寝ている間に無自覚無双 ~怠惰に生きたい転生貴族、楽するために開発したオートスキルで知らないうちに国を救っていたようです~ 作:片沼ほとり
奥の閲覧席。さっきまで僕とリリアナが座っていたあたりに、三人の男子生徒が固まっている。
ネクタイの色は青で二年生。その中心にリリアナがいた。
机に積み上げた本とノートを庇うようにして、身を縮めている。
さっきまで魔術理論を目を輝かせて語っていた子が、今は怯えた目で下を向いている。
「おい、聞いてるのか。お前の席はここじゃないだろう」
「す、すみません……でも、ここは誰でも使える――」
「誰でも、ね。平民のお前が俺たちと同じ場所で堂々と本を広げてるのが気に食わないんだよ」
リーダー格らしい男が、リリアナの机に手をついて覗き込んでいる。残りの二人は腕を組んで見下ろしている。
典型的な嫌がらせだ。身分を盾に弱い者を追い出す。これが、この世界の差別意識。
「アレン様」
フィオナの声が聞こえた。だけど、体はもう動いていた。
「すみません、先輩方」
三人の間に割り込むように、僕はリリアナの前に立った。
男たちの視線が僕に集まる。
赤いネクタイ――一年生。それだけで、露骨に見下すような目つきになった。
「なんだ、一年坊主か。先輩に向かってその態度は――」
「申し遅れました。一年のアレン・クライネルです」
男の言葉が途切れた。
クライネル。この名前を聞いて反応しない貴族はいない。
アークライト王家に次ぐ四大貴族の一角、侯爵家の長男。学年が下だろうが、身分の格が違う。
三人の顔から余裕が消えた。リーダー格の男がわずかに後退する。
だけど、完全には引き下がらない。
「……クライネル家の方が、なぜ平民なんかを」
「なんか、なんて言わないでほしいですね」
僕は穏やかに、だけどはっきりと言った。それからテーブルの上に手を置く。
乱雑に広がっている、男たちが散らかしたリリアナの本やノート。
そこに、ほんの少しだけ魔力を流す。
すると、散らばっていたノートのページがひとりでに動き、正しい順番に揃い直した。開きっぱなしの本が静かに閉じ、積み上がる。メモ用紙が宙に舞い、ぴたりと元の場所に収まった。
紙一枚一枚の位置を、魔力で正確に制御する。地味だけど、精密な魔力操作の技術がなければ絶対にできない芸当だ。
男たちの目が見開かれている。
「リリアナ先輩は、この学園の特待生にふさわしい知識と姿勢をお持ちですよ」
僕はリリアナの方を振り返らずに言った。
「僕がクライネル家の蔵書を全部読んで得た知識に、僕にはない視点を加えて返してくれる。議論の相手として、こんなに楽しい人は初めてです」
「……」
男たちは黙った。
四大貴族の長男が、ここまではっきりと平民の特待生を認めている。それに逆らうことの意味を、彼らは理解しているはずだ。
「……失礼しました」
リーダー格の男が、硬い声でそう言った。三人は足早に図書館を出て行く。
静かになった閲覧席で、僕は「はぁ」と小さくため息をつく。
「……本当は、ああいうのはやりたくないんだけどな」
家の名前を出して相手を黙らせるなんて、相手の土俵に乗るようなやり方だ。
だけど、こうした立ち回りも方便として覚えていかなければならないのだろう。学園に入ってからはなおさらそう感じる。
「ありがとうアレンくん。助かったよ」
「うん、それなら良かった。けど……」
僕を見るリリアナの声は思ったより落ち着いていた。
震えてはいない。泣いてもいない。ただ、どこか諦めたような静かさがあった。
「ああいうことはよくあるの?」
「まあ、ね。周りはほとんど貴族だから。平民の特待生なんて珍しいし」
リリアナはさらりと言った。慣れた口調だった。
つまり、今日が初めてじゃない。入学してからずっと、こういうことがあったのだろう。
それでも学園を辞めずに一人で研究を続けてきた。この小柄な女の子が、どれだけの想いでここにいるのか。
「だからさ、アレンくんみたいに話せる貴族がいるんだって、ちょっとびっくりしたんだよね」
「普通だと思うけど」
「そんなことないよ。身分とか気にしないで、ただ魔術の話で盛り上がれる人。……嬉しかった」
リリアナは少し照れたように笑った。
さっきまでの怯えた姿が嘘みたいに、柔らかい表情だ。
僕も自然と笑みがこぼれる。こういう関係が、僕は好き――
「ゴホン」
背後から、わざとらしい咳払いが聞こえた。
振り返ると、フィオナが薄い笑みを浮かべて立っている。
いつも通り……のはずなのに、どこかピリピリしているのは気のせいだろうか。
「あ、フィオナ。紹介するよ。こちらがさっき話してた――」
「フィオナ・メイトランドと申します。アレン様の付き人です」
僕が言い切る前に、フィオナはすっと一歩前に出て、完璧な所作でお辞儀をした。
メイドとしての礼儀作法。姿勢、角度、間。どこを取っても非の打ちどころがない。
だけど、お辞儀から顔を上げたフィオナは、ごく自然な動作で僕の腕に手を添えた。
「アレン様と二人きりで暮らし、身の回りはすべて私がお世話しております。学校でも、家でも、お食事も、お着替えも、おやすみの準備も、あんなことやこんなことまで」
「フィオナ、変な含みは入れなくても――」
「事実を述べているだけです」
フィオナの声は穏やかだ。笑みも崩れていない。
だけどリリアナが微妙に後退したのが見えた。
「は、はじめまして……リリアナ・ブランフォードです。えっと、アレンくんとは魔術研究の議論をしたり、さっきは助けてもらって……」
「アレン様はお優しい方ですから」
フィオナはにっこりと笑った。
「アレン様は誰にでも分け隔てなく接するのです。お困りの方がいれば手を差し伸べますし、お話が合えば時間を忘れて盛り上がってしまう。それが長所であり……時々、困る点でもあります」
最後の一言だけ、声のトーンがわずかに下がった。
「な、なるほど……」
リリアナが小さく頷く。何やらフィオナの言葉の裏にあるものを、感じ取っているらしい。
……僕にはよくわからないけど、なんだか妙な空気だ。
「あの、二人とも仲良くしてくれると嬉しいんだけど……」
「もちろんでございます」
「う、うん……よろしくね、フィオナさん」
「こちらこそ。アレン様の『ご友人』として、今後ともよろしくお願いします」
フィオナの言葉は丁寧で、笑顔も柔らかい。完璧だ。
完璧すぎて、リリアナが少し萎縮しているような気もするけど……気のせいだろうか。
「そうだ、じゃあせっかくだし三人でさっきの議論の続き――」
「アレン様」
座ろうとした僕の腕を、フィオナがそっと掴んだ。
そっと、だけど力は抜かない。
「三時間のお詫びが、まだ済んでおりません」
「……フィオナ?」
「教室でのお詫びが中断されたこと、お忘れではないですよね?」
「忘れてはないけど……」
「今日のところは、お帰りいただきます」
有無を言わさぬ口調。
先ほど教室でシエルを追い出した時と同じ、フィオナの「本気」の声だ。
リリアナを見ると、苦笑いをしながら申し訳なさそうに小さく手を振っている。
「大丈夫だよ、アレンくん。私も今日はもう帰るし。……本当にありがとう、今日は」
「ごめんね。また必ず来るから」
「うん。楽しみにしてる」
リリアナは笑った。
今日最後の笑顔は、出会った時の怯えた表情とはまるで違う、温かいものだった。
*
図書館を出て、フィオナと並んで廊下を歩く。
夕方の日差しが窓から差し込んで、廊下を橙色に染めている。
「フィオナ、リリアナ先輩は全然悪い人じゃなくて――」
「今は話しかけないでください。不機嫌なので」
「……はい」
「……」
「……」
「……アレン様は鈍感ですね」
「え? 何が?」
「だから鈍感だと言っているのです」
フィオナはぷいっと顔を背けた。前を向いたまま、少し早足で歩く。
だけど、僕の半歩前をキープしている。離れすぎない距離。
「リリアナさんのことは認めます。机の上に開かれていた書物を見るだけでも、アレン様が楽しそうにお話しされていた理由が伝わってきました」
「おっ、わかってくれた?」
「ですが」
フィオナが足を止めた。振り返って、僕の目をまっすぐに見る。
「私を三時間も一人にしたこと、許すかどうかは別の話です」
「……ごめんなさい」
「よろしい」
フィオナはそれだけ言うと、また前を向いて歩き出した。
今度は半歩前ではなく、僕の隣に並んでいる。
「お詫びの件は追って通知いたします」
「怖いなあ」
「当然です。私を甘く見ないでください」
そう言いながら、ほんの少しだけ、フィオナの口元が緩んだ。やっと笑ってくれた。
「今夜は実験も禁止です。たっぷりと二人きりの時間を――」
「見つけましたわよ、アレン・クライネル」
二人きりの時間を遮ったのは、先ほども聞いた声。
だけどその声には、いつもの怒りや呆れとはまったく違う落ち着きがあった。
「シエル様、また邪魔し、て……」
フィオナが不機嫌そうな声を出しながら振り返り、そして言葉が途切れた。
僕もまた、背筋が伸びてしまう。
なぜなら、そこにいたのはシエルだけではなく――。
「こんにちは、また会ったね」
穏やかで、それでいて底知れない、圧倒的な存在感。
――第一王女、アウロラ・アークライトが、まっすぐにこちらを見ていた。