いや、普通に本編に載せれば良い話なんですが、ちょっと憧れがあったんです……
王都カセンドラ、聖神大聖堂。
磨き上げられた白亜の回廊を、黒が一つ、悠然と歩いていた。
鋲の打たれた革の長靴が、聖句の刻まれた床石を無遠慮に踏み鳴らす。潮と血と、洗い落としきれなかった瘴気の匂いが、香油の甘い空気を裂いて尾を引いていった。
柱の陰に控えていた侍祭たちが、揃って顔を伏せる。壁際の衛兵は、槍を握る手にじっとりと汗を滲ませ、目の端だけでその男を追った。
誰も咎めない。咎められない。
背に負った大斧を、この男は聖域に入る際にも預けなかった。それを止められる者が、この大聖堂に一人としていなかったからである。
ゲオルグ・オースティンは、鼻から短く息を吐いた。
「……相変わらず、辛気くせえ匂いだ」
◇◇◇
聖座の間は、天蓋のように高い。
円窓から差し込む光が七色の帯となって降り、床に敷かれた深紅の絨毯を染めている。左右に居並ぶ枢機卿たちの祭服が、その光を受けて鈍く輝いていた。
その奥。
黄金と象牙で組まれた玉座に、少女が一人、座っていた。
白と金の法衣。頭に戴いた三重冠。歳は十かそこら、法衣も冠も明らかに寸法を持て余していたが、その背筋は真っ直ぐに伸びていた。膝の上で手を重ね、瞬きの数まで律したように、少女は静かに正面を見据えている。
――当代の教皇、エルミナ聖下。
先代が病に倒れ、床を離れられぬまま退いたのは、つい先頃のことだ。前触れもなく回ってきた聖冠を、この少女はまだ半年と戴いていない。歳も、格も、何もかもが玉座に釣り合っていないことは、大聖堂の誰もが承知していた。
それでも彼女がその座にあるのは――一人の老人が、そう望んだからに他ならない。
「レイヴン騎士団のゲオルグだ。ガモン島から戻った」
ゲオルグは絨毯の中ほどで足を止め、片膝をついた。
膝はついた。それだけだ。頭は下がりきっておらず、視線は玉座の少女など通り抜けて、その遥か奥を測っていた。
枢機卿の一人が眉を吊り上げる。
だが、玉座の上の少女は、それを片手で制した。
「大儀であった」
高く、澄んだ声だった。
「教会の預かる島に、竜種の襲撃あり。民の心も、いささか騒がしい。――報告を聞かせよ」
ゲオルグは立ち上がった。
そして、玉座を見なかった。
顎を巡らせ、視線を投げたのは――聖座の脇、円柱の落とす影の底である。
「――そこにいるんだろ、爺さん」
空気が、凍った。
枢機卿たちがざわめく。ある者は憤り、ある者は男の正気を疑い、そしてある者は、その視線の先を追って青ざめた。
「話をするなら、あんたとしてえ。俺は同じ話を二度するのが嫌いでな」
玉座の上の少女が、小さく息を吸った。
「――人払いを」
「聖下、しかし」
「人払いを、と申した」
枢機卿たちは互いに視線を交わし、深く一礼して退がっていく。侍祭が、衛兵が、記録係が。重い扉が閉ざされ、聖座の間には三つの気配だけが残された。
影が、揺れた。
円柱の陰から、静かに歩み出る者がある。
上質だが飾り気のない修道服。霜降りの灰髪と、重厚な顎髭。深い皺の刻まれた顔は老いを隠していないのに、その背筋は若木のように伸びていた。
「――久しいな、ゲオルグ」
ジョセフ・クラウズ・アウレリウス。
名を知る者は、この大陸にいくらもいない。
「五年ぶりか。……あんた、いくつになった」
「さて。数えるのをやめて久しいのでな」
「そうかい」
ゲオルグは目を細めた。
五年前も、その前も、この老人はまったく同じ顔をしていた。皺の位置も、髭の白さも、背筋の伸び方も。
だが、追及はしなかった。
どうせ答えは返ってこないし、そこを突いたところで、この男を斬れるわけでもない。
ジョセフは玉座の傍らに立つと、片手で「続けよ」と促した。
その所作はごく自然で――そして、この部屋の話が誰に向けられるべきものかを、何より雄弁に示していた。
◇◇◇
「まず、蝕核持ちだ。斬った」
「聞いている。一撃だったそうだな」
「そこが気に入らねえ」
ゲオルグは肩を回した。
「黒蝕領域を背負って立つ親玉が、豆腐みてえな手応えでたまるか。あれは誰かが湧かせた出来損ないだ。――どこの誰が、あんなもんを湧かせやがった」
「……ほう」
ジョセフの相槌は短かった。
興味を引かれたようにも、既に知っていることを確かめたようにも聞こえる、そういう短さだった。
「続けたまえ」
「囚人が消えてる。一人を別にすりゃ、残らず『アーティエの子』だ。数は四」
ジョセフは、静かに目を伏せた。
驚いた様子はない。眉一つ動かさず、ただ一度だけ、確かめるように顎を引く。
「――やはりか」
「心当たりがあるって顔だな」
「心当たりのない場所に、私は結界を張らんよ」
「その結界は、内側から破られてたぜ。竜が来たのは、たぶんその後だ」
「だろうな」
老人はそれきり、その話を打ち切った。
打ち切り方があまりに滑らかだったので、ゲオルグは肩をすくめるにとどめた。
「それで。その一人とは」
ゲオルグは、懐から折り畳んだ羊皮紙を放るように差し出した。
ジョセフは受け取り、目を落とす。
罪状の欄には、古い書式でこう記されていた。
――貴族及び騎士殺し。
そして、その名に添えられた二つ名。
ジョセフの指が、止まった。
一拍。二拍。
老人の視線が、羊皮紙の上を滑ることなく、ただ一点に据えられたまま動かない。
記憶の底を、順に浚っているのだと分かった。積み上げすぎた歳月の中から、たった一枚の札を探し当てる時間。
やがて。
「……ああ」
低く、長い息が漏れた。
「あの女か」
その響きに、驚愕はなかった。
だが、軽くもなかった。
書架の隅に立てたまま忘れていた一冊を、背表紙の色で思い出した――そういう声だった。忘れていたのは置き場所であって、中身ではない。
「知ってんのか」
「顔は覚えていない。名だけはな」
ジョセフは羊皮紙の端を、指の腹でなぞった。
「惜しい魔術師でな。腕でいえば、当代でも指折りだ。……その上、稀有な固有魔術の持ち主でもある」
「そいつが、貴族と騎士を皆殺しか」
「そうだ。大罪だ。裁きも受けた。……ただ、首は刎ねなかった」
「……ほう。教会にしちゃ珍しいな」
「事情があった。そう判じるだけの材料もあった」
老人は、そこで一拍置いた。
「大罪人ではある。だが、悪ではない」
「……ずいぶん甘えな」
「甘くはない。あれは抵抗ひとつせず獄に下った女だ。斬るまでもなかったし、斬る理由もなかった」
ジョセフは羊皮紙を折り畳み、袖に収めた。
「使い道のある札を、わざわざ焼く趣味はない。だから塔に置いた。それだけのことだ」
「で、その札が勝手に立ち上がって歩き出したわけか」
「そこだ」
老人の声が、初めてわずかに低くなった。
「同じ夜に、同じ塔から、道連れのようにな」
「与したかもしれねえ、と」
「そうでないことを願っている。もし、あれが連中と同じ旗の下に立ったのなら――」
そこで、老人は口を閉じた。
言いかけた続きを、舌の上から静かに下ろす。声にすれば形を持ってしまうとでもいうように。
代わりに、短く息を吐いた。
「……面倒などという言葉では、到底足りん」
老人は顔を上げ、初めて明確な指示の声を出した。
「連れてきなさい。害さずにな」
「断る」
ゲオルグは、即答した。
◇◇◇
ジョセフは、ゆっくりと息を吐いた。
叱責でも詰問でもない。ああ、やはりそう来たか――そういう種類の、深い溜息だった。
「……そう言うと思っていた」
「なら話は早え」
「早くはない。理由を聞こう」
ゲオルグの口の端が、獰猛に吊り上がっていく。
「考えてもみろよ、爺さん。何十年だ。石の箱ん中で、飯も日も足りねえまま腐って――それでも竜を斬り捨てて、海の向こうに消えやがった女だぞ。しかも、あんたが指折りと呼ぶ手合いだ」
彼は自分の胸を、拳の背でどん、と叩いた。
「そういう奴と、傷ひとつ付けずに連れて帰る算段をしながら向き合え? 冗談じゃねえ。俺はな、そいつがどこまでやれるのかを知りてえんだ。こっちが手を抜いてりゃ、そいつは俺に本気を見せねえだろうが」
「ゲオルグ」
「あんたの手札の枚数なんざ、俺の知ったことか」
――ぞ、と。
空気が、粘った。
ジョセフの足元から、それは静かに立ち上がってきた。
目に見えるわけではない。ただ、部屋そのものが重くなった。
禍々しい。
腐りかけた墓所の底のような、正視に堪えない澱み。
神々しい。
直視すれば目が灼けるような、清冽で容赦のない光。
混じり合うはずのないその二つが、老人の輪郭の上で撚り合わさっている。
円窓から差す七色の光が、ジョセフの周囲でだけ、歪んで折れた。
「……ほお」
ゲオルグは、笑った。
笑いながら、背の大斧の柄に手をかけた。
ぎち、と革手袋が鳴る。斧に絡みつく肉片が昂るように身を捩った。
浅黒い肌に浮いた無数の傷跡が、粟立って盛り上がる。腹の底が焼けるように熱い。頭の芯が冴え渡っていく。
――ハーヴィの気配。戦の匂い。
こんな上物に出くわすのは、いつ以来だったか。
「やるかい。――なあ、爺さん」
「……困った男だ」
二つの視線が、絨毯の上でかち合った。
玉座の上の少女は、動けなかった。
背筋は伸びたままだった。姿勢も、視線も、崩れてはいない。
ただ、白い頬を汗の粒がひとつ、ゆっくりと伝い落ちていく。
膝の上で重ねた手だけが、法衣の生地を巻き込んで固く握り込まれていた。指の節が白く浮くほどに。ほどき方が分からなくなったように。
息の継ぎ方を、忘れていた。
その、白く強張った横顔へ。
ジョセフの視線が、ほんの一瞬、流れた。
――先に、目を伏せたのはジョセフだった。
「……まあよい」
澱みが引いていく。光が戻る。ただの、少し埃っぽい聖座の間に。
「そこまで言うのなら、好きにするがいい――もっとも」
老人は、白い眉の下からゲオルグを見据えた。
「できることなら、無傷で連れてきてほしい。私からの、希望としてな」
「善処してやるよ。気が向いたらな」
「結構」
ゲオルグは大斧から手を離した。
興が削がれたわけではない。逆だ。喉の奥がひりつく渇きが、まだ残っている。
だが、先に引いたのは向こうだった。
相手が矛を収めた以上、こちらから斬りかかる理由はない。あったところで、こっちは雇われの身だ。飼い主の頭を割って、それで飯の食い上げになるのは業腹だった。
それに――と、扉へ向かいながら、ゲオルグは聖座の間の一角へちらりと目をやった。
柱の並びの、どこでもない場所。
誰もいない。人の形も、影も、衣擦れの音も、何ひとつない。
だが、いる。
気づいたのは、あの爺の魔力が立ち上がった、まさにその瞬間だった。それまで空気に溶けきっていた何かが、す、と輪郭を持った。息を吸ったわけでも、身じろぎしたわけでもない。ただ「ここにいるぞ」と、こちらにだけ分かるように、存在の重みを一段落としてみせたのだ。
――己に気付かせないほどの隠密能力。
相当な手練れだ、とゲオルグは胸の内で舌を巻いた。
わざわざ見つかるように出したのは、警告のつもりなのだろう。刃を抜けば、こちらも動く――そう告げるためだけの一瞬。それきり、気配はまた綺麗に薄れていった。
白か、と当たりをつける。
教会が手元に飼っている、こちらとは正反対の連中。表に出てこないところだけは同業のようなものだが、あちらは神の側だ。黒の鴉に対して、純白の騎士団などと呼ばれているらしい。
爺と一対一なら、それでよかった。上等だ。
だが、同じ格のもう一枚を横から差し込まれるとなると、さすがに勘定が合わなくなる。初見の強敵二人を相手に、無策で挑むほど愚かではない。
――まあ、いい。
逃げやしねえ。この爺も、あの女も。
いつか相手にしてやる。そのほうが、よほど面白い。
惜しさを舌の裏で転がしながら、ゲオルグは扉を押し開けた。
去っていく黒い背を眺めたまま、老人は動かない。
つまらぬ天秤だ、と思う。
勝ったところで、得るものがない。この男は、自分が並べた手札の中でも数少ない、替えの利かぬ一枚である。それを、危険を冒してまで棄てる必要などどこにもない。
負ければ、言うまでもない。
勝っても損、負ければ終わり。そんな賭けに乗るほど、彼は若くなかった。
――それに。
傍らで石のように固まっている小さな気配を、視界の端に留める。
この幼子の前で、玉座を血で汚してやる理由も、またなかった。
重い扉が閉じ、革靴の音が遠ざかっていった。
◇◇◇
静寂が戻る。
少女は、まだ手を離せずにいた。法衣の生地を巻き込んだ指が、白く強張ったまま固まっている。
ジョセフは、玉座のかたわらまで歩み寄った。
節くれ立った指が、その小さな手にそっと重なる。強張りは、ひとつ、またひとつと、ほどけていった。
そして、その小さな頭に、皺だらけの手をぽん、と置いた。
「よく耐えたな、エルミナ」
「…………ッ」
「人払いの声、震えていなかった。大したものだ」
少女の白い頬に、じわりと血の色が戻る。
「……当然です。わたくしは、教皇なのですから」
「うむ、そうだな。立派な教皇だ」
ジョセフは目を細め、少女の頭を二度、三度と撫でた。
「あの男の無礼は許してやりなさい。あれは犬でも猫でもない。剣だ。剣に礼儀を求めても仕方がない」
「……剣は、鞘に納まるものでしょう」
「ほう」
老人は喉を鳴らして笑った。
「言うようになった。――褒美だ。次に来るときは、菓子を持ってきてやろう。西の島の、蜜漬けの木の実を焼き込んだやつだ。前に食べたいと言っていただろう」
少女の顔が、ぱっと明るくなった。
「ほんとうに!?」
――高い、幼い、なんの飾りもない声だった。
三重冠がぐらりと傾く。それを慌てて両手で押さえ、少女は自分が何をしたのかにようやく気づいたらしい。
「……こ、こほん」
わざとらしい咳払いをひとつ。
膝の上で手を組み直し、顎を引き、精いっぱいの厳かさで、
「……お、お心遣いに、感謝します。……ありがたく、頂戴いたします」
真っ赤な耳だけが、誤魔化しきれていなかった。
「はは。……よろしい、聖下」
ジョセフは深く一礼した。
その口元には、この日はじめての、柔らかな笑みが浮かんでいた。
◇◇◇
――かひゅ、と。
その笑みが、途中で歪んだ。
老人の背が折れる。口元を押さえた掌の内側で、湿った音が二度、三度と重なった。
「ジョセフ様!?」
玉座から少女が身を乗り出す。
「……なんでもない。……ただの持病だ、エルミナ」
背を向け、掌を開く。
濡れていた。
鮮やかに濁った、赤。
そして――その血を受け止めている手のひらが、もはや生きた人間のものではなかった。
皮膚は水気を失い、爪は濁り、指の節々には黒い斑が浮いている。枯れ枝。冬に置き去りにされた枯れ木の色。
肘の方へ、じわりと、その色が這い上がろうとしていた。
「……また来たのか、ゴート」
背後の少女には届かぬ、それは吐息ほどの声だった。
呟きに、恐れはない。
驚きも、嘆きも、恨みすらない。
定刻通りに扉を叩く取り立て屋へ、いつもの返事をするような声だった。
ジョセフは、ゆっくりと拳を握った。
掌の中で、血が潰れる。
その一瞬、聖座の間の光が、ほんのわずかに揺らいだ。少女には見えなかった何かが――蓄えられ、削られ、支払われた。
「まだ、そちらには行けんよ」
握り締めた拳を、老人は開く。
そこに血の跡はなく。
枯れ木の色も、黒い斑も、跡形もなく消えていた。
節くれ立ってはいるが、確かに血の通った、生きた老人の手が――そこにあった。
「……大丈夫、ですか」
背後で、心配そうな声がする。
「ああ」
ジョセフは振り返り、いつもの穏やかな顔で微笑んだ。
「――何も、心配することはない」
円窓から降る七色の光が、老人の背を静かに撫でていった。
ジョセフ・クラウズ・アウレリウス
『不朽』の二つ名を持つ年齢不詳の人物。教会という一大勢力を裏から操る。
エルミナ
かわいい。ジョセフによって選ばれ教皇になった少女。幼いながら強力な加護を受けている。