辺土の古い居留地は、大抵が旧世界の残骸である廃市街にへばりつくように存在している。かつての文明崩壊とそれに伴う大規模な飢餓や疫病に脅かされた人々は、旧文明の廃都市やそこに残されたわずかな資源を再利用することで辛うじて生き延びたからだ。特に大きな居留地の幾つかは、広大な旧市街地に寄生するようにして隣り合い、まるで死した獣に群がる虫のように廃墟の一部を占拠している事もあった。ポレシャもまた、居留地の防壁を挟んで東側には広大な廃市街地を抱えている。そうした大きな居留地に対し、廃墟民の『集落』は、朽ち果てた建築物が立ちならぶ廃墟の隙間に寄り添うように点在し、数家族単位の村人たちがギリギリの均衡を保ちながら綱渡りのような生活を続けている。
ところで屍者《ゾンビ》は、実に強い腕を持っている。痛覚や疲労の限界がない屍者《ゾンビ》の膂力は生前を遥かに上回っており、鋭い爪と乱杭歯は迂闊な犠牲者を容易く引き裂いてしまう。屍者《ゾンビ》の群れに囲まれた不注意な生存者が八つ裂きにされる光景は、廃墟においてよく目にする光景ではあるが、だからと言って慣れるものではない。
小さな居留地や孤立した農場なども屍者《ゾンビ》には常に脅かされているが、兎も角、行商人や旅商人と細々でも取引を保ち、拠点に籠る者たちは多少なりとも怪物に抗う力は備えているものだ。そうした人々とは違い、碌な武装を持たない廃墟民にとって、屍者《ゾンビ》の存在はまさに忌むべき悪夢であった。
貧しい者たちは屍者《ゾンビ》に対して有効、かつ安全な武器を所有していない。飛び道具は、常に高いコストが掛かる。それが火縄銃や大型クロスボウと言った他よりは安価な武器であっても、整備や矢玉の補充には技能や道具、伝手、資材が不可欠だった。
火縄銃には火薬の調達や保管、銃身の入念な清掃が欠かせない。特に黒色火薬のガスや残留物は、腐食性の化合物を生じさせて銃身を腐食させる。火薬の供給には安定した伝手が必要で、湿気に弱いため保管場所にも気を使う。クロスボウにしても、ボルトも弦も消耗品で、本体の整備にも適切な工具と技術がなければ、やがては使い物にならなくなる。
農民や労働者であれば、辛うじて手が届くそれらも、廃墟生活者には入手して維持し続ける事は難しい。廃墟生活者には手入れの道具もなければ、工具や補給品に関する知識や伝手も欠けている。エアライフル、弓矢にクロスボウ、ネイルガンなど、さらに安価で比較的に入手しやすい武器と幾らかの弾に電池、ポンプなどを所持していれば、用心深い廃墟生活者ならば数体の屍者《ゾンビ》にも対処できるかも知れない。或いは、頑丈な家に住んでいれば、バリケードの内側から一方的に攻撃できる仕組みを作れる者もいるだろう。多少の智慧が廻る廃墟民であれば、逃げ道を用意したり、罠へと嵌めて撃退したり、窮地から逃れる術を普段から模索するだろう。
でも、大半の廃墟民は、そんな知恵も工夫も持ち合わせてはいないのだ。
弱い変異獣や野生動物とは違い、屍者《ゾンビ》は諦めを知らない。屍者らは痛みや空腹によって追跡を止めることはなく、どんなに消耗しても獲物を執拗に追い続ける。弱者にとって、屍者《ゾンビ》の恐怖はまさにそこにある。変異獣や野犬であれば、傷を負えば逃げ出し、空腹でなければ襲ってこないこともあるが、屍者《ゾンビ》にはそうした限界がない。屍者《ゾンビ》は、追跡する獲物を見つければ、痛覚も疲労も感じることなく、ひたすらに追い詰め、捕らえるまで諦めることがない。屍者の絶え間ない執念は、碌な武装を持たない廃墟民にとって絶望そのものだ。
廃墟民の所持する飛び道具なんて小型の弓矢やクロスボウ、それにスリングショットが関の山で、これでは小動物を狩ったり、少数の野犬を追い払うのには使えても、屍者《ゾンビ》には殆んど通用しない。たった一体の屍者《ゾンビ》の頭蓋骨さえろくに貫通しないであろう非力な矢玉に対し、屍者《ゾンビ》の脅威は、恐るべき耐久力にあり、たとえ廃墟生活者が多少の飛び道具を持っていたとしても、効果的に対処するための経験や訓練も不足している。
畢竟、追い詰められた廃墟民たちにとっては大抵、肉体のみが最後の武器であった。 人間を素手で八つ裂きする屍者《ゾンビ》の群れを相手に、粗末なこん棒や手製の槍、鉄パイプやフライパンなど、その他ありあわせの武器を手にして、噛まれたり、爪で感染しないよう、己に幸運が残っていることを祈りながら歯を食いしばって立ち向かうのだ。
まあ、勝てる訳はないのだが。
「どうしてこんなことに…」
荒廃した市街地の細い路地を必死に走り抜けながら、廃墟民のアダムは呻き声を洩らした。
先刻までのアダムは、廃市街の片隅に隠された『家』でいつも通りの生活を送っていた。朝には隣人と挨拶を交わし、妻や子供と共に食事を取った。豆と鼠肉の塩スープにライ麦と食べられる草を混ぜた黒パン。貧しいながらも幸せな日常風景は、しかし、屍者《ゾンビ》の群れが殺到してきた瞬間に破綻した。
気づいた時は、虚ろな呻き声が風に乗ってすぐ近くまで迫っていた。
不気味な足音が幾重にも重なって響いてくる。何時の間にやら、鼻を突くような強烈な腐臭が間近に漂っている。背筋が一気に冷え込み、空気が粘性を帯びたかのように重くなった。
ありあわせの廃材で作った壁でも野犬や巨大鼠程度なら問題なく防いでくれたし、屍者《ゾンビ》も二、三匹であれば充分に時間を稼げるはずだった。その間に槍やこん棒で室内から一匹ずつ仕留められばいい。
だが、押し寄せてきた屍者《ゾンビ》の数は、十や二十では効かなかった。
一体なにがあったのか?偶々、徘徊する大きな
いずれにせよ、屍者《ゾンビ》の
走り続けていたアダムの後方で小さな悲鳴が響いてきた。一緒に逃げていた隣人の娘アリスが横転したのだ。助けを求めるようにアダムを見つめるアリスの背後から数体の
手元には、錆びた短い鉄パイプしかない。死にたくない、でも、勝つ見込みはない。一瞬の躊躇の直後、アダムは踵を返して逃げ出した。
腕の中に抱えた赤ん坊の熱が助けに戻ることを躊躇させた。
「……許してくれ」アダムの背後から恐怖に引き攣った悲鳴が響いてきた。
アダムは喘いだ。冷たい汗が額を流れ、心臓が喉まで上がってきている。背後から響いてくる不気味な呻きも心臓の鼓動にかき消されてしまいそうだった。疲労で足が震えた。
(……神さま、どうか奪わないでください。やっと生まれた子なんです。もうこの子しかいないんです)
弱々しくぐずる赤子を抱えながら、アダムは狂おしく路地を見回した。廃墟に広がる街路は、ある場所は瓦礫に塞がれ、ある場所は建物が崩壊して抜け道となっている。屍者《ゾンビ》の声は四方から響いてくる。どこに逃げても、死の影が迫っているように思えた。
背後からは、低くうめく声が聞こえる。振り返ることもできず、アダムは必死に進み続けた。頭上の廃屋から落ちてくる瓦礫の音、地面を這うように進む屍者《ゾンビ》たちの影、視界に入り込むものすべてが脅威に見えた。呼吸が荒くなり、赤子の温もりが一層大きく感じられる。
「どこに行けばいいんだ…」無意味に自問自答を繰り返す。逃げ道が見えない。廃墟のどこかに助けがあるのだろうか。他の『村』や『市』に逃げるか? 駄目だ。受け入れられるはずがない。屍者《ゾンビ》を引き攣れたよそ者など、立ち入りを許される筈がない。遠距離から撃ち殺されてお終いだ。なんとなれば、アダムにしてからが過去、怪物や追剥に追われるよそ者を幾度となく見捨ててきたのだ。
今、目の前にある小道は、薄暗く不気味だった。瓦礫の隙間からは冷たい風が吹き込み、どこかで水が滴る音が響いている。既に慣れた縄張りからは離れすぎて、何処に続いているのかも分からない。このまま進めば、出口にたどり着くのか、それとも袋小路なのか。
アダムは赤子を抱きしめ、冷静に考えようとしたが、時間がなかった。鳴り響く赤子の鳴き声。アダムは慌てて、掌を我が子の口に押し当て、懇願するように泣かないでくれと言い聞かせた。
ぎょろぎょろと落ち窪んだ眼で落ち着きなく周囲を見回す姿は、傍目からすれば、まるで自身が動屍者に見えたかも知れない。アダムは意を決して小道に踏み込んだ。
心の中で神に祈りを捧げながら、薄暗い小道を進むにつれ、背後からの音がさらに大きくなってきた。ゾンビのうめき声、足音、そしてかすかに聞こえる風の音色。近づいてくるのか、それとも音の反響で遠ざかっているのかも分からない。
廃墟と隣り合った居留地に向かえばよかったのだろうか。ポレシャは、だが、大きな居留地だ。防壁の上には、いつもライフルを持った警備兵がいる。
怪物を引き連れて迫れば、きっと撃ち殺される。しかし、赤子がいるのだ。
気まぐれで見逃してもらえるかも。ポレシャへと続く通りも見通しのいい開けた場所だから、他の怪物や変異獣だって襲ってくるかも知れない。
分からない。アダムにはなにも。いつの間にか泣き止んだ我が子が虚ろな目つきで呻いてる事も。その背中の爪で引っ掛かれたような傷跡が、青く濁ったように変色している事も。アダムには、もう分らなかった。
※※
風が吹く日は、居留地《ポレシャ》の何処にいても、不気味な呻き声が耳に入ってくる。徘徊する屍者《ゾンビ》たちの嘆くような咆哮が、荒廃した大地の静寂を破り、風に乗って寝床の中まで届いてくるのだ。
居留地《ポレシャ》に暮らす者たちは、誰もが過酷な環境に慣れていた。乾いた音を聞くたびにわずかに表情を曇らせるが、すぐに普段通りの仕事に戻る。日常の一部となった恐怖に慣れてしまったかのように見えるが、心の奥底では、誰もがその呻き声に敏感に反応している。薄暗い空の下、茫漠の大地に囲まれた小さな領域で生活を営みつつ、近隣の廃墟に潜む恐怖を無意識の奥に押し込めている。それでも風が吹く夜。どこかで誰かが恐怖におののく声が耳に入る時、窓の隙間から忍び寄る呻き声に、かすかに背筋が冷たくなるのだ。
時折、屍者《ゾンビ》たちの呻き声に異様な音が混じる。乾いた、何かが引き裂かれるような粘質の音。断末魔の叫びが風に乗って途切れ途切れに運ばれてくる。居留地でも廃墟に近い一帯の住人たちは、その音が何を意味するのか分かっているが、敢えて口にする者はほとんどいない。ただ、静かに祈るように身を縮めて、武装を握りしめながら、まんじりともせずに夜明けを待つのみだ。
酒場の上階にある薄暗い室内でリーナはゆっくりと目を開けた。外は昼下がりで、僅かに騒がしい時間帯。微かに冷たい空気が肌を撫で、午後の日差しが窓越しに差し込んでいる。
「……今朝から廃墟の空気が妙に騒がしい。何かあった」半身を起こしながら確かめるようにリーナは低く呟いた。
「何かって、なんだ?」
寝ぼけたような声を洩らしつつ、ベッドから伸ばされた男の手が、リーナの腰に触れようとするが、さりげなくそれを押しとどめる。冷えた床に裸足で立つと、わずかに開けられた鉄格子の窓から早朝の残り香のような風が滑り込み、カーテンを揺らした。いつもとは違うかすかな音が遠くで響き、リーナの胸の奥にかすかなざわめきが走った。
下着を付けながら、隣にいる男に視線を落とした。
「……ちょっと待ってて。様子だけ見てくる」
男は軽く息をつきながら、身を起こしてリーナを見やる。男の表情には呆れたような、諦めのような色が浮かんでいる。「またゾンビの声に反応してるだけなんじゃないか?」
「かもね」と、リーナは床に落ちていたシャツを無造作に拾って引っかけながら返した。「でも、気になったときに確かめとかないと落ち着かないんだよ」
窓辺に歩み寄り、古びたカーテンを引きながら遠くを見やると、灰色がかった廃墟の街が常にも増して昏く沈んだ気配を漂わせていた。どこかでガラスが割れるような鋭い音が風に乗って響いてきた。
彼方まで広がる曇り空の下、建物の影がいっそう色濃く映り、陰影のどこかに怪物たちが今も息を潜めている。乾いた空気に混じって、廃墟からかすかながらいつもと違う音が響いてくるような気がして、リーナは体の芯がざわめくのを感じていた。
リーナ・シンプソンは、酒場『アイリスの庭』の女給だ。アイリスで働く女たちの大半がそうであるように、リーナも娼婦としての顔を兼ねていた。酒場の女給たちにもそれぞれの人生と物語があって、リーナの場合は病気の父親を助けるのに纏まった金が必要だった。他にも手っ取り早く稼げそうな仕事は幾つかあったが、残念ながら流れ者の娘にまで機会は廻ってこなかった。今は薬も必要無くなったが、まだ時折は馴染みの客と寝ている。
朝からの仕事中、リーナは異様な響きを耳にしていた。忌々しいゾンビたちの呻きに入り混じって、恐怖に濁った叫びや助けを求める声が聞こえた。微かにだが、間違いない。音の微細な違いを感じ取る自信はあった。リーナ・シンプソンは、曠野を流離う猟師《ハンター》の末裔だ。時には村人に雇われて怪物とやりあった為、耳にそれなりの自信があった。経験上、助けを求める声を無視するべきかどうかは難しいところだが、薄い下着姿のまま、リーナは四階の屋上に立った。
居留地の主要な建物が大抵、そうであるように酒場も旧文明の頑丈な建築物を再利用したものだった。半ば崩れかけた四階、或いは五階の屋上で冷たい風に身を晒しながら耳を澄ませる。遠くで何かが軋むような音がしたかと思うと、次には聞き慣れた低い呻き声が風に乗って届く。また、聞こえた。歴史を感じさせるモシン・ナガンM1891/30型を抱えたリーナは、右手の指先に唾をつけて風向きを測っていた。モシン・ナガンはリーナにとって唯一の財産、かつ信頼できる相棒で手放す考えなど考えられなかったし、伝手もない流れ者が小さな居留地で手放そうとしても、価値も知られずに安値で買い叩かれるのがオチだろう。
先刻まで仕事をしていたリーナは、朝から仕事で纏っていたやや扇情的な下着姿だった。肌にまとわりつく冷気に少し身震いしながらも、意識は遠くを見据えたまま離れない。背後に足音が近づいてくる。先刻の客の男が隣に歩み寄ってきた。双眼鏡を手に、リーナの見据える方向へと視線を合わせる。
ポレシャの街は、旧文明の廃墟の中で生き残る人々が集まる場所だが、壁の外には荒廃した土地が広がり、隣接した広大な旧市街地には、人間すら餌食とする怪物やゾンビたちが徘徊している。時には、居留地の間近にまで怪物どもの禍々しい影が近づくこともあるため、銃を持つ傭兵たちが常に警戒を怠らない。リーナが抱えるモシン・ナガンM1891/30のような信頼性の高い武器も、今や生き残るための必需品となっている。
風に乗って届く屍者《ゾンビ》の呻き声は、世界が以前とは異なることを常に思い出させる。音はどこか遠く、そして近くから聞こえてくるように感じる。それは、曠野に生きる人々に無情な現実を突きつけ、かつての平穏な生活が二度と戻らないことを示す刻印のようだった。
リーナの傍らで双眼鏡を構えた客の男が、視界を横切る微かな動きを捉える。
「見つけた。大通りの先だ」しゃがみ込んだ男の囁きに、リーナは「……よりによって」小さく舌打ちを洩らした。
ポレシャ居留地と隣り合う廃市街地、特に大通りは常に死の影が漂う場所だった。 かつて栄えた商店が軒を連ねていた痕跡を残しつつも、足を踏み入れる廃墟漁りすらも滅多にいなかった。視界は広がりすぎて隠れる場所がないうえ、時に数十匹の野犬の群れや狂暴な変異獣たちが間近に巣を作り、獲物を求めて通りを徘徊している。残された多少の機械部品などを目当てにしても、遠吠え通りは踏み込むには危険すぎる場所だった。碌な武装も無しに踏み込めば、翌日には骨も残らない。
赴くのは自殺志願者だけと言われる通りを今、二つの小さな影が駆けているのが見える。薄汚れた襤褸服から見るに廃墟民の子供たちだった。互いにしっかりと手を握り合い、息を荒らしながら必死に走っている。兄妹だろうか、幼さの残る二人が広い通りの真ん中を突っ切って逃げている。
廃墟の何処かで集落が襲われ、そして逃げ出したのだ、とリーナには分かった。よくある話だ。今までも、そしてこれからも。
子供たちの背後から、数体のゾンビが歩調を合わせるように追っていた。小走りで忍び寄る屍者《ゾンビ》たちは、生きていた頃の習性を保ったかのように途切れることなく小さな獲物たちを追い詰めている。中でも一際素早いものが数体、混じっていた。
そして、廃墟に潜んでいるのは、
スコープ式の照準器の中でレティクルが微かに揺れた。リーナは、ダイヤルを調整する。屍者《ゾンビ》の群れから逃げ続ける子供たちの背丈からおおよその距離を割り出す。ひび割れたアスファルトの上を、廃車を避けながら必死に走っていた。当然にゾンビたちの動きも左右に大きく振れている。
居留地から東の方角には、水源に恵まれた渓谷が位置している。昼に陽光で暖められた湖の空気は上昇気流となり、その分、春先は特に冷たい風が流れ込むので東に向かっては強い追い風となる。
「距離は300から320メートル」隣の男が低い声で告げた。
「西から東への微風、追い風は1.4から1.6メートル。やや右から左に流れてる」どうやら、観測手を務めてくれるらしい。淡々と告げられる報告には剛直なまでの落ち着きが保たれていて、リーナにはその冷静さが心強くもあった。感謝の意を込めて頷く。
当てられるだろうか。300メートル先。実際には、やや異なるが。4倍のスコープを用いても、ぱっと見で75メートル先。それでも15階ビルの屋上から地上の人に当てるようなもの。動いている屍者《ゾンビ》の頭に当てないといけない。
モシン・ナガンは良い銃だ。期待された性能を裏切ったことは一度もない。信頼に応えられないとしたら、それは常にリーナの腕が不足していた時だけだ。
300メートル先の命中地点では、射角の1度のズレが約5.24メートルのズレとなる。風速にしてわずかでも命中精度に影響が出る距離だ。射撃の世界で1度の違いとは小さく見えて、遠距離では命取りとなり得るズレだと知っている。
リーナ・シンプソンは、猟師の家系に生まれた。父は猟師。祖父は猟師。祖父の祖父のそのまた祖父まで猟師であった。幼い頃から狙撃の技術を仕込まれてきた。家族に伝わる経験がその末裔の指先に宿っている。リーナの指先はわずか0.1度単位の調整も感覚で捉えられるまでに鍛えられていたが、300メートル先では、それでも52.4センチのズレが生じる。
尋常の距離ではない。当てられるだろうか?300メートル先の西瓜より小さい、移動する標的を。
リーナは、息を吸い、吐いた。もう一度吸ってから、小さく吐く。呼吸を止め。逃げる子供たちとその背後に迫りつつある
スコープの中で見た子供たちはきっと泣いていた。きっと一日にして、家族も、家も失くしたのだ。仮に助けられても、この先、いい事があるのだろうか。それでも助けるべきだろうか。迷いでわずかに指先が震えた。
結局のところ、廃墟生活者の人生とは薄氷の上を踏みながら湖を渡るようなものだ。いずれは氷が割れる。遅いか、早いかの問題に過ぎない。
だから、助けられないでも恨まないで。と、モシンナガンを肩付けに構えながら、リーナは祈るように引き金を引いた。
最初の狙撃。外れた。着弾点は、40センチほど右にズレていた。遠距離射撃にライフリングを意識し過ぎて右を狙い過ぎたようだ。
2発目。右回りのライフリングに弾は左に流れるため、意図的にやや右を狙ったが、初弾は、過剰に補正してしまった。ダイアルを調節して発砲。先頭の女
3発目。今度は頭をわずかに逸れて、すぐ横の壁を砕いた。大丈夫。まだチャンスはある。
4発目も外し、しかし、リーナの撃つ手が止まった。
モシン・ナガンは、7.62×54mmリム弾を使用している。巷には黒色火薬の入った安い弾薬も売っているが、リーナが用いるのは無煙火薬を用いた純正品だけだ。荒野を流れる行商人たちが気まぐれに届けてくれるが、娼婦として生きるリーナには、辺境での入手は安くはない。手持ちは十四発。残りは十発。
深呼吸する。あと一発でワンクリップ分。残り一発、撃って当たらないようなら……
「気楽にやれ」耳に声が届いた。リーナは応えず、静かに吐息だけを軽く吐いた。
「お前に助けられなければ、誰にも助けられない。逆に言えば、今、あの子らを助けられるのはお前だけだ」面白そうに言ってくれる。客の男には、そう言う諧謔的なところがあった。 大丈夫とは言わなかった。ただ、助けることを期待してる。そして仮に助けられなくても、男は責めないだろう。
リーナ・シンプソンは気を取り直して、モシン・ナガンのスコープにすべての神経を集中させた。銃の腕だけはキャシディ・エヴァンスにも負けない。例え、他の全てが劣っていてもだ。
300メートル。
無意識。撃った瞬間。当たると確信していた。
屍者《ゾンビ》。撃ち抜いた。
腐った脳症を撒き散らすのを感慨もなく観察しながら、機械的な動きで装弾子《クリップ》を交換する。
5発目に続いて、6発目も屍者をヘッドショット。
七発目は、足を狙う。先頭を走る屍者《ゾンビ》が転倒し、複数の個体の動きを鈍らせた。
子供たちが狭い路地へと駆け込んだのを見届けてから、リーナ・シンプソンは大きくため息を吐いて、数秒をモシン・ナガンのストックに顔を埋めた。取りあえずは、逃げられたと考えていい。これから先、助かるかどうかは彼ら次第だろう。廃墟の脅威は、屍者《ゾンビ》たちだけではない。逃げ切れるだろうか。なんとか生き延びて欲しい、とそう思った。
「相変わらず、良い腕をしている」客の男が賞賛に息を深々と吐いた。
「お前を保安官に採用しなかったのは、まったく
どうだ?今からでも民兵にならんか?」伏せ撃ち姿勢のリーナに手を貸して立ち上がらせる。
「ならない」手を取ったリーナは、クスクスと笑いながら断った。
「どうしても?」
「民兵は、危険な仕事だからね。隊長さん」
「言ってくれるな」客の男。チェスター中尉は、僅かに口の端を歪めた。危険な任務に民兵が死ぬ。民兵幹部である男の手腕を非難する向きも居留地には一部あった。
「いや、わたしは感謝してるよ」取り繕うようなリーナの一言に苦い笑みを浮かべる。
「予算がもう少しあれば、死なないで済んだ奴もいた筈だが」ボヤくように言ってから、客の男は大きくくしゃみをした。
「すっかり身体が冷えちまった。
さあ、部屋に戻ったら、よく暖めてくれ」
チェスター中尉は快活に笑いながら、リーナの尻をピシャリと叩いた。