魔法戦士養成学校の万能戦士   作:駄文亭

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第13話 歌わない歌

 二つの旋律の向こうで、誰かが笑った。

 

 焚き火の弾ける音が遠ざかる。

 

 天幕の布を揺らしていた夜風も、グンヒルダの寝息も消えた。

 

 アルマニアは目を開いた。

 

 足元には、底のない水が広がっている。

 

 星も月も映さない、黒い水。

 

 双鴉の泉から救い出されたあと、ギンギルとニンギルに出会った夢と同じ場所だった。

 

 今夜は二羽の大鴉に代わり、闇の中へ二本の弦が張られていた。

 

 一方は、アルマニアの足元から暗い水の底へ沈んでいる。

 

 深く、静かな弦。

 

 もう一方は、頭上の闇を貫き、見えないほど遠くへ伸びていた。

 

 あまりにも古く、近くにあるのか遠くにあるのかさえ分からない弦。

 

「どちらから歌う?」

 

 声が降ってきた。

 

 アルマニアが見上げる。

 

 闇だと思っていたものが動いた。

 

 山のように巨大な翼が開く。

 

 一枚一枚の羽根は夜より黒く、その縁には過ぎ去った星の光が青白く残っていた。

 

 二本の弦を両脚で押さえ、巨大な鴉がアルマニアを見下ろしている。

 

「歌うとは言っていません」

 

「ほう」

 

 大鴉が首を傾けた。

 

「バードになったばかりの人の子が、聞いたこともない歌を前にして、歌わぬと?」

 

「何の歌か分かりません。誰が弾いているかも、さっきまで知りませんでした」

 

「いまは知っているのか?」

 

 アルマニアは、その姿を見上げた。

 

「運命と時間を司る神獣。凶兆の大鴉、アルケナ」

 

「我が眷属は、ずいぶんと我のことを吹聴したらしい」

 

「言いたいことだけ言って、飛んでいきました」

 

「我によく似た者どもよ」

 

 アルケナは喉の奥で笑った。

 

「では、問いを変えよう。人の子アルマニアよ。どちらから聞く?」

 

 アルマニアは二本の弦を見た。

 

 深く静かな音。

 

 遠く古い音。

 

 どちらにも、続きを知りたいという思いはある。

 

 けれど、同じものには思えなかった。

 

「静かな方から」

 

「なぜだ?」

 

「誰かが、眠れずにいる音だからです」

 

 アルケナの爪が、足元へ沈む弦を弾いた。

 

 低い音が、水の底へ落ちていく。

 

 波紋が広がった。

 

 波紋の中から、幾つもの人影が立ち上がる。

 

 折れた槍を握る兵士。

 

 空の籠を抱えた老人。

 

 泥まみれの外套をまとった旅人。

 

 誰もアルマニアを見ていない。

 

 歩こうとして、同じ場所へ戻る。

 

 何かを探して水へ手を伸ばし、何もつかめず、また同じ動きを繰り返していた。

 

「死者……?」

 

「死したことを忘れた者」

 

 アルケナが、もう一度弦を鳴らす。

 

 今度は二つの音が続いた。

 

 高くはない。

 

 強くもない。

 

 地面へ伏せた耳で、遠い鐘を聞くような旋律だった。

 

「続けよ」

 

「一度しか聞いていません」

 

「昨夜も、一度目はそうであった」

 

 火を囲んだ歌を思い出す。

 

 四つ上がり、四つ下りる。

 

 あの時は隣に声があった。

 

 息が切れれば待ち、足が止まれば速さを落とせた。

 

 目の前にいる者たちは、息をしていない。

 

 足音さえ、水面へ残らない。

 

「何を聞けばいいんです?」

 

「生きた者の声がなければ、歌えぬか?」

 

 答えを待たず、アルケナが三つ目の音を鳴らした。

 

 アルマニアは口を開いた。

 

 聞いた音を、そのまま追う。

 

 最初の人影が顔を上げた。

 

 だが、声を強くした途端、影は身をよじり、再び同じ場所を歩き始めた。

 

「違う」

 

 アルマニアは歌を止めた。

 

「何が違う?」

 

「僕の歌を聞かせようとしました」

 

 焚き火のそばで、講師に問われたことを思い出す。

 

 自分の歌へ皆を従わせる者が、よい吟遊詩人とは限らない。

 

 声を出せなくなった者を見つけ、もう一度、輪へ戻す。

 

 けれど、死者を生者の輪へ戻してはならない。

 

 彼らが戻るべき場所は、こちらではなかった。

 

 アルマニアは、足元の水へ手を触れた。

 

 冷たい。

 

 その下には、さらに冷たい土がある。

 

 土の奥には、風も雨も届かない静けさがある。

 

 歩き続ける必要も、失くしたものを探す必要もない場所。

 

 アルマニアは、もう一度歌った。

 

 今度は人影を振り向かせようとしない。

 

 土の静けさを思い出せるよう、低く、ゆっくりと音を下ろしていく。

 

 折れた槍を握っていた指が開いた。

 

 空の籠が、水面へ置かれる。

 

 旅人は、初めて外套の泥を払うことをやめた。

 

 一人ずつ、その場へ横たわる。

 

 黒い水が、眠る者たちを静かに受け入れた。

 

 最後の人影が消えるまで、アルマニアは歌を止めなかった。

 

 旋律が終わる。

 

「レクイエム」

 

 アルケナが、その名を告げた。

 

「眠りを忘れた死者へ、終わった時を思い出させる歌」

 

「この歌で、すべてのアンデッドを鎮められるんですか?」

 

「知らぬ」

 

「またですか」

 

「歌を聞かぬ者もいよう。眠ることを拒む者もいよう。歌い手の声が届かぬこともあろう」

 

 巨大な嘴が、わずかに開く。

 

「一つ覚えたからと、すべてへ任せられると思うな」

 

「グンヒルダと同じことを言いますね」

 

「あれは、よい職人になる」

 

 アルケナが翼をたたんだ。

 

 足元へ沈んでいた弦から爪を離す。

 

 死者を眠らせた音が消えた。

 

 残ったのは、頭上の彼方へ伸びる一本だけだった。

 

「次だ」

 

 古い弦が鳴った。

 

 アルマニアは、息を吸った。

 

 歌いかけて、口を閉じる。

 

 たった一つの音で、水面から色が消えた。

 

 黒ではない。

 

 黒と呼ぶための名さえない、何かへ変わっていく。

 

 足元にあるものが水だったことを、思い出せなくなった。

 

 冷たさと温かさの境がなくなる。

 

 上と下がほどける。

 

 自分の手がどこまでで、その向こうがどこから始まるのか分からない。

 

 ギン。

 

 ニン。

 

 グンヒルダ。

 

 眠る仲間たちの名が、一つずつ遠ざかっていく。

 

 名を失えば、呼び戻すこともできない。

 

「止めてください!」

 

 アルケナの爪は、すでに弦から離れていた。

 

 それでも、旋律は止まらなかった。

 

 アルマニアの中で続いている。

 

 次の音が分かる。

 

 その次も。

 

 どこで息を継ぎ、どこへ声を重ねればよいのか、すべて知っていた。

 

 最後まで聞いてさえいないのに、旋律は初めから自分の中にあったように、完全な形で刻まれている。

 

「歌え」

 

 アルケナが言った。

 

 アルマニアは両手で口を塞いだ。

 

「歌いません」

 

「知りたいのであろう?」

 

「知りたいです」

 

「できることは、すべて試したいのであろう?」

 

「試したいです」

 

 喉の奥で、最初の音が震えている。

 

 声にすれば、その先が続く。

 

 続けられる。

 

 だから、歌わない。

 

「でも、戻せるか分かりません」

 

 黒でも白でもなかった水へ、少しずつ色が戻った。

 

 上と下が分かれる。

 

 自分の手が見える。

 

 忘れかけていた名が、一つずつ胸へ帰ってきた。

 

 アルケナが、満足そうに翼を広げた。

 

「よろしい」

 

「試したんですか?」

 

「聞かせただけだ」

 

「歌えと言いました」

 

「我が言葉へ従うかどうかは、そなたが選ぶことよ」

 

 アルマニアは口から手を離した。

 

 旋律は消えていない。

 

 歌わなくても、忘れることはできなかった。

 

「これは、何という歌です?」

 

「名は失われた」

 

「誰が作ったんです?」

 

「作られたのか、見つけられたのか。それを知る者も、いまはおらぬ」

 

「何が起きる歌なんです?」

 

「そなたは、いま見た」

 

「本当に世界が、ああなるんですか?」

 

「知らぬ」

 

 アルマニアは大きく息を吐いた。

 

「何も分からない歌を、どうして僕に教えたんです?」

 

「知らぬ凶兆には、抗えぬからだ」

 

 アルケナの声から、笑いが消えた。

 

「いつか、どこかで、別の口がこの歌を始めるかもしれぬ。その時、誰も知らなければ、それが歌であることにさえ気づけぬ」

 

「僕に止めろと?」

 

「そなたがその場に立つとは限らぬ。ならば、知ったことを誰へ託すか選べ」

 

 巨大な翼が、夢の空を覆う。

 

「凶兆とは、災いを起こすために告げるものではない。避け、備え、抗う余地を残すために告げるものだ」

 

 アルマニアは、二つの旋律を胸の中で確かめた。

 

 一つは、死者を眠りへ送る歌。

 

 もう一つは、決して声にしてはならない歌。

 

「あなたは、僕に何をさせたいんです?」

 

「我が眷属どもが、すでに告げたであろう」

 

 アルケナの嘴が近づいた。

 

「示せ。限りある人の身に、どれほど無限の可能性が宿るのかを」

 

「そのために、危険な歌まで必要なんですか?」

 

「無限の可能性とは、できることを増やすだけではない」

 

 巨大な嘴が、アルマニアの額へ触れる。

 

「できることを、選んで行わぬ意志もまた、人の可能性よ」

 

 こつん。

 

 夢が割れた。

 

     ◇

 

 こつん。

 

 こつん。

 

「……痛い」

 

 目を開けると、ギンとニンが左右から額をつついていた。

 

 天幕の中は暗い。

 

 入口の隙間が、夜明け前の薄い青に変わり始めている。

 

「起きました。もう起きましたから」

 

 二羽は顔を見合わせ、揃って外套の上へ戻った。

 

 隣では、グンヒルダが毛布へくるまっている。

 

「鳥と喧嘩するなら、外でやりな……」

 

 寝言のように呟き、また寝息を立て始めた。

 

 アルマニアは自分の喉へ手を当てた。

 

 二つとも覚えている。

 

 レクイエム。

 

 そして、名のない歌。

 

 夢の中だけで知っていたはずの音が、目覚めたあとも一つ残らず並んでいた。

 

 確かめたい。

 

 本当に歌えるのか。

 

 そう思った瞬間、古い弦の最初の音が喉へ上がってきた。

 

 アルマニアは口を閉じた。

 

 代わりに、もう一つの旋律を小さく口ずさむ。

 

 深く。

 

 静かに。

 

 土へ帰る道を、音でなぞる。

 

「そこで止めなさい」

 

 天幕の外から声がした。

 

 アルマニアは歌を切った。

 

 入口の布が持ち上がる。

 

 夜番の講師が、火の消えかけた角灯を手に立っていた。

 

「いまの歌を、どこで覚えました?」

 

「夢の中です」

 

「夢?」

 

「アルケナに教わりました」

 

 講師が、アルマニアの左右にいる双鴉を見る。

 

 ギンとニンは、何も知らない雛のように羽根へ嘴を入れた。

 

「もう一度。最初から四つだけ歌えますか?」

 

 アルマニアは頷いた。

 

 先ほどよりも声を抑え、四つの音を順に置く。

 

 講師の表情が変わった。

 

「レクイエムです」

 

「アルケナも、そう呼びました」

 

「死者や不死の怪物へ働きかける呪歌です。学院の授業なら、旋律を覚えるだけでも、まだ先になるはずですが……」

 

 講師は途中で言葉を止めた。

 

 この生徒について、普通ならという言葉は、すでに何度も外れている。

 

「夢で教わったという話を、そのまま実習記録へ書くわけにはいきません。起きている時に、由来と効果を学び直してもらいます」

 

「はい」

 

「ですが、旋律は正しい。少なくとも、私の知るレクイエムと同じものです」

 

 毛布が動いた。

 

 グンヒルダが、眠そうな目をこすりながら起き上がる。

 

「朝から、何を覚えたって?」

 

「呪歌を一つ」

 

「一つ?」

 

「正確には、二つです」

 

 翡翠色の三つ編みが、毛布の中から伸びた。

 

 アルマニアの首へ、柔らかく巻きつく。

 

「一晩寝るたび、新しい技能が増えるなら、次から起こしておこうか」

 

「技能は増えていません。歌が二つです」

 

「同じことだよ」

 

 講師がアルマニアを見た。

 

「もう一つは?」

 

 首の輪が、少しだけ緩む。

 

 アルマニアは答えた。

 

「歌いません」

 

「歌えないのですか?」

 

「歌えます。最後まで覚えています。だから、歌いません」

 

 講師は理由を急かさなかった。

 

 アルマニアは夢で見たものを話した。

 

 色が消えたこと。

 

 上と下がほどけたこと。

 

 人の名を思い出せなくなったこと。

 

 アルケナでさえ、何が起きるか知らないと答えたこと。

 

 聞き終えた講師は、角灯の火を見つめた。

 

「私は、そのような呪歌を知りません」

 

「確かめてみろとは言わないんですか?」

 

「止め方も分からないのでしょう? なら、歌わないことが今の正解です。実習記録へ旋律は残しません」

 

「後で、詳しい人に聞けますか?」

 

「学院へ戻ってからです。少なくとも、この野営地で試すことではありません」

 

 グンヒルダの三つ編みが、アルマニアの首から離れた。

 

「錠前と同じだね」

 

「歌がですか?」

 

「開けたあと戻せないなら、触るな。仕組みが分からないなら、分からないって言って、分かる者へ渡す」

 

「でも、これは僕の頭の中にしかありません」

 

「なら、なおさら勝手に触るんじゃないよ」

 

 グンヒルダは大きな欠伸をした。

 

「道具だって、持ってるだけなら人を傷つけない。使えることと、使っていいことは別さ」

 

 アルマニアは頷いた。

 

「歌わないまま、調べます」

 

「よろしい」

 

「それは、覚えた、できる、任せられるの、どれです?」

 

「どれでもないね」

 

 グンヒルダは即答した。

 

「扱えないと分かった危険物を、ひとまず動かさずに置いた。それだけだよ」

 

「厳しくありませんか?」

 

「世界がほどけるかもしれない歌に、甘い採点をしろって?」

 

「今のままでお願いします」

 

「そうしな」

 

 講師が、入口の布を開いた。

 

 冷たい朝の空気が天幕へ流れ込む。

 

「話は学院へ戻ってから続けます。いまは撤収の支度を。歌の検証より先に、全員で帰ることです」

 

「はい」

 

 アルマニアは毛布を畳んだ。

 

 グンヒルダが支柱を確かめ、ギンとニンが入口から外へ飛び出していく。

 

 朝の野営地では、昨日と同じ旅人の歌が誰かの口から聞こえていた。

 

 四つ上がり、四つ下りる。

 

 アルマニアも、荷をまとめながらその歌へ加わった。

 

 いま歌うべきなのは、こちらだった。

 

 その朝、アルマニアが最初に覚えた呪歌は二つあった。

 

 一つは、眠れない死者へ静かな土を思い出させるレクイエム。

 

 もう一つは、現代の吟遊詩人が誰も知らない破滅の歌。

 

 八つ目の技能で彼が最初に選んだのは、どちらを歌うかではなかった。

 

 どちらを、決して歌わないかだった。

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