寝ている間に無自覚無双 ~怠惰に生きたい転生貴族、楽するために開発したオートスキルで知らないうちに国を救っていたようです~ 作:片沼ほとり
時を同じくして、倉庫の外。
月明かりだけが照らす石畳に、痩せた長身の男が一人立っていた。口元には隠す気もない笑み。
「で、本当に来てくれるんですかねぇ、黒仮面とやらは」
軽薄な口調はそのまま、男はそう暗がりに問いかける。
「それにしてもあなたの精神魔術は素晴らしいですね。数は限られるとは言え、心を乱せばどんな人間でも手駒に出来るとは。おかげで速さだけの脳筋と戦う手間が省けましたよ」
「……」
「つれないですねぇ」
崩れかけた倉庫の奥の暗がりにいる男の主――アウロラを操る術者は声も出さず、まるでこちらを観察するかのようにただそこにいる。
だが男は気分が良かった。これから、もっと楽しい時間が始まるのだから。
「――来た来た」
夜の向こうから黒い影が近づき、思わず声が漏れる。
顔から足まで全身真っ黒。素顔も、目の色すらわからない。噂の黒仮面だ。
男は両手を広げ、芝居がかった仕草でそれを迎えた。
「お待ちしておりましたよ。いやはや、本当に来てくださるとは」
黒仮面は答えない。足を止め、静かに男と相対する。
その沈黙にも、男は気を悪くした風もなく嗤った。
「アウロラ様でしたか。速さばかりの脳筋、あの手の相手は面白くないのでね」
男は肩をすくめる。
「その点、あなたは期待できる。少ない情報からの判断ですが、魔術に心得がありそうだ。なので、あなたを選ばせていただきました」
心の底から楽しげな声だった。
それでも黒仮面は何も言わない。事前情報通りの振る舞いに、男は満足げにうなずく。
「しかし楽しい手合わせの前に、一つ聞いてみたいことがあります。なぜそれほどの力を持ちながら、正体を隠すのです?」
「……」
「ええ、わかりますよ。アークライトは良くも悪くも統制が取れた国家。力を示せば束縛される、それを嫌ったのでしょう? 私も同じタチです。だからこそ……帝国に来ませんか?」
男の目が、ぎらりと光る。
「あちらでは、力ある者は何でも自由にできる。誰に縛られることもなく、奪いたいものを奪い、壊したいものを壊す。何もかも思いのままです。それこそ、あなたが求めているものでは?」
力こそが自由。それがこの男の、そして帝国の信条だった。
「……」
だが、黒仮面はやはり一言も発さない。肯定も否定もなく、ただそこに在るだけ。
その塩対応に、男はようやく一つ息をついた。
「……つれないお人だ。まあ、いい」
男の指先に、魔力が灯る。
「あなたもまとめて、帝国に連れ帰りますとも」
男の周囲に、複数の魔法陣が一斉に展開した。
炎の槍。氷の刃。雷の網。属性の違う術が、絶え間なく黒仮面へ殺到する。
並の魔術師なら一つ捌くだけで手一杯だろう。それを同時に、淀みなく編む。
「まずはお手並み拝見、ですね」
だが、黒仮面は避けない。
炎の槍は触れる前にほどけ、魔力の靄に還った。氷の刃は指先を掠めた瞬間に砕け、雷の網は宙で解けて消える。
術が、放った先でことごとく解かれていた。
「……やはり面白いっ!」
男の笑みがわずかに強張る。
ぶつけて打ち消したのではない。術式の綻びだけを正確に突いて崩している。
理屈はわかる。だが、この速さと精度で、全属性を相手に――そんな芸当ができるものか。
「ならばこれはどうです!」
男は手数で攻めた。フェイントを織り交ぜ、本命を死角から撃ち込む。積み上げてきた技巧の粋を、惜しみなく注ぎ込む。
だが、無駄だった。
黒仮面は、男が本命を放つより早く、その正面に回り込んでいる。どこを狙うか、放つ前から知っているかのように。そして、解く。崩す。打ち消す。
「ほう……これは、これは」
男はひりつく頬を歪め、嗤った。
だが、自分が負けるとは微塵も思っていなかった。男は思考を加速させる。
どんな達人にも、底はある。癖がある。
魔力の偏り、詠唱の溜め、撃った直後のわずかな硬直。その「底」を見抜き、針の穴を突いて崩す。それが戦闘魔術師としての実力。そのための手札、多彩な魔術は揃っている。
ならば探せばいい。
男は攻めを再開した。手を変え、品を変え、あらゆる角度から術を浴びせる。守るためではない。黒仮面の底を暴くためだ。
雷で出方を試し、炎で防御の型を測り、氷で退きの癖を探る。だが。
「……ない、だと」
「……」
すべての手札を使い切り、なおも静かに佇む黒仮面に、男はそう声を絞り出した。
――無駄がない。一切、ない。
黒仮面の動きには、突くべき隙も、読むべき癖も、溜めの一瞬すらない。
常に最小限、常に最短、常に最適。どう揺さぶっても、返ってくるのは過不足のない最適解。
男が「次はここを突く」と組み立てた一手は、放つより先に潰されている。最適解の中に、男の思考そのものが織り込まれていた。
「化け物が……っ」
男の喉が鳴った。
底がない。どこまで探っても、底が見えない。付け入る隙という隙が、この男には存在しない。
背後の暗がりへ目をやった。あの怪物を操る術を持つ、自分の主がいるはずの場所へ。
だが、そこにもう、気配はなかった。
勝てぬと見るや、見極めるものだけ見極めて、男一人を残して。
――見捨てられた。
その事実が、黒仮面の沈黙よりも冷たく男の背を伝った。だがそれが、帝国の実力主義だ。
「ふ、ふざけるな……っ!」
しかし気づいたときには、黒仮面の手が男の首筋にあった。
「なっ!」
その瞬間――これまでの一部始終が、男の脳裏を駆け抜けた。
一つ一つ、丁寧に上回られた。術を解かれ、技巧を読まれ、底を探っても穴はなく。
だがこの男は、一度もこちらを攻撃しなかった。
ただ武器を取り上げるように、攻める手立てを、一つずつ奪っていっただけ。
(まさか……最初から、私を殺さないために……これを……?)
最後に映ったのは、感情の色一つない黒い仮面。そこで、意識は途切れた。