寝ている間に無自覚無双 ~怠惰に生きたい転生貴族、楽するために開発したオートスキルで知らないうちに国を救っていたようです~ 作:片沼ほとり
フィオナが家に帰り着く頃には、夜もずいぶん更けていた。
現場の後始末は騎士団の仕事だ。アウロラとシエルは残り、フィオナとリリアナは早々に解放された。自分と黒仮面の繋がりを気取られないためにも好都合だった。
念のためリリアナに付き添い、家族の元に送り届け、そしてフィオナは帰途についた。
玄関を開けると、暗い廊下の奥に黒い影が立っていた。
「……アレン様」
世を忍ぶ黒い姿のまま、アレンはそこにいた。まるでフィオナの帰りを待っていたかのように。
「今夜もご活躍でしたね。お怪我はありませんか」
アレンは静かに首を振り、そしてフィオナを手招いた。
そのまま進み、入ったのはアレンの部屋。そして、いつもアレンが眠るベッドに促される。
二人きりの生活空間、アレンのベッドに誘われて……?
「え、あ、アレン様、これはどういう――」
「横たわるだけで魔力が回復する」
「あ、なるほど」
消耗したフィオナを休ませようというアレンなりの気遣いだったらしい。
疲れているのは事実だった。言葉に甘え、フィオナはベッドに体を預ける。そうは言っても、少し心臓が高鳴るのを感じた。
冗談で「夜這いに来ました」と言って押しかけたことはあっても、こうして実際にアレンのベッドを使うのは初めてだったから。
(……今なら、もう一歩)
そう考えて、フィオナは顔を上げ、まだ傍らに立つアレンを見た。
「アレン様もお休みください、お疲れなのはむしろアレン様でしょうから。どうぞこちらへ」
半分は本心、半分は下心だ。
アレンは躊躇した様子を見せた。だがフィオナが「主を差し置いて私だけ、とはいきませんから」と重ねると、アレンがうなずいた。何も言わずにフィオナの隣へ身を横たえる。
広いベッド。二人並んで天井を見上げる。
「……マスクは?」
「ああ、そうでした」
そう問われ、フィオナは懐から白い安眠マスクを取り出した。
アレンに贈られた、あの白いスーツと対の品。何かあったときに顔を隠すため……と思っていたが、本来は睡眠の効率を上げて回復を助けるためのものだった。
初めて顔に着けてみる。視界がやわらぎ、呼吸が深くなった。
これで、お揃い。
姿も、距離も、今まで生きてきた時間も、誰よりもアレンの近くにいる。
そう思っているはずなのに――あの言葉が頭から離れない。
「……アレン様には、シエル様のような、高貴なお方こそがふさわしいのでしょうね」
だから、こんな言葉が口をついて出てしまった。
言ってしまってから唇を噛む。だが、止まれなかった。
「アレン様がお目かけするのもわかります。シエル様は素敵な方です。強さも、家柄も、まっすぐな心も……私にはないものをたくさんお持ちです」
自虐も交えた言葉だった。フィオナは、まっすぐな心すら持ち合わせていない。
シエルの「ワタクシの騎士に、なってくださいまし」という言葉が、頭から離れない。
あの時のシエルは――眩しかった。自分の心をまっすぐにぶつけるその姿が。
もちろんそれは、黒仮面の正体を知らないからできることだろう。
それでもやはりフィオナにはできない。自分には家名も血筋もなく、アレンとは主従の関係だ。
冗談に包んでイチャつくことはあっても、本心で迫ることはできない。
そんなひねくれた存在が、自分だ。
「だけど、専属メイドなりに……少しだけ、私のことも見てくれると嬉しいです」
フィオナの懇願とも言える言葉に、アレンはすぐには答えなかった。
やがて、低い声が短く落ちる。
「……身分なんて関係ない」
「っ」
「ずっと支えてくれているフィオナは、何よりも大切な存在だ」
まるで何の感情もこもっていないような、静かな言葉。
なのに、フィオナの目の奥がじわりと熱くなった。
ああ、この方はいつもそうだ。八歳のあの日も。
魔獣に殺されかけた孤児の自分に手を差し伸べて、当たり前のように、隣に置いてくれたのだ。
――ずっと、一線を引いてきた。
孤児の自分が、クライネル家の長男であるアレン様の隣に女として並ぶなんて。
そんなことは許されない。付き人として仕えるだけで、十分に幸せなのだと。
身をわきまえた振る舞いだと思っていた。慎みだと、美徳だと。
――でも、違ったのかもしれない。
今日、シエルは遠慮しなかった。王女という身分も誇りもかなぐり捨てて、まっすぐにアレンへ手を伸ばした。そして、アレンは突き放さなかった。
もしこのまま遠慮を続けていたら。わきまえているうちに、誰かに攫われてしまったら。
(……それは、嫌です)
初めて、はっきりとそう思った。
わきまえなんて、ただの言い訳だったのかもしれない。拒まれるのが怖くて、付き人という立場に隠れていただけ。
もう、隠れない。
フィオナは身を起こし、横たわるアレンを見下ろした。
「アレン様」
フィオナは、アレンの黒い仮面にそっと指先で触れた。
「今のアレン様は、仮面をかぶっていらっしゃいます。この仮面をつけている限り、アレン・クライネルではありません。誰でもない――黒仮面です」
アレンはされるがままにしている。フィオナはもう片方の手を、自分の白い仮面に添えた。
「付き人が主人を求めることは許されません。ですが、今のあなたは私の主人ではない。そして――仮面をつけた今夜の私も、あなたの付き人ではありません」
そしておもむろに、白いスーツの襟元に手をかける。
肌に吸いついていた素材が剥がれていく。鎖骨が、白い肩が、夜の薄明かりにさらされた。
アレンに、こんな姿を見せるのは初めてだった。
心臓が痛いほどに鳴っている。怖くないと言えば嘘になる。拒まれたらと思うと指先が震えた。
それでも、止まれなかった。
仮面の奥のその目をまっすぐに見つめて、フィオナは言った。
「愛しています。ずっと、ずっと昔から。あなただけを」
沈黙が部屋を満たした。
永遠にも思える時間が過ぎて――その時、アレンの手が伸びた。
フィオナの肩に触れ、そっと引き寄せる。
体が傾ぐ。背中が柔らかなベッドに沈んでいく。黒い影が、フィオナを覆った。
(……ああ。やはり、この方は私を)
フィオナは目を閉じ、すべてを委ねた。