ジョナス少年は憂鬱な気分で天幕から這い出た。尻拭いをさせてしまった父との顔を合わせづらく、どうにも家で過ごす気分になれなかった。居留地育ちであるので、夜を安全に過ごせる場所は把握している。文明崩壊前の中層ビルの屋上には、ゾンビも変異獣も忍び込むことはなく、空を飛ぶ怪物も滅多には見かけなかった。
防壁に寄り添ったビルの屋上に立つと、冷たい風が頬をかすめた。【
ジョナスの眼下には、廃墟と呼ばれる死んだ市街地が広がっている。朽ちた町並みを吹き抜けていく風の音は、彷徨うゾンビたちの咆哮と溶け合って不気味に空気を震わせていた。廃墟の空き家には数多の怪物が潜み、また人間も幾らかは隠れ住んでいる。中心部にはまだ価値ある機械部品が幾らか眠っているらしく時折、命知らずの
旧市街地の中心まで乗り込んで生還した者らは殆んどいないが、無謀な廃墟漁りどもの生き残りが酒場で洩らした譫言《うわごと》によれば、建物の二階ほどもある巨人が闊歩していた姿を目にしたそうだ。いずれにしても世界には人を寄せ付けない領域が数多く存在している。大きな廃墟の中心地には、なにが潜んでいるか分からない。居留地を脅かすほどの怪物がいるとも思えないが、迂闊に触れるべきではないと言うのが、今の議会の方針だった。
ジョナスは朝食代わりにオレンジを口に含んだ。昨晩、家を出しなに父から持っていけと投げ渡された。皮を剥くと、甘酸っぱい香りがふわりと漂った。先祖伝来の果樹園を売ってしまえば、これも気軽には食べられなくなる。
防壁沿いのビル屋上から、ジョナスは鞄から双眼鏡を取り出して、遠く荒野を眺めた。暇な時によく行うジョナスの趣味だ。丘陵の手前、なだらかな平野を進む者たちの姿を見るのがジョナスは好きだった。
隊商や遊牧民、鉱夫団、廃墟荒らしや小規模な隊商、流浪の旅芸人の一団に
曠野において、水は貴重な資源だった。良い井戸は、風車や簡単な機械式ポンプでくみ上げれば、取水量は日に2000リットルほどにも達する。黄金にも匹敵する資産だ。怪しげな古地図を頼りに井戸を掘り当てて一攫千金を目論んでる流れの冒険団もいれば、他所の連中が水源を勝手に使った挙句、所有権を巡って隣人との小競り合いも生じる。勝手に水源に入り込んでキャンプを張る流民の一団は、何処の居留地にとっても悩みの種だ。井戸や湧き水を掘り当てた探検家が隊商宿を開いたものの、知人が次に訪れた時には従業員がそっくり入れ替わっており、前の主人たちが何処に消えたのか誰も知らないなんて不気味なニュースが流れる日もあった。
ほんの時々。そう滅多にある事ではないが、檻の馬車や車両に人を詰め込んだ車列を彼方に見掛けることもある。近隣で一番高い建築物からは、大規模な車列が嫌でも目に入ってくる。人狩りなのか、合法的な奴隷商人なのかは分からない。そんな時は、ただ近寄ってこないでくれとジョナスは祈った。
そうした大規模な奴隷キャラバンも、時折は居留地で水の補給を行う。ポレシャの防壁は生半な賊など寄せ付けないが三、四十人のよく武装した人狩りは、小さな居留地など滅ぼしてしまえるほどの戦力だ。南方では、奴隷商や人狩りの連合軍が都市さえ攻め落として乗っ取ったと伝え聞いている。無論、ポレシャのように高い防壁を備え、百人以上が武装した居留地と事を構えれば、連中だって只では済まない。ポレシャの民兵たちと奴隷商人たちは、互いに警戒しつつ、偶には商品を買ってくれと言う軽口を交わしながら水・食料ともたらされた貨幣・物資を交換している。連ねた檻の向こう側から此方を見る顔、顔、顔。幼い頃は、なぜ態々、奴隷商人との取引に同行させられるのかも分からずに父に反発を覚えたこともある。
ジョナスはため息を漏らすと、双眼鏡を放り出し、屋上に敷いたマットレスに寝っ転がった。高い空を鷲に似た大型鳥類が舞っている。空を飛ぶ変異獣も世にはいると聞くけれど、曠野のここら辺では滅多に見るものでもない。寝転んでうたた寝しても大丈夫なくらいだ。なんなら、ビルの真下の階には、頼りにならない監視員も一応だが詰めているのだから。ジョナス少年は自分が恵まれている事を知っている。それは別にヘルナル家が日に40リットルの飲料水の配給を受けられる市民だからとか、他の居住者たちより快適な家屋に暮らしているからとか、そうした貧富の違いではない。もっと根源的な、自由民か、奴隷かの違いだった。
民兵隊の士官である父、ヘルナル中尉をジョナスは誇りに思っている。人狩りに襲われ、住人が根こそぎ浚われた居留地や廃墟も曠野では珍しくない。人狩り共と対峙する際の父は、常に激しい緊張に晒されていた。歴戦の傭兵たちですら緊張の色を隠せない。厳しい緊張は父の命を削っているようだ。保安官助手をしてる近所のシェリー姉ちゃんには、世には誇りに思えるような父親もいるんだな、などと羨ましげに呟かれた。シェリー姉ちゃんの両親は万事に娘を否定し、罵声を浴びせるかなりの毒親なのだが、友人たちが庇っていた。キャシディとコーデリアがいなかったら死ぬか、両親を殺してならず者になっていたとは本人の談だ。多分、シェリー姉ちゃんはキャシディの為なら命を懸ける。そして恐らく、父にも命を懸けてくれる部下はいるのだ。
警備隊と小規模な人狩りとの間で銃撃戦が起きる時もある。武装構成員が数十人を数えるような大規模集団とは、先代の保安官が打ち破った後に一応の取り決めが交わされており、連中はポレシャ近郊での狩りは行わない。もっとも、この条約も時に破られることがあるが……。しかし、有象無象の人攫いや下っ端の人狩り共は、ある意味で大手の奴隷商よりも厄介な存在で、暴力や掠奪に対する規律もなく、動きは予測できず、時には取り決めを無視してでも目先の欲望を満たそうとする。そして、今は保安官もいない。
ヘルナル家の畑で使っている作男や召使いには、人狩りの犠牲者もいた。近隣の廃墟生活者や独立した農場を襲った人狩り討伐の後、先代保安官は元商品の人々を連れ帰っては度々、父に押し付けていた。居留地にはそうして、元いた居留地が滅びたり、余りに遠来なので行き場もない難民たちが幾人となく暮らしている。
ジョナスの母も、そうして住んでいた居留地を滅ぼされた者の一人だった。ポレシャの警備隊が人狩りの部隊を殲滅した時、青年であった父と出会い、長じて結ばれた。曠野では比較的によくある話だが、結末には運命の残酷さが否応なく絡み合っていた。逆恨みした人狩りに浚われ、母は命と引き換えにジョナスを産み落としたのだ。父が命懸けで救い出したその夜に。微笑みを浮かべて並んでいる父と母の写真を見る度に、しかし、ジョナスは胸を締め付ける疑念が抑えきれない程に湧き上がってくる。写真の中で優しげに微笑む父に、いつか問いかけずにはいられないだろうか。僕は、人狩りの子供ではないのですか?と。
※※※
居留地の片隅の塒で怠惰に二度寝を決めながら、ニナは毛布に包まると欠伸をした。喉が渇いたのでコップにピッチャーの水を注ぎ、砂糖と塩を少しだけ混ぜて一気飲みする。「みず……うまァ」単なる水に酔ったように寝床に倒れ込むと、満足げにため息を漏らした。
居留地暮らしはいい。怪物に脅かされないのも勿論のこと、飲料水に不自由しないのは全く素晴らしい生活だわいと、ニナは満足げにため息をついた。
廃墟に暮らしていた頃には、渇水期が訪れる度、水入れから減っていく一目盛りに怯えたものだ。体格や年齢にも拠るが、成人ひとりが生きるに、日に2.5から3リットルの水が必要とされている。子供がその半分だとしても1.5リットルは欲しいが、水が補充できない状況では、乾燥した気候で目減りしないように蓋をして、喉の渇きが耐えがたくなったら一口、また一口と、舐めるように口に含んで水分を摂取する。変異獣が水源にうろついてるなら数日耐えるだけで凌げるが、家の周囲がゾンビに囲まれた状況など日に1リットル弱で耐え忍んだ時期もあった。曠野に点在する小村落や廃墟に隠れ暮らす者にとっても、綺麗な飲み水はやはり貴重に違いないとニナは推測している。水汲みキャラバンが数日ごとに湖と居留地を往来している。厳重に武装したキャラバンを水汲みに派遣できるのは、大きめの居留地のみだろう。
廃墟を徘徊するゾンビの群れは、唐突に縄張りを変更する。千を越えるような巨大な
幸い、ゾンビの群れは半月ほどでいなくなった。自分の知恵や努力。選択に拠らず巨大な怪物の群れの気まぐれみたいな行動で命を拾い、ニナは池に水を汲みに出た。ニナと同じか、それ以上の努力や工夫をして、なお、あっさり死んだ廃墟生活者もきっといる。誰も住んでないと思っていた近所から、断末魔が響いてきてびっくりした夜もあった。命冥加であったのは、ギリギリ残っていたニナの運だった。今すぐ水を口に含みたい衝動を抑え込み、ぎょろぎょろと目を動かしながら、水を汲んで、怪物を警戒しつつ、家に戻って煮沸する。薪を無駄遣いするべきではなかったが浄水器に入れて一滴、一滴落ちてくる水を凝視しながら、水の入った鍋を火に掛ける。
池の水は、変異獣や野生動物も利用している。糞や寄生虫が入り込んでるのも恐いので浄水装置を通した上で煮沸してから飲まなければならない。狂気に駆られた奇妙な鼻歌をふんふ~んと繰り返しながら、湯冷ましが出来上がるまで異常な自制心で耐え忍んで、ようやっと口に含んだ時には生き返った心地がしたものだ。
同居人のマギーに渇水体験を話して聞かせたら、首を振って自分だったら発狂していたと言われた。まあ、マギーは餓えや渇きに弱そうではあるが、代わりに骨が折れても戦い続けるなんて真似は、ニナには絶対に無理だ。人には向き不向きがある。
ニナにしても、もう一度同じ状況を耐えられる自信はない。生き延びたのは生存を最優先とする、狂気じみた執念の賜物。廃墟にいた頃のニナに比較すれば、今のニナは精神的に少し……かなり惰弱になっている。
塒の水差しには、エールと水が並々と入っていた。エールと言ってもアルコール度は1%から2%。水の腐敗を遅らせる程度の成分だが、醸造は共同体の存続を大きく左右する重要な技術だ。ニナの懐の財布には、水券とエール券も入っていた。貯水タンクを采配する顔役のところに持っていけば、飲料水と替えてくれる配給券で数十リットル分はある。通貨として用いる事も出来るが、そんな勿体ない事は誰もしない。
先日までニナは入院していた。怪我が治ったニナは退院すると、居留地の片隅にある塒へと帰宅した。財産の大半が持ち運べる程度の量に抑えられているが、幾らかは木箱やら椅子やらの家具もねぐらに置いてある。留守の間、特に盗まれた家具もないようだ。時折、見て貰えるように近所の顔馴染みには頼んでいたが、怠惰な娘さんなのであまり当てにはしてなかった。ニナは毛布に包まりながら、すんすんと匂いを嗅いで「マギーの匂いがする」マギーはいつもニナを気遣ってくれる。入院している間に仕事に出てしまったけれど、予定よりも帰還が延びていた。心配である。
曠野は危険な土地で、常に予期できない敵や自然の脅威が潜んでいる。マギーも腕は立つけど、こと曠野の旅に関しては、どれだけ熟練した旅人でも絶対はない。
「……マギー、寂しいよぅ」不安にさいなまれたニナが、名前を呼びながら毛布に抱き着いてると瓦礫を踏む音がした。背の低い木製扉を設置した路地の入口。顔見知りのキャシディ副保安官が気まずい顔を浮かべていた。
「まあ、わたしも保安官を思って眠れない夜を過ごした時、親に見られたこともある」慰めてるつもりなのか。副保安官が、少し照れ臭そうに明かした。
「あっ、うん」なんか違うのではないかなと思つつ、ニナも頷いてみた。
「改めて退院おめでとう」とキャシディ副保安官。
「おかげさまで。お見舞いの品もありがとう」とニナ。
鷹揚に頷いてから、キャシディは塒を見回した。
「それで、マギーはまだ帰ってないかな」
「遅れています」そう告げると、キャシディは困った様子で頬を撫でた。
どうやらキャシディは、なんらかの形でマギーを使うつもりのようだ。
キャシディ自身はそれほど無茶を押し付ける人物ではないが、副保安官の頼みとなると一介の風来坊としては断り辛い。昨今の居留地には、どうにもきな臭さが感じられた。キャシディとの個人的な繋がりが吉凶のどちらに転がるかは、ニナにも予測できなかった。
(……うーん、ここは覚悟の決めどころかな?)ニナは小さな唇を舐めた。
関わらないようにする選択肢も一応、残されていた。しかし、幾らかの脅えや恐れを感じつつも、ニナはキャシディへの肩入れを決めていた。個人的な友誼やチェスター優勢への不安、なによりもキャシディの勝利への確信がニナを動かした。
「はい!はい!副保安官」急に手を上げたニナに奇異なものを見る目を向けるキャシディ。
「なんだね?急に」
「ニナちゃんも、何かの役に立てるかも知れませんよ」
「ニナちゃんがなんの役に立つの?」副保安官が首を傾げる。疑わし気だ。
「これでも廃墟と下町にはそこそこ友だちも多いです。
かのホームズだって、ストリートチルドレンを耳に使ってたし」
未成年とは言え、危険な巨大廃墟【住宅街】を生き抜いてきたニナである。役に立つよ、との言葉に対して、しかし、キャシディは露骨に渋い表情を浮かべている。
ニナが予期した反応とは違う。とは言え、交渉事では当たり前。キャシディの反応を観察しつつ、ニナは言葉を紡いでみた。
「信用できない?キャシディのことを好きだし、後はチェスター中尉に負けられたら困るし」もっともらしく聞こえるニナの言葉は本音だが、キャシディは渋面で首を振った。
「いや、使っていいのかな、と。危険に巻き込むかもしれない。
チェスターとの対決もこの先、どれくらいに深刻になるか私も予想が付かない」
「……今さらぁ」
副保安官。マギーを無理に巻き込んだ癖、ニナを巻き込むには躊躇いを覚えるようだ。年齢の問題か、それともキャシディに懐いているからか。しかし、ニナからすれば、慕ってるマギーが巻き込まれた時点で、もはや大した違いはなかった。
「使わないと負けますよ」危うい一言かも知れないが、ニナは、言葉を選ばなかった。不快であろう一言に、キャシディはなぜかふっと微笑んだ。
あと戻り出来ない分水嶺に立っていると理解しつつ、ニナは敢えて踏み込んだ。
「私じゃなくても、誰かを耳や口にした方がいい」最近まで保安官助手だった若きキャシディは、まだ居留地に耳や目を組織していない。いても少数だろう。薄くほほ笑んだキャシディは、続けろ、とでも言いたげに掌を上にして促がした。
「多分、チェスター中尉の方が先んじてますね。向こうにも、口になって動いてる不特定多数の居住者がいるみたいだし」互いに百も承知の現状を前置きしてから、ニナは指摘した。
「でも、現状。キャシディはそれが誰なのか、何人いるのかも分かってない」ニナがじっと見つめると、キャシディは何かを言いかけて口を閉じた。
防壁からか、遠く銃声が響いてきた。日常茶飯事に二人とも騒ぎはしなかった。居留地は盗賊やゾンビ、変異獣など脅威が潜む曠野に浮かぶ小さな島だ。
「今のわたしにとっては、渡りに船の提案だけど……」副保安官にも思い当たる節があるのだろう。キャシディは俯き加減に髪を掻いた。
細く薄暗い路地裏にしばし、沈黙が立ち込めた。木の箱に座ったキャシディは薄い青の瞳でニナを見つめ、口を開いた。
「……怒ってるね、ニナ」同じ高さの目線で呟いたキャシディの問いかけを、ニナは誤魔化さなかった。
「マギーを巻き込んだ」ニナは端的に告げた。
「……巻き込みたくはなかったよ」少しだけ気まずげに、キャシディは視線を逸らした。
「負けられたら困る」ニナの言葉は、掠れていた。
「賢い子だなぁ」呑気に笑うキャシディだが、幾度かボードゲームで遊んだニナは知ってる。笑顔の裏で脳はぶんぶんと唸りを上げて高速回転している筈だ。
「もう、マギーも、キャシディの為に働いてると見られてる。あとは、シエルさんとも時々つるんでたし。他人……チェスター陣営から見ると、完全にキャシディの手下扱いかな」ニナの言葉を聞いても、キャシディは躊躇を見せていた。
「……チェスターとの確執。どの程度、噂が広がっているのかな」重々しくため息を吐いている。
「今さら距離取って中立とか言っても許されない感じ」とニナは言葉を重ねた。
実際にはチェスター中尉の性格が分からないので、巻き込まれたくないと距離を取れば、意外と見逃してくれるかも知れないが。
「ふむん」とキャシディが頷いていた。ニナの言い分に納得したのか、或いは、今さら巻き込んだことに忸怩たる想いを抱いているのか。渋い表情を浮かべてる。
「キャシディ負けたら最悪、夜逃げする羽目に陥る。即破滅って訳でもないし、チェスターの性格にも拠るけど。
ニナにとっては、キャシディに負けて貰ったら困るのだ。
「……子供は余り巻き込みたくなかったけど……いや、巻き込んだのは私か」苦々しく呟いてから、キャシディはカウボーイハットを被り直して手を指し伸ばした。
「じゃあ、これから私たちは同盟だ。よろしくニナ」
「よろしく、キャシディ」ニナはキャシディと握手した。