指から調味料が出る料理人は今日も腐敗の女王と味噌を作る 〜腐敗を発酵に変えて、世界を満腹にします〜 作:らっぽん
六名。
その数を聞いても、私の胸は、少しも波立たなかった。
「そうか」私は、頷いた。「では、私が出よう」
千年、幾度も、そうしてきた。荒野へ出て、地に、手を触れる。それだけでいい。土が腐り、水が腐り、彼らの糧が腐り、やがて、彼ら自身が、腐る。三度の討伐軍も、そうやって、あの荒野の土に還した。四度目とて、同じことだ。
「さすがは、フローラ様」ノワールが、恭しく頭を垂れる。「では、わたくしは前哨を——」
「やめろ」
声が、飛んだ。
律だった。厨房の作業台に手をついて、この男は、私を睨んでいた。ノワールの霧を塩で撃ち落とした、あの疲れも抜けきらぬ顔で。
「……なんですって?」ノワールの声が、凍る。「あなた、今、なんと。フローラ様に、命令を?」
「やめろと言った」律は、私だけを見ていた。「腐らせるな。三千人だぞ」
「六名だからだ」私は、静かに答えた。「手間も、かかるまい。それに、これは私の役目だ。貴様が汚れることは、何もない」
「そうじゃない」
男は、苛立たしげに、髪を掻き上げた。
「お前がその六人を腐らせたら、明日からも、お前は"腐敗の女王"のままだ。千年、そうやって退けてきて、それで、どうなった。この城には、誰もいない。棚には、腐ったものしか、並んでなかった」
言葉が、出なかった。
「また同じことをやれば、千年後も、お前は、一人だ」
……この男は。
剣も持たず、魔力もなく、三千の軍勢が七日後に迫っているというのに。私の、千年後の孤独の心配を、している。
「では、どうしろと申しますの」ノワールが、噛みつくように言った。「ひと月後には、本隊が三千ですのよ。逃げよと? フローラ様に、この御城を捨てよと?」
「逃げない」律は、言った。「食わせる」
厨房が、静まり返った。
「……は?」
「聖王国は、飢えてる」男は、淡々と続けた。「異界から人間を呼び出して、使い捨ての餌にするような国だ。余裕のある国が、そんなことをするか。あの広間の連中も、飾りの割に、顔が痩せてた。……三千の本隊まで抱えて、食わせ切れる兵糧が、あると思うか」
私は、答えられなかった。
考えたことも、なかった。敵とは、腐らせるものだ。その腹の中身など、千年、一度たりとも、想像したことがない。
「戦う必要はない」律は、言った。「剣より飯を選びたくなる食卓を、出せばいい。腹の減った人間は、あんたが思ってるより、ずっと正直だ」
……正気か。
そう言おうとして、私は、この男の目を見て、口を噤んだ。冗談を言っている目では、なかった。腐った干し肉を検分していた時と、同じ目。料理人の、算段の顔だ。
「で」律は、腕を組んだ。「問題は、何を食わせるかだ。……この城に、豆はあるか」
豆。……戦の話をしていたはずだが。
「なぜ、豆なのだ」
「穀物でもいい。腹に溜まって、日持ちして、量が稼げるもの。……三千人分だ」
私は、ノワールと、顔を見合わせた。
「……石豆なら、蔵の底に、山ほど眠っておりますけれど」ノワールが、怪訝そうに言った。「あんなもの、食い物ではございませんわ」
*
蔵の底から引きずり出された麻袋は、千年ぶんの埃を、被っていた。
中身は、黒ずんだ、小指の先ほどの豆。硬い。指で押しても、びくともしない。
「石豆と、呼んでおる」私は言った。「かつて、この地に生えていた雑草の実だ。名の通り、石のように硬い。半日煮ても戻らぬ。無理に食えば、腹を下す。……家畜すら、口にせぬ」
「捨てるのも面倒で、放置されていた代物ですわ」
律は、麻袋に手を突っ込み、ひと掴み、掌に乗せた。
しばらく、転がしていた。それから、一粒を、石の上で、砕く。割れた断面に、鼻を近づけ——目を、細めた。
「……青臭い。脂と、たんぱく質の匂いだ」
男の声が、低く、震えた。
「フローラ。これは、食い物だ」
「馬鹿を言え。誰も食えぬと——」
「そのままでは、な」律は、割れた豆を、指で摘まみ上げた。「硬すぎて、生では毒。だから、誰も食わなかった。……だが、逆だ。そのままじゃ食えないからこそ、こいつは、発酵させる価値がある」
「発酵……?」
「聞け」
男は、豆を、作業台に置いた。
「俺の世界にも、これとよく似た豆があった。硬くて、生では腹を下す、厄介な豆だ。だが中身は、たんぱく質の塊——旨味の、原石だ。それを、どうしたと思う」
「……煮た、のでしょう」ノワールが、面倒くさそうに言った。
「腐らせた」
ノワールの眉が、跳ね上がった。
「腐……っ!? この期に及んで、腐らせる、ですって!?」
「腐らせるんじゃない。飼い慣らすんだ」律は、言った。「豆を煮て、そこに、麹という菌を撒く。菌は、豆を喰う。喰って、たんぱく質を、細かく分解する。分解された先にあるのが——アミノ酸。人間の舌が、"旨い"と感じる、正体だ」
私は、息を、呑んだ。
「分解、だと」
「そうだ」男は、私を見た。「お前が石にやったのと、同じことだ。フローラ。菌が、有機物を、喰って分解する。……お前の腐敗と、まったく同じ現象だよ」
厨房が、静まり返った。
「ただし、放っておけば、菌は暴れる。腐る。だから、塩を、大量に打つ。悪い菌は塩に弱い。麹は、塩に強い。……そうやって、暴れる菌の中から、旨いものを作る奴だけを、生き残らせる」
律は、蓋のない樽を、引き寄せた。
「豆と、塩と、菌。それを樽に詰めて、寝かせる。俺の世界じゃ、それを——味噌と呼ぶ」
みそ、と。
私は、その響きを、口の中で、繰り返した。
誰も食えぬと言われ、千年、蔵の底で埃を被っていた豆。食い物ですらないと、捨て置かれていたもの。
……この男は、それを、旨いものに、変えるという。
私と、同じだ、と思った。
使い道を、誰も知らなかった。ただ、それだけの。
「……で、その味噌とやら、いつ、できますの」ノワールが、腕を組んだまま、尋ねた。
律の顔が、そこで、初めて、歪んだ。
「——一年だ」
「は」
「発酵は、時間の芸術だ」男は、吐き捨てるように言った。「味噌は、仕込んで一年。醤油なら、二年。旨味は、菌が時間をかけて、作る。……ひと月で間に合うのは、せいぜい、浅漬けが少々。三千人の腹を、満たせるものか」
厨房の空気が、重く、沈んだ。ノワールが、勝ち誇ったように、鼻を鳴らそうとして——
律が、ふと、顔を上げた。
その目が、私を、見た。
背筋が、粟立った。あの目だ。腐った果実を見つけた時の、素材を値踏みする、あの目。それが今、まっすぐに、私に、向いている。
「フローラ。あの石を腐らせた時、何秒だった」
「……三つ、数えるほど、だが」
「一年かかる分解を、三秒で」男の声が、低くなった。「お前の中の菌は、常人の数千倍の速さで、有機物を喰ってる。方向がめちゃくちゃなだけで、速さだけなら——化け物だ」
律は、私の前に立ち、手を、差し出した。
「腐敗を、貸せ」
……私は、後ずさっていた。
自分でも驚くほど、明確な、恐怖だった。
「よ、よせ」声が、震えた。「私の力は、殺すためのものだ。導けるようなものではない。干し肉一枚とは、わけが違う。樽ひとつ、まるごとなど……もし、暴れたら」
「暴れさせない」
「もし、失敗したら!」
叫んで、しまった。
千年、私が奪ってきたものが、脳裏を駆け抜けた。萎れた花。崩れた腕。指を失った侍女の、悲鳴。私が触れて、無事だったものなど、この世に、ない。あの三日の奇跡は、ただの、まぐれではないのか。
「フローラ」
男の声は、静かだった。
「失敗したら、俺が食う」
——ああ。
この男は、初めて会った日にも、そう言った。腐ったら、俺が食う、と。
私は、震える手を、その手のひらに、乗せた。
*
律は、石豆を、煮た。
半日煮ても戻らぬ豆を、酢と塩で、まず締める。それから、灰汁を溶いた湯で、ことこと。硬く閉じていた豆が、少しずつ、指で潰れるほどに、ほどけていく。
そして、右手の小指から、味噌を絞り出した。ほんの、小皿一杯。
「これが、種だ」男は言った。「量は出せない。だが、この中には、麹菌が生きてる。……こいつを、樽いっぱいの豆に、移してやる」
「……小皿一杯で?」ノワールが、鼻で笑った。「樽が、いくつあるとお思いですの。混ぜているうちに、七日が終わりますわ」
「そうだな」律は、あっさり頷き——ノワールを、見た。「だから、お前がやれ」
「は?」
「お前、霧になれるだろう」
ノワールの、紅い目が、丸くなった。
「この種を、霧に混ぜて、樽の上に撒け。菌ってのは、均一に回すのが一番難しい。偏れば、そこだけ腐る。……空気になれる奴が撒けば、隅々まで、行き渡る」
「わ、わたくしは、料理人ではございませんわ! 誇り高き、フローラ様の——」
「そうか。じゃあ帰れ」律は、樽に向き直った。「フローラと二人でやる」
「やりますわ!!」
ノワールが、私を一瞥し、それから、律を、思い切り睨みつけて——輪郭を、ほどいた。
黒い霧が、種味噌を巻き上げ、渦を巻いて、樽の上を、ゆっくりと、旋回する。細かく、細かく、雪のように、豆の上へ降っていく。
……見事なもの、だった。
「それから」律が、蔵の天井を見上げた。「発酵は、温度と湿度が命だ。乾けば止まる。冷えても止まる。この蔵は、寒すぎるし、乾きすぎだ」
霧の中から、不服そうな声がした。「……つまり?」
「お前がいれば、この蔵は、一年中、春にできる」
霧が、一瞬、止まった。
それから、蔵中に、しっとりとした温かい靄が、満ちていった。壁の石が、うっすらと汗をかく。呼吸をするような、生ぬるい空気。
ノワールは、何も言わなかったが——その霧は、少しだけ、機嫌がよさそうに、見えた。
「よし」律が、私の手を取り、樽の縁に、触れさせた。「フローラ。いいか。喰い散らかすな。締めて、導け。……甘い方へ。旨い方へ、連れていってやれ」
私は、目を、閉じた。
千年、この手から溢れ出るに任せていたものを——初めて、意識して、掴んだ。暴れる。噛みつく。喰い荒らそうとする。それを、宥める。塩の壁を、越えさせない。方向を、定める。甘い方へ。旨い方へ。
樽が、熱を、持った。
どく、どく、と。生き物の、脈のように。
やがて。
蓋の隙間から、匂いが、立ちのぼった。
鼻を突く、腐臭ではなかった。深く、丸く、どこか懐かしい——棚の一段が教えてくれた、あの、匂いだ。
律が、蓋を、開けた。
樽の底に、褐色の、艶のある味噌が、沈んでいた。
「……ひと月分は、進んだな」男は、指で掬い、舐めて、頷いた。「悪くない」
私は、樽の縁を、握りしめていた。
千年だ。千年、この手は、奪うだけだった。花を殺し、人を殺し、私自身から、何もかもを奪い続けた。呪いだった。生まれてこの方、ただの一度も——
この手が、何かを、生んだことなど、なかったのに。
「……律」
「なんだ」
「これは。……私の、力か」
「ああ」男は、こともなげに言った。「お前の力だ。だから言ったろ。腐敗じゃない。制御されてない、発酵だってな」
私は、俯いた。顔を、見られたく、なかった。
霧の中から、ノワールが、そっと実体を結び、私の傍らに膝をつく。何も言わず、ただ、私の手が握る樽の縁を、じっと見つめていた。
律は、袖をまくり、次の樽を引きずり出しながら、言った。
「あと、六日で、斥候が六人」男は、言った。「そっちは、鍋ひとつで足りる」
そして、樽の底を、こつん、と叩いた。
「問題は、ひと月後の、三千だ。……こっちは、今から、寝かせておく」
(第八話へ続く)