寝ている間に無自覚無双 ~怠惰に生きたい転生貴族、楽するために開発したオートスキルで知らないうちに国を救っていたようです~ 作:片沼ほとり
魔獣に囲まれたシエルは考える。戦略はシンプルだ。
奥に見える足場まで駆け抜け、上に戻る。そのために、道を塞ぐ魔獣を斬り開いていく。
全部倒す必要はない。進路上の敵だけ片付ければいい。
「――はぁっ!」
光を纏い、踏み込んだ。
最初の一体に斬りかかる。短剣が魔獣の首筋を捉え――浅い。硬い毛皮に弾かれた。
返す刀でもう一振り。今度は脇腹に入る。だが、まだ動いている。
三振り目で、ようやく一体が倒れた。
(……三振り)
一体に三振り。その間にも周りの魔獣がじりじりと距離を詰めてくる。
すぐに次の一体。踏み込み、斬り、斬り、斬る。倒れる。また次。
確実に数は減っている。だが、足場までの距離は思うように縮まらない。一体を仕留める間に、別の個体が回り込んで進路を塞ぐ。
(お姉様なら――)
頭の中に、さっきの光景がちらつく。
あれだけ大きな魔獣をも、一閃で一体を倒すあの剣。速く、無駄のない、完璧な動き。
同じ光属性。同じ血筋。同じように速さを纏っている。そのはずなのに。
「はぁっ!」
また一体。斬り、斬り、斬って倒す。横から飛びかかってきた別の個体を蹴り飛ばし、進む。
型通りに構え、型通りに踏み込み、型通りに振っている。教わった通りだ。
なのに――何かが違う。何が足りないのか、何が間違っているのか。それがわからない。
(どうすれば、お姉様のように――)
考えている余裕はなかった。このペースでは魔力が先に尽きる。
目の前の敵を倒しても、暗がりからまた新しい個体が現れるからだ。
(全部倒すのは無理。道を作って駆け抜けたいのに、一体ごとに時間がかかりすぎますわ)
わかっている。わかっているのに、どうにもできない。
短剣に光を集中させ、渾身の一振りを放つ。今度こそ一撃――。
だが結局、毛皮を深く裂いただけで、倒しきれなかった。もう一振り追加して、ようやく沈む。
姉なら。姉なら一閃で仕留めている。
(……集中しなさい、ワタクシ!)
そう自分に言い聞かせる。それなのに、剣を振るうたびに姉の残像が重なる。
自分の動きに、姉の動きが被さって、その差だけが浮き彫りになる。
(……何が足りないんですの)
焦りではない。もっと根深い、自分の剣そのものへの違和感。
その思考が――一瞬だけ、シエルの注意を奪った。
「グガッ!」
「――っ!?」
背後。死角から飛びかかった魔獣に、気づくのが遅れた。
振り返ったときにはもう、牙がすぐそこまで迫っている。
間に合わない。短剣を構える余裕すらない。
――噛みつかれる。そう覚悟した、その瞬間……。
魔獣が横に吹き飛んだ。
「……え?」
目の前にいたはずの牙が消えている。代わりに、シエルの横を、黒い影が通り過ぎていた。
いや、通り過ぎたのではない。シエルの前に立っている。
その黒い姿。黒い仮面を身に纏い、素顔は一切見えない。
心臓が跳ねた。
(この姿は――)
あの夜と同じだ。森で魔獣に殺されかけたとき、どこからともなく現れて命を救い、名乗りもせずに消えた――あの黒仮面。
――また、助けられた。
周囲の魔獣たちが、黒仮面の存在に気圧されたように数歩後退する。動物の本能が、目の前の存在を危険だと判断したのだろう。
束の間の静寂。シエルは声を絞り出した。
「あなたは……あの夜の……! お名前を教えてくださいまし!」
だが、応答はない。
「なぜここに? ワタクシを助けに来てくださったのですか?」
それにも答えない。仮面の奥の目がこちらを見ているのかすら、わからない。
代わりに、黒仮面は低く、呟くように言った。
「……やっぱりな」
「……?」
意味がわからない。
だがその言葉は、シエルに向けられたというよりも、何かを確認するような独り言に聞こえた。
そして、黒仮面が動いた。シエルに向かって、まっすぐに。
「っ!?」
反射的に身構えた。だが攻撃ではない。
黒仮面はシエルの横を通り過ぎ、背後に立った。
そして後ろから――シエルの両手に自分の両手を重ねた。
「な――」
頭が真っ白になった。魔獣のことも、姉のことも、全部吹き飛んだ。
後ろから包み込むような体勢。背中に黒仮面の体温が触れている。
重ねられた手は大きくて、シエルの手をすっぽりと覆っている。
(て、手を……)
シエル・アークライト、十五歳。国の宝として大切に育てられた第二王女。
男性と手を繋いだことなど――ない。
「な、なにを、なさって……っ!」
声が裏返る。顔が、耳の先まで熱い。
振りほどこうとしたが、黒仮面の手はびくともしない。そもそも体に力が入らない。
(落ち着きなさいワタクシ! これは何かの、そう、きっと戦術的な……!)
必死に自分に言い聞かせる。だが心臓がうるさすぎて思考がまとまらない。
「こ、こういうのは、その、順序というものが……!」
何の順序だ。自分でも何を言っているのかわからない。
だが、黒仮面はシエルの錯乱など意に介さず――。
「――っ!」
体の内側で何かが動き、シエルの体がピクリと跳ねた。
魔力だ。自分の魔力が、今まで感じたことのない流れ方をしている。
いつもは短剣に集中させていた魔力が、腕を通り、手のひらへ、そして指先へと――外へ向かって流れ出そうとしている。
黒仮面が、シエルの体内の魔力の流れそのものに干渉しているのだ。
(何を、して……)
他人の体内の魔力を動かすなんて、どれほど高度な技術なのか。
しかし困惑する暇もなかった。指先に集まった魔力が臨界に達し――。
シエルの両手から、白い閃光が放たれた。
「――っ!!」
耳をつんざくような轟音。
光が扇状に広がり、前方の魔獣たちを呑み込んでいく。
三振りかけても一体がやっとだった魔獣が――十体近く、まとめて吹き飛んだ。
光が収まった後には、焦げた匂いと、静寂だけが残った。
「…………え?」
気づけば、黒仮面は手を離していた。背中から体温が消える。
名残惜しさが一瞬よぎったが、それどころではなかった。
シエルは自分の両手を見つめる。指先がまだ微かに光っている。残り火のように。
今のは――何だったのか。
「あなたが、今の魔術を……?」
振り返り、背後の黒仮面に問いかける。
あれほどの威力。この人が自分の手を介して放ったのだと、そう思った。
だが、黒仮面は静かに首を横に振った。
「……違う。君の力だ」
「ワタクシの……? ですが、あんな魔術を放てたことは一度も――」
「体内の魔力の流れは、人によって違う。君の魔力は外に放つ方が自然に流れる。だが、それを剣に乗せようとばかりしていたせいで、流れが制限されていた」
低い声は、やはり呟くようで、抑揚がない。
だが、一つ一つが、シエルの中の何かに触れた。
「ワタクシが……近接ではなく、魔術攻撃の方が……?」
杖といった媒介すら使わず、あれほどの力が出た。その意味がシエルにはわかる。
なぜ姉のように戦えないのか。なぜ魔力の消耗が激しいのか。違和感が氷解していく。
黒仮面はシエルの言葉を聞くと、うなずきながら言葉を返した。
「誰かの真似をする必要はない。君は、他の誰でもない君だ」
「……っ!」
その言葉は、シエルの心の中にすっと入っていった。
――ずっと姉と同じ戦い方を目指してきた。剣を握り、光を纏い、速さで斬る。それが自分の道だと疑わなかった。
それはまるで、姉という理想像に、自分を無理矢理当てはめるようなものだった。
だけど――。
「……もう一度、自分で」
黒仮面は、まだ暗がりに蠢く魔獣たちの方を見て言った。
「全部まとめて吹き飛ばすつもりで、全力で」
「は、はい!」
シエルは前を向いた。暗がりの奥から、新たな魔獣たちがじわじわと近づいてきている。十体以上。その奥にも、まだ光る目が見える。
短剣は鞘に収めた。代わりに、両手を前に構える。
さっきの感覚を思い出す。魔力を剣に込めるのではなく、体の外へ。指先を通して、放つ。
(誰かの真似をする必要はない)
黒仮面の言葉が頭の中で反響する。
(ワタクシは――ワタクシの力で)
全身の魔力を集める。腕を通り、手のひらへ、指先へ。
さっきは黒仮面に導かれた。今度は自分の意志で。
その流れは驚くほど自然だった。
まるで生まれた時からこうするべきだったかのように、魔力が迷いなく指先に集まっていく。
「はあぁぁっ!!」
白い閃光が空間を埋め尽くした。
――さっきとは比べものにならない。光が広がり、広がり、暗がりの奥まで突き抜けていく。
前方の魔獣が消し飛ぶ。十体、二十体――暗がりに潜んでいたはずの個体まで、光の奔流に呑まれていった。
轟音が空間を揺らし、やがて収まる。静寂が戻ってきた。
シエルは荒い息をつきながら、目を見開いた。
目の前には、何もいなかった。あれだけいた魔獣が、一体残らず。
さらには、それだけの威力を放っておきながら――。
(魔力が……それほど減っていない……?)
剣を振るっていた時は、一体ごとに確実に魔力が削られていた。
なのに今、何十体もの魔獣を一掃してなお、体の中にはまだ十分な魔力が残っている。
これが――自分の本当の力。姉の真似ではなく、自分だけの。
込み上げてくるものがあった。喜びなのか、驚きなのか、それとも――今までの自分への悔しさなのか。よくわからない。
でも、確かなことが一つ。
「できましたわ……!」
声が震えていた。この喜びを、この感謝を、伝えなければ。そうして振り返ると。
「え……」
黒仮面の姿が、どこにもない。
さっきまで確かにそこにいた。声を聞いた。手の温もりを感じた。
なのに――また、消えてしまった。幻のように、あの夜と同じように。
名前も、顔も、何も知らないまま。助けてくれて、導いてくれて、そして消える。
シエルはしばらく、黒仮面が立っていた場所を見つめていた。
頭の中では「君は、他の誰でもない君だ」と、あの低い声がこだまする。
――胸が痛い。
この気持ちに、もう嘘はつけなかった。
「……黒仮面、様」
小さく呟いた声が、静まり返った空間に溶けていった。