学園祭を翌日に控えた第二体育館には、四クラスの代表キャラクターと、
本番で使用するほぼすべてのステージ設備が集められていた。
観客席の配置はすでに本番と同じものへ変更され、
舞台後方には背景パネルが並び、照明と音響機材も所定の位置へ設置されている。
床には各キャラクターが登場する場所と退場する場所が色分けされ、
さらに各クラスのブースから合同ステージまで移動するための経路も、
テープによって分かりやすく示されていた。
翌日は一般来場者が校内へ入る。
これまでの練習では、
周囲にいるのは基本的に学校の生徒と教師だけだったが、本番では事情が違う。
ゆるキャラそのものを初めて見る人間もいれば、
小さな子供や高齢者が近づいてくる可能性もある。
そこで今日は、本番と同じ状況を可能な限り再現するため、
複数の生徒が一般来場者役として参加していた。
四体の着ぐるみも、試験開始当初とは比べものにならないほど完成度が上がっている。
ほなわんは、大きな耳の根元が少し後方へ流れるよう改良されていた。
以前はお辞儀や抱擁をしようとするたびに耳が前へ垂れ、
相手の装飾へ引っかかる危険があったが、現在はかなり改善されている。
さらに、一之瀬が感情のまま抱きつこうとすることを想定し、
両腕の可動域にも僅かな制限が加えられていた。
ありすぽーんの王冠も軽量化され、内部の固定具が増えている。
以前よりは安定しているものの、森下が身体を激しく動かせば、
今でも傾いたり外れたりする可能性は残されていた。
ぶっくまるの背中にある鞄は、上部だけを固定する構造へ変更されている。
何かへ接触した際には下側が柔らかく潰れ、障害物へ引っかかりにくい。
本も腕の内側へ取り付けられた面ファスナーによって安定して保持できるようになっていた。
そして、きよぽん。
頭部から伸びているスプーンは、ほりぽんの翼で使用した構造を応用し、
根元をしっかり固定しながらも先端部分だけは柔らかく動くようになっている。
短い腕の内側には、本やヨーグルト容器などの小道具を固定するための面ファスナー。
首元には、汗を吸収しやすい新しい布。
冷却材を入れるためのひとやすみポーチも二つ用意され、
交代時にすぐ交換できるようになっていた。
正式代表四体。
それぞれの補助員。
制作担当者。
各クラスのリーダー。
教師。
今日の第二体育館に集まった人数は、これまで行ったどの合同練習よりも多かった。
担当教師が、全員の準備状況を確認した後で説明を始める。
「本日は、本番と同じ順序で全体を確認する。各クラスのブースでの接客、
代表キャラクターの会場移動、合同ステージ、終了後の写真撮影まで、すべてを通して行う」
伊吹が手を挙げる。
「競争のリハーサルなのに、他クラスの動きまで確認する必要ある?」
「移動経路の一部が重なるからだ。
互いの装飾品が接触して転倒や破損が起これば、
当事者だけではなく全クラスの進行へ影響が出る」
龍園が面白そうに笑う。
「本番でぶつかったら、そのクラスの責任じゃねぇのか?」
「故意に進路を塞いだ場合は減点対象になる」
「面白ぇ」
「面白がるな」
担当教師に注意されても、龍園は気にした様子を見せなかった。
それでも、その視線は自然とぶっくまるへ向いている。
学園祭が近づくにつれ、
これまで合同動画や共同企画を通して協力してきた四クラスにも、
少しずつ競争相手としての意識が戻り始めていた。
ただし、相手の着ぐるみを破損させてでも勝とうとするような雰囲気はない。
むしろ、全員が自分たちのキャラクターへ予想以上の愛着を持つようになったことで、
他クラスのキャラクターまで粗末に扱えなくなっていた。
ほなわん。
ありすぽーん。
ぶっくまる。
きよぽん。
合同動画を通じ、四体は単なる敵ではなくなっている。
「それでは、着用準備を開始しろ」
担当教師の指示を受け、四クラスがそれぞれの更衣区画へ移動した。
◯
堀北クラスでは、最初にきよぽんへ入る担当者が三宅に決まっていた。
オレは今回は補助側へ回り、三宅が着ぐるみを装着する際の頭部固定と歩行確認を行う。
「清隆に装着されるの、何か変な感じだな」
三宅は制服の上着を脱ぎ、きよぽんの胴体フレームへ身体を入れながら言った。
「普段は逆だからか」
「ああ。俺が外からお前を見てる方が多かったからな」
肩の支持具を下ろし、高さを確認する。
問題はない。
続いて腕。
脚。
冷却材。
送風機。
以前は一つずつ説明する必要があったが、三宅も着用手順をかなり覚えており、
今では自分から異常がないか確かめるようになっていた。
「右足、少し内側へ寄ってないか?」
「外装の布が動いているだけだ」
オレは脚部の内側へ手を入れ、布の位置を戻した。
「これで問題ない」
長谷部が横からこちらの作業を見ながら感心したように言う。
「補助側にいると、清隆くんが随分詳しく見える」
「構造を知っているからだ」
「きよぽん先生」
「やめろ」
佐倉は、きよぽんの頭部を持ちながら頬や目の位置を確認していた。
「みやっち、少し屈んで」
「分かった」
三宅が姿勢を低くする。
長谷部と佐倉が左右から頭部を持ち上げ、ゆっくりと三宅の上へ下ろした。
人間の顔が隠れる。
そこに立っているのは、眠そうな目をした乳白色の丸い生き物。
きよぽん。
三宅は右手を一度上げた。
問題なしの合図だった。
長谷部が、完成した姿を見ながら何気なく呼ぶ。
「きよぽん」
三宅きよぽんは、すぐに身体を長谷部へ向けた。
それとほぼ同時に。
オレも反射的に長谷部の方を見てしまった。
数秒間。
制作班の全員が、オレと三宅きよぽんを交互に見る。
長谷部が口元を押さえた。
「二人とも反応した」
「オレは、自分の名前を呼ばれたと誤認しただけだ」
「きよぽんって呼んだんだけど」
「きよぽんと、きよぽんの中身を担当するオレとの関係が長く続きすぎた結果だ」
「それ、もう完全に自分の名前だと思ってるじゃん」
「思っていない」
きよぽんの頭部の中から、三宅の笑い声が漏れる。
「清隆、もう諦めろ」
「撮影以外で声を出すな」
「今はリハーサル前だ」
少し離れた場所から池が叫んだ。
「きよぽんが二人いる!」
「一体だ」
オレと三宅の声が、ほとんど同時に重なった。
第二体育館全体へ笑いが広がる。
佐倉も楽しそうだった。
「息ぴったりだね」
長谷部は、さらに嬉しそうに言う。
「中身二人で一体のきよぽん」
「公式設定に――」
「しない」
「まだ最後まで言ってない」
「分かる」
そこへ、いつの間にか森下まで近づいてきた。
「きよぽん共有意識ですね」
「何だそれは」
「着用経験を重ねた結果、
綾小路くんの自己認識がきよぽんへ侵食されている可能性があります」
「研究するな」
「非常に興味深い現象です」
後ろから、山村の小さな声が聞こえる。
「森下さん……ありすぽーんの準備が、まだ終わっていません……」
森下は即座に向きを変えた。
「研究を中断します」
「中断じゃなくて終わらせろ」
神室に背中を押され、森下はありすぽーんの更衣区画へ戻されていった。
◯
リハーサルの最初に行われたのは、各クラスのブースでの接客確認だった。
一之瀬クラスのブースでは、ほなわんのお友達カードを一般来場者へ配布する。
中へ入っているのは一之瀬。
最初の観客役となった男子生徒がブースへ近づくと、
ほなわんは相手を見つけた瞬間、嬉しそうに両腕を大きく広げた。
横に立っていた神崎が、すぐに声をかける。
「抱きつかない」
ほなわんの動きが止まった。
両腕を下ろす。
その代わりに、観客役の男子生徒へ両手を差し出した。
握手。
問題なく成功。
次は女子生徒。
ほなわんは大きく手を振り、お友達カードを一枚渡す。
こちらも成功。
三人目は、小さな子供を想定して椅子へ座った生徒だった。
ほなわんは相手の目線へ合わせようとして身体を屈める。
その瞬間、大きな耳が前へ流れた。
神崎がすぐに頭部を支える。
「深く屈むな。片膝を少し曲げるだけでいい」
ほなわんは指示に従い、身体の高さを僅かに下げた。
そしてカードを渡す。
ここまでは成功だった。
その時、観客役の生徒が、演技として両腕を広げた。
抱きついてほしいという意味だった。
ほなわんの動きが完全に止まる。
一之瀬は耐えているらしい。
両腕が少し上がる。
神崎を見る。
観客を見る。
もう一度、神崎を見る。
神崎も数秒迷った後、条件付きで許可を出した。
「軽くならいい。耳へ触れない位置で、三秒以内だ」
ほなわんは、身体全体で喜びを表す。
ゆっくり観客役へ近づき、両腕を肩へ軽く触れさせた。
一秒。
二秒。
三秒。
すぐに離れる。
成功。
周囲から拍手が起こった。
ほなわんは嬉しそうに身体を揺らす。
そして、その勢いのまま次の観客役にも抱きつこうとした。
神崎が即座に止める。
「毎回ではない!」
頭部の中から、一之瀬の声が漏れる。
「友達になったから!」
「着ぐるみの中では喋るな」
「ごめん」
「一之瀬、少しは我慢を覚えろ」
一之瀬本人の性格と、ほなわんの設定。
両方が同じ方向を向きすぎていた。
相性が良い。
その分、制御する側の神崎は苦労することになる。
◯
坂柳クラスのありすぽーんブースでは、
来場者が小さなカードへ「明日やってみたいこと」を書き、それをありすぽーんへ渡す。
ありすぽーんはカードを受け取り、王冠を模した印を押して返す。
最初の森下は非常に丁寧だった。
一枚目。
カードを受け取る。
印を押す。
返す。
二枚目も同様。
三枚目。
観客役の生徒が、わざとカードを床へ落とした。
ありすぽーんは拾おうとして短い腕を伸ばす。
しかし、当然届かない。
山村が補助へ入ろうとした。
その前に、森下は自力でカードを取ろうとして身体を傾けた。
同時に王冠も傾く。
神室が慌てて王冠を押さえた。
「待って。山村が拾うから」
ありすぽーんはその場で止まった。
山村がカードを拾い、森下へ渡す。
「ありがとうございます……」
本来なら、カードを拾ってもらった森下が言うべき言葉だった。
しかし、なぜか山村自身が礼を言っている。
ありすぽーんの中から、森下が答えた。
「こちらこそ」
山村が戸惑う。
「森下さんが言うんですか……?」
「拾っていただきましたので」
「着ぐるみの中では無言」
神室が注意する。
森下は右手を上げ、了解の合図を出した。
その動きによって王冠が再びずれる。
山村がすぐに直す。
神室が固定具を確認した。
「まだ王冠が少し弱いかも」
「森下が余計に動くからよ」
「ありすぽーんは成長します」
「成長するたびに王冠を落とすのやめて」
次の観客役が近づく。
今度こそ、ありすぽーんは静かにカードを受け取った。
印。
返却。
成功。
最後に手を振ろうとして両手を大きく上げる。
その瞬間。
王冠が頭部から滑り落ちた。
床へ柔らかな音が響く。
森下は動きを止めた。
山村がすぐに王冠を拾う。
神室は額へ手を当てた。
白石だけは、穏やかに微笑んでいる。
「本番前に、落ちやすい位置が分かってよかったですね」
「前向きすぎない?」
神室が尋ねる。
「修正できますから」
「あと一日しかないのよ」
「一日あれば、山村美紀さんなら直せると思います」
山村が驚いて白石を見る。
「わ、私が……?」
ありすぽーんが力強く頷いた。
「山村美紀なら可能です」
「声を出さない」
神室の注意が追いついていなかった。
◯
龍園クラスのぶっくまるブースでは、来場者が読みたい本の種類を伝え、
それに合わせてぶっくまるがおすすめの本を一冊選ぶ。
中へ入っているのはひより。
質問への言葉での回答は、補助員の石崎が代わりに行う。
最初の観客役が言った。
「動物の本が読みたい」
ぶっくまるは本棚を見る。
しばらく探した後、
『森のどうぶつたち』
を取り出して渡す。
次の観客役。
「冒険の本」
ぶっくまるは、
『小さな熊の大旅行』
を選んだ。
その次。
「ヨーグルトの本」
ぶっくまるの動きが止まった。
ひよりは本棚を探す。
しかし、今日用意された紹介本の中にはヨーグルトの本がない。
石崎が小声で言う。
「ないぞ」
ぶっくまるは少し考えた後、背中の鞄へ手を伸ばした。
そこから一冊の本を取り出す。
『はじめてのヨーグルトづくり』
合同練習で、きよぽんへ渡した本だった。
今日の台本にはない。
それでもぶっくまるは、観客役の生徒へ本を差し出した。
伊吹が笑う。
「ぶっくまる、自分の私物まで持ってきてる」
石崎も驚いた。
「椎名が入れたのか?」
ぶっくまるは小さく頷く。
龍園が少し離れた場所から尋ねた。
「本番でも持つつもりか?」
ぶっくまるは、もう一度頷いた。
「なら正式な紹介リストに追加しろ」
葛城が資料へ書き込む。
伊吹は龍園を見る。
「勝手な本を出すなって言うかと思った」
「客が求めた本を出せるなら、その方がいい」
「龍園、ぶっくまるに甘くない?」
「使えるものを使ってるだけだ」
そう言いながら龍園は、ぶっくまるの丸眼鏡が少しだけ傾いていることへ気づいた。
自分から近づく。
両手で眼鏡の左右を持つ。
慎重に位置を直す。
「これでいい」
ぶっくまるの中から、ひよりが小さく頭を下げる。
伊吹が完全に笑っていた。
「もう完全に好きじゃない」
「うるせぇ」
◯
堀北クラスのブースは、きよぽん休憩所だった。
中へ入っているのは三宅。
ブース内には柔らかな椅子とクッションが置かれ、低い音量で環境音が流れている。
会話そのものは禁止されていない。
しかし、来場者へ無理に話しかけることもしない。
飲料水も用意され、ひとやすみポーチの展示も行われていた。
最初の観客役が一人、休憩所へ入ってくる。
三宅きよぽんは、反射的にすぐ手を振ろうとした。
オレは補助側から止める。
「相手がこちらを見てからでいい」
三宅は腕を下ろした。
観客役の生徒は、何も言わず椅子へ座る。
きよぽんも、一メートルほど離れた場所にある低い椅子へ座った。
静かな時間が流れる。
三十秒。
一分。
リハーサルとしては長い。
長谷部が少し落ち着かなくなってきた。
「何かしなくていい?」
「休憩所だ」
オレは答えた。
「観客役が休めているなら、それで成功だ」
一分半ほど経った頃。
観客役の生徒が、初めてきよぽんを見る。
三宅はすぐに反応した。
少し早い。
それでも、一度身体を僅かに傾けてから、小さく手を振る。
観客役も手を振り返した。
佐倉が嬉しそうに言う。
「いいね。みやっちきよぽん、前より落ち着いてる」
三宅の手が小さく一度上がる。
本人としては問題なしの合図だった。
外から見ると、褒められて照れているようにも見える。
長谷部が笑った。
「可愛い」
次の観客役が入ってくる。
今度は元気な男子生徒だった。
椅子へは座らず、きよぽんの正面へ立ち、大きく手を振る。
三宅も反応する。
相手がさらに大きく振る。
三宅も少しだけ大きくなる。
相手が両腕を頭上まで上げる。
三宅もつられて両腕を上げようとした。
「競わない」
オレが止めた。
三宅きよぽんは両腕を下ろす。
「つられた」
「声を出すな」
休憩所では、何かをすることより、何もしないことの方が難しい。
観客から反応を求められれば、応えたくなる。
逆に、何も反応がなければ、不安になって何かしたくなる。
しかし、きよぽんの役割は、自分から場を動かすことではない。
三宅は何度か練習を繰り返すうちに、少しずつその動きを抑えられるようになった。
長谷部がオレを見る。
「次はきよぽんがきよぽん?」
「合同ステージの前に交代する」
「今は補助きよぽん」
「きよぽんではない」
「さっき名前を呼んだら反応した」
「一度だけだ」
「また試す?」
「やめろ」
長谷部は、小さな声で言った。
「きよぽん」
三宅きよぽんだけが振り返った。
オレは振り返らない。
長谷部が残念そうに言う。
「今度はきよぽん反応しなかった」
「警戒していたからだ」
「やっぱり普段は反応するんじゃん」
「続けるなら、マネージャー権限を制限する」
長谷部は即座に黙った。
公認マネージャーという立場を失うことだけは、避けたいらしい。
◯
各ブースの確認が終わると、四体合同ステージの全体リハーサルへ移った。
進行そのものは単純だった。
最初に四体が一体ずつ登場する。
それぞれ、自分の特徴を短い動作で見せる。
ほなわんは、お友達カードを見せながら観客へ手を振る。
ありすぽーんは、一度転びそうになりながらも踏みとどまり、前へ進む。
ぶっくまるは、一冊の本を開き、短い物語を紹介する。
きよぽんは、舞台中央へ座る。
最後に四体が横一列へ並び、観客へ一緒に手を振る。
演技時間は十分程度。
決して長くはない。
予定通り進めば、大きな問題は起きないはずだった。
しかし。
四体が予定通りに動く。
その前提そのものが、間違っていた。
最初に登場するのは、ほなわん。
中へ入るのは一之瀬。
軽快な音楽と共に舞台袖から現れ、大きく観客へ手を振る。
次に、お友達カードを配る。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
ここまでが予定だった。
しかし、ほなわんは四枚目を取り出した。
観客役として座っていた教師へ渡す。
五枚目。
撮影担当者へ渡す。
六枚目。
音響担当者へ渡す。
神崎が舞台袖から声をかける。
「次へ進め!」
ほなわんは、まだカードを配ろうとする。
一之瀬は、この体育館にいる全員と友達になるつもりらしい。
「一之瀬!」
「あと二人!」
「喋るな!戻れ!」
ほなわんは名残惜しそうにカードを胸元へ抱え、ようやく指定位置へ移動した。
続いて登場するのは、ありすぽーん。
森下が中へ入っている。
王冠を押さえながら、三歩に一度安全確認を行う。
当然ながら、予定より遅い。
音楽だけが先へ進んでいく。
しかし、ありすぽーんは慌てない。
一歩。
二歩。
三歩。
王冠を確認。
再び進む。
ようやく舞台中央へ到着すると、予定通り少し転びそうになる演技を行った。
身体が傾く。
しかし、自力で姿勢を戻す。
成功。
観客へ手を振る。
その瞬間。
王冠が落ちた。
予定にはない。
体育館の床へ柔らかな音が響く。
ありすぽーんは床の王冠を見る。
一度観客を見る。
もう一度王冠を見る。
そして、自分で拾おうとした。
舞台袖にいた山村がすぐに出てくる。
本番でも補助員として近くへ配置される予定だった。
山村が王冠を拾い、ありすぽーんへ戻す。
観客役から拍手が起こった。
白石が楽しそうに言う。
「演出みたいになっていますね」
神室が真顔で尋ねる。
「本番でも落とす?」
「落とさないように修正するの!」
王冠を直されたありすぽーんは、無事に指定位置へ戻った。
次に登場するのは、ぶっくまる。
中へ入っているのはひより。
台本では、事前に用意した、
『四人の友達と森の道』
という本の表紙を観客へ見せ、その後でナレーション担当が短く内容を説明する予定だった。
ぶっくまるが舞台中央へ進む。
背中の鞄から本を取り出す。
しかし。
出てきたのは、
『はじめてのヨーグルトづくり』
だった。
舞台袖の石崎がすぐに反応する。
「椎名、それじゃない!」
ぶっくまるは動きを止める。
手元の本を見る。
もう一度鞄を探る。
次に出てきたのは、
『転んだポーンの起こし方』
違う。
三冊目。
『ほなわんと百人の友達』
まだ違う。
伊吹が笑い始める。
「何冊入ってるのよ」
龍園も呆れたように聞く。
「全部持ってきたのか?」
ぶっくまるは鞄の中を探し続けている。
本番で観客の希望へ対応できるよう、ひよりがかなり多くの本を入れてきたらしい。
肝心の予定された本が見つからない。
ぶっくまるは、しばらく考えた後、その場で『はじめてのヨーグルトづくり』を開いた。
台本にはない。
ナレーション担当も止まる。
ひよりは本の表紙を観客へ見せる。
そして。
舞台袖で待機しているきよぽんへ身体を向けた。
ヨーグルト。
きよぽん。
両者の関係は、すでに合同動画によって知られている。
観客役から笑いが起こった。
龍園は諦めたように言う。
「もうそれでいい」
堀北が指摘する。
「それでは四体全体の話ではなくなるわ」
「次にありすぽーんの本、ほなわんの本を出して、最後に四体の本へ繋げればいい」
「時間を超える」
「短くしろ」
「本を選ぶだけで終わるわよ」
その間にも、ぶっくまるは本を一冊ずつ並べ始めていた。
ヨーグルト。
ポーン。
友達。
そして最後に。
ようやく、
『四人の友達と森の道』
が出てくる。
四冊。
どうやらひよりは、最初から全部見せるつもりだったらしい。
石崎は完全に諦めた。
「椎名らしい」
葛城は修正点を資料へ書き込む。
「本番では、鞄の中の順番を固定する。予定の本を一番上へ置け」
ぶっくまるは四冊の本を抱え、満足したように指定位置へ移動した。
そして最後。
きよぽん。
ここで三宅と交代し、オレが中へ入る。
胴体。
脚。
腕。
冷却材。
頭部。
準備を終え、舞台袖で進行役の声を待つ。
「最後は、夢がまだ決まっていない謎の生き物、きよぽんです」
オレは歩き出した。
小さな歩幅。
僅かに左右へ揺れる丸い身体。
舞台中央へ到着する。
予定通り。
指定位置に置かれた低い椅子へ座る。
ここまでは問題なかった。
進行役が説明を始める。
「きよぽんは、頑張れない時や、一人でいたい時に、無理に何かを求めることはありません」
オレは座ったまま観客役を見る。
ほなわん。
ありすぽーん。
ぶっくまる。
他の三体は立っている。
オレだけが座っている。
説明が終わる。
次は四体が横一列へ並び、一緒に手を振る場面だった。
音楽が変わる。
本来なら、ここでオレは立つ。
しかし。
朝から続いたリハーサル。
着ぐるみの内部。
椅子の座り心地。
少し疲れていたこともある。
それ以上に。
今の説明で、
『無理に動かず、休むことを否定しません』
と言った直後に、何の理由もなくすぐ立つことが、キャラクターとして少し不自然に思えた。
オレは座ったままにした。
進行役が止まる。
音楽だけが流れ続ける。
舞台袖から、長谷部が小さな声で呼ぶ。
「きよぽん、立って」
反応しない。
「きよぽん」
今度は反応した。
身体を少しだけ長谷部の方へ向ける。
長谷部が笑いそうになっている。
「最後の整列だよ」
オレは一度観客を見る。
次に、立っている三体。
そして、自分が座っている椅子を見る。
立たない。
軽井沢が笑い始める。
「何してるの?」
佐藤が答えた。
「休んでる」
「設定通りだけど、進行止まってるよ」
ほなわんが、座ったままのきよぽんを見る。
中にいる一之瀬は少し考えたようだった。
次の瞬間。
ほなわんは指定位置を離れ、きよぽんの隣へ近づいてきた。
そのまま床へ座ろうとする。
しかし、大きな身体では上手く姿勢を作れない。
補助員が低い椅子を用意する。
ほなわんも座る。
ありすぽーんが二体を見る。
森下も、自分から近づいてきた。
低い台が用意される。
ありすぽーんも座る。
王冠が僅かに傾く。
山村がすぐに直す。
最後に、ぶっくまる。
本を抱えたまま、三体の近くへ歩いてくる。
椅子が用意される。
ぶっくまるも座った。
舞台中央。
四体。
全員が座っている。
進行役は台本を見る。
当然、そんな展開はどこにも書かれていない。
明るい終幕用の音楽だけが流れ続ける。
四体は休憩している。
観客役から笑いが起こる。
やがて、その笑いは大きくなり、拍手まで起こった。
池が観客席から叫ぶ。
「四天王、全員休んでるぞ!」
堀北がすぐに返す。
「まだ本番じゃない!」
平田は観客席の反応を見ながら言った。
「でも、反応はすごくいいね。最後に全員が休む形へ変えてもいいんじゃないかな」
神崎は冷静だった。
「そのままではステージが終わらない」
幸村が解決案を考える。
「一分だけ休憩する。その後、進行役が『四天王は休憩へ入りました』と説明して、
座ったまま観客へ手を振ればいい」
三宅も賛成した。
「立たなくていいなら、安全面でも楽だな」
長谷部は妙に嬉しそうだった。
「きよぽんだけ何もしない予定だったのに、全員巻き込んだ」
「オレは巻き込んでいない」
頭部の中から答える。
「最初に座り続けたじゃん」
「設定に合わせただけだ」
「即興演技」
「立たなかっただけだ」
ありすぽーんの中から森下の声まで聞こえる。
「休息の四天王が、他の三体を支配しました」
「支配していない」
「全員を座らせる能力です」
「ない」
「四天王最強」
「強さの話ではない」
観客席から龍園が笑う。
「ヨーグルト野郎、ようやく四天王らしい能力を手に入れたな」
「休ませただけだ」
「それが能力だろ」
「勝手に決めるな」
隣に座るほなわんが、大きく手を振る。
ありすぽーんも続く。
ぶっくまるも。
オレも。
四体が座ったまま、観客へ手を振る。
結果として、この形が学園祭本番における
合同ステージの正式な終幕として採用されることになった。
今日のリハーサルは、最初から最後まで予定通りには進まなかった。
ほなわんは観客へ抱きつこうとする。
ありすぽーんは王冠を落とす。
ぶっくまるは台本にない本を読み始める。
きよぽんは舞台中央で休み続ける。
個性が強すぎる。
統一性もない。
しかし、その分だけ四体らしさは、事前に作った完璧な進行よりも遥かにはっきり表れていた。
◯
全体リハーサルが終了した後。
四体の着ぐるみは、第二体育館の舞台前へ並べられた。
今は誰も中へ入っていない。
ほなわん。
ありすぽーん。
ぶっくまる。
きよぽん。
その少し後ろには、正式代表には選ばれなかった
友達キャラクターであるほりぽんとりゅうまるも置かれている。
二体も翌日の本番へ向け、最後の調整が進められていた。
体育館には、四クラスの制作担当者たちが残っている。
最後の補修。
衣装の確認。
お友達カード。
本。
王冠。
ヨーグルト容器。
小道具を一つずつ確認する。
窓の外は、すでに暗くなっていた。
学園祭前夜。
明日の朝になれば、一般来場者が校内へ入ってくる。
今日までは、試験に参加している者のほとんどが、生徒と教師だった。
しかし明日。
初めて外部の人間が、四体を直接見る。
触れる。
一緒に写真を撮る。
グッズを購入する。
そして最後に。
一体へ投票する。
今日まで協力して作ってきた時間は、ひとまず終わる。
明日からは、正式な競争が始まる。
舞台前には、四クラスのリーダーが集まっていた。
堀北。
一之瀬。
坂柳。
龍園。
それぞれが、自分たちの代表キャラクターを背後へ置いている。
最初に口を開いたのは、一之瀬だった。
「明日、ほなわんはたくさんの人と友達になると思う」
いつもの明るい笑顔だった。
「他の三体も応援してる。でも、一之瀬クラスとしては絶対に負けないよ」
神崎や柴田をはじめとするクラスメイトたちが頷く。
ほなわんのお友達カード。
高い接客力。
そして何より、中へ入る一之瀬本人の人懐っこさ。
一般来場者との相性という意味では、四体の中でも最も高い可能性がある。
坂柳は、ありすぽーんの大きな王冠へ視線を向ける。
「ありすぽーんは、何度転んでも立ち上がります。
今日までの制作でも、多くの失敗を経験してきました」
森下が何度も王冠を落とした。
山村が直した。
神室が暴走を止めた。
白石が全体を穏やかにまとめた。
「明日も、予想外のことが起こるでしょう。ですが、そのすべてを成長へ変えてみせます」
森下。
山村。
白石。
神室。
全員が坂柳の後ろにいる。
坂柳が見せているのは、単なる表面的な余裕だけではない。
きよぽんの人気が上がっていることを警戒している。
ほなわんも。
ぶっくまるも。
同じように競争相手として見ている。
だからこそ、自分たちが作り上げたありすぽーんの魅力を本気で信じていた。
堀北は、少し離れた場所へ並んでいるきよぽんとほりぽんを見る。
「きよぽんは、他の代表より派手に動けないわ。
来場者へ積極的に近づくことも、本を使って知識を与えることも、
転んだ後に一人で立ち上がることもできない」
長谷部が少し不満そうにする。
「弱いところばっかり言わないで」
「事実よ」
堀北は、そのまま続けた。
「それでも、きよぽんにしか作れない場所がある。
明日は、誰かを無理に楽しませる学園祭ではなく、
楽しむことに疲れた人も安心できる学園祭にする」
きよぽん休憩所。
静かな場所。
一人で座っていてもいい。
話したくなければ、話さなくてもいい。
「それが来場者に必要とされるなら、私たちは勝てるわ」
長谷部。
三宅。
幸村。
佐倉。
平田。
軽井沢。
佐藤。
須藤。
クラスメイトたちが、それぞれの形で応える。
最後は、龍園だった。
龍園は、ぶっくまるの前へ立つ。
「仲良しごっこは今日までだ」
体育館の空気が少しだけ変わった。
「明日は潰し合いだ」
いかにも龍園らしい宣言だった。
ただし。
その直後。
龍園は、ぶっくまるの丸眼鏡が僅かに傾いていることへ気づいた。
言葉を止める。
ぶっくまるへ近づく。
両手で眼鏡の左右を持つ。
丁寧に位置を直す。
少し離れて角度を確認する。
まだ僅かに左へ寄っている。
もう一度近づき、数ミリだけ修正する。
「これでいい」
体育館が静かになった。
最初に笑ったのは伊吹だった。
「説得力ないわよ」
「何がだ」
「潰し合いって言った直後に、ぶっくまるの眼鏡めちゃくちゃ丁寧に直してるじゃない」
「うちの代表を最高の状態にしただけだ」
石崎も笑いを堪えていた。
「龍園さん、さっきより優しく直してましたよ」
「黙れ」
「ぶっくまる、大事なんすね」
龍園が石崎を見る。
「石崎」
「はい」
「明日、お前が交代で中へ入る時間を倍にする」
「それは勘弁してくださいよ!」
龍園クラスから笑いが起こった。
ひよりは、ぶっくまるの丸眼鏡が真っ直ぐになったことを確認し、穏やかな声で言った。
「龍園くんの言う通りです」
伊吹が驚く。
「椎名まで潰し合いを認めるの?」
「明日は、全力でぶっくまるの魅力を伝えます」
ひよりの声は静かだった。
しかし、迷いはなかった。
「ほなわんにも、ありすぽーんにも、きよぽんにも負けません」
ひよりらしい、静かな宣戦布告だった。
龍園は満足そうに笑う。
「そういうことだ」
四クラス。
代表四体。
合同動画。
共同グッズ。
何度も一緒に作業をした。
それでも明日は競争相手になる。
一位になれるのは一体だけ。
三百クラスポイントを得られるのも、一クラスだけだった。
一之瀬が笑顔で言う。
「明日は正々堂々と勝負しようね」
坂柳も微笑む。
「当然です」
堀北は迷わない。
「勝つのは私たちよ」
龍園は不敵に笑った。
「最後に笑うのは俺だ」
四人の言葉が、第二体育館へ響いた。
その後。
長谷部がきよぽんの横へ立つ。
「きよぽんも何か言って」
「中身はいない」
オレは答えた。
「きよぽんが代わりに」
「オレはクラス代表ではない」
「主担当」
「今は補助側だ」
「設定監修者」
「最低限だ」
そこへ森下まで加わる。
「きよぽんはすでに、無言で勝利を宣言しています」
「何も言っていない」
「眠そうな目の奥に、強い意志があります」
「普段と同じ表情だ」
「ヨーグルトの角度が、昨日より前向きです」
「偶然だ」
長谷部は、きよぽんの頭部を見つめる。
「でも、勝ちたいよね」
キャラクターへ問いかけている。
当然。
返事はない。
それでも長谷部は、返答を待つように少し黙った。
オレも、きよぽんを見る。
最初は、自分を丸くしただけの冗談だった。
頭へヨーグルトを載せられ。
きよぽんと名付けられ。
長谷部が勝手に作った。
クラスが勝手に設定を増やした。
他クラスの生徒たちも勝手に意味を加えた。
しかし今は。
正式代表になった。
オレと三宅が中へ入る。
佐倉が顔を整える。
幸村が安全を管理する。
長谷部がマネージャーを務める。
堀北がクラス全体を動かす。
一人で作られたキャラクターではない。
「勝つために準備した」
オレは答えた。
長谷部がこちらを見る。
「きよぽんも?」
「クラスの代表としてだ」
「同じでしょ」
「違う」
「でも、明日は一緒に頑張る?」
「可能な範囲で」
「絶対だよ」
「無理はしない」
「きよぽんらしい」
「安全管理の話だ」
長谷部は笑った。
体育館の照明が、一つずつ落とされていく。
最後まで残されたのは、舞台中央を照らす一つの灯りだった。
その下には、四体が並んでいる。
ほなわん。
ありすぽーん。
ぶっくまる。
きよぽん。
明日。
誰が最も多くの来場者へ届くのか。
誰が最も強く記憶へ残るのか。
誰が高度育成高等学校を象徴するキャラクターとして認められるのか。
まだ分からない。
一之瀬は、ほなわんとお友達カードを信じている。
坂柳は、ありすぽーんの成長を信じている。
龍園は、ぶっくまるの物語と静かな強さを信じている。
堀北は、きよぽんが作る休息と、相手へ無理に踏み込まない距離を信じている。
協力する時間は終わった。
しかし、友情まで消えたわけではない。
明日は。
友達同士で、本気の勝負をする。
第一回・高度育成高等学校ゆるキャラ選手権。
学園祭前夜。
完成した四体は静かに並び、まだ誰もいない観客席を見つめていた。