黄昏のガンダルヴァ   作:猫弾正

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02_34 犬に噛まれた

 農民に教わった通りの場所に小屋が佇んでいた。灌木の隣に小さな人造の水場が見えてくる。渓谷を越える間に驢馬に水を飲ませておきたかった。薄汚れた小僧が小屋の前で泥を弄っていた。マギーが指で銅貨を弾くと、上手く受け取った小僧はあどけない笑顔を浮かべて家の中へと駆けていった。母親だろうか、混血の女に手渡している。擦れてない子供だ。仲睦まじい様子を眺めて、スタンフィールド氏がにやにや笑った。

 

 涼しい気温に飲用水は少なめで済むが、それでも日に約15~30リットル。人の数倍の水を必要とする驢馬は、足を止めるとコンクリート製の水桶から貪るように飲み始めた。水は濁っており泥や草、昆虫、葉などが混じっていて人間が飲むには適さない。ポレシャであれば、似たような水場も荒い布で濾すことで大きなゴミや不純物は取り除いている。しかし、喉が渇いていたのだろう。目を細めて一心不乱に水を飲み続けていた驢馬が、顔を上げると嘶いた。

「あれ、もういいのかな?」呟いたスタンフィールド氏が近寄ると、驢馬は懐っこく顔を擦りつけてから、灌木の枝葉や低質の草を口にし始める。木の皮にも齧った跡があるから、他にも渓谷を通る旅人がいるのか。とは言え、古い痕跡が僅かで日常的でもなさそうだから、此処を拠点にする馬は少ないと思えた。いや、別の餌場で食べさせてるかも知れないので油断は禁物か。

「あまり腹の足しにはならんだろう。ポレシャについたら、たんと喰わせてやるからな」スタンフィールド氏が撫でながら驢馬に語り掛けている。

 

 辺土における清水は、場所によって兌換紙幣が発行される程度に貴重だった。

 水源はもとより限られている上、飲用に適した湖や河川の多くは狂暴に変異した獣たちの棲息領域に組み込まれるか、或いは強大な略奪者《レイダー》徒党や狂暴な部族などに占有されている。大きな居留地においても豊かな井戸は数えるほどで、同時に水場から徒歩の範囲にある頑丈かつ快適な建築物もまた限られていた。文明崩壊前と比せば人口も乏しい時代とは言えど、そうした諸々の理由から利便性の高い一部建築物の市場価格は、一般的に高騰する傾向を見せていた。

 

 しかし、ポレシャ居留地においては不動産。特に防壁内の物件は、役所によって価格が統制されていた。公定価格は中層区画でのテント暮らしや小屋を建てられる猫の額程度の土地で数百クレジット。防壁内の大きな邸宅でも五万クレジット程に抑えられている。これは自由労働者の平均年収の十倍に達する金額ではあるが、自由経済を採用している同規模の居留地に比せば半額以下に価格が抑えられている。(とは言え、七割から八割にも達する労働者階級のエンゲル係数や空き家修繕の為の資材の価格を考慮すれば、日々の生活に追われる彼らが邸宅を購入したり、維持管理できる余地は、ほぼ存在しえないのだが)

 

 市民であっても複数の不動産を所有する為の条件は厳しく、一部資本家や不動産業者が権力を持ち過ぎるのを避ける為、また、よそ者や外資への警戒も兼ねて、防壁内の土地取得は厳しい審査や投票によって制限されていた。社会を不安定にする貧富の格差や富の集中を抑えられる反面、裁可を下す公的な権限の持ち主たちは見た目の役職以上に権力を有している。民兵隊の幹部であるチェスター中尉も、中層区画や下層区画において不動産や住所を割り振る幾つかの権限を所有している。或いは、チェスター中尉の握っているその「ささやかな」権限が居留地において隠れた権力を握る源泉となっているかも知れない。それがスタンフィールド氏が、昨夜に旅籠で語った寝物語の内容であった。

 

 

 岩塊が転がる渓谷の谷間を辿って、マギーとスタンフィールド氏、そして驢馬くんはポレシャへと向かっていた。地元民にもあまり使われない、少しだけ危険な経路だ。怪物も早々に出るものでもなく、また並の変異獣の一、二匹であればマギーも対処は難しくない。とは言え、餓えた熊や変異した熊あたりと遭遇したら、今の装備では抗うには足りない。手に負えない怪物が出たら、驢馬くんを囮にしますと言ったら嫌な顔をされたが、スタンフィールド氏も異議を唱えはしなかった。

 

「マギーさん。知ってますか?処女と童貞で結婚したカップルは、その他よりも長持ちするそうです」スタンフィールド氏はのたまった。勿論、囁き声に抑えており、視線も常時、警戒するように四方へと張り巡らされていた。

「……お互いに、処女でも童貞でもありませんね」マギーも常にソードオフ散弾銃を抜けるように警戒しつつ、見通しの悪い渓谷の底盤を慎重に進んでいた。元より、いつ死ぬか分からない旅のさなか、難所に向かう前にスタンフィールド氏もマギーも少しだけ脅えていたし、酔ってもいた。寒い夜に人を安心させる雰囲気の隊商宿でまさか毒は出まいと、老夫婦が気を利かせて差し入れた熱酒を飲み過ぎた。二人とも若く健康な男女で、互いに憎からずは思っていたのだ。

 

「古い建物が好きと言うのは、趣味が合いますね。ポレシャにも教会や仏教のお寺があります。見に行きませんか?」スタンフィールド氏は、世間話を続けるつもりのようだ。

「行きません」とマギー。

「変わったところでは、少し離れた村に北欧神話の神殿もあります。若い人の結婚式には人気です」スタンフィールド氏は、余計な注釈をつけた。

「忘れてください。忘れろ」とマギー。怪しい影や気配はないか。取りあえず周囲を見回してから立ち止まったマギーがスタンフィールド氏の肩を掴んだ。

「気の迷いです。酔ってたんです」マギーは念を押すように繰り返した。

「忘れられそうにありません」スタンフィールド氏は、情熱的な乙女のように告白してきた。二人とも自分が好きで相手も自分を好いてなければ同衾しない性格だ。

「ご随意に。私は忘れます。一夜限りのことです。犬に噛まれたと思ってます。犬に嚙まれたと互いに割り切ってください」マギーが切って捨てると、スタンフィールド氏は、切なげに鳴いた。くぅん。

 

 他者を信頼するのは存外、難しい。特に今のような荒れた世の中では。

 今、マギーと行動を共にしているスタンフィールド氏は大金を所持している。殺して奪うことは容易いが、マギーはそんな事をするつもりはない。それはスタンフィールド氏には見えない情報で、彼がどのような判断をするかは全くマギーにも不可視の状態で委ねられている。

 俗に言う、ゲーム理論である。誇りとか自身にとっての生き易さとか幾つか理由はあるが、しかし、質の悪い護衛だと雇い主を裏切ることも侭あって、スタンフィールド氏はマギーが裏切りを好まないとは知らない。スタンフィールド氏が誤解して先手を打つ可能性もあるのでマギーは用心しているし、その用心を裏切りの予備動作と取られて過剰反応される可能性もまたあった。

 

 スタンフィールドは私よりは賢い、とマギーは見ていた。互いにとって見えない情報をどう咀嚼するか。マギーは単純に割り切っているが、一方で、スタンフィールド氏が言動でこちらの思考や損益の妥協点を探っているのは理解できる。少なくとも一定の信用をしているように見せて開けっ広げに振舞うが、何処までが計算の上なのか。複雑な人間味を持つ人間と出会った時はいつもそうだが中々、興味深い。

 昨日までは、そんな事をマギーは考えていた。しかし、今日はもう情緒が滅茶苦茶だ。臆面もなく向けられる笑顔を見ると、少しだけ照れ臭かった。

 

 渓谷の勾配がきついので、三十分ごとに五分ほどの小休止を行った方がよいと決めていた。裕福なスタンフィールド氏は、機械式の腕時計を所持している。賊や怪物に対して、逃げるにしろ戦うにしろ体力の余剰は常に保持しておきたい。

「実は口説き慣れてます?」マギーは鼻を鳴らした。

「それなら良かったのに。もっとマギーを楽しませる誘い方が出来たから」スタンフィールド氏が肩を竦めた。

「わたしもゴス娘ちゃん(メリッサ)や未亡人さんに刺されたり撃たれたりしたくありません」言われたスタンフィールド氏がやや悩ましげに頷いた。本人も異性からの好意に無自覚ではなさそうだ。

「貴方の為でもありますよ?ニナだって、もう人を殺せる年齢ですし」マギーが言葉を続けると、スタンフィールド氏は目を剥いた。

「そこは諫めるべきではないでしょうか?……俺も他人です?」兎も角、「だから、スタンフィールド氏にご執心の女たちを怒らせるつもりはない」とマギーもはっきり告げた。それにニナに気づかれても困ったことになりそうだとも思っている。

「なので友人です」安全な日陰で休みながら、四方に警戒の視線を放っていた。友人も余り多くないがマギーが衒いなく告げると、恐らく望んだ関係ではないだろうがスタンフィールド氏。口元に苦笑を浮かべつつも「友人ですか」と受け入れたようだ。

「死なせないよう努力はします」マギーの言葉にスタンフィールド氏は頷いた。

「そこは信頼してます」

 

 比較的に見通しの良い高台にたどり着くと、日陰の位置で背中合わせに再び身を休めてから「……半分は、痴情の縺れです」ペミカンを齧りつつ、マギーは思わずそんな言葉を口走っていた。

「はい?」

「間違えました、内輪もめです」真顔を保ったまま、マギーは淡々と訂正した。

「スネイクバイトの解散理由ですよ」恥を明かす。元の仲間も散り散りとなった今となっては誰が傷つくものでもない。スタンフィールド氏も知った話をペラペラと他人に喋る性格ではあるまい。それでも残り半分が仲間割れ、とまではマギーは告げなかった。名を穢す前に解散できたのは、果たして団員たちにとって幸運だったのか。今も時々、黄金期のスネイクバイトに幻想を抱いている人々に出会うことがある。

 

「……曠野最高の賞金稼ぎチームの解散理由。今明かされる衝撃の事実」暫く沈黙してから、スタンフィールド氏は、低俗雑誌の見出しみたいな言葉を口にした。何故か、少しだけ落ち込んだ様子に見える。とは言え、マギーの認識では他にもっと有力な賞金稼ぎたちも曠野には存在していたのだ。

「犯罪者たちに裏賞金を懸けられて、選りすぐりの殺し屋たちと廃工場で決闘したと言う話は……?」気持ちを切り替えたのか、スタンフィールド氏がそんな風に問いかけてきた。

「なんで知って……まあ、ありましたよ」マギーは少しだけ驚いてから渋々と告げた。

「実際は、決闘と言うより、二進も三進もいかずに逃げ込んだ挙句ですが……」事実は散文的である。それに悪党どもが逆賞金を懸けずとも、スネイクバイトには亀裂が走っていた。力のない人々を見捨てられない少数派ともっと実入りのいい仕事を求める一派。その時、マギーはある意味で仲間を見放した。馴れ合いも不快ではなかったが元々、生きる為に手を組んだだけの相手だったからだ。少なくとも、その時は、古い仲間たちに対してその程度の思い入れしか抱いていないとマギー自身は思っていた。

 

「聞かせてくれます?」薄いエールの水筒を呷ったスタンフィールド氏が、興味深そうに尋ねる。

「どちらも大した話でもないですよ」五分の小休止を終えたマギーが立ち上がって悪戯っぽくほほ笑んだ。

「決闘と内輪もめと、どちらが聞きたいです?」やや揶揄うような口調で尋ねてみれば、スタンフィールド氏は、数秒、悩んでから応えた。「両方は駄目ですか?」

「参るなぁ」

 

「多分、よくある話です」マギーは肩をすくめ、思い出したくもない過去を無理やり引っ張り出すように口を開いた。「その頃はチーム内で意見の食い違いが激しかった。何人かは、困っている人を見捨てられない性分で、でも、大半のメンバーはもっと楽に稼げる仕事を望んでいました」

 スタンフィールド氏は黙って聞き入っている。マギーが言葉を続けるたび、眉が僅かに動いていたが、口を挟みはしなかった。

「スネイクバイトが割れたのは、内部の亀裂が原因です。リーダーの手腕は確かで尊敬されていたけれど、かなりの団員が危険な怪物や凶悪な犯罪者との終わりのない戦いにうんざりしていた」苦笑しながら、マギーは再び肩をすくめた。

「廃工場の決闘の話は、実際にはほとんど逃げ場がなくて、私たちはただ追い詰められていただけでした。裏賞金なんて関係なく、チームの中ですでに不和が広がっていて、妥協できなくもなかったけど、先に亀裂が決定的なものになりました」

 スタンフィールド氏はゆっくりと息を吐き出し、目を伏せた。伝説はいつも、実際よりも美しく壮大に語られる。どうやら曠野最高と称されていたチームの崩壊理由が、そんな散文的で現実的なものであった事実に落胆しているようだった。

単にスネイクバイトの一員として好感を抱かれていたなら、失望させただろうか。「それじゃ、他の団員たちはどうなったのかな?」スタンフィールド氏は、もう少しだけ話を引き出したいようだった。

 マギーは少しだけ間を置いてから、静かに答えた。

「リーダーは最後まで戦いましたが、チームはもう一つじゃなくなってた。団員たちはそれぞれの道を選んで散っていきました――私も、その一人です」

 マギーの声には、どこか遠い記憶を呼び起こすような懐かしい色があった。

 

「わたしがやりあったのはアイアンアーム・ジェイクです」歩きながらマギーが上げたのは、そこそこに名を響かせていた曠野の悪党の一人だ。スネイクバイトとの決闘以降、消息を絶っていたので死んだと推測されていたが、当事者に聞くのは別格なのか。スタンフィールド氏は、ふはっ!と鼻息を荒くした。

「そこはラジオドラマの通りですね」ファンなのだろうか?やや早口になったスタンフィールド氏。

「ラジオドラマになってたんですか?」マギーは驚いて尋ねた。

「なぜ、本人が知らないんです?」とスタンフィールド氏が突っ込んだ。

「初耳だわ……いえ、著作権どうなってるんでしょう?」

「この国にそんなものがある訳ないでしょう」とスタンフィールド氏。

 

 英雄的なレンジャーやら冒険商人の事件を勝手にドラマ化するのは、曠野のラジオ放送あるあるの事例ではあった。少しでも記録が残るならと歓迎する当事者もいれば、名が売れれば対策を練られると忌避する者たちも多い。抗議しようにも無免許の海賊野良ラジオ局など適当な放送も多ければ、雨後の筍のように出来ては潰れて、潰れては生えてくるものだ。個人でやっていたが不慮の死を遂げたり、機材が壊れてそれきりと言う局もあるし、小さな居留地や廃墟が拠点だったが為、ゾンビの群れに呑み込まれたり、変異獣に襲われるのも年中行事。罵倒した悪党どもに狙われたり、都合の悪い当局や金持ちに潰される事も侭ある。代わりに廃墟で機材を見つけたり、買った者たちが気楽にラジオ放送を始める事例も絶えない。

「一応、何話かは録音テープあります」スタンフィールド氏の発言にマギーは頬を赤く染めた。

「いいです。聞きたくありません。聞かせないでください。羞恥で死にます」

 

 渓谷を抜けると緩やかな、しかし、赤茶けた荒野が広がっていた。乾いた風が頬を撫で、遠くに見える耕作地や居留地の輪郭が少しずつ明瞭になってくる。ここまで来れば比較的に安全ではあった。舗装されていない土の道をゆっくり歩めば、ひび割れたアスファルトがほぼ泥に埋没しつつあった。地面に刻まれたかつての文明の痕跡も、やがて消え去る日が来るかもしれない。ザクザクと砂利が足元で鳴り、その音がどこか心を落ち着かせる。数日の遠出に過ぎないが、初めての道を進むのは旅慣れたマギーにしても、存外に疲れるものだった。

 

 時折、通り過ぎた廃墟や物陰に張られた天幕、崩れかけた農家に人影が見え隠れした。孤独な人々の幾らかは、スタンフィールド氏を見掛けると手を振ってきた。曠野に隠れ住むような逸れ者は、得てして狷介な性分の持ち主が多いが、地元の名家の血筋は強いようだ。それとも両替商ゆえの顔の広さか、或いは、あっけらかんと手を振り返している本人の性格だろうか。

 

「本当に強かった」他人の殺し合いなど聞いて面白いのだろうかと思いつつ語るマギーだが、スタンフィールド氏は耳を傾けていた。

 マギーも興が乗ったので、もう少しだけ昔の話を打ち明けた。

「騎士……影……護り手、サーカス……双子」思い出すように指を折ってから「今まで遭遇した敵で七番目くらいに強かったです。至近で銃弾弾かれた時は、もう死んだかと。今でも夢に見ますよ」

「義手で拳銃弾くやつが七番目なの?」スタンフィールド氏は驚愕しつつも疑問を呈した。

「一番から三番の相手には、すっ飛んで逃げましたから」世には強い奴や恐ろしい怪物など幾らでも転がっている。マギーはくすくす笑ってから、結論を口にした。

「戦った中だと多分五番か、六番目に強かったと思います」

「どうやって倒したんです?」とスタンフィールド氏。

「可燃性ガスの漂う場所で。体術で」冷たい目でほほ笑んだマギーだが、端的に過ぎたかと言葉を付け足した。

 

「鉄の拳と殴り合ったら死ぬので関節と締め技で極めました。幸い、向こうも一対一に拘ってくれたし」 手をひらひらさせながら応えるが、男女の膂力の差はよく鍛えたマギーをして大きい。アイアンアームのジェイクに少しばかりの投げ技や極め技に関する知識が有れば、今頃、地下6フィートで眠っていたのはマギーだったかもしれない。あっさり仕留めたが、実際にはそれほど力量の差はなかった。そんな心情もぽつぽつと語った。いずれにしても、マギーは野良の賞金稼ぎで、百戦錬磨のジェイクすら単なる悪党止まり。名前を売るのは二流。名も知らない強敵もいた。都市軍人や略奪者《レイダー》の幹部には、遥かに手強い者たちが幾らでもいるに違いない。

 

 マギーは、おのれの立ち位置をよく知っていた。派手に名を売ろうとも思わないし、無用な敵を作るつもりもない。腕前はそれなりだが、それだけで荒れ果てた世界を生き延びる筈もない。力だけではどうにもならないものがある。

 対立した軍閥の兵士に姿を晒せば、マギーの顔と名はたちまち知られ、執拗な追跡を受けることになる。略奪者の大徒党に目をつけられれば、逃げ道などどこにもない。そんな相手に立ち向かうほどの無謀さはマギーにはなかった。力そのものだけではなく圧倒的な組織力や数。それに計り知れない強者たちも恐ろしい。無理に挑もうとは思わない。そんな人中の竜とも言うべき存在は、たった一度の不運な遭遇でマギーを無力な塵に変えてしまうだろう。

 

 なのでマギーは、そうした強者と遭遇し難い辺土で生きている。都市の喧騒や、血塗られた軍団が蠢く中央から遠く離れた、忘れられた大地。人が少ない分だけ、争いの機会も少ない。賞金稼ぎとしての仕事は細々としたものが多いが、命の危険もより少ない。それで十分だった。マギーにとって大事なのは、生き残ること――今日も明日も、できれば静かに、誰の目にも留まらずに。

 

 周囲の悪党たちは口々にマギーを「スネイクバイト」などと呼んだ。細くてしなやかながら、決して手を出してならない獰猛な毒蛇だと。最初のスネイクバイト。しかし、マギーはあだ名を好いてはいない。スネイクバイトだろうと何だろうと、泡沫の海賊ラジオ局と同じ。どうせ曠野に生きる者たちの殆んどが、泡沫のように儚く消え去る運命にある。名が残ろうが消えようが、一山幾らの凡骨にとって、それは一時の夢に過ぎない。

 

 怪物や軍勢が蠢く北方の都市や戦場に背を向けて、辺境でこそこそ生きる。それがマギーの選択だった。マギーは身の程を弁えている。生きるとは、戦うことだけではない。かつての敵対者たちも所詮、凡百の悪党どもに過ぎず、世界にはさらに強大な者たちが潜んでいる。殆んどの人間は弱者であり、隠れ、逃げ、時に身を潜めながら、どうにか生き延びようとする。たとえ汚辱に塗れたとしても、そうして初めて常人にとっては過酷な世界で生き延びる可能性がわずかに開かれるのだ。

 

 スタンフィールド氏とマギーがポレシャへと帰還したのは、正午をやや過ぎた頃だった。積み荷を山積みした驢馬を伴って、『この先。ポレシャ』と乱雑に書かれた看板を抜けたスタンフィールド氏が、大きくため息を漏らした。旅慣れたマギーにしてからも、緊張感から解き放たれたように気持ちが軽くなっていた。兎に角、家に帰って休みたい。

 

 下層区画の入口が見えた。いつものように並ぶ路地裏の天幕や張りぼての小屋、細い道を行き交う顔なじみの人々。挨拶を交わす声が耳に届くと、荷を背負っているはずなのに足取りも軽くなって、バリケードを潜った瞬間、自然「帰ってきた」と思えた。

「マギーちゃんが商会と伝手があって助かったよ」スタンフィールド氏は何時ものやや軽薄な話し方に戻っていた。

「これで契約もお終い。で、これが報酬。俺はこれから友人に金を届けてくる」雇い主に手渡された袋を確かめれば、約束通りの報酬額が入っていた。不安があるポレシャ紙幣ではなく、都市連盟が鋳造する銅貨や薄い銀貨が細い紐糸で束ねられていた。

「確かに。大金持ち歩いて、おひとりで大丈夫ですか?」マギーも軽口を返した。

「引き渡しの場まで、ついて来てくれる?大金だから、公証人も立ち会う。うちの居留地でのやり方も一度、見ておくのも勉強になるかも」

「遠慮しておきます。ニナに早く顔を見せてやりたくて」マギーは苦笑した。スタンフィールド氏には告げないが、すぐにキャシディに手渡さないといけない土産もあった。

 

 照れくさそうな笑みを浮かべスタンフィールド氏が手を伸ばしてきた。握手に応じたマギーの耳元に口を寄せてきて、最後にまた口説かれると思いきや。

「ついでに、弾薬仕入れられそうな武器商人の伝手とかない?」スタンフィールド氏の不意打ちに、マギーの不随意筋が動いた。

「武器なら、広場の市でも売っていましたよ。言ってくれれば案内したのに」不覚にもマギーの声はやや上擦った。察せられただろうか。スタンフィールド氏は常と変わらぬ穏やかな目を向けていた。

「火縄銃とか、クロスボウじゃない。俺が欲しいのは、密輸同盟が扱っている手製マシンガンの類だよ」囁くようなスタンフィールド氏の声。思わず周囲を見回したくなる衝動にマギーは耐えた。非公式だが強力な密輸同盟は、やや危険な伝手だった。強力な火器や弾薬の取引は、自由都市《ズール》の都市法には触れないもののあまり好ましいとは見做されない。大抵は伝手も秘匿されている。

 スタンフィールド氏は、取引したプロイス商会。或いは、商会連の建物で何かしら耳にしたのか。もしかしたら、マロンのような地元の零細商人から、情報を買っていたのかも知れない。

 

「申し訳ありません」マギーは笑いながら、無いとは言わずに断った。

 スタンフィールド氏も軽く微笑み返すと、手を振りながら立ち去っていった。マギーは緊張に僅かだが手汗を搔いたのに気づいた。

 油断できない人だ。気づかれただろうか?まあ、盆暗よりはずっといいかな。

 考えてから、フッとマギーは笑った。絆されたか、状況判断が甘くなってると自覚する。私も恋愛脳を笑えないな。手汗をズボンで拭いつつ、マギーは踵を返した。

 

 塒《ねぐら》である路地の前にたどり着き、怪物除けに備えた木製扉を押し開ける。中からはいつもの香りが漂ってきた。少し湿った木と土の匂い、そして少女の甘い香り。

「おかえりぃい」小さな影が飛び出してきてお腹に飛びついてきた。

「ただいま」マギーが優しく囁くと「……寂しかったぁ」言いながら、ニナはきゅっとしがみついてきた。

「いい子、いい子」

 小さな身体を抱きながら、ニナの髪を指で梳ってやる。

 張り巡らした新聞とターフ(ブルーシート)の屋根から差し込む陽光が、地面を疎らに照らしていた。拾ってきて修繕した椅子と机。何も変わっていない。自分が不在だったことすら忘れてしまうほど、日常は静かに続いていた。

 ふすふすとマギーの匂いを嗅いでいたニナが固まった。一度、顔を話して大きく目を瞠るともう一度、スンスンと熱心にマギーの匂いを嗅ぎ始める。

「……ニナ?」マギーが尋ねるも、無言のまま。「……石鹸と交尾の匂いがすぅ」ニナの頬を涙がぽろぽろと零れ落ちた。尋常ならざる様子に戸惑いつつ、マギーが手を伸ばした時。ニナはがうっ、と叫んで掌に噛みついた。

 突然の反抗期。「ぎゃッ!……痛い!」マギーは驚き叫んだ。

 

 

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