4月。新たな出会いと期待を胸に、高度育成高等学校の門をくぐった生徒たちは、それぞれの思いを抱えながら1年Dクラスの教室へと足を踏み入れていた。
まだ見知らぬクラスメイトたちと距離を測りかねている者、すでに周囲を観察し始めている者。
綾小路清隆もまた、窓際の席に座り、どこか落ち着かない空気をまとった教室の様子を静かに眺めていた。
新生活特有の、わずかな緊張感が教室全体を包み込んでいる。
チャイムが鳴り響き、ざわめいていた室内にピリッとした緊張感が走った。がちゃりと扉が開き、姿を現したのは一人の若い男だった。
年齢は20代前半だろうか。スーツをラフに着こなし、どこか掴みどころのない雰囲気を持ったその男は、静かに教壇へと歩み寄る。
教卓の前に立つと、男はゆっくりと教室全体を見渡し、低い、しかしよく通る声で口を開いた。
「ほう……?」
短い呟きのあと、男はわずかに口元を緩めた。
「私はいわゆる教師だ。名字は梶谷、名前は朝陽だ。この学校で今日から卒業まで、おまえたちを私なりに教育してみる」
若さゆえの親しみやすさか、あるいは別の何かを感じさせるのか、生徒たちの間にわずかなざわめきが走る。しかし、梶谷はそれを気にする様子もなく、淡々と話を続けた。
「しかし……本校のことは、早速説明しなければな。実はこの学校、個人のクラス替えもなければ……実は本校の資料がここにあってね」
梶谷は持ってきた封筒から、無数の紙の束を取り出した。
「では……今からこの資料を配る。前の席の人達は後ろの席で回すように」
指示に従い、一番前の席の生徒が恐る恐る後ろへと資料を回し始める。紙を受け取った生徒たちが何気なく目を落とした瞬間、教室の空気が急速に凍りついていった。
プライベートポイント、実力主義、そしてこの学校が隠す特殊なシステム。
「……なんだこれ」
クラスのあちこちから、戸惑いと驚愕の声が漏れる。誰もが「普通の高校生活」を想像して入学してきたからこそ、その資料に記された現実の重みは大きかった。
教壇からその様子を見つめながら、梶谷は静かに腕を組む。
彼が配ったのは単なる学校のルールではない。これから3年間、この過酷な環境で生き抜くために、彼らが「自ら考えなければならない」最初の課題そのものだった。
黒板の前に立った梶谷は、生徒たちの動揺を他所に、すっと視線を教室内の一点へと定めた。
「では今から突然だが……授業を始める」
ざわついていた教室が、わずかに静まり返る。梶谷は教卓に片手を置き、面白がるような、それでいて探るような目を向けた。
「綾小路清隆。おまえが会社で働いて給料を持っていたとする。その収入は23万3000円だとする……君の場合、支出はいくらになる……?」
突然名指しされた綾小路の周囲の生徒たちが、ちらりと彼の方に視線を向ける。
綾小路の本音としては、ここで変に目立つような真似は避けたかった。入学早々、教師の印象に残るような受け答えをするのは避けるべきだという理性が働く。しかし、教師からの直接の問いかけを無視するわけにはいかない。
(……面倒だな。だが、ここで黙っているのもかえって不自然か)
思考を巡らせた綾小路は、周囲の視線が集まる中、静かに口を開いた。
「……生活費や家賃、光熱費などを差し引けば、おのずと決まってきます。仮に家賃や諸々を計算に入れるなら、およそ十数万円といったところでしょうか。貯蓄に回す分を除けば、自由になるのは数万円程度かと思いますが」
当たり障りのない、しかし現実的な数字を織り交ぜた返答だった。
それを聞いた梶谷は、小さく満足そうにうなずき、チョークを手に取る。
「ほう、手堅い。だがね、綾小路……それでは『なぜその金額になるのか』という基準が他人の財布事情に引っ張られている。この学校に入った以上、おまえたちが手にするポイントも、生活の仕組みもすべて同じだ。何にいくら使い、何のために残すのか。その基準を自分で持たない者は、この学校に限らず、社会に出てもすぐに足元をすくわれることになる」
梶谷はそれ以上深く追求せず、すっと黒板へと向き直った。
綾小路は静かに息を吐き出すと、再び誰にも気づかれないよう、窓の外へと視線を戻した。
梶谷は窓の外へ視線を逃がした綾小路を見逃さず、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「そして綾小路、しれっと窓から外を見るな……授業中だぞ」
その言葉に、周囲のいくつかの視線が再び綾小路に集まる。しかし、クラスの空気を完全に飲み込むことはできなかった。
教室内では、すでに手に入った「10万円」という大金に浮かれ始めた生徒たちが、気楽な声を上げ始めていた。
「毎月10万貰えるんだから関係ないじゃん!」
調子に乗ったように池寛治がヘラヘラと笑い声をあげる。周囲の何人かもそれに同調するように、どこか気の緩んだ空気を漂わせた。
だが、梶谷はその反応を咎めることもせず、むしろ面白がるように視線を生徒たち全体へと巡らせた。
「さて……実は、A、B、Cの他のクラスは、これ(基本の仕組み)を教えられていない。だが、私なりの授業は受けてもらうぞ。社会に出たら困るのは、他でもない自分自身だからな」
梶谷の落ち着いた、しかし重みのある声が教室に響く。生徒たちがわずかに怪訝そうな顔をする中、梶谷はさらに言葉を続けた。
「本当はおまえたちが、配られた資料から自らの頭の中で考えるべきものだ。……だが、最初くらいは道標を示してやろう」
教卓に両手をつき、梶谷は生徒一人ひとりの顔を見渡すように視線を走らせた。
「そして、よく覚えておきなさい。社会に出た際、そこには『同級生』――つまり同期はいない。先輩、つまり上司もいれば、後輩もいるわけだ。自分と同じ人間ばかりの環境なんて存在しないんだよ」
梶谷はチョークを手に取り、黒板に大きく「経理」という二文字を書き殴った。
「特にコレは、社会に出てから企業で経理や財務を扱うものにとっても、必要不可欠かもしれないからだ。数字の辻褄だけ合わせても、そこに『自分の意志と責任』がなければ、会社という組織では使い物にならない。……さて、この意味が分るかね?」
梶谷はチョークを置くと、すっと綾小路の方へ向き直り、何食わぬ顔でこう告げた。
「ああそうだ……私は綾小路、おまえの父からも頼まれてね……すまないが、私と綾小路君の関係は……執事とお坊ちゃんに当たるのだ」
その瞬間、綾小路の心臓がわずかに跳ね上がった。
(ゲッ……!? 梶谷……あ……そんな執事いたなあ……!)
幼少期、父親の周囲にいた使用人の顔ぶれが脳裏によみがえる。まさかあの時の男が、よりによってこんな高度育成高等学校の教師として目の前に現れるとは予想外だった。
しかし、当の梶谷は気にする様子もなく、さらにサラリと言い放つ。
「ただ、今は教師に転職したのだ。リクルートで……」
教室の空気が、一瞬にして完全に凍りついた。
あまりにも現実離れした、そしてあまりにもメタすぎる発言に、1年Dクラスの生徒たちは一斉に動きを止め、梶谷をジッと冷たい目で凝視する。
池や山内をはじめ、いくつかの席からは「え……? リクルートって何の話……?」「教師の転職って自分で言っちゃうの……?」という戸惑いの視線が容赦なく浴びせられた。
だが、梶谷は教壇の上で涼しい顔をしたまま、何事もなかったかのように授業を続行する。
「さて……授業を続ける。責任とは2つの責任がある。一つは『個人の責任』、もう一つは……『連帯責任』だ」
教室内が冷ややかな空気のまま固まっているのをよそに、梶谷は淡々とチョークを走らせる。
「ここで申し訳ないが……この学校のシステムでは、次に行われる小テストや試験の際に赤点を取ったら退学になるだろう……」
その言葉に、先ほどのメタ発言で冷めていた生徒たちの顔色が再び青ざめた。退学――その重い単語に、クラス全体がピリッと引き締まる。
すかさず梶谷は、不敵な笑みを浮かべてこう言い放った。
「しかし、赤点を取らないためには……私の授業をしっかりと受けないとダメだぞ。人任せにせず、自らの頭で考え、この過酷な環境を生き抜く術を身につけなさい」
教室の空気がメタ発言と「執事」という衝撃的な事実でざわめく中、一際鋭い視線を向けていた人物が立ち上がった。
堀北鈴音だ。彼女は腕を組み、冷徹なまでの観察眼で梶谷をまっすぐに見据えた。
「先生……質問です。もしかして先生は、綾小路家の『家宰』だったのではないのですか……?」
その核心を突いた問いに、教室の何人かの生徒が「は? 家宰ってなに……?」と首を傾げる。しかし、当の梶谷は微塵も動揺せず、ふっと穏やかな笑みを浮かべた。
「まぁ、色んなことはしていたが……基本的には坊ちゃまのお世話をね。年齢も十代ぐらいしか離れていないので、主従というよりは共に育ったと表現したほうがいいでしょう」
サラリと認められたことで、綾小路は内心で頭を抱えたくなった。
(……余計なプロフィールを全校生徒の前でバラすなよ)
しかし、梶谷はそんな教え子の内心などお構いなしとばかりに、スッと表情を引き締め、教壇に両手をついた。
「そして、私は生徒一人ひとりに個人教育を施し、長所を伸ばし、短所を消します」
そこで梶谷はわずかに口角を上げ、不敵に言い放った。
「パワプロでいうところの青特マシマシ、赤特削除です。……ですが、それはあなたたち一人ひとりの成長にかかっていますがね。いくら私が道を示そうとも、実際にバットを振るのはおまえたち自身だ」
またしてもどこか聞き馴染みのあるゲーム用語が飛び出し、池や山内が「パワプロ……? 先生、ゲーマーなのか……?」とひそひそと言葉を交わす。
しかし、梶谷はテンポよく話を本題へと戻した。
「まず……本校は確かに、卒業時にはあらゆる希望の進路先に向かわせてあげます。夢のある話だ。ではとりあえず――こちらは今年、1年生が行う行事などが書かれた年間カレンダーです」
梶谷は手元にあった真新しいプリントの束をひらひらと見せると、一番前の席の生徒へと手渡した。
「後ろへ回しなさい。……これからの1年間、自分たちがどのような試練に直面するのか、ただカレンダーを眺めるだけではなく、その行事の裏に隠された学校側の意図までしっかりと『頭の中で考える』ように」
生徒たちが回ってきた年間カレンダーに目を落とした瞬間、教室の空気は先ほどまでの緊張感とは全く異なる種類の、冷ややかな絶望に包まれた。
プリントには、こう記されていた。
4月:入学式
6月:無人島ですごす (先生は参戦できないから……サバイバル頼んだよ★)
10月:体育祭
12月:豪華鬼畜合宿★
翌年3月:卒業式と年度末試験
さらにその下には、なぜか横浜DeNAベイスターズのマスコットであるスターマンのイラストが大きく描かれ、その横に**「ベイスボール★」**と謎の文字が添えられていた。
(なんでうちの担任は、こうもネジが外れているんだ……)
池や山内をはじめとするクラスメイトたちは、この学校の過酷さとは別の意味で、崩れ落ちそうな絶望感を味わっていた。
そんな生徒たちの心など知ったことかと言わばかりに、梶谷は平然とした顔で話を続ける。
「よし……前もって言っておくが、5月下旬から6月の無人島試験まで……サバイバル術の授業が増えるがな。体育祭の時期が近くなったらまた言うと思うが、保健体育の授業も格闘技や体力づくりの特訓で増えるだろう……」
梶谷は軽く手を叩き、さらに怪しげな笑みを浮かべた。
「さて、この……カレンダーの隅にある『年度末試験』というのは……当日になってからのお楽しみだ。あらかじめ対策できると思うなよ」
一通りの説明を終えると、梶谷は教壇の上の資料を整えた。
「さて、こちらからは以上だ。では、そろそろ休憩時間に入る。お手洗いに行くなり、クラスメイト同士で自己紹介へ行くなりするといい」
その言葉を合図に、チャイムがのどかに鳴り響いた。
メタ発言と謎の野球ネタを投下し続けた型破りな担任の背中を見送りながら、1年Dクラスの面々は、これから始まる波乱すぎるスクールライフに向けて、重い溜息をつくのだった。
休憩時間が始まると同時に、教室は一気に喧騒に包まれた。
「ちょっと待てよ! 無人島でサバイバルって何なんだよ! 保健体育で格闘技って、ここ本当に普通の高校か!?」
池寛治が頭を抱えながら机にしがみつき、山内や他の男子生徒たちもすっかりパニック状態になっていた。このままではクラスの統率が完全に崩れかねない。
その空気を察知した平田 洋介が、スッと立ち上がり、明るくも凛とした声でクラス全体に呼びかけた。
「みんな、落ち着いて! 先生がくれたカレンダーや資料を見て、まずは僕たちで何ができるか話し合おうよ!」
平田の呼びかけに、浮足立っていた生徒たちの動きが少しずつまとまり始める。さすがはクラスの中心人物といったところだ。
その様子を、綾小路 清隆は自分の席から静かに眺めていた。そして、ふと斜め前を見る。
そこに座る堀北 鈴音は、すでに冷静にペンを走らせ、配られたカレンダーや資料の分析を始めていた。彼女のその隙のない姿勢に感心しつつも、綾小路は静かに息をつく。
だが、その平和な(あるいは混乱した)時間は長く続かなかった。
ガラ
ッと教室の引き戸が開き、聞き慣れない足音が響く。見れば、隣のBクラスから一之瀬 帆波を先頭にした数名の生徒たちが、情報収集のつもりかひょっこりと顔を出してきたのだ。
「あ、もしかして邪魔しちゃったかな? 隣のクラスの……」
一之瀬が柔らかい笑みを浮かべて声をかけてきたその瞬間、彼女の視線が堀北の手元にあるノートへと釘付けになった。そこには、この学校のポイントシステムや特殊な仕組みについて、堀北が鋭く書き記した考察の数々がハッキリと残されていた。
「あ……」
一之瀬の目がわずかに見開かれる。隠す間もなく、Bクラス側にはこのDクラスがすでに学校の裏システムに気づいていることが一発でバレてしまったのだ。一之瀬は驚きつつも、
「そっか、もうみんな気付いてるんだね……!」と納得したような笑みを浮かべる。
クラス全体が「あ、やばい見られた……」と気まずい空気になる中、なぜか全く関係ないところで池が突然声を張り上げた。
「待てよ、そういえばさっきの担任の名前……! 梶谷って、あのベイスターズの梶谷隆幸選手と同じ名字じゃん!! カレンダーのベイスボールってもしや……!」
野球の話題に急に食いついた池の的外れな叫びに、周囲の生徒たちは「いや、そこ関係なくない!?」と思わずツッコミを入れたくなる。
すると、隣の席から綾小路がボソッと呟いた。
「……まあ、島根や広島、鳥取、岡山の方では比較的珍しくない名字らしいけどな」
「え、そうなの?」と池が首を傾げる横で、すっと綾小路に近づいてきたのは堀北だった。
彼女は冷ややかな、しかしどこか探るような視線を綾小路に向け、低い声で問い詰める。
「ねえ、綾小路くん。さっき先生が言ってたことだけど……あの人、本当にあなたの実家の『家宰』だったの……?」
クラスメイトたちの耳にも届きそうな距離でのストレートな質問に、綾小路はわずかに目を逸らし、しかし淡々と答えた。
「……ああ、本当だ。見た目はあんな風に変にフランクで面白い人に見えるけど……子供の頃から知っている身としては、結構、優しいながらも厳しい、筋の通った人だ……よ」
自分の過去の一端をバラされた気恥ずかしさを押し隠しながら、綾小路は再び窓の外へと視線を戻すのだった。