「......なぜ、事前に私に相談しなかった」
ファミリアの拠点の奥にある、書類が山のように積まれた執務室。
窓から差し込む午後の陽光が部屋を明るく照らしているというのに、私が発した声は、その空気を一瞬にして凍りつかせるほどに冷たいものだった。
山のような書類の奥にいるライは、バツが悪そうに視線を泳がせ、手に持っていた羽ペンをそっとインク壺の横に置いた。
「いや......その。事の成り行きというか、勢いというか......」
「勢いで『戦争遊戯』を吹っかける者がどこにいる」
私は机の上に両手をつき、ライを真っ直ぐに睨みつけた。
ソーマ・ファミリアの団員が一般市民に迷惑をかけていたことは知っている。彼らが神酒に溺れ、冒険者としての矜持を失っていることも。
そして、ライが新たな事業として『酒造』を目論み、そのために彼らのノウハウを合法的に奪い取ろうと画策していることも。
私が怒っているのは、強引な手段に出たことではない。
「......ライ。私たちは、ファミリアの双璧としてこれまで数え切れぬ死線を共に潜り抜けてきたはずだ。お前の背中を守るのは、いつだって私だった」
声のトーンを落とし、私は自らの胸の内にある『寂しさ』を吐露する。
「それなのに、ファミリアの命運を左右するほどの重大な決断を、私に一言の相談もなく、独断で下した。それが......私は腹立たしいのだ。お前は私を、頼りにならないと思っているのか?」
「違う。それは違うよ、リヴェリア!」
ライは慌てて立ち上がり、必死に首を横に振った。
「君が頼りにならないなんて、一度だって思ったことはない!むしろ、僕がこうして好き勝手できるのは、君がファミリアを支えてくれていると分かっているからだ!」
「ならば、なぜ相談しなかった」
「それは......今回の件は、元々計画してなかったし、相談する時間がなくて....」
ライは申し訳なさそうに眉を下げ、視線を床に落とした。
「それに、リヴェリアにこういう奸計は似合わないからさ。こういうのは僕が好きで、僕の得意分野だ」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で張り詰めていた怒りの糸が、ふっと解けていくのを感じた。
この究極の朴念仁は、本当に......どこまでも私のことを大切に扱いすぎている。
「......コホン、私もお前の奸計は嫌いではない」
私は小さくため息を吐き、机から手を離して腕を組んだ。
「むしろ、お前のその身勝手な配慮のせいで、私はひどく傷ついた。相棒として、そして......いや、とにかく、私は怒っているのだ」
「ごめん......本当に、ごめん。何でもするから、機嫌を直してくれないかな......?」
ライが子犬のような目で私を見上げてくる。
その表情を見た瞬間、私の胸の奥で、以前から温めていた『ある計画』が頭に過ぎった。
何でもする、と言ったな。ならば、この絶好の機会を逃す手はない。
アルフィアのような厄介な女が彼の周りをうろつき始めている今、私が彼の隣に立つ『特別な存在』であることを周囲にも示す必要がある。
「......何でもする、と言ったな?」
「え?う、うん。僕にできることなら」
「ならば、明日は一日、私に付き合え」
私は努めて平静を装いながら、言葉を紡いだ。
「たまにはファミリアの仕事を完全に忘れ、オラリオの街を散策したいと思っていたところだ......お前が荷物持ちとして同行するのなら、今回の件は水に流してやろう」
「街を散策......つまり、デートってこと?」
「なっ......!?」
ライの口からあっさりと飛び出したその単語に、私は思わず顔を真っ赤にしてしまった。普段の朴念仁ぶりはどこにいった!!
「ち、違う!これはあくまで視察と気分転換を兼ねた外出であり、決してそのような破廉恥なものでは......!」
「破廉恥って......ただのお出かけでしょ?分かったよ、明日は一日、リヴェリアのエスコートに徹するよ。それで許してもらえるなら安いものだ」
ライはニコッと笑い、あっさりと私の要求を受け入れた。
彼にとっては、本当にただの『お詫びのお出かけ』程度にしか思っていないのだろう。
結局は相変わらずの鈍感さに呆れつつも、私は明日のことを想像し、心臓が早鐘のように鳴り始めるのを抑えきれなかった。
「......よろしい。明日の朝、遅れずに準備をしておくことだ」
私は踵を返し、足早に執務室を後にした。
扉を閉めた瞬間、私はその場にへたり込みそうになるのを必死に堪え、口元を手で覆った。
「......言ってしまった」
自室に戻ってからの私は、まるで落ち着きのない少女のようだった。
クローゼットを開け、何十着もある服を引っ張り出しては鏡の前で合わせ、ため息をつく。
冒険者としての動きやすい服ばかりで、男性と街を歩くための『可愛らしい』服など、ほとんど持っていなかったのだ。
「......デメテル様に、少しお借りしようか......いや、それではからかわれる......」
結局、私が選んだのは、深い翡翠色の生地に金糸の刺繍が施された、少しだけ上品なワンピースだった。
普段は絶対に着ないような、裾がふわりと広がるデザイン。
翌朝、拠点の玄関で待ち合わせていたライは、私の姿を見るなり目を丸くして固まった。
「......どうした。変か?」
私は恥ずかしさを誤魔化すように、少しだけ険しい声で尋ねた。
「いや......その。すごく綺麗だなって思って」
ライは頬を掻きながら、素直にそう口にした。
その一言だけで、夜通し服選びで悩んだ苦労が全てが吹き飛んでいくような気がした。
「......そうか」
私はツンと顔を逸らしながらも、自然と緩んでしまう口角を必死に引き締めた。
「さあ、行くぞ。今日はお前がエスコートすると言ったのだからな」
「はいはい、お姫様。どこへでもご案内しますよ」
私たちはファミリアの拠点を後にし、朝のオラリオの街へと繰り出した。
並んで歩く距離は、いつもよりずっと近い。肩と肩が触れ合いそうになるたびに、私の心臓は跳ね上がった。
彼の歩幅は、無意識のうちに私のそれに合わせてくれている。
「まずはどこに行きたい?美味しい朝食の店でも探す?」
「いや、以前から気になっていた魔導具の専門店がある。そこへ付き合え」
結局、私が選ぶのはそういった実用的な場所ばかりになってしまうのだが、ライは嫌な顔一つせず、笑顔で付き合ってくれた。
店を見て回り、流行りの装飾品を冷やかし、景色の良い高台のカフェで昼食をとる。
「......美味しい」
「でしょ?この店のフルーツタルト、前からリヴェリアに食べさせたいと思ってたんだ」
「私に?」
「うん。リヴェリア、甘いもの好きでしょ?」
ライの言葉に、私は思わず息を呑んだ。
私が表に出さない些細な好意や癖を、しっかりと見て、覚えていてくれたのだ。
「本当に、お前というやつは」
「え?何か変なこと言った?」
「いや......なんでもない。ただ、少し腹が立っただけだ」
私はタると頬張りながら、彼の鈍感さと、それに惹かれてやまない自分の心を呪った。
アルフィアが彼に惹かれる理由もわかる。この無自覚な優しさは、中毒性のある甘い猛毒だ。
「ライ」
「ん?」
「......これからも、私の隣にいろ。ファミリアの副団長としてではなく......私自身の、相棒として」
少しだけ遠回しな告白。
ライは目を丸くした後、優しく、本当に優しく微笑んで頷いた。
「もちろんだよ。僕の隣には、いつだってリヴェリアがいてくれないと困る」
その言葉の真意がどこにあるのかは分からない。少なくとも私が期待しているところにはない。
だが、今はそれでいい。この心地よい時間を、私は全身で噛み締めていた。
「さぁさぁ皆様、お集まりの神々よ!本日はお日柄もよく、絶好の『神会』日和だ!」
神々だけが立ち入ることを許される巨大な円卓の間。
そこに響き渡ったのは、神ヘルメスの軽快で芝居がかった声だった。
円卓を囲むように座る神々は、面白半分、あるいは退屈しのぎの興味本位でこの場に集まっていた。
ヘルメスが両手を広げて煽るように前置きを終えると、円卓からドッと歓声とヤジが飛んだ。
「デメテルが戦争遊戯!?嘘でしょ!」
「ソーマの奴、一体何をやらかしたんだ?」
「Lv5を有してるデメテルとLv2が最高のソーマは相手にならないだろ」
周囲の喧騒をよそに、私は円卓の一角で静かに微笑みながら座っていた。
私の隣には、重苦しい空気を纏い、今にも胃に穴が開きそうな顔をしたソーマが俯いている。
「──ソーマ。受けてくれたこと、感謝するわ」
私が静かに話しかけると、ソーマはゆっくりと顔を上げた。
「......ああ。まさか、お前がこのような強硬手段に出るとは思わなかった。ザニスの愚行は聞いた。だが、ファミリアの全てを奪うというのは、あまりにも過剰ではないか?」
ソーマの声には、疲労と諦めが混じっていた。
「過剰かしら?私の大切な子どもがそう決めたの。だから、私はそれに従うだけよ」
「ソーマ。あなたが神酒の探求に没頭するのは自由よ。でも、そのために眷属の手綱を手放し、オラリオの住民に迷惑をかけたその代償は、きっちりと払ってもらうわ」
「......分かっている。それに、戦争遊戯のルール次第では、俺にも勝機はある」
ソーマは負け惜しみのようにそう言ったが、彼の瞳には光がなかった。
「さてさて!それでは早速、今回の戦争遊戯の『種目』を決定いたしましょう!」
ヘルメスが巨大な抽選箱を円卓の中央に用意した。
戦争遊戯の種目は、神々によるくじ引きで公平に決定される。攻城戦、宝探し、あるいは総力戦。
何が出るかによって、状況は大きく変わる。
「デメテル、ソーマ!さあ、代表してどちらかがこのくじを!」
「私が引くわ」
私は立ち上がり、迷うことなく抽選箱の中に手を入れた。
私のライは、どんな種目になろうと必ず勝つ。その絶対の信頼があるからこそ、私には微塵の不安もなかった。
引き抜いた羊皮紙の巻物を、ヘルメスに手渡す。
「さあ、運命の種目は......!」
ヘルメスが仰々しく髪を広げ、そこに記された文字を高らかに読み上げた。
「出ました!種目は......『代表者同士の一騎打ち』!!」
その瞬間、円卓の間がどよめきに包まれた。
「一騎打ちだと!?」
「ソーマ、終わったな」
周囲の神々が勝手な予想で盛り上がる中、ソーマは苦悶の表情を浮かべた。
「......一騎打ちか。最悪だ」
「ふふっ、運がよかったわ」
Lv.7。
それは、オラリオにおいても一握りの強者だけが到達できる、第一級冒険者の領域。
Lv.2のザニスが分裂して束になったとしても、指一本触れることすらできない圧倒的な力の差がある。
「次は戦争遊戯の日に会いましょう」
私はそれだけを言い残し、円卓の間を後にした。
早く拠点に帰って、ライにこの結果を報告してあげなくては。
「ふふっ......私の可愛いライ。あなたが勝利する姿を見るのが、今から楽しみね」
夕暮れのオラリオの街を歩きながら、私は愛しい眷属の顔を思い浮かべ、胸をときめかせていた。
「代表者同士の一騎打ち」
神会の円卓の間でヘルメスが高らかに読み上げたその言葉が、俺の脳内で何度も、何度も木霊していた。
オラリオを歩く俺の足取りは、鉛のように重かった。
日が落ち、
デメテル・ファミリアとの戦争遊戯。
その種目が『代表者同士の一騎打ち』に決定した瞬間、俺のファミリアの敗北は決定的なものとなった。
我がソーマ・ファミリアの最大戦力は、団長であるザニスのLv.2に過ぎない。
──ライ・フェンネル。Lv5の冒険者を相手に勝てるはずがない。
「......終わりだ」
ポツリと、無意識のうちに絶望の言葉が口を突いて出た。
ファミリアの本拠地に辿り着き、扉を押し開ける。
拠点の中は、相変わらずの狂気に満ちていた。
廊下の至る所で、虚ろな目をした団員たちが床に転がり、よだれを垂らしながら空になった酒瓶を抱きしめている。
「酒......酒をくれェ......神酒をォ......」
彼らの頭にあるのは、俺が造り出した未完成の『神酒』のことだけだ。
冒険者としての矜持も、己の人生すらも投げ打ち、ただ神酒の一滴を求めてダンジョンを彷徨い、金を稼ぐだけの獣。
俺は彼らを救おうとは思わない。彼らが自らの意思で神酒の誘惑に負け、堕落していっただけのことだ。
俺はただ、究極の神酒を完成させたい。
その探求の過程で生み出された失敗作に、下界の子どもたちが勝手に群がり、狂っているに過ぎないのだから。
だが、その探求もここまでだ。
戦争遊戯に敗北すれば、この本拠地も、醸造のための設備も、そして長年蓄積してきた酒造りのレシピやノウハウも、全てデメテル・ファミリアに奪われる。
俺は一介の神として、路頭に迷うことになるだろう。今くらいの環境を作るのには時間がかかるはずだ。
神酒の探求が強制的に終わらされる。その恐怖と虚無感が、俺の胸を塗り潰していく。
執務室の扉を開け、中に入ると、そこで待ち構えていた団長のザニスが、縋り付くような目で俺を見てきた。
「ソ、ソーマ様!神会はどうなりましたか!?」
「......決まった。種目は、代表者同士の一騎打ちだ」
俺がそう告げると、ザニスの顔から一瞬にして血の気が引いた。
「い、一騎打ち......!?そんな馬鹿な!それでは、私が戦うしか......いや、無理です!相手はあのデメテル・ファミリアですよ!?あそこには、あのイシュタル・ファミリアの拠点をたった二人で半壊させた化け物がいるというのに!」
ザニスは頭を抱え、床にへたり込んだ。
「私たちは終わりだ......全てを奪われる。私の、私の築き上げてきた地位も、財産も......」
自分の保身ばかりを喚き散らすザニスを見下ろし、俺は深くため息を吐いた。
この男にファミリアの運営を任せきりにしていた俺にも責任はある。だが、今更悔やんだところで何になるというのか。
俺はふらつく足取りで執務室の奥へ進み、窓際の椅子に深く腰を下ろした。
窓から見える月明かりだけが、暗い部屋を微かに照らしている。
もう、何もかもがどうでもよくなっていた。天界へ強制送還されるわけではないにしろ、酒を造れない下界での生活など、俺にとっては死に等しい。
「......随分と、絶望しているようだね、ソーマ」
その声は、部屋の入り口からでも、窓の外からでもなく。
まるで最初からこの部屋の暗がりに溶け込んでいたかのように、唐突に響き渡った。
「なっ......!?誰だ貴様!」
ザニスが弾かれたように立ち上がり、腰の剣に手をかける。
俺は声のした部屋の隅の暗闇へと視線を向けた。
そこからゆっくりと歩み出てきたのは、黒い外套を身に纏い、飄々とした笑みを浮かべる細身の男神だった。
「......タナトス。なぜ、お前がここにいる」
俺の問いかけに、死を司る神・タナトスは、まるで友人の家に遊びに来たかのような気軽さで肩をすくめた。
「やあ、こんばんはソーマ。少し耳寄りな話を持ってきてあげたんだ。君のファミリアが、あの『オラリオの生命線』たるデメテル・ファミリアから戦争遊戯を吹っかけられたと聞いてね」
「......俺を笑いに来たのか」
「まさか。僕はね、絶望の淵に立たされた者を救済するのが大好きなんだよ。特に、君のように己の探求のためだけに生きる、美しい狂気を秘めた神はね」
タナトスは俺の机の前に立ち、その瞳で俺を見下ろした。
「一騎打ち、だったね。君のファミリアの最大戦力は、そこにいる怯えきった彼......Lv.2のザニス君だ。対するデメテル・ファミリアは、Lv5のライ・フェンネルがでるだろう」
「これでは勝負にすらならない。君たちは無惨に敗北し、全てを奪われ、君の愛する神酒の探求は永遠に途絶える......それは、あまりにも悲しい結末だとは思わないかい?」
タナトスの言葉は、俺の心の最も弱い部分を的確に抉ってきた。
「......何が言いたい、タナトス」
「簡単なことだよ。僕が、君のファミリアに『勝利』をもたらしてあげようと言っているんだ」
タナトスが指を鳴らすと、彼の背後から、もう一つの影が音もなく姿を現した。
「紹介しよう。僕の可愛い子どもの一人......ヴァレッタ・グレーデだ」
暗闇から進み出てきたのは、薄汚れたローブを纏ってる女だった。
しかし、その隙間から覗く瞳と、全身から立ち上る血の匂いが、彼女が尋常な冒険者ではないことを無言で物語っていた。
「チッ......なんでアタシが、こんな酒臭えファミリアのガキのお守りをしなきゃなんねェんだよ」
女──ヴァレッタは、不機嫌そうに舌打ちをしながら、ザニスを一瞥して鼻で笑った。
「ヒッ......!」
ザニスはその視線を受けただけで、恐怖に顔を引き攣らせて後ずさった。
「彼女はね、これでもLv.5の第一級冒険者なんだ。人を殺す技術にかけてはオラリオでもトップクラスだよ」
タナトスの言葉に、俺は息を呑んだ。
闇派閥。オラリオの暗部に潜み、破壊と混乱を撒き散らす神々とその眷属たち。
タナトスがその一柱であるということは知っていたが、まさかこれほどの戦力を抱えていたとは。
「......その女に、何をやらせるつもりだ」
「簡単なことだよ、ソーマ。彼女を一時的に、君のファミリアに改宗させる。そして、戦争遊戯の『代表者』として出場させるんだ」
タナトスはニヤリと笑みを深めた。
「相手がいくらLv.5だとしても、数え切れないほどの命を刈り取ってきたヴァレッタの敵じゃない。彼女なら、デメテル・ファミリアの代表を舞台の上で無惨に解体し、君に圧倒的な勝利をもたらしてくれる」
「アハハッ!いいねェ、そのガキの腸を引きずり出して、オラリオの連中の前で晒し者にしてやるよ。さぞかし見世物として盛り上がるだろうねェ」
ヴァレッタが、下品で狂気に満ちた笑い声を上げた。
「一時的な改宗だと?そんなことがギルドに認められるはずが......」
「認められるさ。戦争遊戯のルール上、開催日までにファミリアに所属している団員であれば、出場資格を満たす」
タナトスの提案は、まさに暗闇に垂らされた蜘蛛の糸だった。
この女を代表者として出せば、勝てる。
何も奪われずに、神酒の探求を続けることができる。
だが、タナトスのような男が、無条件でそんな救いの手を差し伸べるはずがない。
「......条件は、なんだ。何を要求する」
俺が警戒心を露わにして尋ねると、タナトスは満足げに手を叩いた。
「話が早くて助かるよ。もちろん、タダというわけにはいかない」
タナトスは三本の指を立ててみせた。
「一つ。ヴァレッタを動かすための前金として、一億ヴァリス。まあ、これは君たちにとって大した額ではないだろう?」
「......払えます。ファミリアの裏金を使えば、それくらいは」
ザニスが青ざめた顔で頷いた。
「二つ。戦争遊戯に勝利した暁には、今後ソーマ・ファミリアが得るダンジョン収益と、神酒の売上の『7割』を、毎月我々に上納すること」
「なっ......!?な、7割だと!?」
ザニスが再び悲鳴を上げた。
「ふざけるな!それではファミリアの運営が成り立たない!7割も奪われれば、我々はあなたたちの奴隷も同然ではないか!」
「おや、嫌なら断ってくれて構わないよ?」
タナトスは冷酷な目でザニスを見下ろした。
「断れば、君たちはデメテル・ファミリアに全てを奪われる。本拠地も、金も、酒造りのノウハウもね。7割を上納してでも『3割』を残すか、それとも『ゼロ』になるか。簡単な計算だと思うけど?」
その言葉に、ザニスはぐうの音も出ず、その場に崩れ落ちた。
ファミリアの収益の7割。
それは間違いなく、闇派閥の活動資金......つまり、オラリオを破壊するための資金として使われるのだろう。
「......三つ目の理由はなんだ」
俺が静かに問うと、タナトスは酷薄な笑みを浮かべた。
「これは僕個人の楽しみさ。デメテル・ファミリアは今や『オラリオの生命線』とも呼ばれ、住人たちから絶対的な支持を得ている。その希望の象徴たるファミリアの代表者が、戦争遊戯という公の場で、血みどろにされて無惨に敗北する......」
タナトスは恍惚とした表情で両手を広げた。
「想像するだけでゾクゾクするじゃないか。希望が絶望に反転する瞬間。オラリオの住人たちが、信じていた生命線をへし折られて絶望に染まる顔がね。そこから他のファミリアが、住民たちがどう動くのかを見てみたいんだ」
タナトスたちの真の目的。
それは、金だけではない。デメテル・ファミリアという光を公衆の面前で叩き潰し、オラリオという都市そのものに癒えない傷と混乱を植え付けること。
そのための手駒として、俺のソーマ・ファミリアが利用されるのだ。
俺がこの提案を受け入れれば、俺は明確に『悪』の側に加担することになる。
「......ソーマ様」
ザニスが、涙目で俺を見上げていた。
「受けましょう......受けるしか、ありません。全てを失うよりは、マシです......」
俺にとって、俗世の権力も、金も、オラリオの平和も、どうでもいい。
俺はただ、酒が造りたい。
この手で、究極の神酒を完成させたい。
そのためになら、悪魔に魂を売ろうと、オラリオが火の海になろうと、知ったことではない。
ファミリアの収益の7割を奪われようが、俺の探求の時間が奪われることに比べれば、些細な問題でしかないのだ。
「......だが、断る」
俺は静かに、だが明確な意思を持って言葉を紡いだ。
「善悪に興味はないが、酒は楽しむものがいて成立する。タナトス。お前の思い描く未来に、俺の夢はない」