黄昏のガンダルヴァ   作:猫弾正

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02_32 見張り塔

 食料生産に余裕のない曠野の地だが、意外にも大抵の居留地において猫は益獣として、一定の保護を受けていた。小さな鼠たちは、廃材や木片で支えたスクラップの住まいに暮らす生存者にとって油断できない害獣だ。食料や衣類を食い荒らし、気密とは言い難い段ボール小屋や天幕住まいに洒落にならない被害をもたらしかねない。猫に糞尿などの害がないとは言わないが、鼠やある種の小動物の与える害に比較すればまだ許容範囲に収まっていた。

 

 ポレシャ居留地においても俗に言うウルタール法が施行されており、基本的には猫に対する謂れのない殺傷が禁じられていた。故に柔らかい日差しの下、放し飼いされた猫たちは、今日も居住区の主を気取って悠然と街路を歩き回っている。とは言え、居住区のバリケードのすぐ外には、切羽詰まった廃墟民も暮らしているし、獰猛な巨大蟻やらゲッコーやらも彷徨っている。時折は腹ペコの浮浪者や、貧しい移民によって煮込み料理の具にされたり、油断して巨大鼠に咥えられた猫が闇へと連れ去られる事件も後を絶たない。

 

 足萎えのジゼルが、かすかな風に髪を揺らしながら、路傍で鼠の頭蓋骨を噛み砕いている野良猫をぼんやりと見つめていた。その猫は、ぶにゃぶにゃと低い鳴き声をあげ、獲物に対して満足げな様子を見せている。

 

 数匹の野良猫が集まって鼠を追いかけ廻している狩りの光景は、居住区の近くでよく見られる日常でもあった。しなやかに身を翻し、素早く鼠を仕留める猫たちの姿は美しかったが、しかし、刹那の瞬間、壁に空いた穴から影のように大型犬ほどもある巨大鼠が飛び出すや、近くにいたブチの猫を鋭い牙で咥えると、あっという間に暗い路地へと引きずり込んだ。絶句している娘たちの眼前、猫たちは一瞬にして蜘蛛の子を散らすように四方へと逃げ去り、暗い路地の奥からはブチ猫と思われる凄まじい断末魔の叫び声が響き渡った。

 

 下手をすれば、人の子さえ喰われかねない。鼠に不覚を取ったのか、或いは行き倒れたかは分からないが、居住区を一歩出ると、時々は人の死体も転がっている。そんな時は持ち物を漁ってみるも大抵、碌なものを持ってない。そうした猛獣がバリケードを挟んで居住区のすぐ隣に息衝いている。それも終末世界の日常だった。

 

「さっさと離れよう」廃屋を離れながら、言ったリリーの片目は変異獣に奪われているし、ジゼルの片足は猪に喰われたと聞いていた。野犬よりはマシな相手とは言え、巨大鼠に襲われて撃退できる自信はリリーにはなかった。

「肉を食いてぇ」歩きながらジゼルがぽつりと呟いた。

「今、言う事かね?」隻眼のリリーは呆れたように鼻を鳴らした。

 ジゼルの言葉が鼠に向けられたものか、それとも猫に向けられたものかは、リリーには判断がつかなかった。普段から猫好きな隣人たちに世話になっているので、リリーは縁を切られるような真似はしたくなかった。

 ただ、ジゼルのぐうぐうと鳴らしている腹の音を聞いているうち、リリーも溜まらなく空腹感を覚えてきた。

 

「芋でも掘りに……肉か。沼で蛙でも採りに行く?」

「最近、沼にでかいお化けザリガニみたいなのうろついてるし。この間、サッチの奴が喰われた」サッチが作った襤褸小屋には、既に抜け目ない流れ者が住み着いている。

「うちはケーキ食いたいなぁ」呻くようにリリーは宣った。

「ケーキィ?」胡散臭げなジゼル。

「……もうじき誕生日なんだよ」リリーは小さく呟いた。村にいた頃は、年に一度はケーキを喰えた。例えそれが小さなパンケーキの欠片ではあってもだ。しかし、どうにも今年は食べられそうにない。居留地の店を訪れても、小麦は品切れとなっている。

 

「鼠、デカい奴が猫を喰ってたわ」バリケードの出入り口に屯している自警団員にそう告げると、のっぽの渡り人(オーキー)が無言で頷いて、慣れた手つきでクロスボウを引き寄せた。

 対応したのがのっぽのファン・デーレンであることに、リリーは内心がっかりした。ヴェルネル・ファン・デーレンは、大男で何時も腹を空かせている。巨大鼠の住処を知らせたからって、タンパク質のおすそ分けは期待できそうもなかった。

 

「うちも武装があればなぁ」リリーは低く呟いた。弓矢や銃、飛び道具さえあれば、女子供でも獰猛な獣も容易く屠れる。武装があれば、あんな鼠に怯えんと、逆に肉を手に入れられるっちゅうのに。

「いいなあ、それは。いいな」思いがけずも、ジゼルが同調してきた。リリーは目を丸くした後、くしゃりと笑った。

 

「居住権に、でかい安全な建物に部屋もろて」巨大蟻の襲撃でポレシャの麦畑も大きな被害を受けたが、似たような事例は曠野の何処でも起こり得る。腕利きの狩人であれば、何処の居留地でも歓迎されるのだ。二人とも銃の訓練なんて受けた事もなければ、安いクロスボウを扱った経験さえ数えるほどに乏しかった。

 そんな事は百も承知で、二人は市民や狩人のように使いこなす自分を今だけ夢想した。ライフル銃を手に入れたら猪やら鼠、野良犬やらを狩って金に換えたり、鱈腹に肉を喰うのだと夢見がちな法螺を吹いて意気を上げてみた。

「狩人になれるものならな」とジゼル。

「狩人ええなぁ。沢山のワンコ飼って、変異獣を撃ち殺して」夢見るように呟いてるリリーも、聞いてるジゼルも、餌や訓練の事など語らなかった。夢を見なければ、生きていけない時もある。不具の身を押して野良仕事などで食い繋ぎつつ、明日をも知れない暮らしを忘れて、酒に酔うように楽しい物語だけを語ってみる。

 

 人通りの多い居留地中心地へと差し掛かると、ジゼルとリリーはどちらともなく口を閉じた。他人に夢想を聞かれる気恥ずかしさを共有していたし、また冷やかされることを恐れていたが、心はどこか気持ちよく高揚していた。何者にもなれずに死んでいく有象無象だとしも、人生の刹那で夢を見るくらいは許されてもいい筈だ。

 

「ケーキを喰うのだ」そう言って食料品店を訪れたリリーとジゼルだが、小麦は品薄になっていた。蜂蜜は渡り人(オーキー)にとって高い買い物だが、小瓶なら手が届かないでもない。なのに肝心の小麦が足りない。棚から、綺麗さっぱりと小麦粉が消えていた。

 カウンターで尋ねる市民に店主が首を振っているのを見れば、裕福な市民さえ白パンを手に入れることは難しいようだ。そんな中、下層区画に住む労働者や移民の渡り人(オーキー)たちにとって、小麦は殆んど贅沢品に成りつつある。

 

 居留地で発行・流通している紙幣は小麦との兌換紙幣である。本来、1ポレシャ・ポンド紙幣は小麦1ポンドと引き換えることが出来る筈だった。にも拘らず、買える小麦は存在せず、闇で売買される小麦の価格は、一ポンドを大きく上回っている。

 

 かと言って、居留地通貨《ポレシャ・ポンド》の価値が今すぐに暴落する訳ではない。ポレシャは広大な農地を抱えており、毎年、膨大な小麦を収穫していた。ポレシャの農業生産力への信頼が、居留地通貨《ポレシャ・ポンド》の価値を支えている。

 

 しかし、今年。麦畑と備蓄は巨大蟻の襲撃に喰い荒らされ、損傷した馬力脱穀機や失われた駄獣を購う為、破損した風車を修繕する資材を集める為、ポレシャは大量の外貨を必要としていた。ポレシャは外貨を小麦で購っている。そして、居留地通貨《ポレシャ・ポンド》は、近隣の小集落や廃墟の人々、行商人や農場の間などでも、一定の信頼を持つ通貨として流通している。

 

 小麦との引き換えが可能となる次の収穫期の後、仮に労働者たちへの支払いに充てられた紙幣と引き換え出来るだけの小麦が足りなければ、ポレシャ・ポンドの信頼性は大きく損なわれ、通貨価値の下落(インフレーション)が発生する。そうなれば近隣の人々とて、居留地通貨《ポレシャ・ポンド》と小麦の交換を求めて騒ぎ出すだろう。つまり、債務不履行《デフォルト》である。或いは、通貨の切り下げが行われるかも知れない。

 

 流れ者を受け入れてくれる居留地は、そう多くはない。近隣では、ポレシャが一番マシな土地で、他所に流れても食べていけるとは限らなかった。或いは、都市などを目指すべきだろうか。

 

 ジゼルも、リリーも、動物が嵐の訪れを感じ取るように、知性とは別の本能的な嗅覚が居留地に漂う不安と不穏さを肌で感じているが、しかし、二人は決して賢いとは言えないし、知識に長けている訳でもない。胸騒ぎを言語化することが出来ず、リリーは、不安そうにポケットの財布に触れてみた。布切れの財布には、働いて貯めた居留地紙幣が詰まっている。ケーキを作るに充分な筈の紙幣を指で数えてから、しかし、リリーは肩を竦めてほほ笑んだ。

「酒でも飲むか」諦めの早さは、明日をも知れない放浪生活でリリーが身に着けた習い性だったかもしれない。

 

 

 

 ※※

 

 

 吹き抜ける風が、無人の町並みに埃を舞い上げていた。ビルの屋上に吹きすさぶ風に古ぼけたコートが煽られて、ジョナス少年は物陰に身を潜めた。眼下に広がる廃墟には常にゾンビや不気味な大型昆虫、変異した野犬やモールラットが彷徨っている。

 時には十数体ものゾンビや変異獣の小さな群れが区域の一角へと押し寄せて生存者たちと熾烈な戦闘を繰り広げることもあった。廃墟民の武装は貧弱、かつ劣悪で人間が勝利するにしろ、大抵は少なくない犠牲が出る。廃墟民が立て籠った小さなシェルターが食い破られる光景を目にする度、防壁の外が常に危険と隣り合わせの世界だとジョナスは思い知らされる。

 

 

 絶え間なく響いてくる不気味な呻きを聞きながら、冷えた手を擦った。廃墟民からすれば腹立たしいだろうが、防壁内の安全な高所から地獄のような光景を観察している市民がいることをジョナスは知っていた。一方で、眼下の廃墟には怪物から隠れ暮らしている者たちもいる。愉悦を覚えるほどに悪趣味ではないが、防壁内の生活に安堵の念は否定できない。多分、その意味でジョナスは運がいいのだろう。父の気紛れが無かったら、彼方に生まれ落ちていても不思議ではなかったと同時に、幸運が何時まで続くかとも危ぶんでいる。

 

 広大な廃墟を眺めているうちに、風の音に混じって耳の奥で蘇る声があった。

 お前、失敗したんだよ。と幼馴染のメリッサの痛罵は、太腿の痛みと共に今も心を抉るように響いてくるが、ジョナスは記憶を振り払おうとはしなかった。ただ拳を握りしめて、身を震わせている。最初に事情を説明して協力を仰げばよかったんだよ。ジョナスを詰ってくるメリッサの言葉は一々真っ当で、同時に一切の容赦がなかった。

 

「……確かに馬鹿だな」いきなり暴走して、銃を向けやがって馬鹿。そう言った時のメリッサは、今にも泣き出しそうなほど震えていた。ジョナスを撃った後の、幼馴染の目に宿った怒りと失望が、今でも鮮明にジョナスを苛んでいた。すべてが終わってメリッサに斥候のマギー、年上のスタンフィールドがエヴァンス副保安官に事情を説明し、そして家に帰されるまでの間、ジョナスは足元から冷たい血が引いていくような感覚を覚えていた。

 

 選択を間違えたのか。逃亡奴隷の少女ニーメアを守ろうと必死だったのに、結果として誰一人守れずに混乱をもたらした。頭をかち割りたくなるほどの恥辱と後悔が、心の奥底でくすぶり続けている。あの時、メリッサの言うように、最初に冷静に説明して協力を頼んでいれば、果たしてニーメアを助けられただろうか?

 或いは、戦力差から助けられなかったかもしれない。何とも言えない。

「分からない」とジョナスは結論した。そのことがジョナスを今も悩ませている。もし、明確な失敗であれば、それはそれでジョナスも自身の愚かさに納得できたかもしれない。立場としては分かる斥候《マギー》の判断が、余りに非情に聞こえたのもジョナスにとっては事実だった。

 いずれにしても、ニーメアを引き渡す結論は出せなかった。心中の人狩りへの嫌悪と逃亡奴隷を引き渡す事への強烈な忌避感がジョナスを突き動かし、しかし、結果として大きな失敗を犯したようにも思える。メリッサとの信頼関係も、あの瞬間からひび割れてしまった。

 

 人攫いどもを相手にしての一連の出来事が今も頭を離れない。ジョナスはあの瞬間、何かを取り返しのつかない形で失った。他者からの信用だろうか。自分への信頼かも知れないし、未来への自信だったかもしれない。何者かになろうと必死だったが、その願いは虚しく崩れ去っていた。

 

 お咎めなし。エヴァンス副保安官がどう説明したのか。父はなにも言わなかった。その他、斥候のマギーは、肩を竦めて軽蔑したように冷笑を浮かべ、スタンフィールドはすぐに病院に運ばれていった。メリッサとはあれ以来、話していない。

 彼らは、ジョナスの仕出かした不始末を内に秘めて他言しなかった。普通の民兵なら厳罰に処される筈のそれは、父を慮っての事だ。いっそ殴られたり、叱られたりした方がジョナスには楽だっただろう。

 

 何時間も屋上にいるうち、腹が減った。ここ暫くは、あまり食欲がなかった。茹っていた頭も大分、冷静さを取り戻したので、ため息を漏らしたジョナスが屋上から降りると【見張り塔】の番を務めている民兵らがラジオを聞きながら、黙々と食事を取っていた。食卓に並んでいるのは大麦粥やライ麦の黒パン。そして水にエール。肉は見当たらない。より貧しい者は燕麦を食したりするが、それにしても腹を満たすだけの粗末な食事だった。

 

 『……タラとの連絡が途絶して一週間。住人の安否は不明。複数の老人や幼児の射殺体が発見されたことから、恐らくは大規模な人狩りの襲撃にあったものと……』ラジオ放送からは陰鬱なニュースが流されている。略奪者《レイダー》や人狩り(マンハンター)は、常に大きな脅威として存在している。ポレシャ級の防御を持つ居留地でようやく一息つける程度であり、それより小さな集落では、大規模な襲撃に対抗する術もなく、無惨に滅ぼされてしまうことすらあった。曠野地方の大半は荒廃し、秩序の欠片すら残されてない無法地帯も珍しくない。

 

「おう、坊ちゃん。気は済んだか?」番人の一人が、階段を下りてきたジョナスへと声を掛ける。

「坊ちゃんは止め……、いや坊ちゃんか」ジョナスは肩をすくめる。地位を継いでいない今はまだ、ジョナスは何者でもない。

「あまり親父さんを心配させるなよ」年嵩の番人ジョスリン軍曹は薄っすらと笑みを浮かべていた。配属された民兵の大半はヘルナル中尉の部下で、幼い頃からジョナスにとって馴染み深い存在だった。民兵は市民や古参居住者で構成されている。普段であればもう少しましな食事を支給されている筈だ。

 

 【見張り塔】の窓から覗く外の世界は、相変わらず灰色の廃墟が広がっていた。遠くにかすかに見える穀物畑は、文字通りの虫食いでまだら模様を見せつつも、風に薙いでいた。

 窓から食卓へと視線を転じると「次の収穫期を迎えるまで、か」ジョナスは小さく呟いた。次の収穫期がやって来るまで、状況は大きくは動かないだろう。ジョナスもまた、変わらぬ日々の中で、いつか自分が【坊ちゃん】から何者かに変わる日を待っていた。

 

 少年の視線を察したのだろう。新入りのノエミ二等兵が苦笑を返してきた。

「こんなもんしかありませんよ。坊ちゃん。今年いっぱいは粗食でさ」

「蟻に倉庫を食い破られて。色々と修繕するのに金も掛かるってんで。卵もチーズも無し」巨大蟻の襲撃でポレシャの麦畑と備蓄は大きく荒らされた。民兵たちが必死に応戦し、なんとか撃退はしたものの、受けた被害は馬鹿にならない。

「サイレンの設置も遠のくなぁ」居留地への襲撃や異常事態の際、今は設置された鐘を打ち鳴らしている。

「肉が食いてぇ」普段は寡黙なヴァジム兵長がぼそりと呟くと、皆が笑った

「獣でも取って来るか?」

「駄目だ。銃弾も暫くは節約しておかないと」

 ジョナスの席は用意されていたが、黒パンは人数分しかない。番兵らの相伴に預かるのは気が引けて、下の食堂ならなにかあるだろうか。とジョナスは静かにその場を後にした。

 

 

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