居留地《ポレシャ》の守りは強固だが、防壁の外に暮らしている市民がいない訳ではない。特に昔からの農民などは、防壁の外に家屋を保持している一家も少なからずいた。荒野での生活には若干の危険が付き纏っていたが、農地や牧場に隣接するファームハウスは、生業の利便性から言っても手放せるものでは無い。作業場所がすぐ目の前にあるので農作業や家畜の世話が効率的に行えるし、特に季節ごとの収穫期や繁忙期など、外の家屋に泊まり込んで作業することも日常だった。井戸の管理や農具の手入れも頻繁に行う必要があり、早朝から夜遅くまで作業が続くので防壁内の家から遠距離を移動することなく、すぐに作業に取りかかれる環境は大きな利点でもある。
とは言え、防壁の外での生活は怪物や賊の脅威に晒されており、常に備えが必要とされていた。農地やファームハウスの多くは、狩人たちの籠った前哨と背後の防壁に挟まれた比較的、安全な場所に位置しているが、それでも特に夜間は厳重に戸締りを行い、大きな農場は貴重な狩猟用ライフルを携えた不寝番が窓辺から絶えず警戒して、不審な影を察知した際は躊躇わず発砲し、また大群の脅威に晒されたならば防壁まで警告を発する体制が整えられている。何処の土地でもそう変わらぬ話ではあろうが、危険と利便性の間で折り合いを付けながら、ポレシャの農民たちはそうして土地を守り、農業や牧畜を営んでいる。
シエル・ガライは旧家の娘である。その血統にはポレシャ居留地の歴史が刻まれていた。父方は居留地の富農の家系に属し、母方は嫁いできた近隣都市商人の娘で、穀類の取引先として今も繋がりを保っている。おらが村の殿様は言い過ぎにしても、まあサラブレッド、土地の名士と呼んでも過言ではない。一族が所有する防壁外のファームハウスも頑丈な壁に加えて、敷地周囲には遮蔽物や掩体が設置されている。豪邸とは言えないが、強固な造りの二階建てファームハウスは、文明崩壊の時代では多少の金や人脈があっても早々、所持できるものではない。代々を土地に根付いてきた有力市民の娘として、幼い頃から蝶よ花よと育てられてきたガライさんちのシエルちゃんが自らの血統を誇りとするのも無理のない事ではあった。とは言え、その立ち振る舞いは、一部の人々の眼にはいささか驕慢に映っているかも知れない。
そのシエルが幼馴染であるフェリクス・ヴィクスと出会ったのは、六歳の頃であった。互いの両親に連れられて公民館か何処かの催しで顔を合わせるのは、居留地の市民にはよくある交流の始まり方で、それ以降もちょくちょく顔を合わせる機会が多かったのは、父親が友人同士であったからだろう。
当時のフェリクスは大人しく物静かな物腰の少年で、よくいる騒がしい子供たちとは異なり、隅の方で本を読んだり、女の子たちと会話していることが多かった。
きっと思慮深くはあったのだろう。それでも困ってる他の子供を見つけるとそれとなく助け舟を出したり、もっと小さい子に対して面倒見がいいのを見て、いいなと淡い思慕らしき情念を微かに抱いたのをシエルは覚えている。今は、フェリクスの顔を見ただけで吐き気を催すが。
十二、三歳の頃だったと思うが、フェリクスの父が亡くなった。居留地ではよくある死に方で変異獣に襲われたか。ゾンビに噛まれたか。農地で働いていて、逃げ遅れた誰かを庇って致命傷を受けたのは、いかにもそれらしい死に方だと思った。
生活に困ったヴィクス一家に対し、父は幾ばくかの援助を行った。一家を丸ごと面倒見るのはさすがに負担なので、フェリクスが成人するまで農地の一部を割安で貸し出し、食料やら衣服やらを何くれとなく届けさせて、その頃にはシエルはフェリクスを年上ではあるが弟のように思ってもいた。
確か、ガライ邸の玄関前だと思う。フェリクスが嗚咽したことがあった。鴉みたいな意地悪根性をしたモーデュソン兄妹の妹の方。クリスティーネ・モーデュソンが取り巻きと一緒にフェリクスと家族を乞食だと嘲弄したのだ。シエルはクリスティーネの顔面に拳を叩きこんでやった。まあ、三発くらい殴られた気もする。
本物の悪漢と銃撃戦をこなすキャシディだけには恐れて近づかなかったが、この年代の子供は大抵、兄妹のボクシングに虐められてる。今のクリスは随分とまともで、当時の悪行を思い出させてやると死人みたいな顔色になって謝って来るのでもうわだかまりはない。それはそれとして一生、弄ってやるつもりだが。
兎に角、フェリクスだ。情けなさか。不甲斐なさか。一緒に袋叩きされた少年は、声を抑えながら頬を涙が零れ落ちていた。騒ぎにガライの家人たちが出てくるや否や、悪童たちはパッと逃げ散り、残されたシエルは慰めようとフェリクスに向き直って、何かを言った。そして目の前に火花が散って、顔面から血を流して倒れた。祖母がなにかを言っていた気がする。よく覚えていない。フェリクスに何かされたのか。それとも祖母の仕業か。多分、後者だ。老婆は身内に対し、樫の杖を無思慮に振るう。シエルは病院に担ぎ込まれた。頭を大きく縫って深い傷が刻まれ、今でも時折、偏頭痛に襲われる。
目を覚ますと夕刻だった。寝汗が酷い。タオルを探すが見当たらないので窓際へと向かった。
荒れ果てた大地に夕日が沈んでいた。季節の境目に冷風が吹きつける中、遠くの地平線にゆっくりと、不気味に彷徨う数体のゾンビたちの姿がかすかに見える。かつて栄えた文明はもうなく、今は静寂の廃墟を包むように茫漠の曠野が広がっていた。
シエルはファームハウスの窓辺に立ち、頬に当たる風の感触を楽しんでいた。彼方の風景には、どこか退廃的な美が漂っている。
何時の頃か、祖父の知己に見せられた写真を思い出した。大地の果てで写したとされる巨大な廃都市へと吸い込まれていく無数のゾンビたちの写真だ。屍者たちの長い隊列が、まるで冥界へと赴く葬列のように昏い都市へと吸い込まれていく光景が写っていた。シエル自身は過去のいずれかの映像作品を切り取った土産物ではないかと疑ったが、地の果てから生きて還った探検家の口は重たく、問いただすのは躊躇われた。地平の果てには屍者たちが数千、数万の群れを為して行軍しているとも聞かされたが、似たような言い伝えは他所の居留地や都市でも流布しており、地獄の蓋が溢れた日に世界が滅びると口走る宗教坊主の説法に出くわしたこともある。
終末思想の坊主どもが事実だろうと構わない。シエルが老衰で幸せに死ぬまで破滅の日が訪れなければいい。その後なら、世界が地獄に落ちようとも知った事ではなかった。
シエルの背後には、頑丈に補強された木製のドアや窓が綺麗な家具と並んでいる。ベッド脇の籠では、見る目のない他人にはパグ扱いされるブルドッグのボスが柔らかい布に包まれて惰眠を貪っていた。文明崩壊前を思わせるのどかな光景だが、しかし、割れていない貴重なガラス窓が嵌められてるのは二階のみで、一階は怪物の侵入に備えて、厚板のシャッターで開け閉めするよう改装されている。二階暮らしでも油断すると巨大蜘蛛に入り込まれ、麻痺毒を撃ち込まれた挙句に体液を啜られたりするので、夜でも窓を開けっぱなしにして寝る者はいない。まことポストアポカリプスの世は地獄である。
ゾンビの数は少なかった。それでも油断はできない。亡き保安官が繰り返し言っていた言葉を思い出す。『決して気を抜くなよ。連中は風のように忍び寄ることもある』祖父から受け継いだ狩猟用のスプリングフィールドライフルをそっと抱きしめると、肩に伸し掛かった3.6キロの重量に安心感を覚えた。信頼性の高さから文明崩壊の世の中に人気を誇るライフルは小口径、かつ弱装弾用にカスタムされて正規品より少し軽いが、その分、弾薬は安価で生産しやすくなり、貴重なライフルの寿命も延びると言うものだ。
ファームハウスは、長い年月をかけて防備を固められた家で先祖伝来の地所であると同時に、かつては一族の生活の場でもあった。しかし、今では血族の殆んどが防壁内に移り、普段からここで暮らす一族は祖父だけである。当然に父方の祖父である。他の家族と過ごすよりも、気が合う祖父と過ごしてる方が、シエルにも気が楽だった。
風を浴びながら、シエルは小さく鼻歌を歌った。気分が乗った時などは、バイオリンを弾いてみる。名家の娘はいい御身分だが、今の世の中、それで明日を生き延びれる保証がされている訳ではない。怪物の群れや略奪者の徒党、或いは巨獣によって命や財産が奪われる事もあれば、コップの中の嵐でコップが割れることもあり得るだろう。居留地そのものが滅びかねない情勢でも、足の引っ張り合いが絶えないのも人間の業だ。だから、キャシディに肩入れしている。チェスターでは、保安官の代わりは務まるまい。
不意に、耳にかすかな音が届いた。かすかな靴音……? いや、もっと乾いた、引きずるような音だ。シエルの体は一瞬にして緊張し、心臓が高鳴る。静寂の中、その音は確かに近づいていた。シエルはスプリングフィールドを抱え直し、鋭い視線で外を見据えた。他人には当たらない銃と揶揄されるが、庭先をよたよた歩くゾンビの頭部に命中させるだけの自信はシエルにもあった。
「確かに」独り言を漏らすと、周囲の荒野に目を戻した。見渡す限り、草木も枯れ果て、乾いた土の大地が広がるだけだった。唯一、遠くに見える古びた風車がかすかに風に揺れている。ゾンビか、ただの風のいたずらか——それとも、人間か。その答えを知るまで、シエルは息を潜め、動かずに待った。
破裂するような銃声が室内に響いて、甲高い悲鳴が庭先で上がった。飛び上がったボスがキャンキャンと甲高く鳴いている。窓越しに伏せたシエルは視線の先、襤褸を纏った人影が木立の影からよろめき出ると地面に倒れたのを確かに確認する。人間だった。鶏でも盗もうとしたか。強盗の物見か。近場の農場には時々、人攫いと思しき人影も出没する。
十を数えるほど経ってから、ようやく足音がして召使い娘のジョーが部屋に駆け込んできた。「……なんです!?」泡喰った様子で叫んでいる。
銃声に飛びあがったボスが足元で脅えたように鳴き叫んでいるので抱き上げると、鼻の頭をペロペロ舐めてきた。
「新しい雇い人やお客人もいないよね」言いながらシエルは庭先を指さした。
「……日没ん頃には、みんな建物ん中に入ってますよ」ため息を吐きながらジョーが頷いた。
敷地ではピッチフォークやこん棒、火縄銃など携えて出てきた雇われの作男たちが、カンテラ片手に死体を確認して、大きく手を振っている。誰にも見知らぬ流れ者のようだ。服装からして曠野を彷徨う浮浪者か、廃墟生活者に違いない。恐らくは、ただの宿無しだが、囲いの中の私有地には踏み込み過ぎだった。曠野の掟は厳しく、怪しまれるだけでも下手すれば命も取られると言うのに。
むぅと唸りながら頭を押さえたジョーが、避難がましい目つきで睨んできたのは、だから侵入者を撃ったことを咎めてではなく、主人が危ない真似をした事に対してだろう。
「今、起きたんです?」尋ねるジョー。
「うん、おはよう」悪びれずにシエルは応えた。
「おはようごぜえます」頷いてるジョーの前でシエルは上着を脱いだ。
「嫌な夢を見た。きっと、フェリクス・ヴィクスなんかの顔を見たからだよ」
呟いてるシエルに、召使い娘はなにか言いたげに口籠ったが結局、何も言わなかった。
「寝汗が酷い。タオル」シエルが手を差し出した。
「タオルなら、ベッド横に」
「濡れたターオール。ターオール」シエルはジタバタと駄々を捏ねた。
「あい」苦笑したジョーが下がろうとした。
「お腹も空いた」とベッドに再び寝ころびながら、シエル。
「昼食ん残りはあります。それとも、今から作ります?」
「オムレツ!」
「あいあい」
「朝ごはんでごぜえますよ」と運ばれてきたシエルちゃんの朝ご飯は、小麦パンと蜂蜜、マーマレード、チーズを混ぜたスクランブルエッグにサラダ。自家製のハムと牛乳である。カリオストロ伯爵風に卵もついている。銀のお盆に載せてベッドに運ばせる。 お酢と黄身を混ぜて、簡単にマヨネーズ擬きにする。お酢は人類最古の調味料の一つである。多分、塩の次くらい。焼いた卵にお酢を掛ける奴なんて絶対いるので、マヨネーズの誕生は必然である。
だらしなくベッドに横になったシエルちゃんが遅い食事を取っていると、猛犬のボスがベッドに乗ってきた。飼い主はブルドッグと信じて疑わない愛犬が鼻をペロペロ。朝っぱらから臭い。
「うわ、舐めるなって言ってるのに」顔を顰めたシエルがハムを投げてやると、嬉しそうに尻尾を振って床に飛び出した。
ベッドの上で寝転びながら、のんびりと食事を取ってシエルはのたまった。
「ババァがいないと気が楽だわ」
「お嬢さま。誰かに聞かれたら、また折檻だよ」
自分も一緒に叱られるので、召使い娘のジョーが顔色を悪くして注意してくる。
ファームハウスの窓ガラス越しに風で揺れる楡の樹を眺めながら、シエルは鼻で笑った。確かに家人にチクリ屋はいる。誰かは分からないが、十中八九はジョーでもない。高度な盗聴器などもないと思う。
時々はお嬢さまの悪戯を止めなかったとか、或いは一緒になって年長者の悪口を言ったとかの名目で叱られるジョーは哀れだが、仕事をさぼって遊びに行くときなど結構、楽しんでる。誘わなかったら、哀しげにする。幼い頃から一緒のジョーがそこまでしてスパイだったら、シエルも他人を信じられなくなるし、そんな事までする裏切りに意味があるのかとも思う。
シエルちゃんはお爺ちゃんから財産の一部を贈与され、既に自分で増やしている。
使用人を貰えるならジョーでいい。財産を継いだら、大部屋ではなく一人部屋を与えるし、好きな相手がいるなら結婚の世話だってするとジョーには約束していた。
本音の部分で嫌われていたらキツイとは思うが、シエルは契約は必ず守ってきた。ジョーには成人後の部屋と給料、結婚の世話を約束してる。よしんばジョーが他者から買収の誘惑を受けても、シエルちゃんよりも大きな金額を約束し、かつ確実に払うと信頼できる人物が、ガライの家族も含めて多くはいない筈だ。なので、ジョーの裏切りはかなり可能性が低いとシエルちゃんは考えている。
「おばあさまがいなくなったら、気が楽ですわよ」言い直してから、シエルは寝返りを打って、伸びをした。
「で、マギーは帰ってきたかな?」お嬢さまの質問にジョーは首を振った。
「知らせはねえです」
町外れ地区には、幾らかの小遣いをやって優先的に知らせるよう手懐けた門番がいる。亡き保安官は、廃墟にも網を広げていた。恐らくはキャシディやチェスター中尉だって、誰かしらスパイを飼っている。複数の雇い主の為に働いている密告屋だっているかも知れない。少なくとも、参議である祖母は複数名の密告屋を飼っている。油断の出来ない婆である。兎に角、きちんと知らせてくれるなら、手懐けた相手が別に他の奴にも知らせて小遣いを稼いでもシエルは構わない。
「遅れてるね。予定より随分と」脳裏に地図を描きながら、シエルは呟いた。
「死んでねえかな?」呟いた召使い娘のジョーに悪意はない。時として凄腕のレンジャーや探検家さえ、曠野では呆気なく消息を絶つこともある。デリカシーが無いだけで、ジョーの言葉はむしろ心配の発露だろう。
天井を眺めながら、シエルは口を開いた。
「先日、蟻の駆逐を頼んだ際、仕事の終わったマギーに夕食を供した。そしたら、あの娘。一時間も掛けて食事を食べた」
「……へぇ?」召使い娘のジョーは不思議そうに首を傾げた。
「確かに上等な料理だったけど、そこまで高い訳でもない。なぜ、そんなに時間をかけて食べるのか聞いたら、何時食べ収めになるかも分からないから美味しい食事はできるだけ味わって食べると……そんな事は考えたことが無かったな」
起き上がったシエルは、犬を構って遊びながら楽しげに笑った。
「マギーは何時も、死を意識して生きている。保安官もそうだった。そうした人種は中々、しぶといものだと思うよ」
もっとも保安官がそうだったように、凄腕であろうとも死ぬ時は死ぬのだろうけれど。胸の内でシエルは呟いた。