アーロンは姓など持っていなかった。姓が必要となるのは何十人とか、或いは数百人もの人間が寄り集まって互いに協力して暮らしている土地の話だ。荒廃したちっぽけな町の住人どもは、誰もがおのれの属する小集団以外の相手なんかろくに話す事もなかったし、いつか必要になる日が来るとも想像してなかった。
アーロンと三人の弟妹たちは、全員が父親が異なっている。曠野の名もない町で生まれ育った。薬品臭い土の湿った匂いと、錆びた金属臭が風に乗って漂う内陸のしけた町だ。廃墟と言う程には荒んでないが、居留地と言うには色々と足りないスラム街には、半ば崩れた建物や廃材で作られた掘っ立て小屋が立ち並び、各家がわずかな資源をやりくりしながら生活している。
四人は子供の頃から苦労してきた。男にだらしがない母親は、特に行き場のない人や失敗を重ねてきた男たちに弱く、つまり負け犬の面倒を見ては、結果として家に居つくロクデナシが増えがちだった。
子供たちにとって母親の「善行」は大抵、負担で、家族の食い扶持を圧迫する原因になった。ロクデナシ共の一部は、時に金や食べ物を盗んで消え失せたが、アーロンたちは男の趣味が悪い母を嫌いにはなれなかった。母親は、頭が弱く、すぐに人を信じてしまうお人よしだが、しかし、善良で情が深い。心の優しい女で道端で死んでる猫を見ても、喰おうともせずに涙する。誰かが困っていると見過ごせない性格だが、他人を救う為に最初に削るのは常に自分の食い扶持だ。冬の終わりの食料が底をついた夜も、親に捨てられた子供が珍しくないスラムで、己は喰わずに子供たちは餓えさせなかった。そんな女だった。
子供を殴り殺す親も珍しくない環境で、母は殆んど子供たちに手を上げなかった。危険な悪戯に激しく怒って我が子を叩いたこともあったが、その後で子供のようにわんわんと泣いた。これが応えた。何時しか四人は、母親を悲しませることだけはするまいと自然と心がけるようになっていた。
長じた子供たちは、荒廃した町で美人の妹ちゃんを三兄弟でハリネズミのように守りながら暮らしていた。アーロンと弟たちにとって、荒廃した町の小さな家は「砦」であり、入り込んでくる奴は、ゾンビでも酔っ払いでも鉄パイプで頭をたたき割る。
そうした日々で突然、弁護士と探偵、そして冒険好きの老スタンフィールドが尋ねてきたのは、青天の霹靂だった。ポレシャとか言う遠来の居留地から態々やってきた三人組は、母が昔の男のベンソンに出した古い手紙を携えて、なんらかの重要な理由で次男モージスを探していた。モージスの遺伝子を調べた彼らは「祖父の遺産」として謎めいたホテルを継がせる手続きをする。つまり、モージスは、単なるモージスじゃなくて、モージス・ベンソンだった訳だ。
丁度、妹に強引に手を出そうとしたスラムの有力者の頭を兄弟で叩き割ったばかりだった。復讐に燃える手下どもが追ってくる中、渡りに船とばかりに弟のモージス・ベンソンとリーヴィ、そして妹のジュディスを引き連れ、老スタンフィールドと共に曠野横断の旅に出たのは、アーロンにとってまさに運命の転換点だった。
今はアーロン・ベンソン。リーヴィ・ベンソン。そしてジュディス・ベンソンを名乗っている。市民権は持ってないが、もう少し金を貯めれば、正規居住者としての資格を三人分購入できる。公的な書類に名前と姓がともに記録される。そうすりゃ、晴れてアーロン・ベンソン、リーヴィ・ベンソン、ジュディス・ベンソンと文字通りの四人兄弟になる訳だ。
※※
一万
だから、アーロンは、弟のベンソンを目立たぬように護衛した。金の噂ってのは、何処から広がるか、分かったもんじゃない。万が一にも取引の話が洩れていたら、馬鹿が妙な事を考えても不思議はなかったからだ。
足音が瓦礫に響く、耳障りな音だけが残る廃れた通り。弟たちの背中を追うアーロンの武器は、カトラスにフリントロック式の短銃だ。昔の映画で、カリブの海賊たちが腰にぶら下げていそうな武装だが、短銃は三丁ベルトに挟んでる。古風な見掛けだが、威力自体はグロッグやベレッタにも見劣りしない。大抵の相手は、一発ぶち込めば充分だった。カトラスの刃は、わざと粗めに研いである。その方が肉をよく切れるからだ。
隣には、臨時の相棒メリッサ。こちらは、スタンフィールドの護衛だ。実用一点張りの服を好むアーロンから見ると、黒いレースとドレープ、ブーツと馬鹿みたいなゴスファッションをしているが、銃の趣味までは悪くない。モデルは分からないが、多分にコルトのパーカッション式リボルバーの再現品《レプリカ》。装薬と弾頭に雷管を詰めた替えの弾倉を二つも携帯している。腰にはフランキスカと呼ばれる装飾された頑丈な小型手斧を括りつけていた。
「キャロおじを守るよ、アダムス君が火を吹くぜ」彼方此方狙いを付けては、銃に話しかけてる。(……可愛い顔してるが、頭が可哀そうなんだろうな)頭がおかしいのは見て取れるが、賞金首との銃撃戦も経験済み。モージスの話じゃスタンフィールドにひどく執着してるそうだ。忠実で銃の腕が確かならアーロンにも文句はない。
大金抱えた弟のベンソンにスタンフィールドの二人を見送って、よそ者立ち入り禁止の地区の手前で立ち止まった。警護らしい兵士たちが遮蔽を取りながらも、招かれざる客たちに向けて警戒の目を向けている。遮蔽の位置取りと言い、牽制する視線の鋭さと言い、兵士たちは紛れもなく古参兵の類だった。一目見ただけでヤバさが分かるほどの鋭い雰囲気を漂わせている。そして手練の猟師めいた気配のそいつらは、露骨にアーロンたちを歓迎していなかった。
(……でかい居留地には、恐い連中がゴロゴロと潜んでいるもんだ)
「俺たちゃ、此処までだな」鼻白んだアーロンの呟きに、メリッサが無言でうなずいた。口笛を吹きつつ立ち止まって、廃屋の影。雨水が溜まった窪みと雑草に覆われた薄暗い路地に踏み込めば、地面を這う黒く巨大な影がさっと遠ざかった。
(……巨大鼠か?)アーロンは暫く睨みつけていたが、やがて肩の力を抜いて目を逸らした。防壁内ですら油断は禁物だった。巨大鼠は非力な怪物だが、それでも無防備な子供や幼い家畜がしばしば襲われて命を落としている。
本当に安全なのは今、モージスが踏み込んでいるような、四六時中を衛兵に守られた一帯くらいのものだ。そこでさえ野生動物を完全に防げる訳でもなかった。
アーロンに出来ることは、もう弟の取引の成功を祈る事くらいだ。
上手くすれば、明日からベンソン兄弟は地主の端くれになる。ささやかな不労所得を得られるのだ。年に一千足らずとは言え、働かずに手に入る金は最高だ。それもポレシャ・ポンドとなれば、言う事なし、だ。
まあ、一万
それにしても一万
ホテル『ニュー・ホライズン』に居留地紙幣《ポレシャポンド》での支払いで滞在くださる自由労働者や
金の足りないお客さまは、手下……従業員どもに任せた防壁外の二号店『サバイバーズ・レスト』へとご案内。古い倉庫跡に藁布団を敷いた木賃宿での雑魚寝にアーロンとモージス、リヴィのベンソン兄弟は貧乏人たちからなけなしの有り金をかき集める。
寒さの厳しい冬に屍者《ゾンビ》や変異獣どもが騒がしい闇の濃い夜ともなれば、風雨を凌げる屋根と怪物の入ってこない安全な壁の中での眠りを求めて浮浪者《ホーボー》やら廃墟民やらもやってくる。
ろくでなし連中が差しだしてくるのは、下層地区で流通してる独自紙幣ならマシな方。廃墟民の間で流通しているびた銭に拾ったがらくた、コーラやジュースのキャップに錆びた弾薬、ガラス玉、飲めるか怪しいどぶろくに腐りかけの食べ物など。
俺は優しい男だからな、などと吹きながら、アーロンと兄弟たちは一文も無駄にしない。錆びた鉄は流れ鍛冶やら放浪の鉱夫団に売り飛ばし、襤褸布は天幕の材料や下層区画の服屋に。破れた服は雑巾に。怪しげな食べ物は、廃墟民の頭目に払い下げて、びた銭と交換する。勿論、宿代が支払えなくなった文無しには、資本主義精神に則って、三人兄弟の腕っぷしで出て行ってもらう。
使い道すらない廃墟のびた銭は、浮浪者《ホーボー》の古株と取引して私鋳銭《トークン》に。雑穀粥やどぶろくしか買えない浮浪者《ホーボー》の私鋳銭《トークン》は、下層区画の独自紙幣に。安いライ麦やら鼠肉、薄いエールと養殖キノコが買える独自紙幣で客の為の食べ物を仕入れながら、一部は門前町の真鍮貨幣に。ジャガイモ、キャベツに鶏肉、人参を喰いながら、真鍮貨幣を居留地通貨《ポレシャポンド》へ。
小麦パンに芳醇なビール、豚肉、チーズと言った上等な食事の買える市民貨幣、居留地通貨《ポレシャポンド》の一部は、外部の仕入れの為に都市通貨《ズールクレジット》へ。
上等な酒や衣服を買える王のごときの都市通貨《ズールクレジット》のさらに上が通貨の神。アーロン・ベンソンの崇める広域通貨のギルド・クレジット様であらせられる。
購買力のない怪しげな鉛や錆び鉄のびた銭が、雑穀粥や黒パンを買える鉄や真鍮の私鋳銭《トークン》に。鉄や真鍮の私鋳銭《トークン》が、鼠肉やキャベツを喰える布や紙の紙幣に。布や紙の紙幣が、小麦や豚肉を喰える銅貨や青銅貨へ。
両替するたび、目減りしていく。目減りしていく。百枚の廃墟の
過去の追憶に耽っているアーロンの耳元で、メリッサが小さく低い声で囁いた。
「……誰か来る」告げたメリッサは、素早い動きでロングバレルリボルバーを構えた。メリッサは、左利きなのだろう。右手を壁に付いて固定させると、そのまま右腕を支えに腕を交差させて狙いを定めた。
ひでえ構えだ、とアーロンは呆れる。女の片手撃ちでは、反動《リコイル》を制御しきれないに、本人は格好いいと思っていそうだ。
「言いたいことが顔に出てる。アダムス君は28口径。黒色火薬なので反動は極めて小さい」
ストッピングパワーに欠けそうだが、と皮肉っぽく口元を曲げたアーロンに片目を瞑ったメリッサが通告する。
「で、あれは知り合い?違うなら、撃つけど」
中心街の街路をひょこひょこ歩きながら近づいてくる瘦せた男の顔を見て、アーロンは額を抑えた。
「……弟だ」
「よう、兄貴ぃ」末弟のリヴィが手を上げながら、アーロンに歩み寄ってきた。
眉を顰めたアーロンは、リヴィの首に腕を廻すと、メリッサから離れて廃屋の裏手に引っ張った。
「お前、ホテルの受付はどうしやがった?それに妹ちゃんを一人にしやがって」兄のアーロンの詰問口調にも関わらず、リヴィはヘラヘラと笑っている。
「妹ちゃんは、喫茶店よ。パンケーキを食べてる」リヴィは軽く肩をすくめながら、答えた。「それに冬明けでホテルは開店休業。誰もいなくても盗みに入る奴もいねえよ。金庫の中身もすっからかんさぁ」
「残りの金は、此処」膨れた鞄を掲げたリヴィに「それもそうか」アーロンも頷いた。
ベンソン兄弟が冬ごもり前の栗鼠みたいに金を貯め込んだ金庫も、今は空っぽだった。贅沢や遊びに使った訳でもないとは言え、数年の成果を賭けた取引の結果をただ待つと言うのは、暴れる酔客や金を集ろうとするギャング共相手の乱闘とはまるで異なる緊張と高揚をアーロンに覚えさせていた。
「貯めた金もすっからかん。とは言え、果樹園買うんだ。それくらいはするよなぁ」ヘラヘラしているように見えるリヴィも、よく見ればほんのりと緊張が滲んでいる。
やや、小心なところのあるリヴィだ。大きな取引におじけづいてるのか。頬に浮かんだ汗を手の甲で拭いながらも、どこか誇らしげに胸を張る様子は、野に転がる風来坊のようだった兄弟が、人がましさを手に入れようと足掻き抜いた証のように思えて、アーロンは少し目を細めながら、弟を抱きしめてやりたい衝動に駆られた。
「市民との取引で一万クレジット。それも、そこらの村や商会の金じゃねえ。ギルド・クレジットだぜぃ」声を張り上げるリヴィだが、無人の町並みとは言え、いささか声が大きすぎる。アーロンは釘を刺した。
「半分はキャロルから借りた金だ」
なにしろ
実際には、残り半分の5000を集めるのさえ、いささか骨が折れた。金を用立てて貰っただけではない。手持ちの私鋳銭やら商会紙幣やらを信用の高い通貨へと両替するのにも、知恵を借りた。キャロル・スタンフィールドの助力が無ければ、ベンソン兄弟だけでは三千
「スタンフィールドか」と小さく呟いたリヴィに妙な気配を感じ、アーロンは釘を刺した。
「おい、踏み倒そうなんて考えるなよ」
「そりゃ、あいつはいいやつだし、世話にもなってるからなぁ」受け合うリヴィだが、幼い頃から口では頷きつつ平然と約束を破ることのある弟には、深く考えずに人を侮って軽挙に走る悪癖があった。
軽口を叩くリヴィを今一つ信用できず、アーロンはひとつ昔話を口にした。
「老スタンフィールドの親父さんが、ギャングの追手を三人ばかり撃ち殺したの憶えてるか?」
「忘れるもんかい。鮮やかだったねぇ。旦那《おやじ》は。こう、伏せた姿勢から。矢継ぎ早に、馬に乗ったギャング共が慌てて引き返していくのは爽快だったぜ」
「親父さん曰く、倅はもっと上手いとさ」とアーロン。
「へぇ、人は見掛けに……分かりましたよ」アーロンに睨まれたリヴィは、降参だとでも言いたげに両手を上げる。
「本当に分かってるのか?ここは曠野じゃない。文明地だ。それを忘れるなよ」
アーロンの言葉に、リヴィは肩を竦める。
「俺だってうまく適応してるだろ?時々、息苦しくなるけどよ」
数秒、じっと弟を見つめたアーロンは、弟の両肩にごつい手を掛けてから言い聞かせた。
「いいか、リヴィ。法ってのは俺たちも守ってくれるんだ。こっちが先にかなぐり捨てたら、相手も曠野の掟で対応してくる」
アーロンに顔を覗き込まれたリヴィも、流石に真剣な表情を浮かべて頷いた。
「分ったなら、それでいい」アーロンも重々しく頷いた。
釘を刺されたリヴィが、話題をそらすように言葉を続けた。
「で、モージス兄ぃは何処さ?」次兄を探すように視線を彷徨わせるリヴィに、旧ポレシャを囲む低い石垣をアーロンは親指で示した。
「あの中だ。おれたちゃ、入れねえ」
遮蔽を取ってる二人の警備は時折、兄弟に鋭い視線を投げかけながらも、何処を見ると言う事もなく四方に視線を配っていた。
「警備がいるな。二人か。ピリピリしてやがるねぇ」一目見て、警戒の厳しさを見て取ったリヴィだが、やはり口調は軽く聞こえる。
「やっぱり、居留地でも一万の取引はでかいんだな」言ったリヴィが肩を竦めながら、兄を見て「モージス兄ぃのお零れだが、まあ、悪くない気分だな」軽薄な笑みを浮かべながら肩を竦めた。
「一万……一万ギルドクレジットか……」腕組みして壁に寄り掛かったアーロンの呟きと続いての沈黙に、リヴィが首を傾げた。
「どうしたい、兄貴?柄にもなく、物思いに耽っちゃってさ」
「いや、なに。遠くへ来たもんだと思ってな」感慨深そうなアーロンに、リヴィが口元を少し歪めて、軽く笑った
「ああ、俺たちもいい御身分になったもんじゃないの。ベンソン兄弟は大物って訳だ、嬉しいねぇ」
※近況ノートに備考
物語世界の通貨とその母集団、そして各々の通貨や貨幣の意匠など