと考えている。以前、商会に勤めていたマギーに対しても、有用さを買いつつ、警戒していた。

 

 マギーの経歴を考えれば、自由都市の密偵の一人であっても不思議はない。或いは、マギーもそれとなくスタンフィールド氏の警戒心を察しているのだろうか。親しげに会話しつつも時折、意図を探るように鋭い視線を隠し切れないところが、元は商会勤めとは言え、まだ若さが残るとスタンフィールド氏には感じられた。

 

 

 

 

 

 

 

 遠い曠野の何処からか。幾重にも重なった不気味な呻き声が響いてくる。隻眼のリリーは背筋を震わせた。田舎道を踏みしめながら周囲を忙しなく見回すが、夜の帳が降りた大地はいつも通りの灌木と岩塊、それから墓標のような廃墟だけが静寂のうちに佇んでいるようにしか見えない。

 

 怪物。変異獣やゾンビ。或いは危険な野生動物や巨大昆虫が潜んでいるとしても、リリーには姿も見えなければ、気配も感じられない。リリーは隻眼で視界が不自由なうえ、地平の太陽はほぼ沈んでいて残照だけが僅かに雲を朱く照らしている。

 

 自身の荒い息遣いだけが響き渡る恐怖に耐えきれず、前方を歩いている人影の松明を見失わないように足を速める。雇われの自由労働者たちが疎らな列を為して防壁沿いを歩いていた。隻眼のリリーはその最後尾を歩いている。獣や怪物に襲われたとして、誰かが気づいてくれるとも助けてくれるとも期待できなかった。

 つい先日も、郊外の農園からの帰路で労働者がなにかに喉笛を噛み切られている。襲ったのがゾンビか、変異獣か、野生動物か。鑑定もせぬうちに火葬してしまった為に犯人は分からないが、ポレシャの防壁のすぐ外に人に害をなす何かが息を潜めているのは確かだった。

 

 降り注ぐ初春の小糠雨もいまだ冬の名残の刺すような冷たさを孕んでいて、疲労困憊の体から熱を奪い取ろうとする。幾らかの小麦と引き換えに手に入れた古いシーツ。防水ニスを塗った外套代わりのそれを胸元に引き寄せると、一日の労働に疲れの残った足に鞭打って、リリーは前方に揺れる松明の灯りを追いかけた。

 

 時折、僅かばかりに生えた茂みや背の低い叢《くさむら》から微かに揺れ動くような物音が発するものの、身じろぎするリリーの眼前に飛び出してきたのは野鼠のように小さな灰色のげっ歯類で、危険な怪物の姿も気配も見当たらなかった。気づいてないだけかも知れないが、ホッと安堵の息を漏らしつつ、一日の労働に疲れた鈍い足取りをそれでも緩めずに居留地の入り口へと足を急がせる。

 

 やがて小さな松明の灯りが等間隔に並べられた『街外れ』の出入り口が見えてきた。

 バリケード入り口は閂で厳重に閉じられていたが、リリーの姿をみとめた門番たちが二人掛かりで開けてくれた。怪物の気配に怯えていても、野球のバットのように太い木材を組んだ木製バリケードに一旦入り込んでしまえば、やはり安堵の念に満たされる。

 

 槍や火縄銃、或いはクロスボウや拳銃を携えた番人たちは、例え古びた旧式であっても二、三匹の変異獣やゾンビくらいなら対処できる程度の武装はしていて、闇の中でも火の焚かれた出入り口へと辿り着けば心強い事この上なかった。

 

 顔見知りの女番人が滑り込んできたリリーに声を掛けてくる。

「リリーか、随分と遅いな」高い声には不用心を咎める響きが込められていた。

「郊外で果実摘みの仕事に有りつけたんだけどね。思ってたより大分きつかったよ」

 ははぁ、と木製ヘルメットを被った番人が頷いた。「さては、リーゲン婆さんのところか?」

「あの家はけち臭いからな。払いは渋い癖に精一杯こき使おうとする」火縄銃を携えた中年男が鼻を鳴らすと、番人たちはやや陰気に笑い声を響かせた。

 

 ポレシャのすぐ外にも、居留地の防壁にへばりつくように幾つかの街区に人々が暮らしている。主な街区は三つ。防壁を出てすぐの場所に広がるのが『門前』。そこから延びる道の『通り』、或いは『中町』と呼ばれる地区は門前と曠野を結んでいる。そして一番外側で曠野に面する『町外れ』。特に大きなこれら三つの街区は、物資や食糧を居留地に依存しつつ、バリケードに守られて渡り人(オーキー)や自由労働者、難民などが日々の生活を営んでいた。

 

 番人の役を務めているのも『町外れ』に暮らす渡り人(オーキー)や近隣の零細農民、小さな居留地からの自由労働者らで、同じ街区に暮らすリリーとはおおよそ顔見知りだ。一応は保安官や民兵の庇護を受けつつも、各街区のバリケードの番人や夜警など区域ごとの住人に割り当てられた当番は、寒さの残る季節には体に厳しい役割だった。それでも他の住人から幾ばくかの物資や食糧が供出されたり、僅かばかりだが居留地から賃金が補助されてもいるので、自前で武装を整えた番人たちは危険な不寝番を務めている。

 

 陰気に笑ったバリケードの番人たちが「もうこれ以上、いないか?」そうリリーに尋ねてくる。

「他の連中は、コテージに泊まるってさ」リリーの言に頷いて番人たちが見張りに戻った。

 コテージと言っても、曠野にぽつぽつと点在する廃墟でも頑丈な廃屋や建物を補修して、鉄や分厚い木製の格子窓や頑丈な扉をあつらえたものだ。内部には槍やこん棒が置かれていれば煙突の傍には緊急用の狼煙も備えてあって、郊外の畑や農園から居留地まで夜間を移動するのが危ういと見た時、寝泊まりできるようになっている。元来はポレシャの市民や居住者、旅人までが利用するものであり、かなりの堅牢さを誇っていた。

 

 隻眼のリリーがバリケードに入り込んで程なく、外に設置された松明が燃え尽きると、曠野の景色に夜の帳が舞い降りた。

 小糠雨だけがぽつぽつと降り注ぐ薄闇の曠野を険しい目つきで睨みつけながら「リリーはギリギリだったな」と木製ヘルメットの番人が鼻で笑った。

「この後に近づいてきた人影は、声掛けして応えなかったら撃っちまおう」寒さに震える若い番人が、焚火に薪を放り込みながら吐き捨てた。

 

「……火に当たっていい?」とリリー。

「暖まっていけ。暖まっていけよ。寒さが残ると辛いからな」番人の一人がうなずくと、リリーは斜め屋根の下で燃え盛る焚火の傍へと座り込んだ。しっかりした屋根は、小糠雨を遮ってくれた。

 

 路地の狭間に作ったリリーの塒は、僅かな木材と布、それに少しの段ボールに紙きれを張り巡らせた天幕で、雨足が弱くてもすぐに雨漏りし始める。度々、火を貸してくれる近所のマギーも留守にしており、暖を取る薪も値上がりしてなにかと不自由しているので、ここで身体を暖めておけるのはリリーには有り難かった。

「……生き返る」ふっ、ぅっと小さく何度も息を吐いたリリーに、年嵩の木製ヘルメットが火の上の金網で湯気を立ててるポットを取り上げた。

「白湯も飲むか」特別に親切な性質なのか。或いは、隻眼への哀れみだろうか。木製ヘルメットは暖かい飲み物を振舞ってくれた。

 お湯に僅かばかりの塩と砂糖、そして柑橘類の果汁などを加えた白湯だ。僅かなとろみのある暖かい液体をブリキのカップへと入れてくれる。寒い季節、冷え切った身体には有り難い。礼を言って受け取ると、リリーは暖かい白湯を口に含んだ。腹の底から暖まってくる。

 

 ポケットから煙草の吸いさしを取り出したリリーは、ほぐして取り出した草をパイプに詰めて吸いだした。パイプを吸ううちに、怪物の遠吠えに怯えた気持ちがようやくにほぐれてくる。怪物の気配を感じた夜は、誰かが傍にいるのが有り難かった。無防備な寝床に一人寝てると、孤独と寒さで気が狂いそうになる夜もあった。

 静寂の闇に包まれた寝床でリリーが眠るには、どうしても煙草の助けが必要だった。人によってはそれが酒や薬物、或いは異性や同性の肌であることもあるのだろう。

 

 今になって身体に震えがきた。恐怖か、或いは寒さか。怪物の息吹を間近に感じながら、闇の中を歩き続けるのは、隻眼の娘にはしたたか堪えた。

 リリーは杖を携えているが、樫の杖とちっぽけなナイフでは到底、怪物に太刀打ちできない。曠野には熊や狼もいる。元から恐ろしい野生動物が変異して鉛玉でも容易く倒せない怪物へと到ることもあれば、巨大蟻を貪り喰らうような巨獣の噂も耳にしている。防壁沿いの道から離れずに歩哨が見張っていたとしても尚、曠野に生きる者はいつ死んでも不思議がない。

 

 震えてるリリーを見かねた訳でもあるまいが、若い番人が火に薪を注ぎ足してると、傍らの椅子に座ってクロスボウを構えていた女が低い笑い声を上げた。

「年が明けてから怪物を見かけないな。全然、襲ってこない」

「ついこの間、エストラダのおっさんが食われたばかりだろ」リリーの背後での誰かの呟きに、木製ヘルメットが肩を竦めた。

「あいつは酔っぱらってばかりだったからな」 

 

「蟻どもが怪物を食ってくれたんじゃないか。ここ半月以上、影も見ない」とクロスボウの女番人。立哨してる番人が「蟻、か」呟くと、バリケードを見回して露骨に不安そうな表情を浮かべた。

 昨年の暮れ、巨大蟻の襲撃に食い破られた数カ所は、間に合わせの修繕をしただけで放置されてる。本格的な修繕をするには資材が足りないが、他の地区のバリケードや家屋、倉庫などの修繕に建材の需要はひっ迫している。修繕に必要な木材が廻って来るのは、二、三年先になるかも知れない。曠野の怪物どもがそれまで弱体化したバリケードを放っていてくれるだろうか。

 

 

「蟻と言えば、オーガンの話、聞いたか?」火の傍に腰掛けていた老番人が口を開いた。オーガンとは辺土の居留地で、規模としてはポレシャに次ぐ町として知られている。

「オーガンになにかあったのか?」

「行商人から聞いた話だが、居留地丸ごと蟻に喰い潰されたそうだぜ」近場の町の末路を耳に挟んだリリーは、ぶるっと身を震わせた。曠野に暮らす以上、怪物の脅威は他人事ではない。それでも何も口も挟まず、ただ口を半開きにして煙草の煙を堪能している。

「うちはよく持ち堪えたよ」また誰かが呟いた。

「保安官たちが良くやってくれたからな」

「だけど、蟻の大半道連れとは言えよ……死んじまっただろ」

「保安官いなくなってよ。これからどうなるのかな」やや不安そうに言葉が飛び交っている。

「跡を継いだのは、ええと……」曖昧な呟きに木製ヘルメットの番人が口を挟んだ。

「エヴァンス副保安官だ。キャシディ・エヴァンス副保安官」

 

「……大丈夫なのかね?彼女は」まだ若い副保安官にそんな不安を向けている。

「結構、やるって話だぜ。マギーが言うには、危険な賞金首を二人も仕留めたとか」

 木製ヘルメットの言に、バリケードの傍らにいる立哨がホッとうなずいた。

「それなら……」

「俺が聞いた話は、ちっと違うな」焚火の向こう側から誰かが口を挟んできた。

 うん、と木製ヘルメットが首を向けたのは、炎の傍で干し肉をナイフで削っている中年男だった。

「賞金首仕留めたのはチェスター中尉だって話だ」ナイフの男がそう言葉を続けた。 

「中尉はずっと撃ち合ってたが、エヴァンス副保安官は、横をうろちょろしてただけだと」その言葉が広がると、微かなざわめきが番人たちの中に生じた。彼らの顔には、幾らかの不安と猜疑が交錯していた。

「碌に戦わないし、足手纏いなんで、チェスター中尉は激怒したってな」淡々と呟いたナイフの男の落ち着いた態度が、却って噂の真実味を増した。幾人かは真に受けたか、番人たちのざわめきに、そりゃ、まずいな。などと不安そうな囁きが混ざった。

「……マギーから聞いた話とかなり違うな」木製ヘルメットの呟きにナイフの男は気楽そうな調子で告げる。

「マギーはエヴァンスん手下みたいなもんだからな。結構、吹いてるんじゃないのか?」

 隻眼のリリーは一言も話さなかったが、もし仮にナイフの男が扇動なり、噂を流布するつもりだったなら、この一言は失敗だったろう。ナイフの男の言葉に不快そうに瞳を細めたのは一人だけではなかった。若い番人がむっとしたようにナイフの男に向き直った。

「おい、マギーは蟻んこの時にうちの女房助けてくれた。バカでかい戦士蟻を斧で仕留めてな」

「実際に腕が立つぜ。以前、ゾンビが寄ってきた時にあっという間に四匹仕留めた」

 複数に露骨に怒気を孕んで言い返され、ナイフの男は鼻白んだように黙り込んだ。それから、取り繕うようにやや慌てて言葉を付け加える。

「そうか。ああ、まあ、こっちの勘違いかもな」ごにょごにょと小さく呟いてから、干し肉を齧り始めた。

「……誰あれ?知らん顔だけど」隻眼のリリーが隣に座った女番人に尋ねると、その娘は思い出そうとしたのか。眉間に皺を寄せた。

「ああ、ええっと。門前の地区の夜番だってさ。町外れが一番、危ないから応援に来たとか」リリーは頷くと、じっとナイフの男を見つめた。

 少し不機嫌そうに、そして何処か落ち着かない様子で干し肉を齧っている。慣れた調子で噂を囀っていたのに、言い返されて慌てるのが妙に違和感を感じさせた。

 腹が空いたな、と考えてるリリーの頭越しに番人たちの会話が飛び交っていた。

「結構、話が食い違うもんだな」

「立場によっては、見えるものも変わってくるんだろうよ」

 そんなものかな、とその時のリリーはそう思っただけだった。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。