黄昏のガンダルヴァ   作:猫弾正

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☆終末こぼれ話 『行商・鑑札・番犬・廃墟』

 ポレシャの防壁内部では、市民と正規の居住者たちが豊かな生活を送っている。高い壁が守る内部区域には、頑丈な家並みと安全な日常が広がり、外界の危険とほぼ無縁の暮らしが営まれている。一方、門前では居住権を持つ者と古くからの移民が混在している。中町と呼ばれる区域では、出稼ぎに来た労働者たちが大半を占め、夢や希望を抱きながら、一日一日を懸命に働いている。バリケードの内側に小さな空き地に天幕やあばら家が立ち並び、人々の活力に満ちた息遣いが感じられる場所だった。町外れに目を向ければ、大半が他所からやってきたばかりの移民で構成されている。住人たちは危険な曠野と隣接し、日々を油断せずに生き抜いている。

 

 防壁内部と門前町、中町、そして町外れ。此の四区域がポレシャ居留地に含まれている。住人たちは名簿に登録され、多かれ少なかれ居留地に労働力を提供し、税を払っている。これ以外の場所は廃墟であり、そこに暮らす者も全て廃墟生活者として扱われる。とは言え、纏まった財産を持つ者たちは、常に例外である。

 

 マギーとニナは、寄る辺もない渡り人(オーキー)である。二人でポレシャ居留地の町はずれに暮らしている。古びた建物が崩れ、壁だけ残された細い路地が二人の塒だった。文明崩壊後の世では特に珍しくもない、典型的な貧乏人の住処だった。

 

 二人は暮らしやすいように工夫して、張り巡らせた紐の上にニスやペンキを塗った新聞やビニールで屋根を作り、段ボールを床に敷くことで地面の固さと冷たさを和らげていた。あとは新聞とビニールで作った粗末な天幕の中で毛布に包まれば、夜の寒さを凌ぐことも出来たし、雨風と日差しもある程度は遮ってくれる小さな塒は中々に暮らしやすかった。町外れだけでも、もっといい暮らしをしてる者が幾人もいたが、二人ともそれほど野心的でもなかったので、多少の不満は抱きつつも、現状におおよそ満足して日々を送っていた。

 

 穴掘りなどの日雇い人夫に野良仕事などして、日に3ポンドの麦兌換紙幣の日当で口を糊している。時折は、廃墟漁り(スカベンジャー)の真似事も行って、古い本やら食器を居留地の雑貨屋に売りに行くこともある。麦兌換紙幣3ポンドは上質の小麦3ポンドの価値なので、雑穀や燕麦が混ざった大麦粥やライ麦のパンなど安価な主食を購うには充分だった。

 

 ポレシャはそれなりに大きな居留地だが、それでも仕事の数は限られている。ある日、日雇い仕事に有りつけなかったマギーは、一日のんびり過ごすと決めて、ニナと一緒に寝転びながらだらだらと過ごしていた。貧しいけれど、紙とペンとサイコロくらいは持ってるし、人類史数千年に渡って娯楽文化は蓄積されている。

 チェスの板に見つけたロボットやフィギュアなどを乗せ、ダイスを振って二人で戦争ゲームに興じてると、夕暮れも近づいた時刻に家の入口の方でかすかな音が聞こえた。音に気付いたニナが右掌を前に出し、頷いたマギーがバットに手を伸ばした。路地裏入り口には、高さ90㎝の分厚い木製扉が設えてある。野犬にも飛び越されてしまう程度の備えだが、二、三匹の巨大蟻やら巨大鼠であれば多少の時間稼ぎ程度は期待できた。

 

 二人が素早く立ち上がって向き直れば、影の差した入り口の傍らに見知らぬ人影が佇んでいる。わだかまる闇から滲み出るように姿を現した小柄な人物は、マギーとニナの姿を見ると一瞬、躊躇いを見せてから訴えかけてきた。

「お肉あります。お金……野菜と交換でもいいです」担いだ棒に結んだ鼠を示しながら、猫みたいな帽子を深く被った少女がおずおずと話し掛けてきた。擦り切れたカーテンみたいな一枚布を身体に巻いて、紐に結ばれているのは野鼠であった。酷い服装から、恐らくは廃墟生活者だと二人は見て取った。

 

 町外れには時々、行商がやってくる。遠来から荷を運んでくる行商人ではない。簡単な日用品や食べ物などを売り込む棒手振《ぼてふり》たちで、家々の前を通りながら声を掛けて廻っている。大抵、近隣の廃墟生活者で手押し車に乗せて町の周囲の廃墟で拾い集めた廃品などを売る者もいれば、曠野で採取した根菜類や野生の玉ねぎ、キノコなどを籠に入れて売り込みに来るものもいた。

 

 こんな貧乏人たちが暮らすところで行商とは異な事じゃ、とニナは疑問に抱いたが、行商人にも鑑札があったり、同業者間で縄張りがあるのかも知れない。少女は見るからに商売に不慣れであったし、特に伝手もない新参が良い縄張りを持てないのは、どの稼業でも当たり前のことで、だから町外れも外れのこんな場所で商売してるのだろうと合点する。いずれにせよ『町外れ』街区の外で暮らす廃墟生活者たちは、居留地の名簿にも載っておらず、しかし、実体を取り巻く影のように存在しており、どうやら今日は、肉屋がやって来たらしい。

 

 廃墟生活者が居留地で金を稼ぐための手段として、棒手振り商人になることは、よくある選択肢であった。大抵は曠野で採れる茸や根菜、或いは野生のベリーや小動物など、ありふれた食材を持って、居留地の外縁や下町を巡りながら売り歩く。少し手の込んだ生活必需品や手作りの工芸品を手掛けるものもいたし、廃墟で拾える品を売り捌く者らもいた。日々の生活の糧を得るために懸命に働き、その中で少しずつ居留地の生活に馴染んでいく廃墟生活者もいる。

 

「マギー、マギー。肉を売りに来たよ?」ニナの後ろのマギーを見て肉売りの少女は、ビクリと後退りしかけた。

「……見せて」とマギーが手を伸ばすと「うん」頷いた少女がおずおずと野鼠を差し出した。

 鼠の紐を握ったマギーは、慎重に重さを測り、匂いを嗅いでから用心深そうに尋ねた。重さに誤魔化しが無いか、商品が新鮮か確かめるのは、肉屋に限らず、文明後退後の世界でごく普通の慣習であった。

 市民だって農場主だって行うし、やらない金持ちはその役割の為に人を雇っている。一見の取引でのちょっとした誤魔化しは、売り手買い手問わずに何処でも蔓延っていて、勿論、正直な商人も大勢いるのだが、顧客からの信用を得られるまでは努力と時間を積み重ねなければならない。

「腐ってはないみたいだね……何時獲ったの?」

「さっき、罠に掛かったばかり」と肉売りの少女。

頷いたマギーが納得したのだろう。「幾ら?」と値を尋ねる。

「ポ、ポレシャ通貨で10ペンス」やや上擦った声で肉売りの少女が答えた。

 自由労働者の日当は、およそ三ポンド。一ポンドが百ペンス。丁度、豆と野菜の煮込みを作っていたところで、肉があればいいなと考えていたために値段を聞けば、手が届かない金額でもない。

「100gないな」しかし、マギーは鼻で笑った。

 居留地通貨一ポンドが、上質な小麦450gと交換できる。肉売りの少女は、鼠肉が上質な小麦の半分の価値があると主張しているらしい。

「は、8ペンス」指摘された少女が怯んで値下げしてきた。

「5ペンス」とマギー。半値である。

「……6ペンスで」泣きそうな声で肉屋の少女が呟いた。

「5ペンス」マギーはどうでも良さそうに繰り返した。実際に無いなら無いでもいいのだ。肉売りの少女が沈思した。

「二つ買う。10ペンス。こっちが選ぶ。いやなら、他に」

 肉売りの少女が頷いた。二匹の野鼠を受け取って貨幣を手渡すと、肉売りの少女は、擦り切れたポシェットに大事そうに入れて足早に去っていった。

 

「他の家の方が売れるんじゃないかな」ニナが呟いた。

「まあ、初心者行商人だったんだろうね」マギーが肩を竦める。町外れに暮らしているのは主に貧しい渡り人(オーキー)や自由労働者たちであるが、マギーとニナはさらに外れに暮らしていた。鼠肉にグラム10ペンス出す者はいないだろう。

 次第に薄暗くなる中、肉を切り刻んで軽く焼いてから、塩胡椒と共に煮込みにぶち込むと、二人は再びゲームに熱中し始めて、肉売りの事はすぐに忘れてしまった。

 

 もう来ないと思っていた肉売りが再び訪れてきたのは、一週間後の夕刻だった。

「お、お肉……買いませんか?」

 また入り口に佇んで、おずおずと売り込みを掛けてくる。マギーとニナは顔を見合わせたが前回、購入した野鼠は腐ってもおらず、石を詰めて重さを誤魔化すなんて真似もされてなかった。なので今度は一匹6ペンスで二匹購入すれば、肉売りの小娘は卑屈なくらいにペコペコ頭を下げながら礼を言い、それからも時々、十日に一度くらいの頻度で顔を出した。

 

 野鼠は、南米や東南アジア、インド、欧州でも古くから食材として用いられてきた。地下街や下水道のない居留地では、水気を好むドブネズミはあまり見かけられない一方で、畑を荒らす野鼠には農民たちも頭を悩ませている。かつて貧困層が多く好んでいた鼠肉も、しかし、文明崩壊後の世界においては貴重なタンパク質として広く食されていた。もう少し裕福な層は、鶏や豚を好むだろうし、金に困った連中は、巨大鼠の肉を口にする。

 野鼠であればどこでも売れるだろうに、肉売りの少女が真っ先に二人のところに売りに来るのは、同じくらいの年齢のニナがいて、まだ話しやすいだからだろうか。

 

 相も変わらず怯えたような様子を見せる肉売りの少女からは、立場の弱さと孤独が露骨に見て取れて、ニナは不快ではないにしろ、なんとはなしに苦い思いを覚えた。

 少女が売り物を見せる手つきもぎこちなく、価格交渉もおどおどしている。それでも必死に生計を立てようとしている姿は、痛々しくもあった。だからと言って、ニナに何が言える立場でもない。孤独な廃墟生活者の子供なんてちょっと性質の悪い同類やら浮浪者やらに金や持ち物を奪われても、誰も守ってくれない。小動物じみた警戒心や立ち振る舞いは、生きるために身に着けたもので咎める方が不躾だろう。大体、ニナやマギーにしてからが、それほどの余裕がある訳でもない。

 

 ただ、対価として、金の他に少しだけ食べ物を分けても悪いこともあるまい。何度目かの訪問で料理の匂いに腹を鳴らしている少女に「お椀持ってる?」とマギーが問いかけた。頷いた肉売りの少女に「お椀、出して」促がしてから、煮込み料理と大麦の粥を分け与える。「余計だった?」と問われた肉売りの少女は、首をぶんぶんと横に振った。二人は深入りしなかったが、公正だと思う範囲で肉売りと取引を続けた。

 

 

 ※※

 

 町外れに暮らす渡り人(オーキー)やら出稼ぎ労働者やらが幾ら貧しいと言っても、数年ごとに服を買ったり、繕ったり出来る程度にはゆとりのある暮らしを営んでいる。ありあわせの服を縫ったり、詰めたりして子供の服も工夫しつつ、読み書きを教えるし、本も読ませれば、ギターやハーモニカなど楽器を弾いて楽しい時間を過ごす者もいる。一方で襤褸布を身体に纏った廃墟生活者は、一目でそれと区別がついた。生活を極限まで切り詰めて、なお日々の生存に精一杯な廃墟生活者は、時として、数十年も同じ着古しを着込んでる為にゾンビと勘違いされることすらあった。

 

 肉売りの少女は、古びたカーテンみたいな一枚布を紐や糸で結んで服っぽくした代物を纏い、猫みたいな可愛い帽子を被ってる。この帽子は本当にいい代物で、ニナも若干の物欲を刺激されないでもないが、大事にしてるのが見て取れるので敢えて売ってくれとは言わなかった。

「こそこそしやがって!略奪者《レイダー》のスパイじゃねえのか?!」

 なので塒のすぐ近場から甲高い声が響いてきた時に、ニナは天を仰いだ。性悪そうに囃し立てる声の主たちには心当たりがあって、舌打ちを禁じえなかった。

 

 蹲った肉売りの少女を取り囲んで、性悪の犬のように吠え立てているのは居留地の悪餓鬼たちだった。普段から徒党を組んでは路地裏を練り歩いている連中で、見慣れぬよそ者に目を付けたのだろう。肉売りの少女の怯える様子に嗜虐性を刺激されたか、小突いたり、罵声を浴びせる頻度が増えていた。連中とて殺したり、強姦に及ぶほどには悪辣ではない(多分。色餓鬼とかいないよね?)が、肉売りの少女にとって恐ろしい事に変わりはあるまい。

 

 下手に生活に余裕がある為に暇を持て余しているのか。ここら辺の悪餓鬼たちに対して、居留地の大人たちも妙に甘い対応を取ることが多く、ニナもできれば絡みたくはない相手だが顔見知りを放置しておくのも気が引けた。

 

「帽子だけやけに上等だな!盗んだものじゃねえのか?そいつを寄越しな!」威嚇してるクソ餓鬼に向かってニナは小石を投げた。指先二つ分くらいの石くれだが当たれば痛い。背中に直撃すると少年は悲鳴を上げて飛び上がった。

「誰だァ!」叫んだ少年少女が辺りを見回した。

「やあ、そこまでにしておけ、いじめっ子軍団」廃屋の二階から声を掛けるニナ。連中が追ってきても逃げ切れるだろう位置だ。

「でたな。猿娘」言われたニナは、揶揄うように猿の鳴き声を上げた。うきぃ。

 身の軽さを活かして、防壁に足だけでぶら下がりつつ「撤退しないと、お前らの父ちゃん、母ちゃんに言いつけます。うきぃ」と脅迫する。

「今日は僭主もいないわよ、一人でやる気?」何時もつるんでるニナの仲間を論ってきた。

「お前の姉ちゃんが人殺しだからって、調子に乗るなよ。俺の兄ちゃんも六人、盗賊を返り討ちにしてるんだからな」少年がニナに向かって荒っぽく叫んだ。

「四人だろ。それにその台詞。多分、兄ちゃんが聞いたら激怒しますよ。お前に。あと、此処で止めたのは今回はお前らの為だぞ」脳裏で冷静に言葉を組み立てながら、ニナが説得に掛かった。

「なんだとぉ?」

「行商人、襲って荷物ダメにすると犯罪だぞ。罰金か、下手すりゃ追放刑だからな。だから、その子に手出しするの止めとけ。特に仕事してる時は……」ニナに追放刑と脅迫された悪餓鬼たちが、流石に顔を見合わせた。

「馬鹿な顔見知り程度の付き合いだけど、追放刑とか哀れだから忠告してやった。まあ、聞かないでも、私は忠告はした」悪餓鬼たちの動きを警戒しつつ、ニナは冷静に警告した。

「うぬぬ」

「本当にうぬぬとか唸る奴、初めて見たわ」とニナ。

「覚えてやがれ。今回は、見逃してやるわ」居留地法に心当たりがあったのか。悪餓鬼たちは悔しげに唸りつつも、あっさりと引き下がった。

 

 悪餓鬼団が去っていくのを確認したニナは、ため息をついてから肉売りの少女に近づいて「大丈夫?」と声をかけた。

「ご、ごめんなさい。ごめんなさい」ぐすぐすと泣きながら、肉売りの少女は震えてずっと謝り続けていた。

 

 放置しておく訳にもいかんやろな、とニナは肉売りの少女が落ち着くまで塒《ねぐら》に招き入れた。

「その也で行商の鑑札持ってるのかって、突っ込まれなくてよかった」ニナは話し掛けたが、ぐすぐすとすすり泣きしている。匙を投げかけたニナだが「ご、ごめんなさい……それと、ありがと」と囁くような礼の言葉が可聴領域に入ったので救われた。

 

 少女も大分、落ち着きを取り戻した。心が強いか、さもなくば、短時間で気持ちを立て直せるか。どちらかでなければ、黄昏の世に生きていくのは難しい。

 時刻は正午を過ぎて夕刻に近かった。すぐに帰宅してきたマギーは、肉売りの少女を見、事情を聞いて難しい表情を浮かべる。見知らぬものを泊めて、金や持ち物を盗まれたら、簡単に生活は困窮してしまう。なにしろ、貧しい渡り人(オーキー)なので、生活に余裕がない。廃墟生活者ほどではないが、諸々の怪我や欠乏が簡単に致命傷へと繋がりやすいのだ。

 

「泊める訳にはいかない……分かるね?」宣告された少女は、予期していたのだろう。落ち着いた様子で頷いた。

「と言っても、もう日が沈んでいる。今から路上やらバリケード外に放り出すのは気が引けます」言いながらマギーが肉売りの少女を案内したのは、旅籠の看板を掛けた廃墟だった。

 元は廃屋を修理した怪しげな建物で、本当に金のない流れ者やら塒に帰り損ねた浮浪者《ホーボー》やらが数枚のコインやら一握りの食べ物だので寝泊まりしている木賃宿であった。路上よりは寒さを凌げて、巨大鼠に齧られないで済むだけマシ程度の安宿だが、夜道に放り出されるよりいいだろう。

「悪餓鬼どもに虐められて……哀れと思うなら」とマギーは宿代を払って、些か胡乱な客層が雑魚寝している大部屋ではなく個室を取った。主人の義侠心に訴え、当然にかなり値切っている。それから治安やら身の回りに関して色々言い含め「あとで食べな」と黒パンをひとつ手渡した。

 

 宿代と食べ物を貰った少女が「……ありがとう」と蚊の鳴くような声で礼を述べた。他人のマギーでも、肉売りの少女に色々とあるのは分かる。「まあ、大人なので。大した負担でもない」鷹揚に頷いたマギーは、木賃宿の隅で飲んだくれてる知り合いたちを見つけた。

 人口が少なく、流動性も低い土地では、近所は大抵顔見知りとなる。

「ひゅー、優しい」揶揄うような口笛混じりの野次に舌打ちして、マギーは開き直った。

「そうだよ、知らなかったの?死んだら天国いけると思うわ」

 

 

 月明りの下、マギーは塒《ねぐら》で空を見上げていた。ニナが懐いた猫のように抱き着いている。何をするでもなく二人で寝転んでいると、夜の静寂を破るように、どこか遠くから犬の遠吠えが響いてきた。近所の渡り人(オーキー)が飼っている犬だろうか。それとも、近隣の廃墟で生活している者が飼っている番犬かもしれない。暗闇に潜む怪物や野生動物の侵入をいち早く察知するに、犬は依然として人類の最良の友人の地位を保っている。ただ、野犬という可能性も頭をよぎったので、マギーはバットを手元に引き寄せた。或いは狼やコヨーテ、環境に適応した狼の変異種という可能性も捨てきれない。異様に進化した動植物には、中途半端な銃などものともしない怪物もいて、人類はもはや万物の霊長ではないのだと思い知らされる。

 

 棲息領域は曠野から遠く離れた彼方であるので、それらの怪物が出没することは稀であったが、そういった竜の如き怪物どもや、強力な略奪者《レイダー》徒党が気まぐれを起こすだけで、今の生活が一瞬で崩れ去ることに違いはなかった。

 早々、起きないが、全く無視できるほどに低い確率でもない。毎年のようにどこかの村や農場が廃墟と化している。正体不明の怪物に滅ぼされたと思しき、住人の消えた居留地も幾つかは名を上げられる。

 

 そんな事を考えたからだろうか、遠吠えが続く中、鳴き声もどこか不気味に響いてきてマギーは一瞬、寒気を覚えた。夜の闇が深まるにつれて、獣共の叫びは不安を掻き立てる。かと言って、一介の渡り人(オーキー)になにが出来よう。

 精々、風に乗って聞こえてくる足音や物音が悪いものでなければいいと祈るだけだ。

 

 風の音に聞き入りながらマギーが陰に籠ってると、肩のところでニナが蠢いた。

「マギー、なにを考えてる?」

 今は、恐るべき脅威よりも、身近な問題について考えるべきだな、と皮肉っぽくほほ笑んだマギーは、そっと口を開いた。

「……昔々、生活の苦しい隣人に援助した老人がいました。老人を金持ちだと思い込んだ隣人は、強盗して家探ししましたが、大した財産は持ってなかったので、老人を殺してあしざまに罵りました。どっとはらい」

「わぁ、邪悪な昔話……反応に困っちゃうよ」ニナはマギーの肩に抱き着きながら「助けるなってこと?」と尋ねてきた。

「いや、助けてもいいと思うよ」どうでも良さそうに呟いて、マギーは言葉を重ねた。

「善行には報いがあると坊主たちは説法するけど、個人的に正しいと思う。善かれ悪しかれ応報は巡ってくる。人を助ける時は用心深く、助けるに値するか注意深く観察しないと」

「時々、ひどく悲観論者《ペシミスト》になるね。マギー」ニナは囁きながら、マギーの肩にそっと軽く噛みついた。

「マギーは、食事も分け与えたし、宿にも泊まらせた。なんだかんだ言って善良なところ、好き」ニナは、言葉を重ねてくる。

「善良かな?他の行商より安く、誤魔化しの無い肉を買えるから助けたのに」

「それでいいんだと思うよ。それは善良だよ」マギーの善性に関して断言しながら、ニナは抱き着いた。ニナは理想を押し付けようとしている、とマギーは気づいたが、不快には感じなかったので、苦笑を浮かべて否定はしなかった。

 

 ※※

 

 大部分の廃墟生活者は明日をも知れない暮らしをしている。町外れの住人は現金収入が乏しいが、廃墟生活者は現金とは縁がない。彼らの日常は、食料や水の確保に大きく時間を取られ、天候や怪物、或いは他の生存者に常に脅かされている。汚染された水や動植物から、運が良ければ食べられそうな部分を選んで煮詰めて作ったのが御馳走である。居留地の住人に比べれば、平均寿命もかなり短い。

 

 にも拘らず、大抵の廃墟生活者にとって居留地の暮らしは魅力に乏しいようだ。実際、居留地に移り住んだとしても、よほどの金が無ければ町外れに落ち着くしかない。慣れた廃墟に比べても幾らか安全だとしても税や労役、労働力の提供を求められる。元々は、辛い廃墟生活を励ます意味合いもあった廃墟生活者こそ真の自由民であるとの価値観は、今や貧しい廃墟生活者たちの誇りとなっている。大半の廃墟生活者は、絶え間ない危険や不足に囲まれているが、それでも法の束縛からは自由だった。色々と自由気儘な廃墟暮らしに慣れた身からすれば、渡り人(オーキー)や浮浪者《ホーボー》の暮らしでさえ窮屈に感じられるのだろうか。

 

 とは言え、自由の代償として絶え間なく危険に晒される廃墟生活に飽きて、労働と束縛を引き換えに安定した暮らしに惹かれるものもいる。しかし、居留地での暮らしは廃墟生活者にとって必ずしも容易なものではなかった。廃墟生活者には居留地の法や掟に無知であったり、元から孤立して半ば正気を失ってる者もいた。移住したはいいものの犯罪を犯したり、誤解されて、共同体から追放される者も少なくなかった。

 

 いずれにしても廃墟生活者が居留地でやっていくには本来、多少の問答に応えられる程度の常識と文字の読み書きが求められる。さらにまともな衣服を一式と計算能力もあった方がいい。肉売りの少女が居留地での暮らしに憧れているのか。それとも居留地では多少の金を稼ぐに留めて、廃墟での生活を安定させたいのかはニナには分からない。

 

 居留地における正規の商業許可証と違って、町外れで行商をする為だけの鑑札は、取得が難しくもなければ、費用も高額ではない。それは本来、新参者が居留地の常識に最低限、合わせられるかを確かめるだけのものだからだ。しかし、廃墟からやってきたばかりの世慣れせぬ少女にとっては、少しだけ敷居が高く感じられたかも知れない。

 

 かつては廃墟で暮らしていたものとして、ニナは廃墟生活者がいかなものか知っている。彼らの一部は驚くほどに無知で、廃墟へ踏み込んで【仕事を紹介してくれる】奴隷商や人狩りへの悪感情で契約などに対して非常に強い警戒心を抱いている。大抵の廃墟生活者の子供にとって、廃墟での日々は生きるために必要最低限のことしか教えてくれなかった。食料や水を求めて彷徨い、怪物や他の生存者と争いながら、命をつなぐ毎日。そんな中で得られるのも、生き延びるための本能と、わずかな経験だけ。

 

「鑑札が必要なんだよ、ここでは」そう言われて取引を断られたり、値切られたりする風景は、廃墟生活者の棒手振たちにとって日常茶飯事だった。

 市場や現場で働く廃墟生活者の行商や人夫たちは、一見、何の不安もなく仕事をしているように見えるが、背後にはどれほどの努力と忍耐が隠されているのだろうか。両親と姉から教育を受け、枯れない遺跡の【住宅街】で本を漁る事の出来たニナは、自分が幸運な例外の一人だと知っている。居留地で必要とされる常識や技術、そしてほんの少しの礼金を用意することは、肉売りの少女にとってはかなり厳しい試練となるだろう。

 

 数か月を観察し、この娘なら大丈夫だろう。見込んだニナが、肉売りの少女に鑑札の取得を勧めたのは全くの善意からだった。

 懸命に生きてる人間に力を貸して悪いことはないと、その時は考えたのだ。

「文字は書ける?」「費用が掛かるけど大丈夫?」そう確認してから、町外れの代表のところへと連れて行き、鑑札を取得した肉売りの少女は、リルと名前の刻まれた金属プレートを嬉しそうに見せに来て、そして町外れに姿を見せなくなった。

 

 数日後に、いきなり自警団の詰め所に呼ばれたニナとマギーの前の机に、鑑札が置かれていた。少し離れた机では、痩せた副保安官が見知らぬ少年を詰問している。

「リル。可愛い名前だな。だがお前は、13歳の少女には見えないな」

「買ったんだよ。他所の土地に行くから、纏まった金で鑑札を買ってくれとよ」吐き捨てるように言う少年。或いは少女かも知れない。リルより大分、年嵩な薄汚れた顔は、ふてくされたような感情をむき出しにしていたが、僅かに脅えも見て取れた。

「この猫の帽子もだな」

「おい!それも買ったんだよ」少年は叫んでいたが、汗が吹き出ていた。

「……あの娘の、哀れな少女の、たった一つの持ち物なのに?」

 

 見慣れぬ棒手振の少年が得意面で鑑札を見せた相手は、リルの顧客の一人だったらしい。

「文字が読めないと言うのは、哀れだな」自警団員の一人が哀れとも思ってない口調で尋問を受けてる少年を嘲った。

「今、犬を手配してる。まだ匂いが……」「見つかるのか?」「廃墟は広いが、人が暮らしてるところは大体、決まって……」「ゾンビに警戒しろよ」

 保安官助手が、犬たちに猫の帽子の臭いを嗅がせていた。

 

 「なんか現実感が薄い、な」呟いたニナがふらついた。マギーは腕を掴んで座らせた。廃墟生活者の命は、渡り人(オーキー)の命よりも、さらにずっと軽い。

 マギーは黄昏の世界を生き抜いてきた大人で、幾度となく喪失を経験している。そして、リルが姿を見せなくなった時から予期していたので、動揺はしなかった。

 

 ……見つかった。近くの地面に放置されてた。動物に喰われるとでも思ってたんだろう。お前の金づちと被害者の傷跡が一致したぞ。

 自警団やら民兵やらが忙しく往来して、なにやら喋っていたがニナの耳に声は遠かった。

 

 姉が死んで以来、久方ぶりにニナは腰に力が入らなくなった。

「なにこれ……この」意味のない言葉をブツブツと呟いてから、マギーを見上げ「わたしが鑑札を勧めたから?」

「それは違うぞ」横合いから痩せた副保安官が怒ったように吐き捨てた。

 容疑者の少年が、なにやら泣き笑いしつつ、叫んでいたがどうでもいい。

 世界は、厳しい。ニナもこれから、何度も傷つき、裏切られ、喪失するのだろうか。憂慮しつつマギーは、茫然としてるニナを持ち帰った。泣いたり、沈み込んだりするのを慰めるように抱きしめると、晩御飯を作って食べて食べさせた。

 それからニナを抱き枕にして一晩ぐっすりと寝ると、日雇い仕事へと向かった。

 

 そうして何日か経つとニナに生気が戻ってきた。

「もうすこしマシな世界に生きたいよ」そんな風に一度だけニナはぼやいた。

 何者でもない私たちに、その願いは叶わない。とマギーは思った。

 ニナの髪を指先で梳り、それから大型犬がそうして人を慰めるようにニナの額に優しく鼻先を乗せた。そして、だけど、マシな人生を大切な相手と送ることくらいはきっとできるだろうと、祈るように思ったのだった。

 

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