二つの旋律の向こうで、誰かが笑った。
焚き火の弾ける音が遠ざかる。
天幕の布を揺らしていた夜風も、グンヒルダの寝息も消えた。
アルマニアは目を開いた。
足元には、底のない水が広がっている。
星も月も映さない、黒い水。
双鴉の泉から救い出されたあと、ギンギルとニンギルに出会った夢と同じ場所だった。
今夜は二羽の大鴉に代わり、闇の中へ二本の弦が張られていた。
一方は、アルマニアの足元から暗い水の底へ沈んでいる。
深く、静かな弦。
もう一方は、頭上の闇を貫き、見えないほど遠くへ伸びていた。
あまりにも古く、近くにあるのか遠くにあるのかさえ分からない弦。
「どちらから歌う?」
声が降ってきた。
アルマニアが見上げる。
闇だと思っていたものが動いた。
山のように巨大な翼が開く。
一枚一枚の羽根は夜より黒く、その縁には過ぎ去った星の光が青白く残っていた。
二本の弦を両脚で押さえ、巨大な鴉がアルマニアを見下ろしている。
「歌うとは言っていません」
「ほう」
大鴉が首を傾けた。
「バードになったばかりの人の子が、聞いたこともない歌を前にして、歌わぬと?」
「何の歌か分かりません。誰が弾いているかも、さっきまで知りませんでした」
「いまは知っているのか?」
アルマニアは、その姿を見上げた。
「運命と時間を司る神獣。凶兆の大鴉、アルケナ」
「我が眷属は、ずいぶんと我のことを吹聴したらしい」
「言いたいことだけ言って、飛んでいきました」
「我によく似た者どもよ」
アルケナは喉の奥で笑った。
「では、問いを変えよう。人の子アルマニアよ。どちらから聞く?」
アルマニアは二本の弦を見た。
深く静かな音。
遠く古い音。
どちらにも、続きを知りたいという思いはある。
けれど、同じものには思えなかった。
「静かな方から」
「なぜだ?」
「誰かが、眠れずにいる音だからです」
アルケナの爪が、足元へ沈む弦を弾いた。
低い音が、水の底へ落ちていく。
波紋が広がった。
波紋の中から、幾つもの人影が立ち上がる。
折れた槍を握る兵士。
空の籠を抱えた老人。
泥まみれの外套をまとった旅人。
誰もアルマニアを見ていない。
歩こうとして、同じ場所へ戻る。
何かを探して水へ手を伸ばし、何もつかめず、また同じ動きを繰り返していた。
「死者……?」
「死したことを忘れた者」
アルケナが、もう一度弦を鳴らす。
今度は二つの音が続いた。
高くはない。
強くもない。
地面へ伏せた耳で、遠い鐘を聞くような旋律だった。
「続けよ」
「一度しか聞いていません」
「昨夜も、一度目はそうであった」
火を囲んだ歌を思い出す。
四つ上がり、四つ下りる。
あの時は隣に声があった。
息が切れれば待ち、足が止まれば速さを落とせた。
目の前にいる者たちは、息をしていない。
足音さえ、水面へ残らない。
「何を聞けばいいんです?」
「生きた者の声がなければ、歌えぬか?」
答えを待たず、アルケナが三つ目の音を鳴らした。
アルマニアは口を開いた。
聞いた音を、そのまま追う。
最初の人影が顔を上げた。
だが、声を強くした途端、影は身をよじり、再び同じ場所を歩き始めた。
「違う」
アルマニアは歌を止めた。
「何が違う?」
「僕の歌を聞かせようとしました」
焚き火のそばで、講師に問われたことを思い出す。
自分の歌へ皆を従わせる者が、よい吟遊詩人とは限らない。
声を出せなくなった者を見つけ、もう一度、輪へ戻す。
けれど、死者を生者の輪へ戻してはならない。
彼らが戻るべき場所は、こちらではなかった。
アルマニアは、足元の水へ手を触れた。
冷たい。
その下には、さらに冷たい土がある。
土の奥には、風も雨も届かない静けさがある。
歩き続ける必要も、失くしたものを探す必要もない場所。
アルマニアは、もう一度歌った。
今度は人影を振り向かせようとしない。
土の静けさを思い出せるよう、低く、ゆっくりと音を下ろしていく。
折れた槍を握っていた指が開いた。
空の籠が、水面へ置かれる。
旅人は、初めて外套の泥を払うことをやめた。
一人ずつ、その場へ横たわる。
黒い水が、眠る者たちを静かに受け入れた。
最後の人影が消えるまで、アルマニアは歌を止めなかった。
旋律が終わる。
「レクイエム」
アルケナが、その名を告げた。
「眠りを忘れた死者へ、終わった時を思い出させる歌」
「この歌で、すべてのアンデッドを鎮められるんですか?」
「知らぬ」
「またですか」
「歌を聞かぬ者もいよう。眠ることを拒む者もいよう。歌い手の声が届かぬこともあろう」
巨大な嘴が、わずかに開く。
「一つ覚えたからと、すべてへ任せられると思うな」
「グンヒルダと同じことを言いますね」
「あれは、よい職人になる」
アルケナが翼をたたんだ。
足元へ沈んでいた弦から爪を離す。
死者を眠らせた音が消えた。
残ったのは、頭上の彼方へ伸びる一本だけだった。
「次だ」
古い弦が鳴った。
アルマニアは、息を吸った。
歌いかけて、口を閉じる。
たった一つの音で、水面から色が消えた。
黒ではない。
黒と呼ぶための名さえない、何かへ変わっていく。
足元にあるものが水だったことを、思い出せなくなった。
冷たさと温かさの境がなくなる。
上と下がほどける。
自分の手がどこまでで、その向こうがどこから始まるのか分からない。
ギン。
ニン。
グンヒルダ。
眠る仲間たちの名が、一つずつ遠ざかっていく。
名を失えば、呼び戻すこともできない。
「止めてください!」
アルケナの爪は、すでに弦から離れていた。
それでも、旋律は止まらなかった。
アルマニアの中で続いている。
次の音が分かる。
その次も。
どこで息を継ぎ、どこへ声を重ねればよいのか、すべて知っていた。
最後まで聞いてさえいないのに、旋律は初めから自分の中にあったように、完全な形で刻まれている。
「歌え」
アルケナが言った。
アルマニアは両手で口を塞いだ。
「歌いません」
「知りたいのであろう?」
「知りたいです」
「できることは、すべて試したいのであろう?」
「試したいです」
喉の奥で、最初の音が震えている。
声にすれば、その先が続く。
続けられる。
だから、歌わない。
「でも、戻せるか分かりません」
黒でも白でもなかった水へ、少しずつ色が戻った。
上と下が分かれる。
自分の手が見える。
忘れかけていた名が、一つずつ胸へ帰ってきた。
アルケナが、満足そうに翼を広げた。
「よろしい」
「試したんですか?」
「聞かせただけだ」
「歌えと言いました」
「我が言葉へ従うかどうかは、そなたが選ぶことよ」
アルマニアは口から手を離した。
旋律は消えていない。
歌わなくても、忘れることはできなかった。
「これは、何という歌です?」
「名は失われた」
「誰が作ったんです?」
「作られたのか、見つけられたのか。それを知る者も、いまはおらぬ」
「何が起きる歌なんです?」
「そなたは、いま見た」
「本当に世界が、ああなるんですか?」
「知らぬ」
アルマニアは大きく息を吐いた。
「何も分からない歌を、どうして僕に教えたんです?」
「知らぬ凶兆には、抗えぬからだ」
アルケナの声から、笑いが消えた。
「いつか、どこかで、別の口がこの歌を始めるかもしれぬ。その時、誰も知らなければ、それが歌であることにさえ気づけぬ」
「僕に止めろと?」
「そなたがその場に立つとは限らぬ。ならば、知ったことを誰へ託すか選べ」
巨大な翼が、夢の空を覆う。
「凶兆とは、災いを起こすために告げるものではない。避け、備え、抗う余地を残すために告げるものだ」
アルマニアは、二つの旋律を胸の中で確かめた。
一つは、死者を眠りへ送る歌。
もう一つは、決して声にしてはならない歌。
「あなたは、僕に何をさせたいんです?」
「我が眷属どもが、すでに告げたであろう」
アルケナの嘴が近づいた。
「示せ。限りある人の身に、どれほど無限の可能性が宿るのかを」
「そのために、危険な歌まで必要なんですか?」
「無限の可能性とは、できることを増やすだけではない」
巨大な嘴が、アルマニアの額へ触れる。
「できることを、選んで行わぬ意志もまた、人の可能性よ」
こつん。
夢が割れた。
◇
こつん。
こつん。
「……痛い」
目を開けると、ギンとニンが左右から額をつついていた。
天幕の中は暗い。
入口の隙間が、夜明け前の薄い青に変わり始めている。
「起きました。もう起きましたから」
二羽は顔を見合わせ、揃って外套の上へ戻った。
隣では、グンヒルダが毛布へくるまっている。
「鳥と喧嘩するなら、外でやりな……」
寝言のように呟き、また寝息を立て始めた。
アルマニアは自分の喉へ手を当てた。
二つとも覚えている。
レクイエム。
そして、名のない歌。
夢の中だけで知っていたはずの音が、目覚めたあとも一つ残らず並んでいた。
確かめたい。
本当に歌えるのか。
そう思った瞬間、古い弦の最初の音が喉へ上がってきた。
アルマニアは口を閉じた。
代わりに、もう一つの旋律を小さく口ずさむ。
深く。
静かに。
土へ帰る道を、音でなぞる。
「そこで止めなさい」
天幕の外から声がした。
アルマニアは歌を切った。
入口の布が持ち上がる。
夜番の講師が、火の消えかけた角灯を手に立っていた。
「いまの歌を、どこで覚えました?」
「夢の中です」
「夢?」
「アルケナに教わりました」
講師が、アルマニアの左右にいる双鴉を見る。
ギンとニンは、何も知らない雛のように羽根へ嘴を入れた。
「もう一度。最初から四つだけ歌えますか?」
アルマニアは頷いた。
先ほどよりも声を抑え、四つの音を順に置く。
講師の表情が変わった。
「レクイエムです」
「アルケナも、そう呼びました」
「死者や不死の怪物へ働きかける呪歌です。学院の授業なら、旋律を覚えるだけでも、まだ先になるはずですが……」
講師は途中で言葉を止めた。
この生徒について、普通ならという言葉は、すでに何度も外れている。
「夢で教わったという話を、そのまま実習記録へ書くわけにはいきません。起きている時に、由来と効果を学び直してもらいます」
「はい」
「ですが、旋律は正しい。少なくとも、私の知るレクイエムと同じものです」
毛布が動いた。
グンヒルダが、眠そうな目をこすりながら起き上がる。
「朝から、何を覚えたって?」
「呪歌を一つ」
「一つ?」
「正確には、二つです」
翡翠色の三つ編みが、毛布の中から伸びた。
アルマニアの首へ、柔らかく巻きつく。
「一晩寝るたび、新しい技能が増えるなら、次から起こしておこうか」
「技能は増えていません。歌が二つです」
「同じことだよ」
講師がアルマニアを見た。
「もう一つは?」
首の輪が、少しだけ緩む。
アルマニアは答えた。
「歌いません」
「歌えないのですか?」
「歌えます。最後まで覚えています。だから、歌いません」
講師は理由を急かさなかった。
アルマニアは夢で見たものを話した。
色が消えたこと。
上と下がほどけたこと。
人の名を思い出せなくなったこと。
アルケナでさえ、何が起きるか知らないと答えたこと。
聞き終えた講師は、角灯の火を見つめた。
「私は、そのような呪歌を知りません」
「確かめてみろとは言わないんですか?」
「止め方も分からないのでしょう? なら、歌わないことが今の正解です。実習記録へ旋律は残しません」
「後で、詳しい人に聞けますか?」
「学院へ戻ってからです。少なくとも、この野営地で試すことではありません」
グンヒルダの三つ編みが、アルマニアの首から離れた。
「錠前と同じだね」
「歌がですか?」
「開けたあと戻せないなら、触るな。仕組みが分からないなら、分からないって言って、分かる者へ渡す」
「でも、これは僕の頭の中にしかありません」
「なら、なおさら勝手に触るんじゃないよ」
グンヒルダは大きな欠伸をした。
「道具だって、持ってるだけなら人を傷つけない。使えることと、使っていいことは別さ」
アルマニアは頷いた。
「歌わないまま、調べます」
「よろしい」
「それは、覚えた、できる、任せられるの、どれです?」
「どれでもないね」
グンヒルダは即答した。
「扱えないと分かった危険物を、ひとまず動かさずに置いた。それだけだよ」
「厳しくありませんか?」
「世界がほどけるかもしれない歌に、甘い採点をしろって?」
「今のままでお願いします」
「そうしな」
講師が、入口の布を開いた。
冷たい朝の空気が天幕へ流れ込む。
「話は学院へ戻ってから続けます。いまは撤収の支度を。歌の検証より先に、全員で帰ることです」
「はい」
アルマニアは毛布を畳んだ。
グンヒルダが支柱を確かめ、ギンとニンが入口から外へ飛び出していく。
朝の野営地では、昨日と同じ旅人の歌が誰かの口から聞こえていた。
四つ上がり、四つ下りる。
アルマニアも、荷をまとめながらその歌へ加わった。
いま歌うべきなのは、こちらだった。
その朝、アルマニアが最初に覚えた呪歌は二つあった。
一つは、眠れない死者へ静かな土を思い出させるレクイエム。
もう一つは、現代の吟遊詩人が誰も知らない破滅の歌。
八つ目の技能で彼が最初に選んだのは、どちらを歌うかではなかった。
どちらを、決して歌わないかだった。