指から調味料が出る料理人は今日も腐敗の女王と味噌を作る 〜腐敗を発酵に変えて、世界を満腹にします〜 作:らっぽん
その男が、腐った果実を、口へ運ぶのを、私は、止められなかった。
「よせ……! 死ぬぞ、それは——!」
叫んでから、私は、自分の声に、戸惑っていた。
なぜ、止める。人間が、私の毒に斃れるところなど、この千年、幾百と、眺めてきたではないか。討伐に来た騎士も、名声を求めた冒険者も、私に触れようとした瞬間、爛れて、崩れて、二度と、動かなくなった。一人、増えたところで、なんだというのだ。私は、腐敗の女王だ。死を、振りまくために、生まれてきた。
だが——その男は、死ななかった。
腐り落ちていたはずの果実を。私の触れた、呪いの塊を。男は、平然と、咀嚼し、飲み下し、そして、口の端を拭って、こともなげに、言った。
「悪くない」
時が、止まった気が、した。
悪くない。
その、三文字が、私の千年に、亀裂を、入れた。
千年だ。千年、私の手が生み出したものは、腐敗だけだった。触れれば、花は萎え、果実は溶け、パンは黒ずんだ。私に、朝の挨拶をしようと手を伸ばした侍女は、その指を失った。私を、恐れず抱きしめようとした、たった一人の——あの者の腕も、私の背で、崩れ落ちた。
だから、私は、遠ざけた。すべてを。人も、獣も、緑も。近づけば、腐る。私に触れられて、無事だったものなど、この千年、ただの、ひとつも、なかった。
まして——私が「生んだ」ものを口にして、生きていた者など。旨い、と、言った者など。
いる、はずが、なかった。
私は、玉座の肘掛けを、思わず、握りしめた。石が、みしり、と、腐る。慣れた音だ。千年、聞き続けた、私が、独りであることの、証の音。何かに触れれば、それは腐る。だから、私の手は、いつも、宙に、遊んでいた。触れてはならない、と。
なのに。その男は。
「お前の腐敗は、腐敗じゃない」
男は、私を、まっすぐに、見て、言った。恐れもせず。逃げもせず。三歩の——誰も踏み込まなかった、その内側で。
「制御されてない、発酵だ。俺がいれば、料理に、変わる」
……何を、世迷い言を。
そう、吐き捨てようとして、できなかった。
この男の目には、私を見るとき、誰もが必ず浮かべる、あの色が——なかった。恐怖も、嫌悪も、憐れみも、ない。討伐者の、燃えるような憎しみも、ない。あるのは、ただ、静かに、値踏みするような——料理人の、目。
私を、災厄としてでは、なく。ただの、"素材"として、見ている、目だった。
その目が、あまりに、無遠慮で。あまりに、私を、恐れていなくて。私は、どう、振る舞えばいいのか、分からなくなった。恐れられることには、慣れていた。憎まれることにも。だが、これは——
男は、勝手に、立ち上がった。そして、あろうことか、私の玉座の脇へ、ずかずかと、歩み寄り、腐り果てた食料の山を、無造作に、検分し、始めた。
「ちょ……待て。何を、している」
「在庫を見てる」男は、こちらを見もせず、答えた。腐った干し肉を、手に取り、光にかざす。「……ひどい有様だ。全部、菌の暴走で、潰れてる。だが——方向さえ、変えてやれば、この半分は、救える」
救える。
私の、腐敗が。"救える"。
この男は、討伐に、来たはずだ。私を、殺すために、聖王国が寄越した、四人目の、贄。それが、剣も抜かず、命乞いもせず、私の、腐った蔵を漁って——真剣な、顔で、「救える」などと、言う。
おかしな、男だ。
よく、見れば。頬は、こけ、身なりは、薄汚れ、腐った蔵を漁る指は、かすかに、震えていた。腹を、空かせている。倒れる、寸前ではないか。こんな、有様で。剣も、なく。それでも、この男は、魔王たる私の前に、背筋を伸ばして、立って、逃げも、媚びも、しなかったのか。
なぜ、だか。
胸の、奥が、ざわついた。千年、凍りついていたはずの、どこかが。かすかに、軋んだ。
「……氷室、と」私は、辛うじて、声を、絞り出した。動揺を、悟られまいと、努めて、女王らしく。「そう、名乗ったな。貴様。何者だ。勇者では、あるまい」
「氷室律」男は、腐った棚を漁る手を、止めずに、答えた。「料理人だ。勇者じゃない。剣も、魔法も、知らん。あんな連中に、はずれと嗤われて、餌として、ここへ捨てられた。……だが」
男は、ようやく、振り返り、私を、見た。
その、疲れ切った目の、奥に。奇妙に、揺るがない、光が、あった。
「腐らせることしか、できなかった、お前のその手を。"食える"に、変えることなら——俺には、できる」
私は、返す、言葉を、持たなかった。
殺しに来たはずの、この、痩せ細った男に。私は、今、生まれて、初めて。
"独りでなくなるかも、しれない"という——ひどく、危うい、光を。見せられて、いる。
……信じては、ならない。
千年、そう、生きてきた。近づけば、腐る。信じれば、失う。手を伸ばせば、その手が、相手を、殺す。それが、私だ。この男とて、いずれ——私の、そばで、朽ちるに、決まっている。
そう、己に、固く、言い聞かせながら。
それでも、私は、なぜか。その男に、まだ、「去れ」の一言が——言えずに、いた。
(第五話へ続く)