指から調味料が出る料理人は今日も腐敗の女王と味噌を作る 〜腐敗を発酵に変えて、世界を満腹にします〜   作:らっぽん

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# 第六話 塩を、多めに

 

 

 厨房が、少しずつ、厨房らしくなってきた。

 

 竈の灰を掻き出し、蜘蛛の巣を払い、腐り果てた棚を、片端から検分する。救えるものは、塩と酢で締めて、漬け直した。救えないものは、捨てた。三日かけて、この城に「食える」と呼べるものが、ようやく、棚一段ぶん、並んだ。

 

 フローラは、その一段を、毎朝、飽きもせずに、眺めている。

 

「……減っておらぬな」

 

「食ってないからな」

 

「そうか」女王は、深く、頷いた。「減らぬのは、よいことだ」

 

 千年、腐って消えていくものしか、見てこなかった女だ。棚のものが「減っていない」というだけで、こいつには、事件らしい。

 

 俺が、水瓶から水を汲み上げた、その時だった。

 

 首筋に、冷たいものが、触れた。

 

 刃だ。

 

「——お動きになりませんよう」

 

 声は、真後ろ。気配は、まるで、なかった。

 

「ノワール!」フローラが、鋭く叫んだ。「戻ったのか」

 

「ただいま、戻りましてございます、フローラ様。三月ぶりの帰参にございますわ」

 

 その声が、うっとりと、蕩けた。刃を俺の首に当てたまま、だ。

 

「ああ、ご健勝そうで何より。相変わらず、お美しい……その銀の御髪の、朝日を弾く一筋一筋まで、わたくし、脳裏に焼き付けて旅を——」

 

「ノワール」

 

「ですが」声が、氷点下に落ちた。「これは、何ですの。フローラ様の御城に、人間の男。しかも、厨房などという場所で、我が物顔に、水など汲んで」

 

 首の刃が、じり、と食い込む。

 

 俺は、ゆっくりと、振り返った。

 

 小柄な、黒衣の女がいた。艶のある黒髪を、高い位置で括っている。年若く見えるが、纏う空気は、フローラと同種のものだ。紅い双眸が、まっすぐに、俺を見上げていた。——嫌悪と、殺意で。

 

「聖王国の、刺客ですわね。四人目の。……フローラ様、お下がりくださいませ。この程度の羽虫、わたくし一人で、片付けますわ」

 

「待て、ノワール。その者は——」

 

 女王の言葉は、間に合わなかった。

 

 刃が、閃く。

 

 俺は、咄嗟に鍋を掴んで、受けた。硬い音。だが——手応えが、おかしい。

 

 次の瞬間、ノワールの体が、輪郭を失った。

 

 黒い霧に、ほどけたのだ。

 

「無駄でしてよ」

 

 声が、俺の背後から、した。振り返る。誰もいない。今度は、真横から。

 

「わたくしの身は、霧。斬れるものも、掴めるものも、ございません。数百年、腐敗の御力にも侵されず、フローラ様のお側に侍ることを許された、ただ二人のうちの、一人。……あなたのような羽虫に、どうこうできる道理が、ございませんの」

 

 霧が、厨房を、渦を巻いて、流れていく。捉えられない。逃げ場も、ない。剣も、魔法も、持たない俺には——

 

 ……いや。

 

 待て。

 

 霧。

 

 水分だ。

 

 空気中の水を纏って、身を保っている。だとすれば。

 

「……水分活性、か」

 

 俺は、右手を、握り込んだ。

 

 人差し指。塩。

 

 ひとつまみじゃない。ありったけだ。腹の底から、熱が引きずり出されていくのが、はっきりと分かる。食ったものを、材料に。体を、炉にして。組み替えて、吐き出す。三日ぶんの、食い溜めが、一気に燃えていく。

 

 視界が、暗く滲む。それでも、俺は、握った拳を——厨房の空気に、思い切り、撒いた。

 

 白い粉が、霧のように、舞い上がる。

 

 黒い霧と、白い塩が、混ざった。

 

 直後。

 

「——な」

 

 黒い霧が、崩れた。

 

 輪郭が、無理やり、引き戻される。空気に溶けていたはずのものが、人の形に、凝った。

 

 ノワールが、床に、膝をついていた。

 

「な、なぜ……霧が、保てな……!」

 

「塩だ」

 

 俺は、壁に手をついて、荒い息を整えながら、言った。

 

「お前の体は、水でできてる。塩を撒けば、浸透圧で、水は持っていかれる。形を保てるわけがない。……ナメクジと、同じ理屈だ」

 

「な、ナメ……っ!?」

 

「飯の邪魔をする奴には」俺は、口の端を上げた。「塩を、多めに振ってやる。それだけだ」

 

 ノワールが、屈辱に、顔を赤くした。立ち上がろうとして、力が入らず、また、崩れる。

 

 その、傾いだ肩を——フローラの手が、支えた。

 

 厨房が、静まり返った。

 

 ノワールが、目を、見開いていた。支えられた肩を。そこに置かれた、白い手を。信じられないものを見るように、凝視して——凍りついている。

 

「……フローラ、様」

 

 掠れた、声だった。

 

「今……わたくしに、お触れに、なりましたの……?」

 

「うむ」フローラは、平然と、頷いた。「律がおれば、腐らぬ。……そういう、ことになった」

 

 ノワールは、しばらく、動かなかった。

 

 やがて、その肩が、小刻みに、震え出した。

 

「……ああ」

 

 声が、漏れた。

 

「ああ、ああ……あたたかい……フローラ様の、御手が……」

 

 霧の体では、腐敗を受けない。だが、と俺は思った。霧の体には、感触も、ない。この女は、数百年、崇拝する主のそばに侍り続けて——ただの一度も、触れられたことが、なかったわけだ。

 

 ノワールの、紅い目が、こちらを向いた。

 

 歓喜と、屈辱が、そこで、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。

 

「……なぜ」

 

 絞り出すような、声だった。

 

「なぜ。なぜ、わたくしでは、なかったのですの。数百年、お側におりましたのは、このわたくしですのに。……なぜ、来て三日の、人間の、男が」

 

 俺は、答えなかった。答えようが、ない。

 

 ノワールは、しばらく俯いていたが、やがて、袖で、乱暴に目を拭った。そして、床に膝をついたまま、俺を、睨み上げた。

 

「……氷室、律。と、申しましたわね」

 

「ああ」

 

「認めた、わけではございません。断じて。ですが」深く、深く、頭を下げる。「フローラ様に、あたたかいものを差し上げた、その一点においてのみ。——礼を、申し上げますわ」

 

 それから、ノワールは、すっと、表情を引き締めた。

 

 紅い目に、さっきまでの熱が、嘘のように消えている。任務の顔だ。外交を任される者の。

 

「フローラ様。……ご報告が、ございます」

 

「申せ」

 

「聖王国が、動いております」

 

 厨房の空気が、変わった。

 

「先の召喚を、最後の"儀"と定めた模様。すでに、斥候が発っております。数は——六名。到着は、七日後かと」

 

「たった、それだけか」フローラが、眉を寄せた。「城を落とすつもりがあるとは、思えぬ数だな」

 

「はい。露払いにも足りぬ、ただの物見。……いえ。正しくは、捨て石ですわね。フローラ様の御力を測るため、死なせるための、駒」

 

 ノワールは、そこで、わずかに、声を落とした。

 

「問題は、その後にございます。本隊は、三千。ひと月の後には、この荒野を、埋め尽くしましょう」

 

(第七話へ続く)

 

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