モスクワの空は、朝から曇っていた。
低く垂れ込めた雲が鮮やかなクレムリンの尖塔から色を奪い、窓の外に広がる首都も、川も、石造りの建物も、すべてが灰色だった。
そして、会議室の中もまた、灰色だった。
長大な会議卓を囲む男たちのスーツと閣僚、党中央委員会の書記たちの顔色まで灰色だった。
ソビエト連邦という巨大な国家の、軍事、外交、諜報、産業を動かす人間たちが、定められた席に着いている。
長い卓の上座には、ソ連共産党書記長セルゲイ・ミハイロヴィチ・ベレストフが座っていた。
対して、会議卓から少し離れた来賓席に座る少女は、ひどくくつろいでいる。
黒を基調としたチャイナ服で、背もたれに深く身体を預け、裾の乱れを直す様子もなく脚を組んでいる。
周囲を埋める灰色の男たちとは、まるで別の絵から切り抜かれてきたようだった。
少女、沙淡扇は、壁際に立つ護衛を一瞥したあと、卓上に用意された紅茶へ口をつけた。
「すばらしい報告を受けた。我々の要求に応え、十分な結果を示してくれた。試すようなことを頼んですまなかった、沙淡扇」
ベレストフが礼と詫びを告げると、沙はカップを置いた。
「いいよぉ。あたしもアフリカの空気ってのも、一度は吸ってみたかったからなぁ」
悪びれもせず、片方の口角を上げる。
「まあ、装甲車を乗り回してアフリカの大地を走り抜けるってのは、いい気晴らしだったぜぇ。道が悪いのだけは勘弁してほしかったけどなぁ」
国防相の頬がわずかに引きつった。
その装甲車が、撃破されたメルセヴォー共和国軍の車両であることを、出席者全員が知っていた。
「では、報告を」
ベレストフの言葉を受け、参謀総長が手元の文書を開いた。
「作戦は、現地時間二十一時四十分に開始されました。対象は、メルセヴォー共和国特殊作戦群の一個中隊相当。装甲車両四両、輸送車両七両、迫撃砲及び重機関銃を保有していました」
感情のない声で数字が読み上げられる。
「第一段階では、少女――」
参謀総長が一瞬だけ沙を見る。
「沙淡扇同志が創造した大型動物群によって、対象部隊を分断。サーベルタイガー、マンモス及び大型肉食恐竜が使用されました」
「恐竜、か」
科学技術担当閣僚が、指先で鉛筆を転がした。
「骨格や筋肉の構造は?」
「それを私に聞くのかぁ?」
沙が割り込んだ。
「走って、噛んで、踏み潰せりゃ十分だろぉ。博物館に飾るために作ったんじゃねえんだぜぇ」
「解剖学的に正確である必要はない、ということか」
「正確さが必要なら正確にするさ。今回はいらなかっただけだぁ」
科学技術担当閣僚の鉛筆が止まった。
参謀総長が報告を続ける。
「第二段階では、戦死した特殊作戦群の兵士を再現。生存者を装い、対象部隊へ接近させました。再現体は原隊の識別手順、合言葉、無線呼出符号を使用し、警戒線内部への侵入に成功しています」
国家保安委員会議長が身を乗り出した。
「合言葉を、本人から聞き出したのか」
「聞き出してねえよぉ」
沙が答えた。
「そいつが知ってたから、そいつも知ってた。それだけだぁ」
会議室が静まった。
「再現体は、原型となった人間の記憶を持つのか」
国家保安委員会議長の声から、先ほどまでの抑揚が消えていた。
「全部じゃねえ。私が作れた範囲だなぁ。知らないことまで知ってるわけじゃないし、元の人間が忘れてたことを思い出すわけでもない」
「だが、軍務上の記憶は保持していた」
「そいつにとって、必要な記憶だったからなぁ。そいつが知ってりゃ、知ってる。便利なもんだろう?」
国家保安委員会議長の顔から色が失われていき、それとは反対に、軍人たちの眼には熱が宿り始めている。
参謀総長が次の頁をめくった。
「再現体から得た証言をもとに、対象部隊の通信所、予備弾薬集積地及び退路を特定。第三段階において敵部隊を包囲しました。戦闘中に死亡した兵士は、その都度、新たな再現体として投入されています。最終的な兵力は確認された範囲で九名です。ただし、沙淡扇同志は、さらに増員可能であったと述べています」
「日の出まで時間があったからなぁ。続けてりゃ、あの辺りの兵隊は全部こっちにできたはずだ。……途中で私が飽きなきゃな」
沙のなんでもないような発言に、国防相が息を呑み椅子へ深く座り直した。
参謀総長は報告書から目を上げなかった。
「作戦終了後、再現体及び創造された生物は、日の出とともに消滅。現地に残されたのは、メルセヴォー共和国軍の戦死者、破壊された車両及び実在する鹵獲装備のみです。我が方の観測要員に損害はありません。なお、再現体はみな個人が持っている範囲の情報を持ち合わせていました」
外相が低く息を吐いた。
「外国政府高官の私物から再現し、交渉内容を確認することも可能になるということか?」
「亡命者が真実を話しているか、本人の再現体と突き合わせることもできる」
「敵国の司令官を再現し、作戦思想を解析することも」
「戦死した操縦士から、敵航空機の性能を聞き出せるぞ。捕虜を取る必要すらなくなる」
「いや、捕虜以上だ。捕虜は嘘をつく。黙秘もする。誤った情報を教え込まれている場合もある。しかし再現体を複数作成し、証言を比較すれば──」
沙が証明した能力の詳細を読み、高官たちは次々と汎用性を確認していく。
これを沙は否定せず、できると頷きながら紅茶を飲む。
高官たちの応用話はまだまだ続く。
「一つの部隊が全滅すれば、その部隊が持っていた情報の大半を取得できる。暗号、連絡網、協力者、隠匿拠点まで。しかも敵兵を倒すごとに、自軍の兵力が増える。しかも、その兵士は敵軍の事情を知っている」
相手の思い入れのある持ち物さえあれば、情報を再現体の口から聞き出す能力。
暗殺された協力者も、死亡した工作員も、処刑された裏切り者も、条件さえ揃えば再び尋問できる。
国境も、兵力差も、軍事機密も、これまでの意味を失う。
ただ一夜限りの軍隊を作るだけではない。
使えば使うほど、次の戦争に必要な情報が増えていき、敵を倒すたび、より正確に敵を知る。
敵を知るたび、次はさらに容易に倒せとなれば、軍事と諜報が、一つの能力の中で循環していた。
日没後に現れ、日の出前に消えればよい。
補給線すら、従来の形で用意する必要はない。
敵国の首都で兵士を一人手に入れれば、その兵士から部隊を知り、部隊から司令部を知り、司令部から政府を知る。
これがあれば……ベレストフの脳裏に、地図が浮かんだ。
ユーラシア全土にソ連の国旗がはためく光景だ。
そして最後には──ベレストフは小さく頭を振って妄想を追い払う。
いや、これは野望だ。
実現可能性を検討するには、あまりにも心地よすぎる類の野望だった。
「ま、これで私の実力と使い方は、理解してもらえたはずだ」
いつの間にか、会議室の全員が彼女を見ていた。
飄々と発言した少女は、細い指で紅茶のカップを弄んでいる。
「あとは、こっちの持つ情報とぉ、そっちの世界をぶっ壊せる力の……ほぉ~~~~んのちょっとを、交換してくれるかどうか」
指と指の間に、ほんのわずかな隙間を作った。
誰も口を挟まない。
具体的な要求は、まだ語られていないが、誰もがそれなりの要求であると覚悟し、同時に当然の対価だと飲み込んでいた。
だが、「世界をぶっ壊す」という言葉を比喩として受け取った者は、この部屋にはいなかった。
「まだ尚早だ。しかし、できる限りの支援はしよう。住居、衣服、身分、移動手段。必要な資料についても、機密区分を精査したうえで提供する」
「慎重だねぇ」
「国家を預かる者が慎重でなくてどうする」
「確かに。そうだ。私もそうだったけどなぁ」
沙は、どこか遠くを見るように天井へ眼を向けた。
「考えて、考えて、念入りに計画を作ってぇ。失敗しないように手を打って、予備まで用意してぇ。気づいたときには、計画を守ることのほうが目的になってた」
沙が見せる自嘲じみた笑みは、ほんの一瞬だった。
「まあ、あんたも好きなだけ悩めばいいさぁ。世界は、悩み終わるまで待ってくれねえけどなぁ」
ベレストフは、少女の挑発には応じなかった。
「君の扱いについて、こちらからも条件がある。ソビエト連邦市民、軍人及び政府職員の再現を、我々の許可なく行わないこと。これは守ってもらいたい」
何人かの高官が息を止め、沙はゆっくりと室内を見回した。
国防相の手が卓の下へ下がった。
護衛の一人が、無意識に拳銃の位置を確かめる。
沙はそれを見て、楽しそうに笑った。
「安心しろよぉ。本物が目の前にいるのに、わざわざ出来の悪い偽物を作ったりしねえって」
「わかってもらえてなによりだ。第二に、戦略兵器施設、指揮通信施設及び核関連施設への接近は、書記長である私の承認を必要とする」
ベレストフはさらに要求を続ける。
「第三に、国外で能力を使用する場合、作戦の目的、範囲及び終了条件を事前に合意する」
「まあ、そりゃそうだな」
意外にも沙はうんうんと、当然の社会性だと頷いている。彼女なりに国外で無軌道に能力を使う危険性を理解しているようだ。
「第四に、我々は君を拘束しない。医学的、科学的な検査も、君の同意なしには行わない」
科学技術担当閣僚が書記長を見る。明らかに聞かされていなかった顔だった。
「書記長、それでは──」
「彼女は被験体ではない。捕虜でもない。我が国の客人だ」
ベレストフは担当閣僚を見ずに言い切った。
それを見て沙が片眉を上げて驚く。
「ずいぶん親切だねぇ」
「親切ではない。必要な判断だ。同時に、約束を守れない国家と取引を続ける理由は、君にはない」
沙はしばらく書記長を見てから短く笑った。
「条件を受け入れるか」
「いいよ。悪い条件じゃない」
快諾ではないが、現状を受け入れるという永続的なものではなかった。
「本日の会談はここまでとする」
書記長の言葉で、護衛が扉を開けた。
沙は椅子から立ち上がり、誰に礼をすることもなく出口へ向い、扉の前で一度だけ振り返った。
「そうそう、あんまり長く待たせるなよぉ。私、待たされると、別の方法を考え始めるからさぁ」
灰色の男たちに手を振り、沙が退室して扉が閉まった。
少女の足音が遠ざかっていく間、室内には沈黙だけが残った。
しばらく続いた沈黙を、最初に破ったのは国防相だった。
「書記長、これは、建国以来最大の戦略的機会です」
声が震えていた。
それは恐怖ではなく、興奮を抑えきれていなかった声の震えだった。
国家保安委員会議長が続ける。
「軍事だけではありません。限定的に運用するだけでも、国外情報活動の前提が変わります。死亡した工作員から報告を回収できる。消された協力者を再現できる。敵国の人事、組織、暗号体系を、当事者自身に説明させられる」
「彼女の世界についての知識もある。学舎の園、能力者、タイニーと呼ばれるステルス能力を持った衛星の存在。それらを華央国も、日本も、まだ完全には把握していない可能性が高い」
各国が、アメリカですらつかんでないであろう情報を並べ、外相が興奮気味に言った。
「ははは、華央国が得たものは、少女との握手と写真だけだ!」
軍需産業担当書記が笑った。
先ほど質問を制止されたことなど、もう忘れたようだった。
「せいぜい握手と写真で喜んでいろ! こちらには天使がいる。いや、神だ。軍団を生み出す女神だ!」
今までの鬱憤を晴らすように、拳を卓へ落として沙を賞賛する軍需産業担当初期。
これに何人かの軍人が同意するように頷いた。
誰かが小さく笑い次第に会議室へ伝染していく。
つい数日前まで、ソビエト連邦は何も持っていなかったが、それが今はどうだ!
自分たちは何周も先へ出て、核兵器以来の戦略的優位を得た。
いや、それ以上かもしれない。
「落ち着きたまえ、同志諸君」
ベレストフが場を冷やすように、手で官僚たちを制した。
気持ちはわかる。だからこそ、命令を出さなければならない。
「まず沙淡扇に関する全情報を、既存の省庁区分から切り離す。書記長直属の合同連絡班を設置する。国防省、国家保安委員会、外務省、科学アカデミーから各二名。人選は本日中に提出しろ」
国防相が不満そうに眉を寄せる。
「国外作戦案は作成してよい。ただし、侵攻計画ではなく限定任務とする。救出、偵察、情報回収、拠点無力化。彼女の能力がどこまで制御可能かを先に確認する」
「対抗手段の研究は?」
「静かに行え。そして彼女を敵性対象として扱ったと気づかせるな」
国家保安委員会議長が訊き、ベレストフは即答する。
「偽装した作戦計画として組み立てておきます」
「よろしい。この矛盾する命令を処理するのが君の仕事だ」
ベレストフは国家保安委員会議長の言葉に安心して手を組み、一人、自分に問いかける。
──あの少女を、自分は本当に扱えるのか。
モスクワの曇天は、まだ晴れていない。