第75層ボス部屋。ドーム状の天井に穿たれた亀裂から、淡い光が差し込んでいた。
その中央で、二つの影が対峙していた。
片や、世界の創造主であり、絶対の壁として君臨する『神聖騎士』ヒースクリフ——茅場晶彦。
片や、現実の肉体の限界を超え、この仮想世界で誰よりも高く、誰よりも自由に羽ばたいてきた少年——ルカ。
「行くよ……茅場さんッ!」
静寂を破り、ルカが踏み込んだ。
ズドンッ!
踏み切った足元からポリゴンの衝撃波が弾ける。
その初速は、SAOのシステムが設定した人間の反応速度の上限を遥かに超えていた。現実の肉体という重り(枷)から完全に解放されたルカの意志が、システムそのものを強引に引っ張り、加速させる。
「ほう……!」
ヒースクリフの瞳が一瞬大きく見開かれた。
即座に巨大な十字盾《リベレーター》を持ち上げ、防御体勢に入る。
ガガガガガガガァンッ!
一秒間に数千、数万の打撃が叩き込まれたかのような、凄絶な連続金属音が響き渡った。
ルカの細剣が描くエメラルドグリーンの光軌は、もはや一筋の帯となってヒースクリフを包み込んでいた。右手、左手、上段、足元——角度すら存在しない次元の異なる三次元立体攻撃。ルカのアバターは宙を舞い、壁を走り、重力を無視して縦横無尽に空間を交錯する。
「すごい……なんだあの動きは……!」
「見えない……剣が速すぎて見えない……!」
観戦する攻略組のプレイヤーたちが息を呑む。
涙で目を濡らしたキリトとアスナもまた、その光景を脳裏に焼き付けるように凝視していた。
ルカの戦いには、悲壮感など微塵もなかった。
命の灯火が今まさに消えかかろうとしているというのに、彼の動きはどこまでも軽やかで、どこまでも美しく、まるで楽しそうに満開の花畑を舞う蝶のようだった。
「見事だ、ルカ君……! これほどまでに私の世界(システム)を乗りこなし、手玉に取る者が現れるとはな!」
ヒースクリフが感嘆の声をあげ、十字盾でルカの猛攻を押し返す。
そして、システムアシストを最大限に利かせた巨大な一刃を繰り出した。
ズバァァァンッ!
衝撃波が部屋全体を揺らす。
ルカの体勢がわずかに崩れた。
「ルカっ!?」
キリトが叫ぶが、ルカは倒れなかった。
崩れた姿勢のまま、ルカの藍色の瞳が眩いばかりの光を放つ。
(動いて……! 僕の足、僕の手……! みんなを……みんなをあっちの世界へ帰すんだ……!)
ルカの全身から、システムの設定には存在しないオーラのような輝きが溢れ出した。
アバターの「限界」すらも、少年の純粋で圧倒的な「生への意志」が凌駕していく。
ピキイィィィンッ!
ルカが放ったのは、細剣スキルの最高峰——《フラッシュ・ペネトレイト》を超える、彼自身の魂が創り出した極限の一撃。
ヒースクリフの鉄壁の盾の僅かな隙間、針の穴を通すような精密さで、ルカの白銀の細剣が貫いた。
同時に——ヒースクリフの剣もまた、ルカの胸元を深く穿っていた。
ズドォォォォンッ!
静寂。
二人の動きが、ピタリと止まった。
お互いの武器が、相手の身体を貫通している。
相打ち。
ヒースクリフの頭上に表示されたHPゲージが、限界を超えて減少し……ついに完全なゼロを示した。
そして、ルカのHPゲージもまた、ゆっくりと、けれど確実にゼロへと落ちていった。
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『System Announcement: Game Cleared』
空から、神々しくも静かなシステムメッセージの音声が響き渡った。
75層の最奥で、100層のボスとなるはずだった男が倒れた。
ゲームクリア。1万人のプレイヤーを閉じ込めていた死の檻が、ついに解き放たれたのだ。
「か……勝った……? クリアだ……! ゲームクリアだーっ!」
周囲から歓声が沸き起こる。
しかし、キリト、アスナ、クライン、エギル……最前線を共に戦ってきた仲間たちは、誰も喜ばなかった。
「ルカぁっ!」
キリトとアスナが、なりふり構わず走り出した。
ヒースクリフのアバターがポリゴンの破片となって弾け飛ぶ中、胸を貫かれたルカの華奢な体が、力無く床へと倒れ込んでいく。
「ルカ! ルカっ!」
キリトが倒れるルカの身体を滑り込むように抱きとめた。
アスナがルカの小さな手を両手で包み込み、ボロボロと大粒の涙をこぼしながら叫ぶ。
「嫌……嫌よルカ! 死んじゃダメ! せっかくクリアしたのに!なんで…なんでこんなことに…!」
ルカのアバターは、末端からゆっくりと、透明なポリゴンの光の粒子となって崩れ始めていた。
もう、システムによる回復アイテムも、どんな魔法も彼を繋ぎ止めることはできない。
ルカのHPはゼロになり、そして何より——現実世界での少年の肉体の命が、最期の時を迎えようとしていたのだから。
「あ……キリト……アスナ……」
ルカの藍色の瞳が、ゆっくりと二人を捉えた。
視界はすでに霞み、感覚は急速に薄れていた。けれど、その顔には苦痛や恐怖の色は少しもなかった。
ルカは残り少ない力を振り絞り、キリトの頬と、アスナの手を優しく撫でた。
「泣かないで……二人とも。僕は……すっごく……幸せだったんだよ?」
「ルカ……ルカ……っ!」
「ベッドから出られなかった僕がね……この世界に来て……走ることができた。風を感じることができた。……そして何より、キリトや、アスナや、クライン……みんなと出会えた」
ルカの口元に、いつもの、とびきりの笑顔が浮かぶ。
その笑顔は、死の恐怖に打ち勝ち、己の人生を完璧に全うした者だけが浮かべられる、世界で一番美しい笑顔だった。
「ありがとう……みんな。僕に……こんなに素敵な『生きている時間』をくれて……」
「ルカ……俺たちの方こそ……君にどれだけ救われたか……! 頼むから、逝かないでくれよルカぁっ!」
キリトが声を上げて泣いた。あの黒の剣士が、子供のようにしゃくりあげて涙を流す。
「いいんだ……どちらにせよ、僕はログアウトしてもすぐに死んでしまうんだから……。誰の想い出にも残らずに死んでいくはずだった僕が、こうやってみんなのために死ねるんだ……」
ルカは愛おしそうに仲間たちの顔を一人一人見つめ、最後に、アインクラッドの広い空を見上げた。
ポリゴンの光が、ルカの胸まで包み込んでいく。
「僕は……」
ルカは、力強く、誇らしげに、最後の言葉を繋いだ。
「僕は、確かにここで……みんなと一緒に、生きていたよ」
その言葉を最後に。
少年の体は眩い光の粒子となり、仲間たちの温もりの中で、優しく、静かに空へと溶けて消えていった。
「ルカァァァァァァァァッ!!」
キリトの悲痛な絶叫が、アインクラッド75層の空へと虚しく響き渡っていった。
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眩い光の世界。
そこは、崩壊していくアインクラッドを遥か見下ろす、システムの上層領域——雲の上の空間だった。
「……あ」
ルカは目を開けた。
先ほどまでの全身の激痛も、重みも、何もない。自分の手を見る。透き通るような白銀の光を纏ったアバターの姿があった。
「やあ、ルカ君」
声をかけられ振り返ると、そこには白衣を着た男——茅場晶彦が立っていた。
現実の世界での彼の姿であった。
「茅場さん……」
二人の足元では、100の階層からなる巨大な浮遊城アインクラッドが、下層から順にゆっくりと崩壊し、美しいポリゴンの光となって空へと散っていくのが見えた。
ログアウト処理が行われ、生き残った数千人のプレイヤーたちが、一人、また一人と現実世界へと意識を戻されている最中だった。
「君の仲間たちは、無事に現実へ戻っていくよ。……君が命を賭けて繋いだ道だ」
茅場が静かに言った。
「そう……よかったぁ……みんな、無事に帰れるんだね」
ルカはほっと胸を撫で下ろし、晴れやかな笑顔を見せた。
茅場はそんなルカの横顔を、深い感慨を込めて見つめた。
?
「君には……礼を言わなければならないな。私はこの世界を作り、多くの人間を死に追いやった。私のエゴが生み出した狂気の檻だ。……だが、君は私の創造した世界を、誰よりも愛し、誰よりも全力で楽しんでくれた」
茅場は遠くの雲を見つめながら、静かに問いかけた。
「君にとって……この死のゲームは、どういったものだったのかな?最期に是非とも聞かせてもらえないかい?」
ルカは崩れていくアインクラッドの美しい夕暮れの光を瞳に映しながら、迷いなく答えた。
「ただ病院のベッドで寝たきりで、暗い部屋で死を待ち続けるだけだった僕がね……最期にこんなにすごい体験をさせてもらえたんだ」
ルカは両手を胸の前に重ね、心からの想いを言葉に乗せた。
「ありがとう、茅場さん。確かにこんなデスゲームになっちゃったことは残念だけど……僕にとってここは、間違いなく夢のような世界だった。本当に、最高に……楽しかったなぁ……!」
その言葉を聞いた瞬間。
感情を捨て、冷徹な神としてアインクラッドを統制していたはずの茅場晶彦の口元が、わずかに緩んだ。
どこか誇らしげで、どこか嬉しそうな、一人の人間の少年のような表情。
「……そうか。そう言ってもらえると、この世界を作った甲斐があったというものだ」
茅場はルカに向かって、静かに一礼した。
「さらばだ、『走破者(ランナー)』。君の走った軌跡は、このアインクラッドの歴史の中で、永遠に輝き続けるだろう」
「うん! さようなら、茅場さん!」
ルカの体が、いよいよ本当の最後の光となって、透き通る空へと溶け込んでいく。
病院のベッドの上で、一人の少年の短い人生の脈拍(バイタル)が、静かに平らな線を描いた。
けれど、その唇には、まるで最高の夢を見ていたかのような、安らかな笑みが残されていたという。
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SAO事件の終息から、数ヶ月の月日が流れた。
現実世界の、とある小高い丘の上。
満開の桜が咲き誇るその場所には、黒い服を着たキリトと、アスナの姿があった。
二人の手には、小さな白い花束が握られている。
「……ここが、ルカの眠る場所なんだね」
アスナが静かに花束を墓前に供えた。
ルカの本名、そして彼が病室でSAOをプレイしていたという真実。
キリトたちは現実世界に戻った後、ルカの遺族を探し出し、彼のSAOでの姿を伝えに訪れていたのだ。
両親から語られたのは、病室で孤独に耐えていた少年が、SAOにログインしている間だけは、まるで別人のように幸せそうな顔をして眠っていたという事実だった。
「ルカ……僕たちは今、現実の世界で生きているよ」
キリトは青空を見上げ、呟いた。
「君が命を懸けて守ってくれたこの足で、僕たちはこれからも歩いていく。……君が愛したこの世界で、君と一緒に駆け抜けた思い出を、絶対に忘れない」
ふわり、と爽やかな風が吹いた。
桜の花びらが舞い上がり、まるでルカの金色の髪のように、キラキラと太陽の光を浴びて輝いた。
耳を澄ませば、今にもあの明るい、鈴を転がすような笑い声が聞こえてきそうだった。
『キリト! アスナ! 追いついてごらんよー!』
「……ふふ、ルカったら。相変わらず足が速いんだから」
アスナが涙を拭い、微笑んだ。
二人は手をつなぎ、前を向いて歩き出す。
あの世界で確かに生きていた、最高の少年の笑顔を、その胸に強く抱きしめながら。
どこまでも広がる青空の下、風はいつまでも、どこまでも爽やかに吹き抜けていた。