寝ている間に無自覚無双 ~怠惰に生きたい転生貴族、楽するために開発したオートスキルで知らないうちに国を救っていたようです~ 作:片沼ほとり
張り詰めていた糸が切れたように、夜の路地は静かになった。
シエルの腕の中で、アウロラは穏やかに目を閉じている。リリアナが駆け寄ってきた。
「シエル様、アウロラ様が動けない今のうちに」
「お願いしますわ」
リリアナはアウロラの額に手をかざす。だが、すぐに表情を曇らせた。
「……すみません、やっぱり私一人では難しそうです」
「あ……」
そうだった。ミッシェルの時には、リリアナと黒仮面が協力して洗脳を解除したのだ。
今はリリアナ一人。どうすれば……と思ったその時。
「――っ!」
影が、すっと傍らに膝をついた。シエルは思わず見上げる。
「黒仮面、様……!」
シエルの胸が跳ねた。
その力が必要な今、解除の時を見計らって出てきてくれた……と考え、そこで思い至る。
きっと黒仮面は、この戦いをも見守ってくれていたのだ。今までシエルが何度も救われたように、もしもアウロラに致命の一撃を浴びそうになっても助けてくれるように。
だけど今日は、今までと違った。成長を見せられた。それが誇らしかった。
「ずっと、見守っていてくださったのですね」
「……」
やはり黒仮面は何も言わない。だが、それでも良かった。
「黒仮面さん、お願いします」
リリアナの呼びかけに答え、黒仮面はアウロラの額へ手をかざした。
ここまでくればミッシェルの時と同じだ。リリアナが構造を読み上げ、黒仮面の魔力が、糸をほどくように深層へ伸びていき――。
「……おかしいです」
不意にリリアナがつぶやいた。その声には焦りがある。
「どうしました? 解除が進まないんですの?」
「いえ、むしろ順調すぎるんです。まるで内側から勝手にほどけているような……まさか!」
リリアナが立ち上がった。顔からは血の気が引いている。
「精神魔術は遠隔でも操作可能、だけど術者の魔力によって制限があると見るのが自然です」
「……つまり?」
「術者が対象を切り替えようとしています。次に狙われるのは――黒仮面さんです!」
「――っ!」
シエルは黒仮面を見た。今この場で黒仮面が敵になればどうなるか、なんて考えたくもない。
そして、リリアナの予測通りになった。
肌で感じる。膨大な魔力を持つ者の気配がある。
何か得体の知れない魔力が、黒仮面へと殺到している。
「……問題ない」
ほんの小さく、黒仮面がつぶやいた。
そして、次の瞬間。
「……消えた?」
シエルの感覚が告げる。すべてが消えていた。
黒仮面を襲う不気味な魔力も、術者の気配も、すべて。
その現象を見て、リリアナがブツブツと呟く。
「弾かれた……? どういう仕組みで……?」
その声には、まぎれもない困惑と畏敬がにじんでいた。
理由はわからない。だが、精神魔術があの人には通用しない。それだけは確かだった。
そして。
「……シエル?」
シエルの腕の中で眠っていたアウロラが、ゆっくりと瞼を開き、起き上がる。
焦点を取り戻した瞳がシエルを映した。もうあの虚ろな色はない。
「お姉様……! ご無事で……っ」
込み上げるものを堪えきれず、シエルは姉の手を握りしめた。
だがアウロラは握り返さない。操られていた間の記憶をたどるように、ゆっくりと目を伏せた。
「……来るなと、言ったのに」
絞り出すような声だった。
「こんな危険に巻き込みたくなかった。背負うのは私だけでよかった」
いつもの凜とした響きに、初めて聞く弱さがにじんでいた。
ずっとそうだった。アウロラは何でも一人で背負い、シエルを後ろにかばう。
今日もたった一人で敵の懐へ踏み込んで――こうなった。
「お姉様」
シエルは握った手に力を込めた。
「ワタクシ、お姉様を守れるくらいには強くなりましたのよ」
アウロラの瞳がわずかに揺れる。
「……強くなったな、シエル。お前はずっと、私の後ろにいた子だったのに」
誇らしげで、けれどどこか寂しげな声だった。
シエルは首を横に振る。それからまっすぐ姉を見た。
「ある方に教わりましたの。『誰かの真似をする必要はない。君は、他の誰でもない君だ』と」
「――っ」
アウロラの表情が固まった。
ずっとシエルは姉を手本にしてきた。同じ剣を握り、同じ道を選び、その背中だけを追って。その妹が今、自分とは違う戦い方で姉を超えてみせたのだ。
「……その男か。お前を変えたのは」
アウロラの視線がふと、夜の闇に佇む黒い影へ向いた。何か複雑な色を宿して。
「もう、私はいらないか」
寂しさを隠そうともしない声に、シエルは一度だけ唇を結んだ。それから、笑う。
「いいえ。お姉様はワタクシの始まりですもの。これまでもこれからも、ワタクシの目標ですわ」
握った手を両手で包む。
「でも、ワタクシはもう、守られて後ろにいるだけの妹ではありませんの。ですから今度は、ワタクシを頼ってくださいまし」
アウロラはしばらく言葉をなくしていた。
やがてふっと息を漏らす。
「……そうか。私はいつの間にか、追い越されていたんだな」
「いえ、まさかそんな。ワタクシなんてまだまだで――」
「またゆっくり話そう。今はそれよりも」
それからアウロラは、夜の闇に佇む黒い影へ目を向けた。
「黒仮面、と呼べばいいのかな。シエルをずっと守ってくれたこと、感謝する」
「……」
「ひとつ聞かせてくれ。目的は何だ」
黒仮面は答えない。
ただ静かにアウロラを見返し、それからゆっくりと背を向けた。また立ち去るつもりだ。
いつもそうだった。現れて、救って、何も告げずに去っていく。
黒い裾が夜に溶けかけて――。
(行ってしまう)
考えるより先に、シエルは立ち上がっていた。
「お待ちくださいまし……!」
助けられ、見上げ、守られるばかりだった。だけどもう違う。今日、違う姿を見せられた。
ならば今度こそ。追いかけるだけでなく、この想いを、自分の言葉で。
黒仮面の足が止まる。
シエルは熱くなる頬のまま、まっすぐにその背へ口を開いた。
「あなたにお礼を言わなければなりません」
黒仮面は振り返らない。けれど、足は止めたままだ。
「あの日、ダンジョンの底で。あなたは言ってくださいました。『誰かの真似をする必要はない。君は、他の誰でもない君だ』と」
あの言葉が、ずっと胸にあった。
「ワタクシはずっと、お姉様の真似ばかりでした。でも今日、初めて自分の戦い方で、お姉様を救えたのです。今のワタクシがいるのは、あなたのおかげです」
黒仮面は答えない。それでも構わなかった。
シエルは一歩、踏み出す。
「あなたには、助けられて、見上げて、守られるばかりでした。……ですが、もう違いますの」
頬が燃えるように熱い。心臓がうるさい。それでも目はそらさなかった。
誇り高き王女として取り繕ってきた自分は、もういない。
「いつか必ず、あなたに追いつきます。その時は――」
息を吸う。
「ワタクシの騎士に、なってくださいまし」
しん、と夜が静まった。
言ってしまった。誰にも打ち明けられなかった想いを、ようやく自分の言葉で。
やがて黒仮面が、ほんの少しだけ首を巡らせた。
「……気持ちは受け取った」
低く、抑揚のない声だった。
「いずれ、また」
それだけを残して、黒い影は夜の闇へ溶けていった。
追いつけない速さで。けれど、もう寂しくはない。
(必ず、追いついてみせますわ)
胸の前で握った手に、隠しようもない熱がこもっていた。
ふと視線を感じて振り返ると、アウロラがこちらを見ていた。
先ほどまでの柔らかな表情とは対照的に――有無を言わせぬ圧を全身でまき散らしながら。
「シエル、ゆっくり話そうか」
「お姉様? どこかご様子が――」
「話そうか」
「……はい」
和やかな姉妹愛から一転、突然生まれたピリピリとした空気にシエルは頭を垂れ、リリアナは苦笑いを浮かべ。
フィオナはその一部始終を、何の色も映さない真顔で眺めていた。