森には、錠前がなかった。
取っ手も、蝶番も、壁に刻まれた注意書きもない。
足元へ積もった落ち葉は、踏むたびに形を変える。
昨日までなかった枝が道を塞ぎ、昨日まで渡れた小川が道をのみ込む。
誰かが作った仕掛けなら、作った目的がある。
森にあるものは、人間へ何も説明してくれない。
「では、今日の目的を答えなさい」
王都の北に広がる森の入口で、茶色い外套を着た講師が言った。
その前には、学院から参加した生徒たちが二人ずつ並んでいる。
一泊二日の野外実習。
古い炭焼き小屋の跡まで歩き、そこで一晩を過ごし、明日の昼までに学院へ戻る。
道中に置かれた三本の赤い布を見つければ評価へ加えるが、持ち帰れなくても失格にはならない。
講師は、そこまで説明してからアルマニアを指した。
「炭焼き小屋へ着くことです」
「半分です」
昨日、似たような答えを口にした。
水門を直すことではなく、水を通すこと。
ならば、今日も目的は目的地へ着くことではない。
「全員で一晩を越して、明日の昼までに戻ることです」
「よろしい。布を探すことも、地図どおりに歩くことも、そのための練習にすぎません」
講師の目が、アルマニアの左右の肩へ移った。
ギンとニンが、同じ角度で首を傾ける。
「鴉だけが先に着いても、あなたが着いたことにはなりません」
「分かっています」
「本当に?」
今度は、隣に立つグンヒルダが尋ねた。
背丈ほどある長柄戦槌を背負い、寝具と工具を詰めた荷を肩へ掛けている。
「二羽を先へ飛ばして、近道を見つけようとしていた顔だね」
「近道を見つけることは、悪くないでしょう?」
「見つけた道を、あたしたちが歩けるならね」
グンヒルダの短い指が、地図の一点を叩いた。
目的地までの道は二つある。
一つは、低い谷を流れる小川沿い。
距離は短いが、昨夜の雨で足場が悪くなっている可能性がある。
もう一つは、東の尾根を回る古い山道。
遠回りだが、地図には道がはっきりと描かれている。
「どちらを通る?」
「見てから決めます」
「何を?」
アルマニアは答えに詰まった。
道の広さ。
水の深さ。
崩れた場所がないか。
いくつか思いつくが、それだけで足りるかは分からない。
「分かりません。現地で、見るべきものから教わります」
グンヒルダが歯を見せて笑った。
「昨日より、いい答えじゃないか」
◇
ギンとニンを飛ばせば、道に迷う心配は少なかった。
ギンが木々の上から地形を見る。
ニンが少し先の曲がり角を確かめる。
アルマニア自身は、地図と方角を見ながら歩く。
三つの視界を順番に使えば、小川まで最短の道を選べる。
けれど、歩き始めて四半刻もすると、グンヒルダが足を止めた。
「アルマニア。あんたの右足に、何がついてる?」
「右足?」
靴底を見る。
黒い泥へ、細かな草の種がいくつも刺さっていた。
「泥と、種です」
「どこでついた?」
振り返る。
落ち葉の道が、木々の間へ続いている。
どこへ足を置いたかまでは覚えていない。
「分かりません」
「空から道を見るのもいいけどね。歩いてるのは、あんたの足だよ」
「先はギン、周りはニン、自分の足元は僕、ですね」
「覚えてたじゃないか」
「覚えていることと、できることは違うので」
グンヒルダは満足そうにうなずいた。
それから二人は、見つけたものを口にしながら歩いた。
倒れたばかりの若木。
樹皮へ残る獣の爪痕。
水を含んで柔らかくなった斜面。
人の靴跡。
グンヒルダは傷や折れ目を見ることに慣れていた。
枝が古く折れたものか、新しく折れたものか。
道へ落ちた鉄片が、荷車の部品か、道具の欠片か。
そうしたことなら、アルマニアより早く見分ける。
だが、獣の足跡が何日前のものか尋ねると、彼女も首をひねった。
「あたしは、鉄と石なら仕事にしてる。でも、森の全部を知ってるわけじゃないよ」
「グンヒルダにも、分からないんですね」
「当たり前だろ。分からないことを数えられない職人が、一番危ないんだ」
彼女は足跡を踏まないように避けた。
「だから、今日は一緒に覚えるのさ」
◇
昼前に、二人は小川へ着いた。
谷の底を縫うように、細い水が流れている。
膝より低い石を選べば、向こう岸へ渡れそうだった。
地図に記された道は、そのまま川沿いを上っている。
「思ったより、水が少ないですね」
昨夜は王都でも強い雨が降った。
道が水没していることまで考えていたが、この深さなら川原を歩ける。
尾根を回るより、ずっと早い。
グンヒルダは、長柄戦槌の石突きを川底へ入れた。
泥の深さを確かめ、次に流れの強さを見る。
「足は取られなさそうだね」
「では、こちらから行きましょう」
川原へ下りようとして、アルマニアは足を止めた。
水辺の低い枝へ、枯れ草が絡みついている。
自分の腰に近い高さだった。
「どうした?」
「ここまで、水が来ています」
「昨夜の雨だろ」
「それなら、どうして今はこんなに少ないんでしょう」
雨がやんでから、すでに半日は過ぎている。
水が引いたとしても不思議ではない。
それでも、何かが気になった。
アルマニアは川原へ下りず、その場へしゃがんだ。
枝に絡んだ枯れ草は、まだ湿っている。
水際の泥には、小さな蹄の跡がいくつも残っていた。
川へ下りた跡ではない。
斜面の上へ向かい、同じ方向へ重なっている。
水面では、泡が一つ流れてきた。
それを目で追う。
次の泡は来ない。
先ほどより、石へ当たる水音が小さくなっている。
「水が、減っています」
グンヒルダも川へ目を向けた。
「見てる間にも?」
「はい」
風が谷の上から吹いた。
湿った土と、青い葉をすり潰したような匂いがする。
どこか遠くで、小石が一つ転がった。
それまで鳴いていた小鳥の声が、いつの間にか聞こえなくなっている。
アルマニアは地図を開いた。
小川は、北西の山腹から流れ込んでいる。
ギンが上空で見た方角には、雨雲がまだ残っていた。
上流で雨が続いているのに、下流の水が減っている。
水が消えたのではない。
どこかで止められている。
「ギン。上流を見てください」
肩から一羽が飛び立った。
黒い翼が、谷の上へ消えていく。
「ニンは?」
「ここに残します」
「二羽で見た方が早いだろ」
「僕たちの周りを見る目がなくなります」
アルマニアは、自分の目を閉じなかった。
ギンとのつながりを強めながらも、片方の意識は川と斜面へ残す。
木々の上を飛ぶ感覚。
谷が細くなり、流れが曲がる。
その先で、茶色い水面が不自然に広がっていた。
折れた木。
崩れた土。
絡み合った根。
それらが谷を塞ぎ、濁った水を溜めている。
倒木の隙間から、細い水が噴き出した。
土の壁が、わずかに動く。
アルマニアはギンの目を離した。
「上へ行きます」
「崩れそうなのかい?」
「もう崩れ始めています」
「荷物は?」
「持てる分だけです。川原から離れてください」
グンヒルダは問い返さなかった。
工具袋を身体の前へ回し、長柄戦槌を両手で持つ。
二人は川へ背を向け、東側の斜面へ登り始めた。
土が濡れている。
一歩踏むたびに、靴の下から小石が落ちた。
グンヒルダは戦槌の嘴を地面へ打ち込み、柄を支えに身体を引き上げる。
アルマニアは先へ出て、根の張った場所を探した。
「右は柔らかいです。こちらへ」
「ニンを先へ出しな」
「ニンは後ろを見ています」
振り返れば、小川はまだ細い。
何も起きていないように見える。
その静けさが、かえって恐ろしかった。
「もう少し上です」
グンヒルダが登りきるのを待つ。
その背を追い、アルマニアも太い木の根へ手を掛けた。
低い音がした。
岩を引きずるような音。
谷の奥から迫り、足元の土を震わせる。
「伏せて!」
二人は木の幹へ身体を寄せた。
次の瞬間、濁った水が谷を曲がってきた。
最初に見えたのは、白い泡だった。
その後ろから、枝と泥と石を巻き込んだ水が川原へあふれる。
先ほどまで二人が立っていた場所をのみ込み、膝ほどの岩を転がしながら下流へ走っていった。
古い道標が倒れる。
赤い布を結んだ杭が一本、水へさらわれた。
水音は、しばらく会話もできないほど続いた。
◇
「あれも、実習で用意したのかい?」
水が落ち着いてから、グンヒルダが尋ねた。
問いかけられた講師は、炭焼き小屋跡の焚き火へ薪を一本加えた。
「まさか。生徒を流す実習など認められません」
二人は小川沿いの道を諦め、そのまま東の尾根へ登った。
泥で重くなった靴のまま遠回りし、野営地へ着いた頃には日が傾いていた。
先に着いた生徒たちは、すでに天幕を張り始めている。
講師は二人の報告を最後まで聞くと、アルマニアへ尋ねた。
「倒木を見つけたから、斜面へ上がったのですか?」
「いいえ。ギンを飛ばす前に、上がるつもりでした」
「なぜ?」
「昨夜の水跡がまだ濡れているのに、流れが減っていました。上流には雨雲が残っています。獣の足跡も、川から斜面へ向かっていました」
「鳥が鳴きやんだことは?」
「気づきました。でも、それだけなら猛禽か、人が近づいたせいかもしれません」
「土の匂いは?」
「崩れた場所が近くにあると思いました」
講師は、もう一度尋ねた。
「では、ギンに何を確かめさせたのです?」
「逃げるかどうかではありません。どちら側へ、どこまで上がればよいかです」
逃げると決めるために、答えが揃うのを待ったわけではない。
正体を確かめるため上流へ近づけば、間に合わなかったかもしれない。
講師は実習記録を開いた。
「人が作った罠には、仕掛けた者の都合があります。動かす場所があり、狙う場所があり、作った痕跡がある」
筆先が、紙の上を動く。
「ですが、野外の危険は、正体を名乗ってはくれません。崩落、増水、獣の縄張り、風向きの変化。違和感を拾い、まだ見えていないものを考える。それが、レンジャーの危険感知です」
グンヒルダが腕を組んだ。
「今日は、あたしが周りを見る番だったんだけどね」
「先に気づいたのはアルマニアでした」
「分かってるよ」
彼女はアルマニアの肩へ、翡翠色の三つ編みを軽く載せた。
「だから、任せたのさ。あたしが水の仕掛けを直せても、山の水まで止められるわけじゃない」
「途中で質問しませんでしたね」
「質問してる間に流されたくないからね。あんたが止まれと言ったなら、止まる。上がれと言ったなら、上がる。今日は、それがあたしの分担だった」
グンヒルダは三つ編みを引き戻した。
「次も任せられるかは、次の仕事を見てからだけどね」
「そこは、やはり一度では駄目ですか」
「当たり前だろ」
講師が記録簿を閉じた。
「話は終わりです。野営地へ着いたことは、実習の半分にすぎません」
周囲では、日が沈む前に火を起こそうと、生徒たちが薪を運んでいる。
天幕。
水。
食事。
夜の見張り。
明日の帰路。
まだ、やるべきことはいくつも残っていた。
「今夜を越し、全員で戻るまでが実習です。まず、自分たちの寝床を作りなさい」
「はい」
「聞いたかい、アルマニア。新しいことを覚える前に、今夜寝る場所を作るよ」
アルマニアは、開かれた実習記録へ視線を落とした。
自分の名の横へ、新しい一行が書き加えられている。
レンジャー、一レベル。
七つ目の技能は、森のすべてを知るためのものではなかった。
誰も仕掛けていない危険が、姿を見せる前に立ち止まるための技能だった。