朝もやの彼方、自由都市ズールの方角には、巨塔のシルエットが微かに浮かんでいる。ズールの近くにはまばらな灌木の林と細い小川が流れているが、農地を切り開けるような土地ではない。少し離れれば、見渡す限りに荒涼とした漠野が広がっていた。
乾いた風が、砂と土埃を運んでくる。かつては一帯にも僅かな草木が残されていたが、農地を切り開こうとした試みは、忽ちに僅かな樹木と土壌を食い潰し、残されたのは不毛の荒野だった。大地の復元力は見る影もなく衰え果て、失われた豊穣が戻ることは二度となかった。幾度か雨季を迎えたにも関わらず、草木が息づく気配もなく、乾き切った土壌は大地に亀裂を刻んだままだった。
荒涼とした漠野を照らす朝陽が昇るにつれ、ズールを取り囲む風景が次第に鮮明になっていく。地平線の向こうには、古の隊商路と思しき跡が砂に埋もれつつもかすかに続いている。いつかの旅人が残したのだろう、壊れた荷車の車輪がひとつ、半ば地中に埋もれていた。
自由都市ズールの周縁部や街道筋には、小さな居住地が点々と散らばっている。ポレシャ方面への道筋にも、粗末な木のバリケードに守られたバラック小屋と天幕の集落が一つ見えてきた。かつては肥沃な農地だったらしいが、今では痩せた土と荒れた耕作地が広がるばかりで、村人は痩せた家畜を育て、廃墟で拾った物資を交換しながら細々と暮らしている。
通り過ぎるマギーたちや他、幾人かの旅人に、崩れかけた小屋に寄り掛かる村人たちの虚ろな目を向けていた。村人たちの眼差しには、なにかしらの情動の欠片すらなく、ただ生存本能だけに突き動かされる、乾ききった無感動さだけが漂っていた。
(……あの目には見覚えがある)希望も恐怖もない虚ろな眼差し――それはかつて出会った“飢えた群れ”の中にあったものと同じだった。背筋を少し冷たくしながらも、マギーは無言で通り過ぎた。振り返ることもせず、戸惑うニナを促して、足を急がせる。
十数人、時には数十人の喰い詰めた人々が、曠野に出て流民と化したり、時には暴徒と化して小さな町へ押し寄せ、制圧してしまうなんて話も、それほど珍しいものではない。実際にそれを目の当たりにした経験も、マギーにはあった。
その頃、少しだけ名の売れた賞金稼ぎだったマギーは、雇われ警備員の一人としてレゲドの町の防衛に加わっていた。
レゲドは、粗末な守備隊と貧弱な防備しか持たない小さな町だった。それでもマギーも含めて、押し寄せる群れをただの喰い詰めたならずものの集団だと甘く見ていた。力を見せつければ退くはずだと、町長マーカムは傲慢にも断言していたが、その認識は破滅的な結末を招いてしまった。食料と貢物の要求をしてきたならずものの集団の使者を縛り首にし、町に厳戒態勢を引いて、そして三十人ほどの守備隊が実際に向かい合ったのは、飢えによって理性を失い、目の前の食糧と資源を奪い取るために何でもする数百人もの暴徒だった。
ナイフと体術を用いて、マギーは八人を殺害した。当時のマギーは技量において絶頂期であり、また暴力に躊躇を持たない冷徹な戦闘機械だった。褒められるとしたら、無辜の人間は手に掛けず、荒廃した秩序の中であろうとも、少なくとも土地における最低限のルールにはなんとか従っていたところか。冷酷な少女時代のマギーだったが、善良な人々に助けられた経験もあり、獣にまで堕ちることには躊躇を憶えていたのだ。おそらく、その姿勢に対しては一定の評価が与えられるべきだろうが、当時のマギーからそれ以上の美徳を探すのも難しい話だった
兎も角、初めに飛び掛かってきた男の頚部を切り裂き、老人の首を砕き、女の背骨をへし折った。先頭の数人を数秒で殺害し、脅えた視線を期待したマギーだが、怯まずにバリケードを押し破って雪崩れ込む群れを目の前にして、思わず立ち尽くした。飛び込んでくるのは痩せこけた母親、子供を抱えた若い男、骸骨のようにやせ細った老人たち。どれもマギーが標的として慣れ親しんだならず者でも怪物でもなく、遥かに脆弱な人々の姿だった。クロスボウを放って肩に突き刺さったにも関わらず、立ち上がって襲い掛かってくる父親。次弾を引き絞る手が震えた。背後でも怯んだ傭兵が呻きを洩らしていた。
「引くな!」指揮官が叫び、しかし、押し寄せる人々に呑み込まれる。舌打ちしたマギーは、踵を返すといち早く物陰に飛び込んで戦場を離脱した。直後、傭兵たちの戦列にも人々が殺到し、殆んど乱戦にもならずになぎ倒される傭兵たちに対し、しかし、攻撃の手を緩められることはなかった。
他の警備員の悲鳴を背後に離脱したマギーだが、一緒に仕事を受けた二人のうちの一人は行きがけの駄賃に町の金庫を狙い、もう一人は、難民の頭目を狙うと言う。マギーは命が大事だと二人の愚かさに頭を振るうと、そのままに離脱した。
結局、町は陥落した。必死に戦った守備隊は壊滅し、住民たちは散り散りになった。生き延びたのは数えるほどで、当時のマギーは一番、冷酷だった時期であり、それでも、難民たちを恐ろしく感じたものだった。逃げる時に見た難民たちの目――虚ろで、それでいて命を繋ぐことへの執着だけが残った目は、今も一抹の恐怖と共にマギーの記憶に焼き付いていた。
時折、都市や強力な居留地に無謀な襲撃を仕掛ける武装した放浪者たちの集団がいる。イナゴのように一帯を荒らしまわり、そして最後には炎に焼かれるように都市の防衛戦へと飛び込んでほとんどが銃火に果てて野に屍を晒す。今、マギーはその理由を理解したように感じた。それしか、ないのだ。
道中の農村には、まだ余裕が見て取れた。少なくとも餓え死にした村人が地面に転がって、放置されてはいない。それなら、曠野ではましな方だった。ポレシャへの道中、荒廃した村や倒れかけた建物を横切ると、朽ちた看板や無数の骨の山が現れる――どれも過去の怪物や略奪者の襲撃や飢えが刻んだものだった。
途中、廃墟と化した村を横切るたびに、不意に胸の奥が冷たくなる。情景はマギーに遠い故郷で見た最後の光景を思い出させた。
※※
過去の追憶とは裏腹に、マギーは穏やかな足取りでポレシャへの道を辿った。割れたコンクリートの道を、ニナと二人、並んで歩く。道の両側には枯れた草がひらひらと揺れ、風が静かに吹き抜ける。遠くの草地では、マスケットやクロスボウで武装した牧童たちが、角笛を持ちながら羊たちを放牧していた。丘陵の稜線に時折、ゾンビや巨大蟻らしき怪物が見え隠れするが、二人は慎重、かつ速やかに、足を進めて鈍足の怪物たちを引き離した。
特筆すべき出来事もなく、軽い球形を挟んだのち、日が沈む前に、ポレシャの街が見えてきた。下層地区である『町外れ』を守るバリケードの入り口に足を踏み入れると、ふと浮き立つような気分に襲われた。
「帰ってきたね」ニナが腕に抱き着きながら、ほほ笑んだ。
「……帰ってきた、か」と、マギーもそっと呟いた。
言葉が、自然に口から出た。
壁はひび割れ、屋根の一部が崩れた建物、路地や廃屋、残った柱を利用して建てた土の小屋や灰色の天幕。殺風景な崩壊世界の光景で、少し疲れた顔をした人々にも、
マギーは確かにホッとするような安堵感を憶えていた。
なるほど、とマギーは頷いた。
「ニナは、この町が好き?」
「好きだよ?」とニナ。
「わたしも、好きになってきたみたいだな」街に踏み込んだ瞬間、少しだけ、肩の力が抜けたような気がした。ポレシャに戻るということが、どうやら、マギーにとってもただの帰還ではなくなっていたようだった。
「なに、それ。他人事みたいに言うんだね」ニナが隣で歩きながらも、マギーの顔を見上げる。楽しげに穏やかな笑みを浮かべていた。懐かしい故郷を思い出した。全然、似ていない筈なのに。そして、どんな居留地でもいつかは滅びる……マギーはふと、ニナに言いたくなったことを呑み込んだ。態々、言葉にすべきではないと思ったからだ。
「ここで生きて行こう。まあ、滅びたりしない限りは」マギーは笑った。
自由都市ズールから徒歩で一日。日の出とともに出発し、足早に急げば日が沈む前に辿り着く。普段暮らしているポレシャは、暮らすには悪くない土地だった。下層地区にも頑丈なバリケードが張り巡らされており、汚染されていない水源と肥沃な土地から、多くの食べ物が得られる。
不景気で仕事はやや少ないものの、マギーには信頼できる知り合いが数人いるため、そこそこ仕事を回してもらっている。安定した職に就けるのは、何らかの技能を持つ正規の居住者くらいのもので、出稼ぎの
悪くはない。多分、生きていける。冬を越える宿賃と薪代、飯代を貯められる。ただ、もう少しだけ稼いでおきたかった。あまり仕事を廻してもらっても、誰かが割を喰う。必死に生きてる最中、そんな事を気にするべきではないが、他に稼げる手がないか、試してみるのは悪くない考えだった。
帰ったばかりだったが、二人は、ポレシャの街の中心に向かって足を進めた。防壁に守られた市民街区でも、憩いの場でもある広場は同時にポレシャでも数少ない商店街と呼ぶべき場所でもあり、近隣には酒場兼食料品店や家具屋、雑貨屋など幾つかの店舗が点在していた。
おおよそ10日から半月に一度、マギーたちは居留地と自由都市ズールを往来していた。ポレシャ産の僅かな小麦を運んで自由都市へと向かい、知り合いの店で都市紙幣《ズールクレジット》へと替える。その後は、蚤の市などでガラクタを見繕って買い叩き、仕入れた品を居留地へと持ち込んで幾らかの小麦兌換《ポレシャ・ポンド》紙幣へと換える。
勿論、こんな行商では、大きな利益など上げられっこない。大儲けなど夢のまた夢だ。元手がない。勝負は出来ない。いい品を買えるような店を殆んど廻っていないし、伝手もない。掘り出し物を探そうにも滅多に見つかるものでもない。
それでもマギーは、仕入れのガラクタを見分ける方法や相場、売れそうな品もちおて、ニナにありのままを見せていた。商売の基本から応用まで、噂の判断の仕方や情報の仕入れ方、どのようにして需要と供給を把握するかを、実践を通じて一つひとつ丁寧に伝えていた。
マギーの意図は、ニナに伝わっているだろうか。行商だけではなく、一人でも生きられる術を全般に渡って教えようとしている。
※※
日が暮れかけるころ、二人は商店街の一角にある小さな雑貨店へと立ち寄る。元から品揃えがいいとは言えない店内の棚だが、今はどこも隙間が目立ち、品不足が明らかだった。昨年末に巨大蟻の侵攻がポレシャにもたらした損害は、けして軽いものではなかった。食い破られた倉庫や邸宅もあったのだ。
ポレシャは近隣の農民や小集落、廃墟の住人にとっては貴重な取引の場でもあったから事態は一層に深刻だった。一帯に暮らす浮浪者や放浪者なども、物資と食べ物を調達するために訪れることが多い。そのポレシャでさえ、最近はまともな物資の供給が難しくなりつつあった。もっと小さな集落や農村となれば、推して知るべしだった。
巨大蟻の侵攻による損害の補充に加え、近年では隊商路の寸断が物資不足に拍車をかけていた。ゾンビや盗賊の横行に、辛うじて維持されている交易ルートの往来も、益々困難になってきている。さらに散り散りになった農民たちが追い剥ぎへと転じることも少なくない。地方の荒廃と治安の悪化は曠野の地の日常茶飯事とは言え、近年のそれはいささか深刻さを増している。
かつては簡単に手に入った物も、今では当たり前ではなくなっている。食料や日用品だけでなく、ありふれた工具や薬品、燃料などに至るまで、あらゆる物資が不足していた。だからこそ、マギーの持ち込むガラクタにもそこそこの値段が付くと言うものだが。
新聞を読んでいた老店主は、マギーを見て鼻を鳴らした。偏屈な老人そのものだが、マギーは気にしない。朗らかに挨拶すると、老人が促すように顎をしゃくった。
マギーは背嚢から一つ一つ、蚤の市で仕入れた品物を机の上に並べていく。
まず出てきたのは、錆びた鉄や鉄くず、瓶に錆びた缶。古い本もあるが、汚れていて読む気にはなれない代物だ。縄や木の板は、なんらかの補修に使えるかもしれないが。それから鉛筆と紙、歯の欠けた櫛などの小物を取り出すが、老人の気難しい表情は崩れなかった。
そのうちに、少しは使えそうなものが顔を見せた。幾つかの電子部品。多分、壊れたラジオの基盤らしきもの。一応は使えそうなくず鉄。壊れた時計、食事用のフォークやナイフ、皿などだ。勿論、これらも上等な品ではないが、使える人には使えるだろう。と、ようやく老店主の視線にほんの少しだけ興味が混じった。
マギーが差し出した品物から、店主はいくつかを慎重に選び取る。互いの目にはどこか警戒の色がありながらも、どちらも言葉少なに必要なやり取りだけを交わしていく。やがて簡単な数の確認を終え、店主が差し出したのは少量のポレシャ・ポンド紙幣と、わずかな物資だった。
「こんなもんだな」
メモに値段を記しながら、差し出した。
「不満があるなら他所に行け」
ちょっとだけ不満げに眉根を潜めたマギーが、メモをニナに見せた。二人で渋い表情を浮かべるが「これでいい」結局、マギーも頷いて、老店主が居留地の紙幣を取り出した。小麦と兌換が保証されている、きちんとした紙幣だ。
店を出るころには、空はほとんど闇に包まれていた。街路で燃やされているドラム缶の炎だけが頼りだ。どこか息苦しさを感じさせる曠野の空気を、マギーは慣れた様子で吸い込みながら、「帰ろう」とだけ言った。隣を歩くニナは、手に小さな袋を抱えながら頷いた。
「……幾らになった?」ニナの小さな影がマギーに寄り添った。
「利益が13クレジット、という処かな」マギーは淡々と告げる。
「それって……」言い淀むニナにマギーは顔を寄せて「少ないねぇ」苦笑の気配がした。
働きの悪い
何処の居留地であろうと、
マギーたちには風雨を凌げる家もなければ、泊めてくれる友人もおらず、徒党に属している訳でもない。頑丈そうな廃墟に潜り込むと言う手もあるが、四六時中、ゾンビや変異獣を警戒するよりは安全なホテルでのんびりと三か月を過ごしたい。その為には、秋の終わりまでに、簡易宿泊所で三か月過ごすための宿賃と薪代を貯めなければならない。必要額は、居留地紙幣にして二人分で160ポレシャ・ポンド。或いは、都市通貨で800クレジット相当。
それなりの金額だが、けして届かない金額ではない。マギーたちと同じ境遇にある
或いは、金や物資を出し合って空き家を改築している者たちもいれば、天幕を空き地に寄せ合って疑似的な村を作る者たち。廃墟や廃村を見繕って籠る準備をする者。過ごしやすい農家や農場と冬越えの為の契約を結んでいる者たちもいるに違いない。兎に角、マギーとニナは、金を稼がなければならない。11月30日。出来れば一週間前の11月23日までに……
「すると、今いくらかな」ニナの疑問にマギーが財布の中身を諳んじた。
「日当が十日分で202に、酒代が16クレジットで。食事が65と……で、都市通貨にして112クレジット」
実際には、都市通貨だけではなく、ポレシャのポンド紙幣に商会連所属の商店手形、行商人たちの塩紙幣も混ざっていた。信頼の高い通貨のおおよその合計が112クレジットという訳だ。
相場も知らないと損をする。熟知してるマギーは、逆に幾らかの利鞘を稼げる時もあったが、両替に要する時間当たりの利益を鑑みれば、それほど割がいいとは言えない。両替商では手数料を取られるし、素人が大量に売買できる為替相場なども、文明崩壊した世界には見当たらないのだ。
「ただし、こっちの私鋳銭《トークン》、仕入れに使える。つまり居留地紙幣に換え易い。だから、おおよそ117クレジットかな」
林檎の意匠が刻まれた貨幣《コイン》を指で弾いて、蛇のように素早い手つきでつかみ取る。
「価値と相場を憶えろ、ということだね」呟きながらメモするニナは、教えた意図を正しく解釈していた。ニナは賢いなぁ、とマギーはちょっと嬉しくなる。
ズール近郊で流通している農民組合鋳造の真鍮貨幣でそれなりに購買力がある。
覗き込むと、コインをスケッチしていた。筆跡は滑らかで正確。マギーには絵心が無いので、異様に上手い絵に素直に感心している。
「なら、家計簿には117と書いておくよ」念を押したニナにマギーは頭を振った。
「うんにゃ、97です」
「え?なんで」マギーはニナの頬を指先で撫でた。冬の残滓に風は冷たく、肌は冷えている。
「さっき、家の近所の劇場後を通りかかった時、王女さまのお父さんがお風呂屋を開いていました」
「ふぁ?」ニナが変な叫びをあげた。
「石鹸にタオル、シャンプーの瓶もあるし、二人分でも二十あれば、楽しめるでしょう」
「お風呂。でも、いいの?」
「いいんだよ。逆に聞くけど、長く歩いて、洗面器のお湯で身体洗うだけで我慢できる?」
「出来ない。あぁー、軟弱になっちゃう」ニナはうなだれながらも、どこか楽しげに呟いた。
「なれ」
「もう、なに言ってるのさ」ニナは肩を震わせて笑った。それから、柔らかく穏やかに尋ねる。
「……ほんとに97でいいの?」
「いいのさ」言ってマギーは、ニナの肩をトントンと叩いた。
「先は長いからね、ゆっくりと歩いていこうね」
3月14日
所持金_97クレジット相当 都市通貨及び居留地紙幣で
+若干の小銭や私鋳銭、農村紙幣や商会紙幣。
11月30日まで あと261日