指から調味料が出る料理人は今日も腐敗の女王と味噌を作る 〜腐敗を発酵に変えて、世界を満腹にします〜 作:らっぽん
最後の一皿は、鴨だった。
閉店後の、誰もいない厨房。俺は一人、明日の営業も忘れて、新作の詰めをやっていた。
低温で、じっくりと火を入れた鴨の胸肉。中心温度、五十四度。切れば、断面はあくまで淡い薔薇色でなければならない。一度でも火が回りすぎれば、それはもう、俺の店の皿じゃない。ソースは、ベリーの酸を、どこで立てるかで、まだ迷っていた。強すぎれば鴨が負ける。弱ければ、ぼやける。
俺は氷室律。二十八で、自分の店を持った。
ミシュランの星を、一つ、二つ、いずれ獲るつもりでいた。そのために、十年、他の何もかもを捨ててきた。友も、休みも、まともな暮らしも。厨房に立っている時だけ、俺は、生きている心地がした。皿の上の一ミリ、一度、一秒に、俺は自分の全部を賭けていた。
あと一手。この酸を、立てる場所さえ、決まれば——
足元が、光った。
床に、見たこともない紋様が、浮かんでいた。金色の、円と、幾何学の文字。それが、ぐるりと俺を取り囲んで、まばゆく、輝いて。
鴨の皿が、指の先から、遠ざかる。
次の瞬間、俺の厨房は——消えていた。
*
石造りの、ばかみたいに天井の高い、広間だった。
冷たい空気。埃と、香の匂い。ずらりと居並ぶ、ローブ姿の男たち。正面には、金と宝石で飾り立てた祭壇。そこに、純白の法衣をまとった一団が、床に立ち尽くす俺を、食い入るように見下ろしていた。
高い窓から差す光の中に、旗が翻っている。剣と、天秤の紋章。黄金の、聖なる旗。
(——鴨が、冷める)
異世界に召喚された、と理解するより先に、俺の頭を占めていたのは、それだった。あの一皿を、詰めきれなかった。火の入った鴨は、時間との勝負だ。今ごろ、あの薔薇色は、無残に色を失っているだろう。……料理人の、どうしようもない性分だ。
「おお……おお……! ついに……ついに、勇者召喚が、成ったぞ……!」
祭壇の男——ひときわ豪奢な法衣の、たぶん、一番偉い聖職者が、両手を天へ掲げ、震える声を張り上げた。
「異界より来たりし、勇者よ! 我らが聖王国を、魔の手より救う、伝説の使徒よ! 待って、おりました……!」
勇者。俺が。
冗談じゃない。俺は料理人だ。剣も、魔法も、握ったことすらない。だが、口を開くより先に、ローブの一人が、つかつかと歩み寄ってきて、俺の額に、ひやりとした手をかざした。
空中に、半透明の板が浮かぶ。文字が、並んでいる。この世界の、鑑定、というものらしい。
男の顔が、みるみる、曇っていった。
「……固有能力。ひとつ。【調味料生成】」
しん、と、広間が静まった。
「なに?」聖職者の声が、裏返る。「なんと、言った」
「右手の、五指より……砂糖、塩、酢、醤油、味噌を……それぞれ、生成する能力……」男の声が、どんどん、小さくなる。「戦闘系スキルは……ありません。攻撃魔法も、防御も、剣技も、身体強化も……ただの、ひとつも……」
さしすせそ、か。
なるほど。俺の右手からは、それが出るらしい。
……料理人に、これ以上なく似合った力じゃないか。塩も、酢も、切らせば厨房は止まる。それが、いつでも指先から。悪くない——そう思ったのは、この広間で、俺、ただ一人だった。
「調味料、だと……?」
聖職者の顔から、みるみる、血の気が引いていった。歓喜は、失望へ。失望は、あからさまな、怒りへ。
「はずれだ……はずれの勇者を、引いたのだ……! この、大儀式で……! 貴重な魔力を、注ぎ込んで……調味料だと……!?」
広間中が、ざわめいた。落胆の溜め息。押し殺した嘲笑。あからさまな、舌打ち。伝説の勇者を期待して、召喚陣から現れたのが——醤油を出す、料理人。
俺は、黙って、立っていた。
こういう連中を、俺は、知っている。
皿を見もせず、店の格を値踏みする客。三つ星の看板だけを食いに来て、料理そのものは、ろくに味わいもしない連中。出された一皿に、どれだけの手間と、時間と、命が注ぎ込まれているかを、想像すらしない者たち。
——味も、見ずに。はずれ、と言うのか。
腹の底が、冷たく、静かに、煮えた。
「聖下」ローブの一人が、囁いた。「いかが、なさいます。この者……送還は」
「できるものか。一度召喚した勇者は、この世界に縛られる。それが、理だ」聖職者は、忌々しげに吐き捨てた。それから、俺を、まるで生ゴミでも見るような目で、見下ろして——薄く、嗤った。
「だが……せっかく、召喚した駒だ。捨てるには、惜しい」
嫌な、嗤い方だった。
「北の、魔王領へ送れ。あの『腐敗の女王』の、相手を、させてやろう。剣が使えずとも、構わん。あれの気を、しばし引くだけで、いい。——せいぜい、我らが本隊が、整うまでの。時間稼ぎの、餌にでも、なればいい」
餌。
誰も、俺を、助けようとは、しなかった。誰一人、俺を、人として、見てはいなかった。ただの、はずれ。ただの、使い捨ての、餌。
兵たちが、俺の両腕を、乱暴に掴んだ。
その時、俺は、右手の人差し指に、そっと、力を込めた。
指先から、さらさらと、白いものが、こぼれ落ちる。塩だ。手のひらに受けて、舐めてみる。
……角のない、粒の揃った、いい塩だ。舌の上で、すっと溶ける。雑味がない。こんな塩、向こうの世界でも、そうは手に入らなかった。俺の舌は、こんな時でさえ、勝手に「これは、肉を締めるのに、いい」と、判断していた。
それから、ぐう、と、腹が鳴った。塩を、出した分だ。出せば、減る。等価交換。この力に、ただ飯は、ない。
……上等だ。
俺は、引きずられながら、心の中で、静かに、決めた。
味も見ずに、俺を、はずれと嗤った連中よ。よく、覚えておけ。
いつか、お前らが、指をくわえて、見上げるしかない食卓を——この、"はずれ"の手で、作ってやる。
それが、俺の、復讐だ。
(第三話へ続く)