魔法戦士養成学校の万能戦士   作:駄文亭

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第10話 触らない手

 村の水車は、止まると大きかった。

 

 動いている間は、水音と軋む木の音に紛れている。

 

 だが、羽根板から水が落ちず、石臼の音も消えた今は、二階建ての水車小屋へ巨大な輪だけが立てかけられているように見えた。

 

「三日前から、ぴたりとです」

 

 水車小屋の主人が、乾いた導水路を指した。

 

 四十を過ぎた男の袖には、白い粉が染みついている。

 

「畑の方は、まだ井戸と溜め池で何とかなります。ですが、麦を挽けません。このままでは、近隣の村からも荷が来なくなる」

 

「上流は見ましたか?」

 

 グンヒルダが尋ねる。

 

「丘の泉までは。水は出ています。古い水門のところで止まっているようですが、村の者は誰も地下へ入れません」

 

 男は、グンヒルダの背丈ほどある長柄戦槌を見た。

 

 次に、アルマニアのメイジスタッフを見る。

 

 最後に、左右の肩で首を傾けているギンとニンへ目を向けた。

 

「学院から来たのは、お二人だけで?」

 

「二人と二羽です」

 

「仕事に数えるのかい?」

 

「ギンとニンも働きます」

 

「働いた分だけ、光る物を持って帰るつもりだろ」

 

 二羽が同時に鳴いた。

 

 水車小屋の主人が、不安そうに眉を寄せる。

 

 グンヒルダは依頼書を広げ、修理できなかった場合の扱いと、村で用意できる資材をもう一度確認した。

 

 その上で、最後に尋ねる。

 

「水を通したあと、水門の点検に何日使えます?」

 

「いえ、水さえ戻れば——」

 

「戻った水門が、明日また落ちたら?」

 

 男は口を閉じた。

 

「原因が分からなければ、応急処置までだと書き残します。今季が終わるまでに、工房から職人を寄越すことになるかもしれません」

 

「分かりました。お願いします」

 

 依頼書へ主人の印をもらい、グンヒルダは紙を革筒へ戻した。

 

「行くよ、アルマニア」

 

「はい」

 

 丘へ続く道へ踏み出したところで、翡翠色の三つ編みが左右へ揺れる。

 

「ところで、今日の目的は?」

 

「地下導水路を調べて、水門を直すことです」

 

「違う」

 

 アルマニアは、止まった大きな輪を振り返った。

 

「水を通すことです」

 

「よろしい」

 

     ◇

 

 地下導水路の入口は、丘の斜面へ半分埋もれていた。

 

 石を組んだ低い門の前へ、枯れ葉と細い枝が吹き溜まっている。

 

 グンヒルダは、その枝をすぐには除けなかった。

 

 足跡。

 

 獣の毛。

 

 新しく崩れた土。

 

 扉の蝶番と、石組みのずれ。

 

 一つずつ確かめ、白墨で小さな印を残していく。

 

「昨日の錠前と同じですね」

 

「何がだい?」

 

「開ける前の状態を記録して、戻せるようにする」

 

「半分だね。ここじゃ、戻すためだけじゃない」

 

 グンヒルダは、枯れ葉の下から一本の細い骨を拾った。

 

 鼠の脚らしい。

 

 折れてはいるが、噛み砕かれた跡はない。

 

「この先に何がいるか知るためさ。見つけた物を動かせば、次に来た者は同じ物を見られない」

 

 骨を元の位置へ置く。

 

 その隣へ、目立たない白墨の印をつけた。

 

「では、何がいるんです?」

 

「分からない。分からないから、入って確かめる」

 

 昨日なら、そこまで見ていなかった。

 

 今朝のアルマニアなら、分からないという答えを口にできる。

 

 二人はソフトレザーの留め具を確かめた。

 

 グンヒルダは長柄戦槌を背負い直し、工具袋を腰の前へ回す。

 

 アルマニアは小さな真鍮の輪へ触れ、メイジスタッフを立てた。

 

「全知全能にして万能なるマナよ。闇を退け、我らの行く手を照らす光となれ——ライト」

 

 青白い光が輪へ宿る。

 

 輪を革紐でギンの脚へ結ぶと、鴉は誇らしげに胸を張った。

 

「光る物を持たせました」

 

「自分の物なら好きにしな。ただし、奥へ行かせすぎるんじゃないよ」

 

 入口の扉には、鍵がかかっていなかった。

 

 グンヒルダが軋む扉を少しずつ押し開ける。

 

 湿った冷気が、二人の頬を撫でた。

 

     ◇

 

 導水路の中には、人一人が歩ける幅の点検路があった。

 

 その脇を、空になった水路が奥へ延びている。

 

 天井は低い。

 

 アルマニアならメイジスタッフを立てて歩けるが、グンヒルダの長柄戦槌は振り回せない。

 

 彼女は戦槌を肩から下ろし、柄の中央を持った。

 

「ここで何か出たら、どうします?」

 

「あたしが前へ立つ。あんたは入口まで下がって、外へ出たところで援護しな」

 

「戦わないんですか?」

 

「この幅じゃ、まともに振れないからね。戦う場所くらい選ばせてもらうよ」

 

 ギンが前を飛ぶ。

 

 真鍮の輪から放たれる光が、石壁の継ぎ目を流れていった。

 

 ニンはアルマニアの肩へ残り、何度も後ろを振り返る。

 

 アルマニアは、前を行くギンの目へ意識をつないだ。

 

 青白い光。

 

 湿った床。

 

 黒い水垢。

 

 曲がり角の先まで見ようとした途端、自分の爪先が点検路の欠けた場所へ入った。

 

 身体が傾く。

 

 グンヒルダの三つ編みが首へ回った。

 

「うぐっ」

 

 絞められたのではない。

 

 翡翠色の髪をつかんだグンヒルダが、アルマニアの襟ごと後ろへ引いただけだ。

 

 足元では、欠けた石の下を細い水が流れていた。

 

「前を見るなら、自分の足元は誰が見るんだい?」

 

「ニンに——」

 

 右肩を見る。

 

 ニンは後ろを向いている。

 

「……僕です」

 

「よろしい」

 

 三つ編みが離れた。

 

 アルマニアはギンとのつながりを弱める。

 

 前はギン。

 

 後ろはニン。

 

 足元は自分。

 

 三人で一つでも、誰かが見ているつもりになれば、誰も見ていない場所ができる。

 

 それからは、十歩進むたびに役割を確かめた。

 

 曲がり角。

 

 天井のひび。

 

 水路へ落ちた枝。

 

 どれも水を止めた原因ではない。

 

 それでも白墨で印をつけ、帰りにもう一度確かめられるようにした。

 

 やがて、前方から低い音が聞こえ始めた。

 

 水の音だった。

 

 流れてくる音ではない。

 

 石の向こうで押し合い、出口を探しているような、重くくぐもった音だった。

 

     ◇

 

 水門は、点検室の奥で閉じていた。

 

 厚い石板が水路を塞ぎ、その向こう側から水が細い隙間を抜けている。

 

 右の壁には、両手で回す鉄の輪。

 

 その下には、鍵のついた点検板があった。

 

「あたしが開ける。アルマニアは周りを見な」

 

「はい」

 

 グンヒルダは長柄戦槌を点検室の入口へ置いた。

 

 倒れないことを確かめ、工具袋を点検板の前へ広げる。

 

 アルマニアは、すぐにギンとニンへ意識をつながなかった。

 

 まず、自分の目で部屋を見る。

 

 天井には、太い鎖が通っている。

 

 鉄の輪から壁の内側へ入り、二つの滑車を経て、水門の上へ下りていた。

 

 床は、入口側へわずかに傾いている。

 

 隅には小さな排水口があるが、泥と細い根に埋まっていた。

 

 壁には、アルマニアの腰ほどの高さまで白い筋が残っている。

 

「ここまで水が来たことがあります」

 

「見れば分かるね」

 

「水門を動かした時でしょうか?」

 

「それを、今から調べるんだよ」

 

 かちり、と小さな音がした。

 

 グンヒルダが点検板の錠前へ鉤を差し入れている。

 

 アルマニアは部屋の反対側へ回った。

 

 ギンを天井近くの梁へ。

 

 ニンを入口へ残す。

 

 鎖を目で追うと、壁のくぼみに青銅の取っ手があった。

 

 人の手で引ける大きさである。

 

 その下には、汚れに埋もれた文字が刻まれていた。

 

 アルマニアは袖で泥を拭おうとした。

 

 手が、取っ手の手前で止まる。

 

 どこまでが文字で、どこからが仕掛けなのか分からない。

 

 布を取り出し、周囲だけを静かに拭った。

 

 古い下位古代語が現れる。

 

「急……放……」

 

 読める部分は二つだけだった。

 

 緊急放水かもしれない。

 

 急速開放かもしれない。

 

 取っ手を引けば、水門が上がる。

 

 そんな考えが浮かぶ。

 

 だが、取っ手から延びる細い鎖は、水門ではなく天井の石箱へ続いていた。

 

 アルマニアは白墨を取り出した。

 

 床に立つ自分の位置。

 

 取っ手。

 

 天井の石箱。

 

 三つを線で結ぶ。

 

「グンヒルダ。こちらを見てください」

 

「触ったかい?」

 

「触っていません」

 

 グンヒルダは鉤を抜いた。

 

 作業を途中で止め、アルマニアの印をたどる。

 

 取っ手へ顔を近づけ、文字の続きを細い刷毛で掃った。

 

「急速放泥」

 

「放泥?」

 

「上の石箱は沈砂槽だよ。水へ混じった砂や泥を溜めて、点検の時にここへ落とす」

 

 グンヒルダは、腰の高さに残る白い筋を指した。

 

「これを引いてたら、あたしたちは泥水の中だ」

 

 アルマニアは手を引っ込めた。

 

 触ってはいないのに、掌へ冷たい汗をかいていた。

 

「読めた二文字だけで、引こうとしました」

 

「でも、引かなかった」

 

「分からなかったので」

 

「なら、正解だ」

 

 グンヒルダは取っ手へ赤い布を結び、依頼書の裏へ位置と用途を書き込んだ。

 

 それから、泥に埋まった排水口を見る。

 

「アルマニア。あれを任せるよ」

 

「僕に?」

 

「開ける前の状態を残す。外した物は順番に並べる。泥を取って、水が流れるか確かめる。最後に、元へ戻す」

 

「できます」

 

 グンヒルダの濃い琥珀色の目が細くなる。

 

「やります。分からないところまで来たら、止めます」

 

「よろしい」

 

     ◇

 

 排水口の鉄格子は、二本の留め具で固定されていた。

 

 アルマニアは白墨で左右へ印をつける。

 

 留め具の向き。

 

 差し込まれていた深さ。

 

 鉄格子の上下。

 

 布を広げ、抜いた物を左から順に置いた。

 

 格子を持ち上げると、湿った泥の匂いが強くなる。

 

 穴へ手は入れない。

 

 細い鉤で根を引き出し、木片と小石を一つずつ取り除く。

 

 途中で、鉤の先が何か硬い物へ当たった。

 

 力を込めず、角度を変える。

 

 割れた陶器の破片が、泥の中から現れた。

 

 縁は鋭い。

 

 手を入れていれば、指を切っていただろう。

 

「グンヒルダ」

 

「聞いてるよ」

 

「陶器の破片がありました。穴の奥にも残っているかもしれません」

 

「今ので届く範囲だけ取りな。それより奥は、長い道具を持って出直す」

 

 全部を綺麗にしたくなる。

 

 だが、今日の目的は水を通すことだ。

 

 届かない破片を追い、腕を穴へ入れることではない。

 

 アルマニアは、鉤で触れられる範囲だけを確かめた。

 

 最後の根を抜く。

 

 溜まっていた水が、細い渦を巻いて穴へ吸い込まれた。

 

 革袋の水を少し流す。

 

 詰まらない。

 

 鉄格子を元の向きへ戻す。

 

 左右の留め具を、白墨の印と同じ深さまで差し込んだ。

 

「終わりました」

 

「何が?」

 

「排水口を開け、届く範囲の詰まりを除き、鉄格子を元へ戻しました。水が流れることも確かめました。奥には陶器の破片が残っている可能性があります」

 

「うん。任せた仕事は終わってる」

 

 グンヒルダは、それ以上手を出さなかった。

 

 点検板へ戻り、今度こそ錠前を開く。

 

 板の内側では、水門を吊る鎖が一つの滑車から外れていた。

 

 軸を留める金具が摩耗し、抜けかかっている。

 

 グンヒルダは予備の金具を削り、元の穴へ合わせた。

 

 アルマニアには、その仕事を任せなかった。

 

 彼は入口へ立ち、ニンの目で帰路を見た。

 

 ギンの目で天井の鎖を見た。

 

 自分の目で、グンヒルダの周囲と排水口を見る。

 

 やがて、鉄の輪がゆっくりと回り始めた。

 

 鎖が張る。

 

 石の水門が、重い音を立てて持ち上がった。

 

 隙間から噴き出した水が、点検室の床を走る。

 

 排水口へ泥水が集まり、渦を巻いて消えていく。

 

 白い水跡までは上がらない。

 

「下がるよ!」

 

 グンヒルダの声に従い、二人は点検室を出た。

 

 水門がさらに上がる。

 

 溜まっていた水が、解き放たれた獣のように水路を駆け抜けた。

 

 ニンの目を通して、暗い導水路の先へ青白い光が揺れる。

 

 その下を水が走り、村の方角へ消えていった。

 

     ◇

 

 丘を下りきる前に、水車の音が聞こえた。

 

 水を受けた大きな輪が、ゆっくりと回っている。

 

 水車小屋の主人が外へ飛び出し、何度も頭を下げた。

 

 グンヒルダは礼を受け取るより先に、依頼書の裏を見せる。

 

「水は戻りました。ただし、滑車の留め具は応急修理です。排水口の奥に陶器片も残っています。今季が終わる前に、長い掃除道具と交換部品を持って再点検してください」

 

「分かりました。工房へ頼みます」

 

「頼んだ日と、返事をもらった日も書き残しな。水が出てる間に忘れるのが、一番危ない」

 

 主人が真剣な顔でうなずいた。

 

 グンヒルダは、ようやく依頼完了の印をもらった。

 

「それで」

 

 王都へ戻る道で、彼女が尋ねた。

 

「今日は何を開けた?」

 

「排水口の鉄格子を一つです」

 

「水門は?」

 

「グンヒルダが直しました」

 

「壁の取っ手は?」

 

「触りませんでした」

 

「なら、よくできた」

 

「排水口を開けたことが?」

 

「それもだよ。けど、一番は触らなかったことさ」

 

 グンヒルダは足を止め、依頼書とは別の実習記録を取り出した。

 

 アルマニアの名の横へ、短い一行を書き加える。

 

「錠前も罠も、まだあんたには任せない。でも、自分で分からない場所へ印をつけて、分かる者へ渡す仕事なら任せられる」

 

「では、できる、ですか?」

 

「いいや」

 

 即答だった。

 

「ようやく入口を覚えたところだよ」

 

「やっぱり、そこからですか」

 

「不満かい?」

 

「いいえ。入口が分からなければ、中へ入れませんから」

 

「よろしい」

 

 翡翠色の三つ編みが、アルマニアの肩を軽く叩いた。

 

 ギンとニンが、その先を追って嘴を伸ばす。

 

「こら。これは持って帰れないよ」

 

 二羽から三つ編みを取り返し、グンヒルダは歩き出した。

 

 学院の記録簿には、その日、アルマニアが修めた六つ目の技能が記された。

 

 シーフ、一レベル。

 

 けれど、グンヒルダが最初に認めたのは、何かを開けた手ではなかった。

 

 分からない仕掛けの前で、触れずに止めた手だった。

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