指から調味料が出る料理人は今日も腐敗の女王と味噌を作る 〜腐敗を発酵に変えて、世界を満腹にします〜 作:らっぽん
匂いで、目が覚めた。
大豆。塩。麹。それから、時間の匂い。——味噌だ。まだ若い。仕込んで一年に満たないくらいか。熟成しきっていない、角の残った、荒削りの香り。
寝起きの頭で、そこまで嗅ぎ分けてしまう。料理人の性分というのは、異世界に召喚されようが、抜けないものらしい。
俺は氷室律。向こうの世界で、自分の店を持っていた。ミシュランの一つや二つ、いずれ獲るつもりでいた。その店も、積み上げてきた十年も、この世界に落とされた瞬間、まとめて紙屑になったが。
——上等だ。奪われたなら、ここで作り直すまでのこと。あの国が指をくわえて見上げるような食卓を、この城で。
寝台を降りる。石造りの、やたら天井の高い部屋。窓の外はまだ薄暗い。
この城には、人がいない。
魔王城だというのに、廊下を歩いても、誰ともすれ違わない。かしずく臣下も、見張りの兵も、いない。がらんとした石の回廊に、自分の足音だけが反響する。千年、ずっとこうだったのだと聞いた時、俺は料理より先に、その静けさのことを考えてしまった。
匂いをたどって、厨房へ降りる。
案の定、そいつはいた。
樽の前に、女がひとり。腰まで届く銀の髪。夜明け前の薄明かりでも、その横顔が作り物じみて整っているのが分かる。纏う空気は、明らかにこの世のものではない。
そいつが今、味噌樽を覗き込んで、眉間に深い皺を寄せ、木べらの先で表面をつつきながら、本気で、うろたえていた。
「フローラ」
声をかけると、女の肩が、びくりと跳ねた。
「な……っ、律か。いつからそこに」
「今だ。それより手を止めろ。つついて崩すな」
俺は歩み寄り、樽を覗き込む。表面に、うっすら白い膜。
「産膜酵母だ。害はない。むしろ順調な証拠だ。すくって捨てればいい。……こう」
木べらを取り上げ、膜を薄く引いて、桶へ落とす。手慣れた動きに、女王が悔しそうに唇を噛んだ。
フローラ・リーゼロッテ・ヴェルダンテ。
この世界の人間が、名を口にするのも恐れる魔王。触れたものすべてを腐らせ、差し向けられた討伐軍を、三度、三度とも塵にした——「腐敗の女王」。
その女が今、味噌の白カビひとつに半泣きになっている。討伐だと息巻いて攻め込んでくる連中に、この顔を見せてやりたい。腰を抜かすぞ。
フローラが木べらを取り返し、恐る恐る樽に差し入れる。その白い指先が、味噌に触れて——腐らない。
これが、当たり前じゃない。
この女の腐敗は、微生物が有機物を暴走的に喰い散らす現象だ。触れたものは、片端から腐り落ちる。花も、パンも、差し出された手も。だから千年、誰もそばに置けず、何ひとつ自分の手では生み出せなかった。それが、この城が空っぽな理由だ。
その暴走を、締めてやる手がある。俺の右手から出る、塩。
塩は、菌の暴走を抑える。喰い散らかしを、"漬ける"に変える。腐敗を、発酵に。無秩序な崩壊を、狙った熟成へ。——だから、味噌なんだ。塩と、時間と、菌との、折り合い。俺の手だけが、この女の呪いを、料理に変えられる。
仕組みの全部は、まだ話していない。だが要は、それだけのことだ。
「で、味見は」俺は手を差し出した。「するんだろう。どうせ、それが本題だ」
図星だったらしい。フローラは一瞬言葉に詰まり、それから、つんと顎を上げた。
「……毒見だ。魔王たる私が口にする前の。断じて、貴様の舌を頼っているわけでは——」
「いいから寄越せ」
小皿に取った味噌を、湯で溶く。ひとくち、すする。舌の上で、転がす。
……若い。塩の当たりが、まだ荒い。熟成は、あと半年は欲しい。粗を挙げれば切りがない。
だが。
ちゃんと、味噌汁の味がした。腐敗の女王が、生まれて初めて、自分の手で腐らせずに作り上げた、まっとうな食い物の味が。
「——悪くない」
その瞬間、フローラの顔が、ぱっと明るくなった。ほんの一秒。すぐに取り繕って、そっぽを向いたが、遅い。見た。
「と、当然だ。この私が仕込んだのだからな」
「さっき白カビ相手に泣きそうだった女が、よく言う」
「泣いてなどいない!」
俺は笑って、右手の親指の先から、塩をひとつまみ落とした。若い味噌の角を、ほんの少しだけ和らげてやる。指先から調味料を出せば、そのぶん腹が減る。等価交換だ。この能力に、ただ飯はない。
ぐう、と鳴った腹に、フローラが小さく吹き出した。それから、椀にたっぷりと味噌汁をよそい、俺の前に、そっと置く。
「……食え。倒れられては、困る。お前がいなければ、私はまた、独りだ」
困る、か。千年、誰にも触れられなかった女の口から出る「困る」は、妙な重さがあって、俺はそれを、味噌汁と一緒に飲み下した。
——その時。
城の重い鉄門が、遠く、低く鳴った。
次いで、地を踏む靴音。多い。数百は下らない。窓の外、白みはじめた地平線に、黄金の旗が翻っている。俺を「はずれ勇者」と嗤い、この女への捨て駒として追放した——聖王国の、進軍旗。
「……来たか。追撃隊だな」
「ふん」フローラの目が、一瞬で、魔王のそれに戻る。凍てつくように、冷たく。「せっかくの朝の汁物に、塵が混ざるか」
だが俺は、味噌椀を抱えたまま、鼻で笑ってやった。
店も、名も、元の世界も奪われた。だが今、俺の手には、この極上の食材と、腐敗を最上の発酵に変える術がある。
「慌てるな。飯の邪魔をする奴には——塩を、多めに振ってやるだけだ」
こんな朝が来るなんて、召喚されたあの日の俺は、想像すらしなかった。
腐敗の女王と、同じ食卓を囲む日が来るなんて。
——だが、そこまで辿り着くには、まず、あの最悪の召喚まで遡らなきゃならない。
全部、あの日から始まったんだ。
(第二話へ続く)