練習帳として使用します。
ここから何かできるかもしれませんし、できないかもしれません。

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ミュウ:エロ魔法使い
師匠様:ミュウの師匠
カブトムシ:世界の描写を乗っ取るカブトムシ。ミュウのペット


日常A練習

 朝だった。

 

 少なくとも、ミュウの体内時計はそう告げている。窓のない石造りの工房では太陽の位置など分からないが、目覚めた瞬間の倦怠感と、胃の底を這うような空腹が、朝であることを保証していた。

 

 寝台から半身を起こすと、金髪のプリン頭がぼさぼさに逆立っている。黒い根元がだいぶ伸びてきていた。染め直さなければ、と思いながら三ヶ月が経っている。

 

「……あー」

 

 意味のない声を吐いて、ミュウは工房を見回した。

 昨夜の実験の残骸が床一面に散らばっている。紫色の粘液が乾いてこびりついた試験管。ひっくり返った坩堝。触手の切れ端が一本、棚の上でぴくぴくと痙攣していた。まだ生きている。

 ミュウは指を一回くるりと回した。触手の切れ端がしゅるりと煙になって消える。

 

「片付け、片付け……」

 

 小さなローブ姿のまま、床を這う粘液を魔法で蒸発させていく。朝の日課だ。毎晩散らかして毎朝片付ける。成長がない。自覚はあるが反省はない。

 石壁に掛けられた鏡の前を通りかかって、ミュウは自分の顔を覗き込んだ。

 眠そうな黒い目。整いすぎた目鼻立ち。百人が見たら七十人は女だと答える顔が、寝起きの不機嫌を貼り付けてこちらを見返している。身長は百六十センチ。ローブの裾が床を引きずって、歩くたびにずるずると埃を集めていた。

 

「……よし」

 

 何がよしなのかは自分でも分からない。ただ朝のルーティンとして鏡を見て、よし、と言う。それだけだ。

 

 

 

 工房の奥の作業台に向かい、昨夜の実験ノートを開いた。

 殴り書きの文字が並んでいる。「服溶かしスライム ver.12」「成功。ただし下着だけ残る。なぜ」「仮説:スライムにも羞恥心がある?」

 読み返して、ミュウは首を傾げた。

 

「スライムに羞恥心……いや、エロ本ならあり得るか」

 

 指をくるくると回しながら、新しい頁を開く。今日の研究テーマを考える。アクメビームの拡散パターンの改良か、それとも媚薬の香りつきバージョンの開発か。

 アクメビームは現状でも毎秒一万発の連射が可能だが、拡散型にすれば範囲攻撃として使える。戦闘ではなく、いかに効率よく多人数を同時に絶頂させるか。そこにエロ魔法使いとしてのロマンがある。

 

 いや、と思い直した。まずスライムの問題を片づけるべきだ。下着だけ残る服溶かしスライム。致命的ではないが、美学に反する。エロ本において全裸とは完成形であり、下着が残るのは作品として未完成ということだ。

 ミュウが真剣な顔でそんなことを考えていると、背後で空気がふわりと揺れた。

 

「やぁ、ミュウ。私だよ師匠様だ」

 

 声がした。振り向くと、見知らぬ女が立っていた。

 銀髪のショートカット。切れ長の赤い目。身長は百八十近く、すらりと長い手足をゆったりした黒のワンピースに包んでいる。胸元は控えめで、鎖骨の線がくっきりと浮いていた。右の耳に三連のピアス。左手首に細い金の腕輪。素足にサンダル。爪先に塗った色は深い藍色。肌は陶器のように白く、首筋から鎖骨にかけてのラインがやけに色っぽい。

 初めて会う外見だった。

 

「……師匠様?」

 

「師匠様だが?」

 

 銀髪の美女はにこにこと笑っている。コロコロと鈴が転がるような笑い方。これは確かに師匠様だ。外見がどう変わろうと、あの笑い方だけは毎回同じだった。

 

「昨日と全然違うじゃないですか。昨日は黒髪ロングの小柄な——」

 

「飽きた」

 

「早すぎません?」

 

「朝起きたらこっちの気分だった。似合う?」

 

 似合うとか似合わないとかの次元ではない。大魔法使いが自分の外見を好き放題にいじれるのだから、「似合う」は自明だ。不細工になりたければ不細工にもなれるのに、毎回こうして完成された美女として現れるあたり、師匠様は結局のところ美意識の塊なのだろう。

 

「似合いますよ。いつも通り」

 

「ふふ、ありがと」

 

 師匠様はミュウの隣に腰掛けた。サンダルが石の床にぱたんと鳴る。樹液の甘い匂いではなく、雨上がりの花のような清涼な香りがふわりと漂った。それも多分、今朝の気分で選んだのだろう。

 

 作業台の上のノートを覗き込む。赤い目がすうっと細まった。

 

「服溶かしスライムの改良?」

 

「そうなんですよ。なんでか下着だけ残るんです。全部溶かしたいのに」

 

「それ、術式のどこに問題があるか分かる?」

 

「えっ、分かるんですか」

 

「私だよ?」

 

 まあそうか、とミュウは思った。師匠様はすべてを知っている。エロ魔法の原理だって、多分ミュウよりよほど理解している。ただ興味がないから手を出さないだけだ。

 

「教えてくれます?」

 

「キスしてくれたら教える」

 

「えっ」

 

「冗談。半分」

 

 師匠様はコロコロ笑って、ミュウの頭をぽんぽんと撫でた。長い指が金髪のプリン頭をくしゃくしゃにする。ミュウは抵抗しなかった。師匠様にだけは逆らえない。逆らう気もない。拾ってもらった恩とか、そういう理屈の話ではなくて、もっと根本的な部分で、この人には敵わないのだという確信がある。

 

「ヒントだけあげる。スライムの認識構造に『衣服』の定義を入れ直しなさい。今のままだと、スライムは『布』を溶かしてるだけ。でも下着は『布』じゃなくて『肌の延長』として認識されてる」

 

「あー……なるほど。エロ本的な文脈だと、下着って特別な意味を持つから——」

 

「そういうこと。エロ本における下着は記号。ただの布じゃない。だから溶解対象から自動的に除外されてる。『衣服』じゃなくて『着衣状態そのもの』を対象にすれば、下着もちゃんと溶ける」

 

「やっぱり師匠様すごいな……エロ魔法の理論でそこまで明晰に——」

 

「褒めてるのか貶してるのか微妙なラインだね、それ」

 

「褒めてます!絶対に褒めてます!」

 

 ミュウはノートにヒントを慌てて書き込みながら、ふと足元に視線を落とした。

 作業台の脚に、小さな木箱が置いてある。

 蓋がずれていた。

 ミュウの顔から血の気が引いた。

 

「あ」

 

「どうしたの?」

 

「……師匠様、あの箱、蓋がずれてます」

 

「うん?あの古い箱?」

 

「カブトムシの箱です」

 

 師匠様の動きが止まった。コロコロと笑っていた顔が、す、と静まる。

 一拍の沈黙。

 木箱の蓋の隙間から、漆黒の光沢を放つ角がぬっと突き出た。

 威風堂々たる二叉の角。体長約六十ミリの、何の変哲もないカブトムシの成虫。六本の足が蓋を押しのけ、ゆっくりと這い出してくる。深みのある赤褐色の甲殻が、魔法灯の光を鈍く反射した。

 

 工房の空気が変わった。

 

 石壁の隙間から、甘酸っぱい樹液の匂いが滲み出す。師匠様の清涼な香りが、夏の雑木林の濃密な匂いに塗り潰されていく。試験管の中に残っていた薬液が、なぜかすべて昆虫ゼリーの色に変わった。天井の魔法灯が明滅し、その光が真夏の夜の集魚灯のような温かみを帯び始める。

 

「あーあー、出ちゃった……」

 

 ミュウは頭を抱えた。

 

 カブトムシは木箱の縁に足をかけ、作業台の脚を登り始めた。鋭い爪が石の表面にがしがしと食い込む。小さな体で、一歩一歩、確実に。目の前に大魔法使いがいようが弟子がいようが、そんなことは知ったことではない。この甲虫にとって世界は巨大な森であり、あらゆるものは止まり木か、樹木か、樹液の出る幹でしかない。

 その進路の先に、師匠様のワンピースの裾があった。

 

「……来てる」

 

「見えてる」

 

 大魔法使いと、その弟子が、六十ミリの甲虫の動向を固唾を飲んで見守っている。

 カブトムシは作業台の天板に到達した。ノートの上を横切り、インク壺に角を突っ込んだ。持ち上げようとする。持ち上がらない。角の向きを変えて、もう一度。持ち上がらない。三度目。

 

「……インク壺と戦ってますね」

 

「戦ってるね」

 

 ミュウは手を伸ばしかけて、やめた。下手に触ると余計に空間がおかしくなる。師匠様もまた、手を出さずに観察している。すべてを知っている大魔法使いでも、このカブトムシに関しては介入する術がないらしい。いや、術がないというより、介入した結果が予測不能すぎるのだ。

 カブトムシがインク壺をひっくり返した。

 紫色のインクが作業台に広がる。広がったインクが、なぜか楕円形の樹皮模様を描いた。クヌギの幹の断面そっくりの紋様が、作業台の木目の上に浮かび上がる。

 

「あーもう、世界が書き換わってきてる……」

 

「樹液の匂いも強くなってきたね」

 

 師匠様が鼻をひくつかせた。工房全体が、甘くむせ返るような夏の雑木林に変わりつつある。壁を見れば、石の表面にうっすらと苔が生え始めていた。

 カブトムシはインク壺の征服に飽きたのか、方向転換して師匠様の手の甲に向かって歩き始めた。六本の足が、確かな足取りで。迷いがない。この甲虫はいつだって迷わない。

 

「師匠様、手、動かさないでください。刺激すると増えます」

 

「知ってるよ。前に三百匹出たやつでしょ」

 

「あれは最悪でした……工房が三日間ずっとクヌギの森になって、魔法灯が全部集魚灯に変わって、夜中にぶんぶん飛び回って顔にぶつかってきて——」

 

「懐かしいねえ」

 

「懐かしくないです」

 

 カブトムシは師匠様の指先に到達し、爪を立てて登り始めた。長く美しい指を、ただの樹木の枝だと認識している。藍色の爪先を踏み、関節を越え、指の付け根へ。

 師匠様はくすぐったそうに目を細めたが、手を動かさなかった。さすがに大魔法使いだ、と思う。普通なら反射で振り払ってしまう。振り払ったが最後、カブトムシは脅威を感知して仲間を呼ぶ。

 しばらくの間、工房には樹液の匂いと、カブトムシの足が肌を擦るかすかな音だけが満ちていた。

 

「……ねえ、ミュウ」

 

「はい」

 

「今日の研究、中止だね」

 

「ですね」

 

 ミュウはため息をついた。服溶かしスライムの改良も、アクメビームの拡散パターンも、今日は全部お預けだ。

 カブトムシは師匠様の手首まで登り切ると、満足したのか動きを止めた。金の腕輪に前足をかけ、角を高々と掲げたまま、じっとしている。甲殻の隙間から薄い後翅がのぞいて、かすかに震えた。飛ぶ気か。飛ばれたら終わりだ。

 

 ミュウと師匠様は息を詰めた。

 

 カブトムシは飛ばなかった。

 

 ただ、その足元の影が、もぞり、と動いた。

 

「……師匠様」

 

「うん」

 

「影からもう一匹出てきそうです」

 

「出てきそうだね」

 

 二人は顔を見合わせた。

 

 工房の石壁が、じわりとクヌギの樹皮に変わり始めていた。天井の隅に、小さなメスの甲虫がへばりついているのが見える。いつの間に現れたのか、分からない。

 

「ミュウ」

 

「はい」

 

「今日、外で朝ごはん食べよう。ここはしばらくカブトムシに任せよう」

 

「……賛成です」

 

 ミュウはローブの裾を踏まないように立ち上がり、師匠様と並んで工房の出口に向かった。振り返ると、作業台の上で二叉の角を掲げた王が、悠然とこちらを見ていた。その背後で、壁一面のクヌギの樹皮から、甘い樹液がとろりと流れ始めている。

 

 扉を閉める直前、かすかに羽音が聞こえた。

 


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