野営地へ着けば、休めるわけではなかった。
眠るためには、眠る場所を作らなければならない。
食べるためには、火を起こし、水を沸かさなければならない。
朝まで火を残すなら、夜の分まで薪を集める必要がある。
森で一晩を越す仕事は、日が沈んでから始まるのではない。
日のあるうちに、どれだけ夜の支度を終えられるかで決まる。
「どこへ張る?」
グンヒルダが、畳んだ天幕を地面へ下ろした。
炭焼き小屋は、屋根も壁も半分以上崩れている。
残った壁を風除けには使えるが、傾いた梁の下で眠る気にはなれなかった。
周囲では、先着した生徒たちが平らな場所から順に使っている。
アルマニアは空いた場所を見回した。
「あそこが平らです」
「本当に?」
指した先には、落ち葉の積もった浅い窪地がある。
石も根も少なく、横になるには具合がよさそうだった。
だが、グンヒルダは天幕を持ち上げようとしない。
アルマニアは窪地の周囲を見た。
雨水が流れ込んだ細い筋が、斜面からいくつも集まっている。
「雨が降れば、水が溜まります」
「今夜は降らないかもしれないよ」
「降らないと決められるほど、僕は空を読めません」
「なら、別を探しな」
二人は炭焼き小屋の横を回った。
少し高くなった場所に、太い樹が一本立っている。
地面は乾き、風も小屋の残骸が弱めていた。
アルマニアは頭上を見上げた。
枯れた枝が一本、途中で折れたまま引っかかっている。
「ここも駄目です」
「平らで、乾いてて、上から何も落ちてこない場所。全部揃うまで探すつもりかい?」
「揃わないなら、どの危険を減らせるか考えます」
アルマニアは樹から離れ、小屋の風下側へ回った。
わずかに傾いているが、水は低い方へ抜ける。
頭上に枝はない。
崩れた壁からも距離がある。
「ここにします。頭を高い側へ向ければ、寝られます」
「よし。あたしは支柱を見る。アルマニアは地面をならして、周りの石を退けな」
「天幕も張れます」
「二人で同じ綱を持ったって、仕事は二倍にならないよ」
グンヒルダは荷から支柱を抜き、曲がりと割れを確かめ始めた。
アルマニアも口を閉じ、枯れ枝と尖った石を拾う。
ギンとニンには、野営地の外周を一度だけ回らせた。
遠くへは出さない。
二羽の目を借りている間にも、日は沈んでいく。
いま必要なのは、森のすべてを見ることではなかった。
今夜、自分たちが眠る場所を仕上げることだった。
◇
天幕を張り終えた頃には、空の青がほとんど消えていた。
中央の焚き火では、大鍋が湯気を立てている。
干し肉と豆、刻んだ根菜を煮ただけのものだったが、泥だらけの身体には王宮の御馳走よりありがたかった。
アルマニアとグンヒルダは、木椀を抱えて火の近くへ座った。
濡れた靴は、火へ近づけすぎない場所に並べてある。
ギンとニンは二人の間へ降り、干し肉をねだって嘴を鳴らした。
「塩が強いので、駄目です」
二羽が同時にグンヒルダを見た。
「あたしを見ても駄目だよ」
今度は大鍋を見る。
「あれも駄目だ」
双鴉は相談するように顔を寄せ、揃ってアルマニアへ背を向けた。
「どうして僕だけ嫌われるんでしょう」
「一番、押しに弱いからだろ」
グンヒルダは笑ったが、すぐに大きな欠伸をした。
他の生徒たちも似たようなものだった。
食事が済むと、話し声は途切れた。
朝から歩き、薪を拾い、天幕を張った身体は重い。
小川の増水を知らされた者たちは、暗い森から水音が聞こえるたび、そちらへ顔を向けた。
全員が無事に着いた。
危険は過ぎた。
そう分かっていても、肩へ入った力が抜けていない。
「ずいぶん静かだね」
グンヒルダが、椀の底に残った豆を匙ですくった。
「疲れているんですよ」
「疲れた時に黙り込むと、もっと疲れることもあるよ」
「では、何か話しますか?」
「あんたの古代語魔法の講義はお断りだ」
「まだ何も言っていません」
「顔が言ってた」
中央の火へ、乾いた薪が一本加えられた。
火の粉が夜空へ舞う。
茶色い外套の講師が大鍋の横へ座り、小さな竪琴を膝へ載せた。
昼間は荷の奥にしまわれていたものだった。
傷の多い木枠。
飾り気のない弦。
野外へ持ち出し、何度も直しながら使われてきた楽器だった。
「寝る前に、一曲だけ教えます」
伏せかけていた顔が、いくつか上がった。
「森で歌うと、獣を遠ざけられるのですか?」
一人の生徒が尋ねる。
講師は弦を確かめながら答えた。
「遠ざかる獣も、近づく獣もいます。人にも聞こえます。こちらの耳は、歌っている間、周囲の小さな音を拾いにくくなる」
「では、歌わない方がよいのでは?」
「時と場所によります。知らない森を歩きながら歌うのは勧めません。夜の見張りが全員で合唱するのも論外です」
弦が一度、短く鳴った。
「ですが、ここは全員で周囲を確かめ、火を焚き、見張りも決めた野営地です。そして、みな疲れている。食器を洗う手も、明日の荷をまとめる手も止まりかけている」
もう一度、音が鳴る。
今度は、最初の音へ二つ目の音が重なった。
「歌は、敵を倒すためだけのものではありません。ばらばらになった呼吸を、一つへ戻す道具にもなります」
簡単な旋律だった。
四つの音が上がり、四つの音が下りてくる。
一度聞けば、口ずさめそうに思える。
講師が短い歌詞を乗せた。
長い道を歩き、靴へ泥が入り、腹を空かせた旅人が、ようやく火と鍋へたどり着く歌だった。
巧みな英雄も、恐ろしい怪物も出てこない。
歌の中の旅人は、濡れた薪へ悪態をつき、煮えない豆を睨み、最後には鍋の底を焦がした。
焚き火の周りから、小さな笑いが起きた。
二度目は、何人かが一緒に歌った。
三度目には、グンヒルダが木椀の底を指で叩き始めた。
とん、ととん。
とん、ととん。
「少し遅くありませんか?」
「泥の中を歩いた足に合わせてるのさ」
アルマニアも膝を叩いた。
グンヒルダの刻む拍子へ合わせる。
初めは半拍ずれた。
次は、音ばかり追って歌詞を間違えた。
三度目には、椀を洗っていた生徒の手が、同じ速さで動いていることに気づいた。
薪を運ぶ足音も重なっている。
歌へ合わせているのではない。
皆が無理なく動ける速さが、歌になっていた。
アルマニアは、自分の膝を叩く手を少し弱めた。
前へ出すぎれば、周りの声が聞こえなくなる。
音を外した者がいれば、次の節を急がない。
息の続かない者がいれば、言葉を短くする。
ギンとニンが、最後の一音だけを真似て鳴いた。
歌声の中へ、二羽分の濁った声が混じる。
皆が笑い、旋律が崩れた。
けれど、止まらなかった。
「立ちな、アルマニア」
グンヒルダが椀を置いた。
「なぜです?」
「足で拍子を取った方が、温まるよ」
彼女は焚き火から十分に離れた場所へ出た。
右の踵を落とす。
左の爪先を鳴らす。
二度踏み、半歩下がり、身体の向きを変える。
速い踊りではない。
低い重心を崩さず、細い身体の中で足、腰、背中を一つにつなぐ、力強い足運びだった。
「工房でやるんですか?」
「宴会でね。親方に見つかると、作業場で跳ねるなって叱られるけど」
「跳ねていませんね」
「そこかい?」
グンヒルダが、アルマニアの手首をつかんだ。
「右。左。二つ踏んで、戻る」
アルマニアは一歩目で間違えた。
二歩目で、グンヒルダの足を踏みかけた。
三歩目には向きを変えすぎ、焚き火へ近づいて外套を引かれた。
「剣の足運びとは違います」
「当たり前だろ。踊りで相手を殴る気かい?」
「槌を振る時の足には、少し似ています」
「よく見てるじゃないか。なら、今度は歌いながらだ」
「急に難しくなりました」
「新しいことが好きなんだろ?」
言い返せなかった。
アルマニアは、もう一度右足を出した。
歌う。
踏む。
隣の声を聞く。
戻る。
初めは、自分の足だけで精いっぱいだった。
やがて、グンヒルダが次にどちらへ動くか分かるようになった。
他の生徒が一人、二人と輪へ加わる。
上手に踊る者はいない。
足を間違えれば笑い、歌詞を忘れれば誰かが続きを教えた。
講師の竪琴が、途中で止まった。
アルマニアは気づかなかった。
自分の声だけを聞いていなかったからだ。
低い声。
高い声。
息の切れた声。
羽ばたきと、嘴の鳴る音。
椀を洗う水音。
それらが離れそうになるたび、アルマニアは歌の速さを変えた。
言葉を一つ繰り返し、足が揃うのを待った。
皆が戻れば、次の節へ進んだ。
気づけば、食器は洗い終わっていた。
薪は雨除けの布の下へ積まれ、朝の水も汲まれている。
泥に沈んでいた顔が上がり、焚き火の周りへ話し声が戻っていた。
講師が両手を一度叩いた。
「そこまで。森が、こちらの歌を覚える前に終えましょう」
歌が止まる。
最後まで残った足音が、二つ。
グンヒルダとアルマニアが、同時にもう一歩だけ踏んだ。
顔を見合わせる。
「あんたが止めなかったからだよ」
「グンヒルダも止まりませんでした」
「なら、二人とも悪いね」
◇
見張りの順番を確かめ、火の周囲から余分な薪を離す。
歌の時間が終われば、夜の音を聞く時間だった。
先ほどまでの賑わいが嘘のように、森のざわめきが戻ってくる。
講師は竪琴を布で包みながら、アルマニアを呼んだ。
「何をしていました?」
「歌って、踊っていました」
「それだけですか?」
アルマニアは、焚き火の周りを見た。
笑いながら天幕へ戻る生徒。
乾いた椀。
積まれた薪。
眠る前に飲む湯を分けている者たち。
「皆の息を聞いていました。疲れて遅くなれば待って、揃ったら先へ進みました」
「自分の歌を聞かせようとは?」
「考えていませんでした」
「それでよろしい」
講師は実習記録を開いた。
「よい吟遊詩人が、必ず一番大きな声で歌うとは限りません。自分の歌へ皆を従わせる者とも限らない」
筆が、アルマニアの名の横へ触れる。
「声を出せなくなった者を見つけ、もう一度、輪へ戻せる者です」
短い一行が書き加えられた。
「ただし、今夜あなたが歌ったものは呪歌ではありません。魔力もなく、敵を眠らせることも、死者を鎮めることもできない」
「はい」
「一晩で覚えたのは、入口だけです」
「それも、分かっています」
「ずいぶん聞き分けがよくなったじゃないか」
後ろから実習記録をのぞき込んだグンヒルダが言った。
アルマニアは振り返った。
「グンヒルダのおかげです」
「あたしは踊っただけだよ」
「何度間違えても、足を止めずにいてくれました」
「間違えたまま、あたしの足を踏まれてたまるか」
彼女は記録へ目を戻した。
そこへ書かれた技能名を読み、濃い琥珀色の目を細める。
「これで、いくつ目だい?」
「八つ目です」
翡翠色の三つ編みが持ち上がった。
アルマニアの首へ、柔らかく一周する。
「全部、任せられるって?」
「いいえ。八つの入口を覚えました」
三つ編みの輪が、少しだけ緩んだ。
「よろしい」
「でも、いつか全部——」
輪が元の位置へ戻った。
「いま言わなくていい」
講師が笑いをこらえながら、記録簿を閉じた。
その夜、アルマニアが修めた八つ目の技能が記された。
バード、一レベル。
それは、世界を動かす呪歌から始まった技能ではなかった。
疲れて止まりかけた誰かの足へ、もう一歩だけ進む拍子を渡すための歌だった。
◇
見張りを終え、アルマニアは天幕へ潜り込んだ。
ギンとニンが、丸めた外套の上で互いへ身体を寄せる。
隣では、グンヒルダが毛布へ入るなり寝息を立て始めた。
焚き火の弾ける音が、布越しに聞こえる。
アルマニアも目を閉じた。
眠りへ落ちる直前、火のそばで聞いた四つの音を思い出す。
四つ上がり、四つ下りる。
誰でも歌える、短い旋律。
その続きを探すうち、音が一つ増えた。
竪琴ではない。
聞いたことのない弦が、夢の奥で鳴っている。
一つは、深く静かだった。
眠れない死者へ、土の冷たさを思い出させるような音。
もう一つは、あまりにも遠かった。
空も、大地も、神々が定めた形さえ、まだ名前を持たなかった頃から届くような音。
二つの旋律の向こうで、誰かが笑った。
アルマニアは、その声の主をまだ知らなかった。