コンクリートの壁と床に守られての眠りは、終末《ポストアポカリプス》の世で最高の贅沢である。マギーはそう信じて疑わない。もっとも、雇い主は堅牢なだけが取り柄の宿泊施設をお気に召さなかったようだ。
マギーが朝起きたら、スタンフィールド氏の姿が見えなかった。
(誘拐か?……まさか)
宿泊中の顧客が怪物に殺されたこともなければ、誘拐されたこともない。鉄壁を豪語するホテルのセキュリティを信用し過ぎただろうか。
鉄格子の窓から、早朝の薄明が差し込んできている。疲れもあって深く寝込んでいたマギーは、不覚、と舌打ちしながらスタンフィールド氏の寝床に手を入れると、まだ微かに暖かかった。
「いなくなったのは三十分以内。さて……」しかし、寝台の傍には、銀貨がぎっしり詰まった袋も置いてあった。手早く調べるも、中身が減っているようにも見えない。袋の中身が銀貨とは知らなかったか。とすれば、誘拐犯が取引相手であったプロイス商会の手の者か、関係者である筋は消える。
室内を見回せば、枕もとのサイドテーブルにメモ用紙が一枚。手に取ったマギーは眉を顰めた。
『市内見物に行ってきます。昼食までには帰る』スタンフィールド氏のサインと直筆の似顔絵が掛かれている。
「マジか……あの人」小さく毒づいて、マギーはメモを握りつぶした。見れば農夫の変装用装束も消えている上、ホテル発行の驢馬の預け証も置いてある。
金目のものを持っていかなかったのはいい判断だが、交易で繁栄する大都市となれば、強盗や誘拐を生業とする裏稼業の者たちも百人はくだらない。辺土から取引にやってきた商人や豪農が盗賊団に誘拐されて身代金を取られたり、取引用に持ち込んだ金や物資を奪われるような事件も侭あるのだ。
街中には盗賊団の監視の目が張り巡らされてるとしても、都市に入ってから目立つような金の使い方はしていない。そこはマギーも留意していた。仮に誰かしら盗賊の手先が商会を見張っていてめぼしい獲物をチェックしていたとしても、小さな取引を行う飛び込み客なんて大勢いる。それも大丈夫。
それに勿論、スタンフィールド氏はいい大人である。むしろ、頭は切れる方でもある。目立つような真似はしない筈だ……多分。どうにも行動を読み切れない依頼者に対して、マギーは一抹の不安を抱きつつもため息を漏らした。
マギーの心配をよそに、スタンフィールド氏はホテルに面した門内広場をのんびりした足取りで呑気に散策していた。
「いい朝だね」見知らぬ屋台で気さくにそう挨拶を送って、薄いエールを購入すると、面白そうな露店や屋台を順番に覗き込んで冷やかしていった。
都市の正門入ってすぐの広場は、常に他所からの来訪者たちで溢れ返っている。家畜を引き連れた遊牧民、女を引き連れて宝石を見せびらかす酔った鉱夫の一団、銃や鎧を売り込む鍛冶職人に交渉する放浪者。行商人は声を張り上げ、巡礼の親子連れが神殿や教会の庭に跪いて祈っている。近隣の農村から作物を売りに来た農民が馬に林檎を食われて、牧者と怒鳴りあっていた。
自由都市ズールの人口は、ポレシャ居留地の十倍にも及ぶだろうが、しかし、来訪者の数やもたらされる物品の量は十倍では収まるまい。かなり大きな居留地の祭りでも見ないほどの市場の人出も、自由都市にとっては変わらぬ日常なのだろう。かてて、門内広場の市場でさえ、ズールの商業活動にとっては一部でしかない。はやくも喧騒に満ちつつある早朝の青空市場の音と匂い、そして歩き回る振動をしばし瞑目して噛みしめるように味わってみた後、興味深そうに、しかし落ち着いた足取りでスタンフィールド氏は市場を見て回る事にした。
路傍に並んだ露店で手土産を見繕っていたスタンフィールド氏だが、危険そうな物陰や人気の少ない路地には近づかない。あまりきょろきょろと視線を動かすのは、注意力が散漫になっているサインとなり、スリなどに目を付けられやすくなる。時折、立ち止まっては背後を尾けてくるものがいないかも警戒する。農民や旅人でも、用心深い者たちであれば当たり前のように行う所作だそうだ。
案内人マギーは自由都市の治安の悪さについて語ったが、スタンフィールド氏は、まだ判断を保留していた。マギーが仕事を売り込むためにやや大袈裟に言った可能性もある。それでも取りあえずは教授された通りに警戒動作を行っていた。『庶民にとっては精々、財布を失う程度で済むが、不用心な金持ちにとっては命を失う程度には危険』マギーは、そんな風に警告してきた。
屯する
腐敗を防ぐ為、申し訳程度にアルコールを含んだエールを啜りながら、スタンフィールド氏は広場の比較的に開けた場所で小屋掛けされた店舗へ足を向けた。絵葉書も売っているが、そちらよりも地図や写真の方に興味があった。
木造の小さな仮小屋へと足を踏み入れると、初老の店主が見慣れぬよそ者にそれとなく値踏みする視線を向けてきた。スタンフィールド氏は、ポレシャの土地持ち農民が好む簡素なジーンズと格子柄のシャツを着込んでいた。生地はくたびれた安物だが、きちんと洗濯されているのが一目で分かる程には清潔さを保っている。服に馴染んだ染みから高級洗剤は使っていないが、同時に汚れを丁寧に落とそうとした痕跡も見てとれる。少し色褪せしているものの衣服の裾や肘などの解《ほつ》れは丁寧に補修され、生地の薄くなった部分にはパッチワークで布が当てられている。くたびれた靴もゴム底が当てられていて歩きやすい。
つまりは、大金は持っていないが、きちんとした生活を送っている自作農に装っていた。土産物を買うくらいの余裕を持った店にとって望ましい客層、と写真売りは判断したに違いない。初老の店主は客向けの笑顔を浮かべると挨拶してきた。勿論、スタンフィールド氏は自分がそう見られるように意識して服装をコーディネイトしていたのだが。
仮小屋に足を踏み入れたスタンフィールド氏は、壁に並んだ絵葉書や写真を物色すると、よく吟味してから一枚だけ買い込んだ。色褪せた写真でも、平凡な農夫には高い土産物。本当は買い占めたいほど素晴らしい品揃えだが、そこらの農夫が二枚も、三枚も買うのは不自然だ。身なりに相応しい振る舞いを心掛けている。
※※
そうして一時間後。スタンフィールド氏は、初老の土産物屋店主から秘蔵の写真の数々を見せて貰っていた。
「これがレジオン・ホテル。ポストモダン様式だね」
目の前に置かれた写真を傷つけないよう、慎重な手つきでそっと取った。
「アールデコの方が好みだけど……悪くないね」言葉とは裏腹に惚れ惚れと眺めてから、スタンフィールド氏は深々と嘆息する。
「なら、こっちはどうだい?ウィンストン駅さ」
「……いいね。こういう写真はどうやって撮ってくるんだい?」
軽い口調で尋ねたスタンフィールド氏だが、実際のところ、一番知りたかった事でもあった。
「ストーカーたちに頼んで写真を撮ってきてもらうのさ、大抵はね」
「
「あいつらは駄目だね。例えば、綺麗な彫刻が残ってたら、ストーカーはシートを掛けて保存処理をするが、
スタンフィールド氏は老人の言葉に頷きつつ、駅の写真を惚れ惚れと眺めた。
「綺麗だなぁ。たまらん」
「アールデコ様式と言えば、レジの旧市街の中心部には美術館があるって話だよ」
「あーあ、噂は俺も耳にしたよ。建物自体がギリシャの万神殿を模した構造だとか」
「万神殿は、ギリシャじゃなくてローマだな。ストーカー共が言うには、保存状態のいい美術品もまだまだ秘蔵されてるって噂だが……」そこで言い淀む初老の店主。
「……レジ市じゃなぁ。変異獣の巣窟だ。都市の正規軍一個小隊だって半分も進めるか怪しいもんだぜ」スタンフィールド氏の意見に頷くと、初老の店主は切なげにため息を漏らした。
「俺もあと二十年ばかり若ければなあ。死ぬ前に遠くからでいい。一目、目にしたいものだよ」
土産物を抱えてホクホク顔のスタンフィールド氏がホテルへと帰還したのは、正午をかなり過ぎた頃合いだった。
銀貨の袋が視界に入る位置を保ちながら、片腕立てを繰り返していたマギーが起き上がって息を整えた。上半身はシャツ一枚で汗だく。床には水たまりが出来ていた。
「お早いお帰りで」多少の皮肉っぽさを込めてスタンフィールド氏を迎え入れる。
「商業会館に出掛けて、木材と小麦の先物と現物の相場を調べようかとも思いましたが……」そうぼやいてるマギーは、一度も部屋から出なかったらしい。
「別行動でも良かったんだけどね?」ベッド脇に椅子を置いて座りながらスタンフィールド氏が告げると、マギーは銀貨の袋を視線で示した。
「これ、持ち歩く訳にもいかないでしょう」
「ホテルに預けるのは?」
考え込んだマギーだが、横に首を振るうと理由を説明する。
「……商会や大人数ならね。二人連れのよそ者。有力者の伝手もない。報復する力もないのに大金預けてホテルスタッフが悪心を起こしたら一巻の終わりです」
「そこまで治安悪いかな?」スタンフィールド氏には、自由都市の治安がそこまで悪いとは感じられなかった。それともマギーが安全基準を高めに設定しているのか。いささかの困惑を隠しきれずにそう呟いている。
スタンフィールド氏とて過去、単身や少人数で遠出した際は身軽にしていたし、貴重な品物を運ぶ時は必ず大人数を手配してきた。しかし、ズールは交易都市だ。いや、だからこそと言う事もあるのか。
「恐らく、滅多にはないと思いますが、その滅多が恐いので」肩を竦めたマギーは、コップの水を口元に運んだ。一口、口に含んで舌先で味わうと飲み込み、数秒の経過を待ってコップの残りを飲んだことにスタンフィールド氏はようやく気づいた。
(この娘……一々毒見してるのかな)
「偏執的な用心深さだな。マギーちゃん」思わず口走ったスタンフィールド氏は不用意だったかもしれない。マギーの瞳にやや不愉快そうな色が走った。
「護衛としては心強いよ。ただ、毒見……ズールに入ってからずっと警戒してたのか?」
僅かに沈黙したマギーだが、スタンフィールド氏の問いかける視線にため息を漏らした。
「習慣です……賞金稼ぎは派手に撃ち合うだけが仕事じゃない。詐欺師や窃盗犯、時には政治犯なんかも追いかける事もありますから。地元に逃げ込んだ相手を探す時、例えば、飯屋に入ったら相手の身内や親しい友人がいるかも知れない」
賞金稼ぎは嫌われやすい職業とは、スタンフィールド氏も耳にしている。
或いは、標的に親しい人物に毒を仕込まれることさえあるかも知れない。少なくとも、マギーには愉快な思い出ではないようだ。髪の毛をかき上げながら、不機嫌そうに吐き捨てる。
それにしても尋常ならざる用心深さだった。名をはせた賞金稼ぎとは、誰もがこんな人種か。とスタンフィールド氏は、ある意味で感心しつつ少しだけ哀れんだ。
(……猜疑心の塊みたいな女だな。それだけ人を疑うと出来ることも少なくなるだろうに。自分に懐いた少女を熱心に世話してるのは代償行為かな?)
いずれにせよ、マギーの前半生が相当に過酷とはスタンフィールド氏も察した。
針鼠みたいな警戒心は、普通に生きてて身に付くものではない。同時に、マギーが自由都市の密偵という線も薄い、と判断している。
戦闘技術や用心深さは、マギーが人生を掛けて積み上げてきたもので、密度も執念も常人の及ぶところではないが、それは他の分野の欠落も意味している。生存術や闘争には長けているものの、人の懐に飛び込むにはマギーは不器用に過ぎた。
そのマギーが、自分と同等以上だと警告した先日の賞金首たち。スタンフィールド氏はため息を漏らした。それなりの訓練を重ねた筈の民兵さえ返り討ちに合う訳だ。これの同類が十五人など、相手にしたら命が幾つあっても足りない。尋常の生を過ごす農民や市民では多少、人数や装備の差があっても苦戦は免れない訳だろうさと嘆息する。
考え込んでいるスタンフィールド氏に、シャワー室のコインを入れながらマギーが語り掛けた。
「もう午後です。どうにも今日のうちに帰還するとはいきそうもありませんね」
「商会連合での調べものは、また次に来た時でいいさ。どうせ、また近いうちに来ることになる」肩を竦めながら、スタンフィールド氏は笑いかけた。
「もう一つの要件だけ、今日中に片付けておこう」
「了解しました」頷いたマギーがシャツとハーフパンツを脱いだ。
マギーがシャワーを浴び始める。弾痕や巨大な切り傷の刻まれた筋肉質の背中に、自らの尾を喰らう蛇の入れ墨が入ってるのにスタンフィールド氏は気が付いた。
(ウロボロスか……いい趣味をしてる)
それ以上は童貞、かつ紳士として礼儀正しく背中を向けると、スタンフィールド氏は懐から絵葉書を取り出して楽しそうに眺める。伝説的な美しさで知られたハドソン駅が描かれてた。画像の鮮明さからすると、絵葉書ではなく生写真かも知れない。
「お散歩が楽しかったようでなによりです」背中からマギーの声が掛けられた。
「言われた通り、平凡な農夫に変装してますよ?」言ったスタンフィールド氏が「警戒し過ぎな気もするけどね」と付け加える。
「都市有力者に知り合いもおらず、田舎から出て来たばかりだけどお金はあります。護衛もおらず、隙だらけです」頭を洗いながら、マギーが淡々と言い返した。
「美女が裸に札束を張り付けて、スラム街を練り歩くようなもので御座いますことよ?」
「護衛ね。君は、あのスネイクバイトだろう?
さっき入った土産物屋の爺さんさえ、その名前を知ってたぜ」とスタンフィールド氏。
「この場合の護衛とは、然るべき武装と人数を揃え、盗賊団の襲撃を撃退できる組織された一団です」ある意味、称賛の言葉を掛けられたマギーだが、即座に斬って捨てた。
「……本当にそこまで治安が悪いのかな」やや懐疑的なスタンフィールド氏のぼやき声にマギーは数瞬、沈黙してから素直に告げた。
「此方の人数と予算の兼ね合いで最も安全と考えられる場所を選んでます。
分かりません。もしかしたら、此処までしなくても大丈夫かもしれません」
アールヌーヴォーの優美な鉄道駅内装の生写真を楽しみながら、スタンフィールド氏が、ふむ、と頷いた。友人のベンソンは、さぞ悔しがるに違いない。いや、涎を垂らして欲しがるかも。
「ただ、より安全と言うマージンを多めにとって案内しています。もしお望みなら……」マギーの言葉にスタンフィールド氏は首を横に振った。
「いや、今のままの方針でいい。君が最善を尽くしているのは理解している。
俺の言葉は忘れてくれ」別に方針を間違えた訳ではないのでスタンフィールド氏は謝罪はしなかったが、意見は取り下げた。
「分かりました」とマギー。それで安全に関する議論は片付いた。
シャワーから出たマギーがタオルで身体を拭きつつ、スタンフィールド氏の背に対して、ついでとばかりに付け加えた。
「ああ、それと一つ。どうでもいい事かも知れませんが。
実際のところ、スネイクバイトと言うのはチーム名です。名乗っていた頃は数名の仲間がいました。なので、評判程の戦闘力を私に期待しないでください」
※※
ホテル『ステンノ』は、自由都市ズールで最も高い建築物として知られていた。正確には、尖塔の高層階がホテルとして営業しており、近隣に並ぶものない華やかさと豪奢さは街の象徴でもあった。
尖塔は密輸同盟の所有であり、彼らの活動拠点としても機能している。高層階に位置するホテル『ステンノ』は、富裕層や要人たちが利用する豪華な宿泊施設として名を馳せていた。『ステンノ』に泊まることは一種のステータスであり、滞在自体が地位を示す証でもあった。
ホテルのエントランスは白亜の大理石で覆われ、シャンデリアが煌めくロビーには、各地から集められた美術品が並び、訪れる者を圧倒した。スタッフは一流のサービスを提供し、滞在する客人のあらゆる要望に応えた。だが、その裏には密輸同盟の影がちらつき、ホテルの華やかさの裏には常に緊張感が漂っていた。
何時の時も、自由都市ズールの夜景を見下ろす最高級のフロアから、密かに交渉を行う人々の姿が消えることはない。ホテル『ステンノ』の華やかな表面とは対照的に、高層の密室では都市内の権益を争い、様々な策略が張り巡らされている。
室内には紫煙が漂っていた。甘い香りが漂う中、裸の男女たちが獣のように性の享楽に耽っていた。浅ましい光景を見下ろす、ひと際高い位置に設置された椅子が玉座のように存在感を放っていた。
玉座に座っている主催者に下着姿の女が歩み寄った。傍らに屈みこむと耳元にそっと唇を近づける。
「マギーがズールに戻ったそうです」
玉座の人物が、ふっ、と鼻を鳴らした。
「……確か、オーの部下の一人だったな」
女は微笑みながら、ちろ、と舌を伸ばした。玉座の人物の右目に埋め込まれた蛇目石を舐めながら「いかがしますか?」囁くように尋ねる。
「オーは手強い相手だった。
密輸同盟の幹部にも一目置いてるものは多い。だが、すでに死んでいる」
淡々と告げてから、玉座の人物は手にした杯を傾けた。
「放って置け。英雄だろうが、伝説だろうが、死人にはもう何もできない。
そして、オーがいなければ、奴の部下も所詮は有象無象」
「ですが、メイヤー。マギーは先日、あなたのビジネスを邪魔しました。
グラツィアーノの報告では、部下も一名やられたそうです」
「……グラツィアーノが逃げ帰った例のポレシャ警備隊か」都市有数の実力者である奴隷商メイヤーの問いかけに女は楽しげに答えた。
「あれは、かつてのスネイクバイトの一人。中々に手ごわい相手です」
「スネイクバイト……君とどちらの方が強い?」
女の胸を指でなぞりながら、奴隷商人メイヤーが尋ねかける。
「わたしも、それを知りたいですね」艶冶に微笑んだ女の背中には、鷹を喰らう蛇の入れ墨が蠢いていた。