探索者科の最初の教室は、教室らしくなかった。
賢者の学院、その地下にある石造りの作業場。
壁には、大小さまざまな扉が並んでいる。
木の扉。鉄格子。落とし戸。壊れた水門。
棚へ収められているのは本ではなく、錠前、蝶番、鎖、滑車、針金、古びた歯車だった。
床の一角には砂が敷かれ、別の一角には石畳が組まれている。天井から下がった縄の先には、砂袋や鈴まで結ばれていた。
どれも、何かを教えるためのものなのだろう。
何を教えるのかは、まだ分からない。
「面白そうですね」
アルマニアが足を踏み入れるより先に、ギンとニンが左右の肩から飛び立った。
二羽は別々の棚へ降りた。
ギンは真鍮の輪を嘴で持ち上げる。
ニンは天井近くの梁から、部屋全体を見下ろした。
「勝手に触らないでください」
言った途端、アルマニアの頭へギンの感覚が返ってきた。
真鍮の輪は冷たく、嘴へちょうどよく収まる。
持って帰りたい。
「駄目です」
ギンが輪をくわえたまま、アルマニアへ背を向けた。
取り上げようと手を伸ばす。
その前に、小さな手が横から伸びた。
短い指がギンの嘴を挟み、真鍮の輪だけを抜き取る。
「光る物を見たら盗む。ずいぶん見込みのある鴉じゃないか」
革の前掛けをつけた少女が、作業台の陰から立ち上がった。
アルマニアより頭ひとつ低い。
細い身体に、作業着の袖を肘までまくっている。露わになった腕は太くないが、指を動かすたび、皮膚の下で筋と腱がはっきりと動いた。
翡翠色の長い髪は、一本の太い三つ編みにまとめられている。
壁際には、少女の背丈ほどある長柄戦槌が立てかけてあった。
槌頭だけが大きな見せ物ではない。
長い柄へ、打撃面と嘴状の突起を持つ鉄の槌頭を据えた、実戦のための武器だった。
「グンヒルダ」
「久しぶりだね、アルマニア。元気そうで何よりだ」
グンヒルダ・ネフリット。
学院で使う発動体や精密器具の点検を請け負う工房から派遣された、ドワーフの宝石職人見習いである。
双鴉の泉へ続く封鎖壁を調べ、安全に壊せる場所を見つけたのも彼女だった。
救出直後のアルマニアは、まともに礼を言える状態ではなかった。
「あのときは、ありがとうございました」
「礼なら、目を覚ました時に聞いたよ」
「あれは、ほとんど声が出ていなかったでしょう?」
「聞こえりゃ十分さ。それに、あたしが見つけたのは壊していい場所だけだ。壁を壊したのはシャーナシア、水の先に道があると見つけたのはミレナだよ」
グンヒルダは真鍮の輪を棚へ戻した。
輪の向きまで、隣の品と揃える。
「三人の仕事を一人分みたいに礼を言うんじゃない。それぞれに言いな」
「言いました」
「なら結構」
彼女はギンへ指を突きつけた。
「次に持っていったら、嘴へ値札をつけるよ」
ギンは素知らぬ顔でニンの隣へ飛んだ。
二羽が並び、同じ角度で首を傾ける。
「見分けがつかないね」
「右がギンで、左がニンです」
二羽はすぐに位置を入れ替えた。
「今は?」
「左がギンで、右がニンです」
「便利だ」
「僕には分かりますから」
「そうじゃない。その二羽を使えば、アルマニアが知ったふりをした時、左右から頭をつつけるだろ」
「そういう使い方のために呼んだんじゃありません」
「役に立つなら、使い道は多い方がいいさ」
グンヒルダは作業台の上から、一つの木箱を持ち上げた。
両手で抱えられるほどの大きさで、角を鉄の帯で補強してある。正面には黒ずんだ錠前がついていた。
彼女はそれを、アルマニアの前へ置いた。
「開けな」
◇
「鍵は?」
「ないよ」
「中身は?」
「開ければ分かる」
「罠はありますか?」
「それも、調べれば分かる」
グンヒルダは答えを増やさなかった。
作業台から離れ、壁際の長柄戦槌を手に取る。
天井と左右の棚を確かめてから、柄が倒れない角度で肩へ預けた。
「あたしは、ここで見てる。必要な物は、その工具袋へ入ってるよ」
錠前用の工具一式が、木箱の横へ置かれている。
細い針金。
先を曲げた小さな鉤。
油。
蝋。
白墨。
見たことはあった。
使い方も、書物では読んでいる。
だが、自分の手で錠前を開けたことはない。
アルマニアは、すぐに工具へ手を伸ばさなかった。
まず、メイジスタッフを握る。
「全知全能にして万能なるマナよ。形なき力の残滓を、この目に明らかとせよ——センス・マジック」
青白い光が、木箱の表面を薄くなぞった。
魔力の反応はない。
「魔法の罠はありません」
「今のところは正しい」
「今のところ?」
「魔力がないと分かっただけだ。毒針も、落とし穴も、天井から落ちる石も、魔法じゃないよ」
アルマニアは、上を見た。
何も落ちてこない。
グンヒルダが笑った。
「見る場所が一つ増えたね」
今度は木箱の周囲を歩く。
床へつながる糸はない。
箱と机の間にも、目立つ仕掛けは見つからない。
蓋の隙間へ鼻を近づけたが、油と古い木の匂いしかしなかった。
ギンとニンが、箱の左右へ降りる。
アルマニアは二羽へ意識を伸ばした。
右側の蝶番。
左側の金具。
正面の鍵穴。
三つの場所が重なり、頭の中へ入ってくる。
「おや」
グンヒルダの声がした。
「目が増えるってのは、本当なんだね」
「二羽を別の場所へ置けば、同時に見られます」
「見えてる物を、全部考えられるのかい?」
答えようとした瞬間、ギンの視界が大きく揺れた。
錠前の縁に残っていた油を、嘴でつつこうとしている。
「ギン、やめてください」
そちらへ気を取られ、ニンが見ていた蝶番の傷を見失う。
アルマニアは二羽とのつながりを緩めた。
「……一度に考えるなら、一羽ずつの方がいいです」
「なら、そうしな。目が四つあっても、頭まで四つになったわけじゃない」
どこかで聞いた言葉だった。
シャーナシアなら、最後に剣を突きつけてきただろう。
グンヒルダは剣の代わりに、白墨を一本投げてよこした。
「見つけた物へ印をつけな。忘れて、同じ場所を何度も調べないように」
アルマニアは、調べ終えた箇所を作業台へ描いていった。
箱の底。
左右の金具。
蝶番。
最後に、正面の錠前。
鍵穴は古い油で黒ずんでいる。
細い鉤を差し込み、内部の形を探った。
固い金属へ当たる。
少し上へ動かすと、ばねのような反発が指へ返った。
「ここに、押し上げる板があります」
「あるね」
「これを上げて、掛け金を動かせば——」
「やってみな」
アルマニアは、もう一本の針金を差し入れた。
片方で板を押し上げ、もう片方で掛け金を探す。
二つを同時に動かすと、最初の鉤が外れた。
やり直す。
今度は強く押しすぎて、内部で金属の擦れる音がした。
「力を入れれば開くとは限らないよ」
「分かっています」
「今のは、分かってる手じゃなかったね」
鉤を抜き、先が曲がっていないか確かめる。
もう一度。
反発を指先で感じる。
板が上がりきる直前で止め、もう片方の針金を奥へ滑らせた。
小さな音がした。
かちり。
黒い掛け金が横へ動く。
「開きました」
アルマニアは蓋を持ち上げた。
箱の中には、何も入っていなかった。
「閉めな」
グンヒルダが言った。
蓋を下ろす。
掛け金を元の位置へ戻そうとした。
動かない。
「あれ?」
もう一度押す。
掛け金は、開いた位置で止まっている。
鍵穴へ鉤を差し戻しても、先ほど触れた板から反発が返ってこない。
「……壊しました?」
「あたしに聞くのかい?」
アルマニアは手を止めた。
壊したかどうかさえ、自分では分からない。
開ける前の錠前が、どれほどの力で動いたのかも知らない。
どの部品が、どの位置にあったのかも見ていない。
分かるのは、自分が鉤を差し、何かを押し上げたことだけだった。
「分かりません」
グンヒルダの濃い琥珀色の瞳が、わずかに細くなった。
「よし。今日初めての正解だ」
「開けた時ではなく?」
「開けただけで、使えない錠前にしただろ」
彼女は長柄戦槌を壁へ戻し、工具袋から小さなねじ回しを取り出した。
箱を自分の前へ引き寄せる。
「見てな。今度は二羽を使ってもいい。ただし、あたしの手と、外した部品の両方を見失うんじゃないよ」
◇
グンヒルダは、錠前をすぐに外さなかった。
白墨で箱へ細い線を引き、錠前の位置を記す。
ねじを緩める前に、頭の向きと傷を確かめる。
外した部品は、取り出した順番に白い布の上へ並べた。
「どうして、そこまで記録するんです?」
「戻すためさ」
「形を覚えていれば——」
「左右が逆でも、形は同じに見える部品がある。古い物なら、同じ向きへ戻さないと噛み合わない傷もある。覚えてるつもりってのは、記録しなかった言い訳にはならないよ」
錠前の内側から、薄い金属板が現れた。
板の端が、本来収まるはずの溝から外れている。
「これが、さっきのばねですか?」
「板ばねだ。あんたが掛け金を動かした時、押し上げたまま戻さなかった。開いた蓋へ気を取られて、鉤を引く向きが変わったんだろうね」
グンヒルダは板ばねに傷がないことを確かめ、溝へ戻した。
部品を逆の順番で組み直す。
最後のねじを締める前に掛け金を動かし、蓋を閉めてから、もう一度確かめた。
「直りました」
「あたしがね」
「次は僕がやります」
「次は、開ける前にやることを覚えな」
グンヒルダは再び箱を施錠した。
今度は、白墨も布もアルマニアの前へ置く。
アルマニアは錠前へ触れる前に、箱の形を描いた。
金具の位置。
掛け金が閉じている向き。
鍵穴の傷。
工具を差し込んだ回数と、どちらへ動かしたか。
最初より時間がかかった。
それでも、錠前は開いた。
蓋を確かめ、同じ手順で閉じる。
掛け金が元の位置へ戻った。
「できました」
「覚えた、だね」
「違うんですか?」
「一度、見本どおりに成功した。それが覚えた」
グンヒルダは棚から、別の錠前を二つ持ってきた。
一つは緑青が浮き、もう一つは木屑と砂にまみれている。
「錆びても、濡れても、暗くても、形が違っても、自分で考えて繰り返せる。それで、ようやくできる」
三つ目として、壁へ据えつけられた鉄格子を指した。
「向こうに仲間がいて、失敗すれば罠が動く。何を壊すか、誰が傷つくかを知った上で、仕事を預けられる。それが任せられる」
覚えた。
できる。
任せられる。
どれも同じ場所にあると思っていた。
実際には、ずいぶん遠く離れている。
「では、全部できるまで、ここで練習します」
「今日中にかい?」
「取得経験倍化があるので、人の二倍——」
翡翠色の三つ編みが、するりと首へ回った。
柔らかく触れただけなのに、アルマニアは言葉を止める。
グンヒルダは三つ編みの端を片手で持ち、笑顔で尋ねた。
「今度は何を、だいたい分かったって?」
「……一度開けられたことと、任せられることは違います」
「よろしい」
三つ編みが離れていく。
ギンとニンは、助けるどころか左右から楽しそうにアルマニアを見ていた。
◇
日が傾く頃。
アルマニアは三つ目の錠前を前に、鉤を止めていた。
内部へ砂が入り、板ばねの動きが鈍っている。
力を加えれば、押し上げられるかもしれない。
だが、どれほどの力まで耐えるかは分からない。
アルマニアは鉤を抜いた。
白墨で異常のある位置へ印をつける。
「グンヒルダ。ここからは、僕には分かりません」
隣の作業台で宝石部品を磨いていたグンヒルダが、手を止めた。
錠前を確かめ、アルマニアの記録へ目を通す。
「うん。今日は、ここまでだ」
「開けなくていいんですか?」
「開けない方がいいと判断したんだろ?」
「はい」
「なら、あんたの仕事は終わってる。ここから先は、あたしの仕事だ」
グンヒルダは錠前を預かると、代わりに一枚の依頼書を渡した。
王都から半日ほど離れた村で、水車へ送る水が止まった。
原因は、丘の下を通る古い地下導水路にあるらしい。
「明日の実習だよ」
「地下導水路の錠前を開けるんですね」
「目的は、水を通すことだ」
グンヒルダは工具袋の口を閉じた。
「錠前を開けることでも、遺跡を調べ尽くすことでもない。あたしが開ける。アルマニアは周りを見な」
「僕は今日、開け方を覚えました」
「だから、見れば何をしてるか分かる。けれど、まだ任せられない」
悔しかった。
けれど、朝の自分なら壊したことにさえ気づかなかった。
アルマニアは依頼書を受け取った。
「分かりました。明日は、周りを見ます」
「その返事なら任せられる」
「錠前は任せてくれないのに?」
「周りを見る仕事をさ」
グンヒルダは、歯を見せて笑った。
ギンとニンが左右の肩へ戻ってくる。
二羽の目があれば、別々の場所を見ることはできる。
けれど、何を見るべきかは、自分で知らなければならない。
探索者として最初に覚えたのは、扉の開け方ではなかった。
開けたあとまで、自分の仕事として考えることだった。