黄昏のガンダルヴァ   作:猫弾正

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02_36 屍者の群れ

 町外れの街区に警報の音が響き渡っていた。不規則な間隔でゆっくりと鳴らされる鐘の音は、ただの時報ではなく、なにかしらの緊急事態を住人たちに知らせる役割を持っていた。とは言え、巨大蟻襲来のような切迫した危機であれば、鐘の音も耳を劈くようにもっと早く、激しく打ち鳴らされる。

 それでも行き交う人々は一瞬、足を止めた。互いに顔を見合わせては、不安げに囁き合う渡り人(オーキー)の主婦たちもいれば、ろくに武装を持たぬ為に、頑丈そうな廃屋を見繕ってはシェルター代わりとばかりに潜り込む浮浪者《ホーボー》もいた。冷たい空気にくもぐりながら警報の響き渡ってる街区で、じっと気配を殺しながら災禍が通り過ぎるまでやり過ごすつもりなのだ。

 

 裏通りでは自警団と思しき武装した者たちが駆け回っていた。見張り台(ウォッチタワー)を兼ねた古い廃ビルに門番の一人が駆け込んでいく姿も見える。幾人かは緊張した面持ちでクロスボウに弦を張ったり、火縄《マスケット》銃に火薬と鉛玉を込めていた。旧式の武装とは言え、威力だけで見ればそうは劣らない。迫りくる相手が変異獣やゾンビなどの怪物にしろ、盗賊や人攫いなどの賊徒にしろ、遮蔽を取っての狙いすました伏兵の一撃は、殆んどの相手に痛撃を与えられる。

「当番、集まれ!」叫び声が路地裏にまで届いてきた。バリケードの近くでは、自警団員たちが焚いた炎に廃屋の壁が照り返されて輝いていた。

 

 袋小路に作ったねぐらの入り口で、マギーは喧騒の一部始終を眺めていた。危険な気配を嗅ぎつけるのは、マギーでなくても難しくなかった。

「……怪物でも寄ってきたかな」微かな緊張を帯びたマギーが立ち上がろうとするも、ニナはしっかと抱き着いて離さない。

「……ニナ?」少しだけ戸惑った声でマギーはニナの名を呼んだ。

 

 不穏な空気を察知した近隣の住人が武装し、或いは立て籠る為の準備を進める中、傍らに立てかけたバットを一瞥したマギーだが「駄目」と耳元で囁く掠れた声に動きを止める。

 「……多分、怪物が迫ってきてる」若干の緊張を帯びてマギーは促がしたが、ニナは離れない。まるでユーカリにしがみついたコアラを連想させた。旧式とは言え、充分に致命的な武装を携えた自警団員や渡り人(オーキー)たちが三々五々に忙しく動き回り、或いは遮蔽物に身を潜める姿を見れば、居留地に迫っている怪物はゲッコーや働き蟻の2、3匹などでは済まないと察せられた。

 

 曠野に蔓延る変異獣《ミュータント》には、俊敏な動きを持って低い壁なら昇ってくる人擬きの類も確認されている。例えば、骨食み猿。赤みを帯びた白肌の人擬きで好物は人間の肉……特に人の子の脳みそを好んで食してくる。力はてんで大したことが無く、一対一でも棍棒を持った成人が撃退できる一方、中々に器用かつ俊敏。

 ある農村地帯で、夜ごとに子供だけが消える事件が続発した際には、暗闇の中、窓を叩く音を聞きつけた母親が駆けつけるも、荒らされた寝床と血痕だけが残されていたと言う。鹵獲した人間の武装や簡単な道具を使いこなす姿から、或いは退化した人類の末裔だとも密かに囁かれている。

 

 或いは、四足獣型のラーカー。げっ歯類に似た不快な匂いの怪物で、わずかな音や動きでさえも敏感に察知し、鋭い牙と爪で人を襲う危険な獣だ。その鋭いかぎ爪は壁をものともせずに乗り越えてくる為、囲いの内側も決して安全ではない。普段は臆病で一匹では人間たちから逃げ出す為に軽く見られがちだが、数が集まった途端、悪辣なまでの残忍さを剥き出しにして獰猛に襲い掛かってくるその振る舞いは、単なる飢えや狩猟本能では説明のつかない冷酷な執念さえ帯びている。大型の変異獣に混ざって居留地を襲撃する例すらあって、稀に消息を絶つ小さな隊商や村落の幾つかは、こいつの仕業と見做されている。過去には、荷台に隠れた隊商の生存者が、仲間を次々と引きずり出され、凄惨な末路を迎える様子を目の当たりにした記録もあった。

 

 

 町外れ地区を囲んでいるバリケードも劣化を避けられない。風雨と歳月によって風化もするし、変異獣やゾンビの体当たりを受ければ痛みもする。甚だしきは廃墟民や浮浪者などが木柵の一部を持ち去って、煮炊きや暖を取る薪に使う事例もある。五十年、百年と続いた居留地が滅びることさえ珍しくないのに、ある種の輩は手近な共同体に物資などを依存しながら、その安全を損ねても平然としていた。

 

 ポレシャが滅びる筈がないと楽観しているのか。自分だけは助かると考えている個人主義者か。或いは、何も考えていないのか。貧困や疎外感から逆恨みする者もいれば、実際に痛めつけられ憎む者もいるだろう。ポレシャ程の居留地となれば早々、滅多なことは起きらないにしろ、公共物の窃盗や破損を行う者たちの存在は、建物に巣食った白蟻のようにじわじわと居留地の防備を蝕んでくる。

 

 かがり火の光と踊るような人影が入り混じる路地裏で、下層区画の住人たちはなにかしらの怪物に備えて息を殺しながら、武器を構えていた。ニナに抱き着かれたマギーもまた、迫り来る災厄をただ待つしかなかった。

「……仮の話だけど今、襲われたら、二人ともお終いだよ」マギーが淡々と告げる。

「……多分、大丈夫。駄目な時は一緒に死ぬ」ニナは囁きを返してきた。

 警戒の鐘は防壁の方向から聞こえてくる。銃声は疎らだが、焦った感はしない。よく狙いしまして撃っているならば、確かに多分、大丈夫ではある。それでも愚かしい行動には違いないが。

 

 寒さの残る春の日差しの下、二人の傍らでは焚火が揺れていた。ニナの体温は低かった。身体が冷えている。揺れる炎の傍で抱き着かれたマギーの肌はじっとりと汗ばんで、頬を流れ落ちた水滴をニナが舌で舐めとってきた。

 明らかに単なる親愛以上の念が込められてる行動だが、しかし、マギーはニナを退けようとはしなかった。

 ニナとは廃墟で出会った。天涯孤独の身だ。他に頼るべき者もおらず、普段は賢明で試すような真似もしない。そんな娘が震えていた。拒絶される事に怯えてるのか。何時死ぬか分からない暮らしの中、真情を告げている。誤魔化したり、はぐらかすべきではないと、頷いたマギーは大型犬のように鼻尖をニナの頬に当てて「そうだね……仕方ないか」とだけ告げると、ニナは怯えたように小さく痙攣した。

 ニナはマギーに執着しているが、拒んだら姿を消すかも知れない。理由もなく、そんな予感を覚えて、マギーは目を閉じた。ニナには危うさも感じる。杞憂だろうか?

 

 かなり近場で、銃声が響いた。二、三発。それにボルトを打ち出すような低い風きり音。防壁の外で騒いでいる怪物は多分にかなりの脅威ではあるが、バリケードと飛び道具で対処できないほどの物量でも危険性でもなさそうだ。クロスボウの弦がしなる硬質の発射音。見込み違いなら、やや危険な事になるか。

 

「人の気持ちは、変わるものだよ」ニナの耳元で囁いているマギーは、幾度となく他人の変心や惨状を味わった。マギーとて裏切りこそしてないが、仲間を見限り、見捨てた過去は持っている。

「変わらない」断言するニナの一途さに、心底で鈍い痛みが疼いた。ニナの無垢を貴重に感じると同時に、滅茶苦茶にしてやりたい衝動が湧いてきて、自身に少し驚いた。

(……戻れない場所への憧憬かな?それとも己の惨めで残酷な過去への後悔?落ち着け、マルグリット。人生は得てしてそんなものだ……ニナを傷つけることはしたくないよ?しない。よし)一瞬だけ言葉にならない二律背反な気持ちが胸の奥でざわめいたが、マギーは少女を抱きしめた。

「わたしも、あっさり無惨に死ぬかもしれない」囁いてるマギーは無論、容易く死ぬ心算はない。曠野は危険な土地で、マギーにしてから偶に惨めな敗走を強いられる。それでも幾度かの危険な状況も切り抜け、強敵も凌いで生き延びてきた。

「うん」頷くニナの頭を犬のようにスンと嗅ぎながら、一方でなにが起こるか分からないのも人生だとマギーはおぼろげに思った。突然に難事と遭遇したり、危地に陥って其の儘に死ぬことは充分に有り得るとも覚悟している。マギーが殺してきた者たちだって悪党ばかりではないし、きっと明日も生きたいと思っていたに違いないのだ。

「その時は……仇を取っても構わないし、忘れても構わない」マギーの呟きを受けたニナは無言のまま、やや不満げに身じろぎして唸った。

「唸らない。わたしが君の幸せを願っていた事だけは忘れないでください。例え、君が一緒に死にたいと思っても、一度は思い出してから判断して」マギーは囁いた。

「分かりました」約束する言葉。マギーがニナの唇に指で触れ、それから口づけると、ニナは顔を喜びに輝かせた。

 

 

 ※※

 

 

 

 曠野に暮らす人々。殊に小さな居留地の住人にとって、最大の脅威のひとつがゾンビの群れ(ホード)だ。単体や少数の屍者《ゾンビ》であれば手に負える相手かもしれないが、群れ(ホード)となると別格の脅威だった。それは嵐のように襲来し、圧倒的な物量と絶え間ない執念で、最も堅固な防備でさえも打ち崩して生者の暮らしを根こそぎ破壊し尽くす。

 

 一対一であれば、武装した人間は容易く屍者《ゾンビ》には負けない。特に慣れた人間や訓練を積んだ人間であれば単騎、二、三体を屠るのも難しくない。  

 しかし、これが五、六体となると状況はかなり難しくなり、特に交戦地点により戦況は劇的に変化する。良い武器を揃えた手練が広い所で同数の屍者《ゾンビ》に立ち向かえば、かなり素早い屍者《ゾンビ》相手でも無傷で勝利を収められよう。しかし、同じ一団が、狭い廊下で殺到してくる屍者《ゾンビ》を迎え撃てば、一人か二人がちょっとした怪我を負うか、運が悪ければ噛まれて犠牲を出すかも知れない。

 

 そして多数対多数となると、これは全く話が異なってくる。百体のゾンビの群れが百人の居留地に奇襲を掛ける形となった状況。例えば、夜更け。或いは曇天での激しい雷雨の中、人間側が不意を打たれた状況で防衛線を突破された場合、家屋や路地の各所で屍者《ゾンビ》による局所的な数的有利が発生する。

 殺到する屍者《ゾンビ》の大群に対して、閉所で抗うことはほぼ不可能だ。頑丈なバリケードと豊富な銃弾が揃っていれば、何とか押し留めることができるかもしれないが、過酷な環境下の曠野において、そのような好条件が整うことは決して多くない。

 

 感染後に死者たちが動き出すまでの時間にも拠るが、そうして屍者《ゾンビ》の犠牲者は次々と襲撃者の隊列に加わり、指数関数的に屍者《ゾンビ》の数は増加する。 

やがて居留地は滅亡し、新たな仲間を加えた屍者《ゾンビ》の群れ(ホード)は次なる餌食を求めて再び曠野を彷徨い始めるのだ。

 

 

 

 ローランズ副保安官は大食漢だ。ポストアポカリプスの厳しい時代にも関わらず、その腹は樽のように膨らんでいる。古い農場の家系で、実家は豚も飼っているので、給料は安いが食べ物には事欠くことが無い。幸い、先年の巨大蟻の侵攻でも農場の大半は被害を免れた。五人いる副保安官の内でもっとも実戦経験が薄いが、実家の伝手で外の隊商に顔が効き、物資調達の手腕には定評があった。

 

 だから、彼の副保安官という地位はある意味、渉外担当の為の伯付けであり、朝からデスクでパンケーキとフライドポテトを食べていても誰も咎める者はいなかった。食事の時間があれば、いつもローランズ副保安官のトーストには分厚くバターと蜂蜜が塗られ、ポテトの香ばしい匂いが制服から醸し出されている。好物の甘い砂糖菓子も、補給物資の調達や外部との交渉を担うにあたってのささやかな特権であった。

 

 そのローランズ副保安官が、朝から珍しく難しい表情で書類と睨み合っていた。

「エヴァンス君。弾薬の備蓄に不安がある。消費ペースを抑えられませんか?」

 やはり書類を眺めていたキャシディ・エヴァンス副保安官は、額を掌で抑えてから、弾薬の入った鉄製ロッカーを一瞥した。

「ローランズ副保安官。弾薬の仕入れを増やしてもらえないか、頼もうとしたところです」

「……分かってると思うが、弾薬は金を出せばすぐに買えると言う訳ではない。弾薬の生産者や流通業者。連中は、常連に限られた供給を割り当てている」

 ローランズの一家は、武器商人と何十年と個人的に付き合いながら、信頼を重ねて割り当てを増やしてきた。それ以上に購入しようと思えば価格は跳ね上がるし、長期的には顧客としての信頼も損なわれるとローランズ副保安官は説明する。

 

 法秩序の崩壊した曠野の地で、取引が主に信頼関係に依存していることは、キャシディとて理解している。無法の大地に浮かぶ島の如き居留地にとって、弾薬は存続を支える生命線そのものだが、しかし、ローランズ一家のように長年築き上げた信頼がなければ、それを手に入れるのはますます難しくなっている。

 対処すべき脅威は多い。略奪者《レイダー》や盗賊団《バンディット》、屍者《ゾンビ》や変異獣《ミュータント》は言うに及ばず、家畜を狙う野犬の群れや狼、畑を荒らす巨大鼠、さらには普通の兎や鼠などにも対処しなければならないが、今は小口径の弾薬や黒色火薬を用いた安価な弾薬ですら配給が滞りがちで、農夫や作男たちはこん棒を持って害獣たちを追い払っている。

 

 この際、保安官事務所の弾薬取引が属人的な事には目を瞑るしかない。しかし、 先代の保安官には伝手があった。だが、若きキャシディ・エヴァンスには?他に入手する手段はないものだろうか?

「都市から直接、買い付けられないかな」独り言のように口から洩れた言葉に、ローランズが悲しげに首を振った。

「私たちの紙幣は目下、暴落中だ。それでも商人が取引してくれるのは、小麦の備蓄がある程度、残されていたからだ」

 陰気に沈黙したキャシディに、ローランズ副保安官は言葉を続ける。「取引に裏付けとなる小麦が何処にある?来年や再来年の収穫を担保にでもするかね?」 

 目を瞑ったキャシディは、ため息を長々と吐いてから肩を竦めた。

「分かった。何とか、消費を抑えるよう努力しよう。ただ、そちらも何とか弾薬を確保できないか当たってみてください」

 ローランズ副保安官は、太い顎を豊かな肉に埋もれさせながら真剣な表情で頷いた。

 

「襲撃です。恐らく屍者の(ゾンビ)群れ(ホード)。かなりの規模です」息も荒く駆け込んできた伝令の報告を受けたのは、僅かに一時間後。キャシディ・エヴァンス副保安官は、無意識に手にしていたライフルのグリップをきつく握りしめた。

「……言った傍から」思わず天を仰いだキャシディに、まだ手を付けてないパンケーキの皿を眺めてから、ローランズ副保安官がおずおずと差し出してきた。

「……食べるかね? 糖分は気持ちを落ち着かせてくれる」

「結構です」

 

 事務所から外に出るや否や、空気に漂う腐敗臭は、遠くからの警告にも似てキャシディの本能を鋭く刺激した。

「エヴァンス君、これは」ローランズ副保安官が思わず顔を顰めている。

 

 風に乗って漂う腐臭をますます感じながら、足早に防壁へと向かう合間にも、キャシディは脳裏で指示を整理していく。伝令をした民兵のひどく慌てた様子から、キャシディの頭に浮かんだのは黒い潮流《タイド》のように押し寄せる屍者《ゾンビ》の波であったが、防壁の上に立ってみれば、予想したよりは小規模な襲撃のように見えた。

 

 保安官助手のシェリーとコーデリアを連れて駆けつけた防壁の手前。木柵と木製の杭で塞いだ通りの向こう側では、不気味な呻きが十重二十重に響いていた。キャシディを一瞥した見張りの傭兵が、押し寄せる屍者《ゾンビ》の群れに視線を戻しながら、冷静な口調で報告する。

「確認できる限りでは、三十五から四十。ただ、群れで集まっている部分は、特にかなり動きが素早くなっています」

 思ったよりも存外、多い。とは言え、それくらいの数では、東の廃市街沿いに接近された場合、見張り塔が群れを察知できないのも無理はなかった。

「……嫌な習性だ」呟いたキャシディの隣。民兵たちは、血の気の失せた蒼白な表情で群れをじっと見入っていた。

「先頭には小走り屍(ジョガー)が……動きは軽快で、弾が当たりません」見張りの女性民兵が青ざめた表情で状況を説明する。キャシディと同じか、もっと年下かもしれないが、新参だろうか。見ない顔だった。頬が緊張で強張っている。

 

 

「チェスターめ。何処でさぼってる」キャシディは、口の中で民兵指揮官を罵った。  

 居留地には二種類の人間がいる。壁一枚を隔てて死が有り触れてる事を常に意識している人間と、普段は外に怪物がいることを忘れて生きている人間だ。志願兵主体の保安官の練度は高い。が、少人数では居留地の防衛は廻らない。

 問題は、民兵たちの練度だった。大半の民兵は、単なる徴募兵だ。年に一週間ほどの訓練を受けただけで、怪物と戦う技能も覚悟もそれほど持ち合わせていない。蟻事件の際には、隠れてた手合いもいるだろう。持ち回り当番の民兵らを指揮するより、非番の保安官らを呼集して対処すべきかと一瞬、思ったが、練度の差があまりに開いても居留地の防衛に不安が残ると考えなおした。

 

呻き(ハウリング)の大きさからすると、背後には倍近く潜んでいても不思議はないね。ああ、廃墟に斥候は出さなくてもいい」ローランズ副保安官の意見にキャシディも同意した。廃市街は、怪物の巣だ。至るところで少なくない建物が崩壊し、瓦礫が地面を埋め尽くしている。通るべき道路は途中で断線し、奇怪な植物が繁茂し、踏み込めば足元が抜け落ちることも珍しくない。慣れないものが足を踏み入れば、簡単に現在地を見失ってしまうだろう。時間と装備に余裕がある状況なら兎も角、既に怪物が押し寄せてきた現状、廃墟に斥候を送ってもさしたる意味もなかった。

 

 頷いたキャシディが「防壁の補強はどうなっている?報告書は読んでる。特に気になる箇所はない?」隣に立つ民兵に尋ねた。問いかけには威圧するような強さはなく、淡々とした実務的な響きだけがあった。

 民兵は汗ばんだ額を拭いながら、ちらりとキャシディを見た。「補修は進んでいます。完全ではないが、すぐに突破される事は……」

「結構。では、訓練通りにやろう」言って、スプリングフィールド M1903を肩付けに構えたキャシディが発砲した。初弾で先頭のゾンビが脳漿を撒き散らしながら崩れ落ちる。

「絶好の射撃ポイントで足止め出来てる。良い装備を持った熟練兵たちにカバーさせながら、半数ほどは新兵らにクロスボウと火縄銃で対処させて。訓練になるし、安く済ませられる」キャシディが指示する。文明崩壊後の世に金属薬莢の弾薬は貴重品であり、居留地防衛には常にコストの問題が付き纏っている。

 特に動きの早そうな二、三匹を手早く仕留めてから、キャシディは背後に下がった。黒色火薬主体の安い弱装弾を使用したので、早めにライフルを整備しておきたい。硫黄の多く含まれる残留物は、銃身を腐食させて痛めるのだ。見たところ、集まってきた十名ほどの民兵も、それほど危なげなく屍者の群れに対処していた。

 クロスボウは外れも多いが、木材を彫りだしただけの木製ボルトならまだまだ撃てるし、黒色火薬と鉛玉も備蓄には余裕がある。何より両方とも金属薬莢より遥かに安く済む。民兵たちの射撃が徐々に当たり始めて、問題は無さそうだと見て取ったキャシディとローランズ副保安官は、一歩下がって屍者の群れの動きを観察した。

 

 意外と新しい服を着ている屍者が多かった。赤く染まっているのは、鮮血に塗れているからか。ふくよかな顎に手を当てて考え込んだローランズ副保安官が「……つい最近。それも近くで廃墟民の集落を呑み込んだな」と暗い表情でつぶやいた。

 

 防壁の向こう、遠くで揺らめく屍者《ゾンビ》たちの影は、太陽の下で異様に光る眼球をさらしている。屍者《ゾンビ》の動きは確かに「普通」ではない。一部の屍者《ゾンビ》たちは、まるで獲物を追う捕食者のように異様にすばしこい挙動を見せており、慣れてない民兵が脅えるのも無理はなかった。

 

「動きが速い屍者《ゾンビ》がいるのは初めて?」キャシディは傭兵に尋ねる。

「いや、副保安官。以前にも報告がある。廃市街に潜った廃墟漁り(スカベンジャー)なんかが遭遇した情報を売りつけに来た。古い記録だが、残ってる筈だ。

 あの動きは、感染が進んだ者の中でも特殊な連中だ。普通の屍者《ゾンビ》とは違う、何かがあるんだろう」傭兵は手にした双眼鏡で群れを見つめながら言った。

「そう……資料が。あとで探してみるかな」キャシディは眉間に皺を寄せた。どれだけ居留地が備えをしても、この「進化」しているように思える敵に対処できるのだろうか。廃墟の奥深くでとんでもない怪物が育っているかも知れない。そんな疑念が湧くが、副保安官として畏れを顔に出すわけにはいかなかった。

 

 

 風が吹きつける。鼻を突く腐敗臭がさらに濃くなり、無意識に鼻から息を抜いたキャシディは、何かが引っ掛かり、首を傾げる。

「……?こちらは風上なのに。何故、こんなに匂いが強い?」

 北から南へと吹いてる横風。屍者の群れが目の前だけとは限らないと気づいて矢継ぎ早に次の指示を出した。

「北へと回り込んでいるかも知れない。町外れや中町の防備は薄い。チェスター中尉を探し出して、下層区画に兵を廻すように……いや、まずは各地区に伝令を送るべきか」

 簡単にバリケードを突破できるとは思えないが、万が一、侵入されると被害が大きくなる。とくに町外れは布の天幕や薄い木板の屋根しかない。屍者《ゾンビ》相手には、兎に角、油断するべきではないのだ。念の為に盾も持たせておこう。木製の盾も、大口径の銃にはほぼ通用しないが、逆に怪物相手だと結構、有効な防具になる。状況に応じて有効な武器は全く異なる。特に近接兵器を用いざるを得ない下層地区の防衛では、盾や簡素な鎧を配備しておくべきかも知れないとキャシディは思った。

 

 何故かパンケーキを頬張っていた女性民兵が慌てて頷く傍らで、ローランズ副保安官が穏やかに告げた。

「キャシディ。君が直接、行った方がいい」

 キャシディは、怪訝そうに眉を顰める。ローランズ副保安官の名前呼びは、少女の時分以来。保安官助手になってからでは、数年ぶりだった。

「馬鹿々々しいかも知れないがね。働いてるところを見せるのは、実際に働くのと同じくらい大事だ。下層地区。特に門前町や通りではチェスター中尉は中々に人気があるからね」民兵指揮官との微妙な関係について言及したローランズ副保安官の意見に、意外そうに瞬きしたキャシディは、幾分かの感謝を込めながら「分かりました」と頷いた。

 

 何故か民兵たちに袋に包んだパンケーキを配給しているローランズ副保安官を他所に、キャシディは傭兵や民兵らに指示を飛ばす。

「他にも二、三カ所に襲撃があるかも知れない。6人単位で分隊を二つ編成。今日一日、壁近くに待機させておいて」

「了解」古参の傭兵が敬礼する。頷き返したキャシディ・エヴァンス副保安官は、直卒の分隊を編成すべく保安官事務所に向かって足早に歩きだした。

 

 

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