指から調味料が出る料理人は今日も腐敗の女王と味噌を作る 〜腐敗を発酵に変えて、世界を満腹にします〜 作:らっぽん
「厨房は、どこだ」
俺がそう言うと、フローラは玉座の上で、間の抜けた顔をした。
「……は?」
「厨房だ。竈と、水と、火のある場所。この城に、ないわけがないだろう。魔王でも、飯は食うんだろうが」
千年、誰にも命じられたことのない魔王は、しばらく呆然と俺を見ていた。討伐に来たはずの勇者が、剣も抜かず、腹を空かせて、厨房の場所を尋ねている。よほど、理解が追いつかないらしい。
「……貴様、私が、誰か分かっているのか」
「腐敗の女王だろう。さっき聞いた」俺は肩をすくめた。「で、厨房は」
フローラは、毒気を抜かれたように、ふらりと玉座を立ち、城の奥を指した。案内する背中が、どこか、戸惑っている。千年ぶりに、誰かを自分の城の奥へ通す、という手つきだった。
*
案内された厨房は、ひどいものだった。
高い天井から、蜘蛛の巣が幾重にも垂れている。石造りの立派な竈は、灰すら風化して、ただの冷たい穴になっていた。壁一面の棚には、かつて食材だったのだろう、黒い塊が、干からびて、へばりついている。
千年、誰も使っていない。当然だ。この女が触れれば食材は腐り、料理人がいたとて、近づけば爛れて死ぬ。厨房とは、人が生きるための場所だ。この城で最も、この女から遠い場所。
それでも——水瓶の水だけは、澄んでいた。石の井戸から引いた、地下の水。腐敗も、届かなかったらしい。
悪くない。火と、水がある。なら、料理はできる。
俺は、埃をかぶった作業台を、袖で拭った。
「……何を、するつもりだ」
フローラが、厨房の入り口から、中へは入らずに、俺を見ていた。まるで、そこから先へ踏み込むことを、自らに禁じているように。
「見てりゃ分かる」
とはいえ——問題がある。腹が、減りすぎている。
俺の力は、食った分しか出ない。指先から調味料を取り出せば、そのぶん、腹が減る。今の俺は、二日、何も食っていない。この空きっ腹では、塩ひとつまみ出すのが、精一杯だ。
まず、俺自身が食う。話は、それからだ。
腐った食材の山を、検分する。パンは、駄目だ。芯まで菌が回っている。果実も、水気が多すぎて、もう土に還りかけている。だが——
この、干し肉。
手に取り、鼻を近づける。黒ずんではいる。表面は、確かに腐っている。だが、芯は——生きている。腐敗が、うわべを舐めただけだ。塩気の強い干し肉は、菌の侵攻が遅い。これは、救える。
「フローラ。この肉、いつのものだ」
「……知らぬ。百年か、二百年か。私が触れて、腐らせて、そのまま——」
「二百年ものの熟成、と思えば上等だ」
俺は、腐った表面を、刃で削ぎ落とした。現れた、赤黒い芯。ここは、まだ食える。
人差し指の先から、塩。薬指から、酢。削いだ患部に、振りかける。暴走した菌を、塩で締め、酢で方向を変える。腐敗という無秩序な暴走を、塩漬けという、狙った秩序へ——傾けてやる。
洗う。澄んだ水瓶の水で、丁寧に。竈に火を熾し——火打ち石は、俺の荷にあった数少ない持ち物のひとつだ——鍋に水を張り、削いだ肉を沈めて、ことこと、煮る。
やがて。
厨房に、匂いが立ちのぼった。
肉と、塩と、湯気の匂い。ただ、それだけの、まっとうな、出汁の匂い。
入り口のフローラが、びくりと、肩を震わせた。その匂いを、知らないはずがない。だが、この城で、それを嗅ぐのは——おそらく、千年ぶりだ。
俺は、椀に注ぎ、一息に啜った。
……染みる。
塩気が、出汁が、骨の髄まで、染み渡っていく。二日ぶりの、まともな飯。腹の底に、じわりと熱が落ちて、それが、指先まで巡っていくのが、はっきりと分かった。空だった体に、力が戻ってくる。
これで、ようやく、俺は"料理人"に戻れる。
顔を上げると、フローラが、いつのまにか、厨房の中へ、一歩、踏み込んでいた。
その目に、覚えのある色があった。俺の店にも、時々いた。硝子越しに、料理を、じっと見ている、腹を空かせた子供の目。——ただし、こいつが飢えているのは、たぶん、飯じゃない。
俺は、椀を、もう一つ、手に取った。
「……お前も、作ってみるか」
フローラの顔が、強張った。
「よせ」低い声だった。「私が触れれば、腐る。貴様も、見ただろう。あの石を。私は、腐敗しか、生めぬ」
「腐らせるな」俺は言った。「発酵させろ。方向が、違うだけだ」
「同じことだ!」
フローラが、初めて、声を荒らげた。玉座では、あれほど泰然としていた女が。
「千年だ。千年、私はこの手で、あらゆるものを腐らせてきた。花も。獣も。私に仕えようとした、たった数人の……あの者たちの、手も。私に触れられるものなど、この世に、ない。私は、そういうふうに、できているのだ」
声が、震えていた。恐怖じゃない。もっと、古い、諦めの震えだ。
——ああ。この女も、俺と同じか。
店を、名を、居場所を、まとめて奪われた俺と。千年かけて、何もかもを腐らせ、独りになった、この女と。抱えているものの形が、少しだけ、似ている。
俺は、その白い手を、掴んだ。
フローラが、息を呑む。
腐らない。俺の手が、そばにある限り、この女は、何ひとつ、腐らせない。
「一回だけだ。試してみろ。腐ったら、俺が食う」
二枚目の干し肉に、その手を、導いた。抗う指を、宥めるように。
「菌を、暴れさせるな。締めてやるんだ。……ここに、塩」
俺の指から出した塩を、女王の、震える指先へ、移す。
フローラは、目を、固く閉じた。腐る音を、聞くまいとするように。そして、恐る恐る、その塩を、肉に、擦り込んだ。
……音は、しなかった。
フローラが、そっと、目を開ける。
黒く溶け落ちるはずだった肉が、女王の手の中で、澄んだ、塩漬けの色に、変わっていた。腐って、いなかった。
フローラの指が、震えていた。さっきとは、違う震えだ。
俺は、その塩漬けを、竈の火で炙り、脂の匂いを立たせて、女王に、差し出した。
フローラは、それを、両手で受け取り、おずおずと、口へ運び——止まった。
銀の睫毛の先が、かすかに、濡れていた。
「……あたたかい」
絞り出すような、声だった。
「千年だ。千年、私は……自分の手が生んだものを、口にしたことが、なかった。私の手から生まれるのは、いつも、腐敗と、死だけだった。なのに、これは……あたたかい」
俺は、何も言わなかった。言うべきことが、見つからなかった。ただ、椀の出汁を、もう一杯、女王の前に、静かに置いた。
フローラは、それを、両手で包んで、しばらく、俯いていた。
——この女の呪いは、飢えた国ひとつ、養えるかもしれない。
ふと、そんな考えが、頭をよぎった。腐敗を、発酵に。呪いを、糧に。この手があれば、この女は、災厄などではない。だが、それは、まだ、ずっと先の話だ。
今はただ、千年ぶりに、この厨房に灯った火を——消さないことだ。
(第六話へ続く)