指から調味料が出る料理人は今日も腐敗の女王と味噌を作る 〜腐敗を発酵に変えて、世界を満腹にします〜   作:らっぽん

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# 第三話 腐敗の女王

 

 

 魔王領には、匂いが、なかった。

 

 国境で、馬車から蹴り落とされた。剣も、食料も、地図さえ持たされず、俺はただ、北へ、北へと歩かされた。護送の聖王国兵は、腐敗の女王の城が地平に見えてくると、それ以上は、一歩も進もうとしなかった。俺一人を、荒野の真ん中に残し、逃げるように、馬首を返した。

 

 歩きながら、俺は、その土地の異様さに気づいていた。

 

 草が、ない。木も、虫の音も、鳥の影も、ない。地平まで続く、灰色の荒れ地。腐敗の女王というから、俺は、死屍累々の、腐臭ただよう魔境を想像していた。だが、違った。ここにあるのは、腐敗じゃない。腐敗すら、とうに終わった後の——完全な、無だ。

 

 千年、あらゆるものが腐り尽くし、腐るものすら、なくなった土地。

 

 その中心に、城は、あった。

 

 黒い石を積み上げた、巨大な影。近づくほど、静けさが、重くのしかかってくる。門は——開いていた。

 

 誰も、いなかった。

 

 門番も、兵も、罠も、ない。がらんとした石の回廊に、俺の足音だけが、こつ、こつと、反響する。討伐に来た勇者を、素通りさせる魔王城。おかしい。強すぎて、守りなど要らないのか。それとも——守るべき者が、誰も、いないのか。

 

 回廊を、奥へ。どこまで行っても、人の気配は、ない。埃も、蜘蛛の巣も、千年分。ただ、静寂だけが、この城の主のように、居座っていた。

 

 やがて、たどり着いた、玉座の間で。

 

 そいつは、いた。

 

 高い玉座に、女が、一人。腰まで届く、銀の髪。夜明け前の薄明かりの中でも、その横顔が、作り物じみて整っているのが、分かった。だが——まとう空気が、明らかに、この世のものではない。冷たく、鋭く、近づくだけで、肌が、ひりつく。空気そのものが、俺を、拒んでいた。

 

 腐敗の女王、フローラ・リーゼロッテ・ヴェルダンテ。

 

 女王は、玉座から、俺を見下ろし、心底うんざりした、声で言った。

 

「また、勇者か。……聖王国が異界から召び出した駒は、貴様で四人目だ。この千年、討伐軍も冒険者も、幾度となく押し寄せた。そのことごとくを、あの荒野に亡骸として積み上げてなお、懲りぬか。よほど、異界の贄が惜しくなったと見える。……いい加減、学ばぬな、人間は」

 

 女王の、白い手が、傍らの石壁に、触れた。

 

 黒い染みが、じわりと、広がっていく。硬いはずの石が、ぼろぼろと、崩れ落ちる。崩れながら、腐る。石が、腐るのだ。触れたものすべてを、腐敗させる——見せしめだった。これが、私だ。逃げろ。そう、告げていた。

 

「去れ」女王は、疲れた声で、言った。「次に一歩でも踏み込めば、貴様も、あの石と、同じになる。剣を抜く暇も、あるまい」

 

 俺は、動かなかった。

 

 動けなかった、と言った方が、正しいかもしれない。

 

 二日、何も食っていない。空腹で、目の前が、ちらつく。剣を持つ気力も、逃げる気力も、とうに残っていない。だが——それだけじゃ、なかった。

 

 俺の頭は、崩れ落ちていく石を見て、まったく、別のことを、考えていた。

 

 あの、腐敗。

 

 あれは——ただの、破壊じゃ、ない。

 

「……お前」俺は、掠れた声を、絞り出した。「今の、あれ。……微生物だ。菌が、有機物を、喰って、分解してる。腐敗ってのは、そういう現象だ。ただ——それが、暴走してる。制御が、まるで、効いてないだけだ」

 

 女王の目が、初めて、揺れた。玉座の上の、退屈しきった魔王の顔に、ひび、が入った。

 

「……なにを、言っている。貴様」

 

「腹が、減ってる」俺は、ふらつく足で、玉座へ、一歩、踏み出した。「なんでもいい。この城に、食えるものは、ないのか」

 

 女王は、完全に、呆気に取られていた。

 

 討伐に来たはずの勇者が、腐敗の見せしめを前に、腰も抜かさず、逃げもせず——腹が、減った、と言う。想定の、外だったのだろう。千年の間、この女に向けられてきたのは、恐怖か、憎悪か、命乞いだけだったはずだ。

 

 やがて、女王は、皮肉げに、玉座の脇を、指し示した。

 

 積み上がった、古い木箱。中身は——腐っていた。パンも、果実も、干し肉も。何もかもが、黒く、どろどろに、溶けている。

 

「食えるものなど、ない」女王は、静かに、言った。「私が触れれば、すべて、こうなる。私の城に、あるのは、腐敗だけだ。……千年、ずっと、そうだった」

 

 その声に、ほんの、かすかに——諦めが、滲んでいた。

 

 俺は、その、腐った塊に、近づいた。膝をつき、じっと、見つめる。嗅ぐ。指で、そっと、崩す。

 

 果実だ。糖が、ある。腐ってはいる。ひどい有様だ。だが——これは。

 

 これは、酢の、一歩手前だ。

 

 暴走した菌が、糖を喰い散らかしている。だが、その方向を、少しだけ、変えてやれば。締めて、導いてやれば。腐敗は、発酵に、変わる。

 

 右手の、薬指。酢を、垂らす。人差し指から、塩。ほんの、少し。pHを、締めてやる。暴走した分解を、止めて——"漬ける"方へ、"醸す"方へ、傾けてやる。

 

 どろどろだった塊が、俺の手の中で、みるみる、澄んでいく。鼻を突く、尖った腐臭が、まろやかな、発酵の、酸の香りに、変わっていく。

 

 俺は、それを、口に、運んだ。

 

 女王が、玉座から、腰を浮かせた。「よせ……! 死ぬぞ、それは——!」

 

 ……酸っぱい。

 

 だが。腐っては、いない。ちゃんと、食えるものの、味だ。舌が、痺れることも、腹が、下る気配も、ない。ただ、まっとうな、発酵食品の、酸味。二日ぶりに、腹に落ちた、食い物の味。

 

「悪くない」俺は、口の端を、拭って、言った。「お前の腐敗は、腐敗じゃない。制御されてない、発酵だ。——俺がいれば、料理に、変わる」

 

 千年、誰一人、近づけなかった女王が。玉座の上で、凍りついたように、俺を、見ていた。

 

 その、揺れる目を、見ながら、俺は、思った。

 

 店も、名も、元の世界も、奪われて、荒野に捨てられた、俺の手に。

 

 今——とんでもない、食材が、転がり込んだ。

 

(第四話へ続く)

 

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