指から調味料が出る料理人は今日も腐敗の女王と味噌を作る 〜腐敗を発酵に変えて、世界を満腹にします〜 作:らっぽん
厨房が、少しずつ、厨房らしくなってきた。
竈の灰を掻き出し、蜘蛛の巣を払い、腐り果てた棚を、片端から検分する。救えるものは、塩と酢で締めて、漬け直した。救えないものは、捨てた。三日かけて、この城に「食える」と呼べるものが、ようやく、棚一段ぶん、並んだ。
フローラは、その一段を、毎朝、飽きもせずに、眺めている。
「……減っておらぬな」
「食ってないからな」
「そうか」女王は、深く、頷いた。「減らぬのは、よいことだ」
千年、腐って消えていくものしか、見てこなかった女だ。棚のものが「減っていない」というだけで、こいつには、事件らしい。
俺が、水瓶から水を汲み上げた、その時だった。
首筋に、冷たいものが、触れた。
刃だ。
「——お動きになりませんよう」
声は、真後ろ。気配は、まるで、なかった。
「ノワール!」フローラが、鋭く叫んだ。「戻ったのか」
「ただいま、戻りましてございます、フローラ様。三月ぶりの帰参にございますわ」
その声が、うっとりと、蕩けた。刃を俺の首に当てたまま、だ。
「ああ、ご健勝そうで何より。相変わらず、お美しい……その銀の御髪の、朝日を弾く一筋一筋まで、わたくし、脳裏に焼き付けて旅を——」
「ノワール」
「ですが」声が、氷点下に落ちた。「これは、何ですの。フローラ様の御城に、人間の男。しかも、厨房などという場所で、我が物顔に、水など汲んで」
首の刃が、じり、と食い込む。
俺は、ゆっくりと、振り返った。
小柄な、黒衣の女がいた。艶のある黒髪を、高い位置で括っている。年若く見えるが、纏う空気は、フローラと同種のものだ。紅い双眸が、まっすぐに、俺を見上げていた。——嫌悪と、殺意で。
「聖王国の、刺客ですわね。四人目の。……フローラ様、お下がりくださいませ。この程度の羽虫、わたくし一人で、片付けますわ」
「待て、ノワール。その者は——」
女王の言葉は、間に合わなかった。
刃が、閃く。
俺は、咄嗟に鍋を掴んで、受けた。硬い音。だが——手応えが、おかしい。
次の瞬間、ノワールの体が、輪郭を失った。
黒い霧に、ほどけたのだ。
「無駄でしてよ」
声が、俺の背後から、した。振り返る。誰もいない。今度は、真横から。
「わたくしの身は、霧。斬れるものも、掴めるものも、ございません。数百年、腐敗の御力にも侵されず、フローラ様のお側に侍ることを許された、ただ二人のうちの、一人。……あなたのような羽虫に、どうこうできる道理が、ございませんの」
霧が、厨房を、渦を巻いて、流れていく。捉えられない。逃げ場も、ない。剣も、魔法も、持たない俺には——
……いや。
待て。
霧。
水分だ。
空気中の水を纏って、身を保っている。だとすれば。
「……水分活性、か」
俺は、右手を、握り込んだ。
人差し指。塩。
ひとつまみじゃない。ありったけだ。腹の底から、熱が引きずり出されていくのが、はっきりと分かる。食ったものを、材料に。体を、炉にして。組み替えて、吐き出す。三日ぶんの、食い溜めが、一気に燃えていく。
視界が、暗く滲む。それでも、俺は、握った拳を——厨房の空気に、思い切り、撒いた。
白い粉が、霧のように、舞い上がる。
黒い霧と、白い塩が、混ざった。
直後。
「——な」
黒い霧が、崩れた。
輪郭が、無理やり、引き戻される。空気に溶けていたはずのものが、人の形に、凝った。
ノワールが、床に、膝をついていた。
「な、なぜ……霧が、保てな……!」
「塩だ」
俺は、壁に手をついて、荒い息を整えながら、言った。
「お前の体は、水でできてる。塩を撒けば、浸透圧で、水は持っていかれる。形を保てるわけがない。……ナメクジと、同じ理屈だ」
「な、ナメ……っ!?」
「飯の邪魔をする奴には」俺は、口の端を上げた。「塩を、多めに振ってやる。それだけだ」
ノワールが、屈辱に、顔を赤くした。立ち上がろうとして、力が入らず、また、崩れる。
その、傾いだ肩を——フローラの手が、支えた。
厨房が、静まり返った。
ノワールが、目を、見開いていた。支えられた肩を。そこに置かれた、白い手を。信じられないものを見るように、凝視して——凍りついている。
「……フローラ、様」
掠れた、声だった。
「今……わたくしに、お触れに、なりましたの……?」
「うむ」フローラは、平然と、頷いた。「律がおれば、腐らぬ。……そういう、ことになった」
ノワールは、しばらく、動かなかった。
やがて、その肩が、小刻みに、震え出した。
「……ああ」
声が、漏れた。
「ああ、ああ……あたたかい……フローラ様の、御手が……」
霧の体では、腐敗を受けない。だが、と俺は思った。霧の体には、感触も、ない。この女は、数百年、崇拝する主のそばに侍り続けて——ただの一度も、触れられたことが、なかったわけだ。
ノワールの、紅い目が、こちらを向いた。
歓喜と、屈辱が、そこで、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。
「……なぜ」
絞り出すような、声だった。
「なぜ。なぜ、わたくしでは、なかったのですの。数百年、お側におりましたのは、このわたくしですのに。……なぜ、来て三日の、人間の、男が」
俺は、答えなかった。答えようが、ない。
ノワールは、しばらく俯いていたが、やがて、袖で、乱暴に目を拭った。そして、床に膝をついたまま、俺を、睨み上げた。
「……氷室、律。と、申しましたわね」
「ああ」
「認めた、わけではございません。断じて。ですが」深く、深く、頭を下げる。「フローラ様に、あたたかいものを差し上げた、その一点においてのみ。——礼を、申し上げますわ」
それから、ノワールは、すっと、表情を引き締めた。
紅い目に、さっきまでの熱が、嘘のように消えている。任務の顔だ。外交を任される者の。
「フローラ様。……ご報告が、ございます」
「申せ」
「聖王国が、動いております」
厨房の空気が、変わった。
「先の召喚を、最後の"儀"と定めた模様。すでに、斥候が発っております。数は——六名。到着は、七日後かと」
「たった、それだけか」フローラが、眉を寄せた。「城を落とすつもりがあるとは、思えぬ数だな」
「はい。露払いにも足りぬ、ただの物見。……いえ。正しくは、捨て石ですわね。フローラ様の御力を測るため、死なせるための、駒」
ノワールは、そこで、わずかに、声を落とした。
「問題は、その後にございます。本隊は、三千。ひと月の後には、この荒野を、埋め尽くしましょう」
(第七話へ続く)