歌は、歌い始めればすぐ届くわけではなかった。
まして、相手が死者ならなおさらだった。
一泊二日の野外実習を終えた一行は、昨日来た道を使わず、東の尾根を回って王都へ戻ることになった。
谷の水は夜の間に引き始めていたが、川原には泥と流木が残っている。
鉄砲水を避けた翌日に、同じ場所へ下りる理由はない。
「赤い布は、置いていくのですか?」
地図を見ていた生徒が尋ねた。
三本の布を見つけることも、野外実習の課題に入っている。
茶色い外套の講師は、先頭を歩いたまま答えた。
「布を回収するために、危険な道へ戻りたい者は?」
誰も手を挙げなかった。
「よろしい。では、目的を答えなさい」
「全員で、学院へ戻ることです」
今度は、アルマニアだけでなく何人もの声が重なった。
講師が頷く。
「布を見つけられなかった理由は、帰ってから記録へ残します。危険を避けたことと、課題を忘れたことが同じにならないように」
アルマニアは地図へ細い線を引いた。
昨日歩いた谷沿いの道。
増水した場所。
倒木が水をせき止めていた位置。
上空から見ただけの場所には、そう分かる印もつける。
ギンとニンの目を借りれば、地図にないものまで見つけられる。
けれど、見たものが正しい形で次の者へ伝わらなければ、自分だけが知っている危険で終わる。
「その線、少し曲がってないかい?」
横からグンヒルダが地図をのぞき込んだ。
「尾根が曲がっています」
「あんたの線が曲がってるんだよ」
「歩きながら書いているので」
「なら、学院へ着いてから清書しな。読めない記録を残すくらいなら、今は道を見ておくれ」
アルマニアは筆をしまった。
「はい」
「ずいぶん素直だね。朝、変なものでも食べた?」
「夢で世界がほどける歌を教わりました」
「聞いたあたしが悪かったよ」
グンヒルダは頭を振り、前へ向き直った。
その三つ編みが、いつもよりアルマニアの近くで揺れていた。
◇
尾根道は、古い炭焼き集落の跡を通っていた。
人が住まなくなってから長いらしい。
石を積んだ炉は苔に覆われ、屋根の落ちた小屋から若木が伸びている。
道の両側には、腰ほどの高さの石が幾つも並んでいた。
ただの境界石にしては、間隔が揃いすぎている。
「墓標ですね」
アルマニアが言った。
「古い共同墓地でしょう。踏み荒らさないよう、道の中央を歩きなさい」
講師が足を緩める。
昨日の雨は、尾根の斜面も削っていた。
道の先では土が崩れ、一本の墓標が横倒しになっている。
その下から、白いものがのぞいていた。
獣の骨ではない。
泥に汚れた、人の指だった。
「止まりな」
グンヒルダが、アルマニアの胸へ腕を出した。
一行の足が止まる。
白い指が動いた。
土をかく。
骨だけの腕が地面から抜け出し、倒れた墓標を押した。
石が転がる。
くぼんだ地面から、錆びた鉈を握る骸骨が起き上がった。
「スケルトン! 全員、道の南側へ下がりなさい!」
講師の声が飛ぶ。
崩れた墓所の奥でも、土が動いていた。
一体だけではない。
別の墓標の脇から頭蓋骨が現れ、その後ろでも枯れ枝の折れる音がした。
生徒たちが荷を抱え、尾根の広い場所へ下がる。
グンヒルダは背負っていた長柄戦槌を下ろした。
頭上の枝を見る。
左右の墓標と道幅を確かめ、柄を短く持った。
大きく振り回せる場所ではない。
それでも、墓所から道へ出るには、彼女の前を通らなければならなかった。
「アルマニア。何ができる?」
講師に問われ、アルマニアはメイジスタッフを握った。
古代語魔法なら、一体を攻撃できる。
杖を構えれば、グンヒルダの横へ立てる。
マイリーへ祈ることもできる。
選べる手は多い。
けれど、土の中では、さらに二つの骨の手が動いていた。
一体を倒している間に、次が出てくる。
「レクイエムを歌えます」
講師の目が細くなった。
「起きてから、四つの音しか確かめていません」
「最後まで覚えています」
「効くとは限りません」
「分かっています」
「歌が死者へ届くまで、同じ旋律を崩さず続ける必要があります。その間、あなたは戦えない」
墓所から、二体目が立ち上がった。
片腕がない。
それでも残った手で土をつかみ、道へ這い上がろうとしている。
「どれくらいです?」
「四つの節を歌い終えるまで」
すぐには効かない。
効いても、何が起きるか分からない。
歌っている間、アルマニアは目の前の敵を殴ることも、魔法を唱えることもできない。
グンヒルダが、戦槌の石突きを地面へ置いた。
「歌いな」
「でも——」
「あたしが何を覚えたか、聞くんじゃなかったのかい?」
彼女は両手の位置を確かめる。
「槌を振ることを覚えた。条件が悪くても、前へ出た一体を止めることはできる」
琥珀色の目が、墓所から離れない。
「だから、ここは任せな」
アルマニアは、メイジスタッフを地面へ置いた。
両手を空ける。
息を吸った。
◇
最初の節は、ただの歌だった。
低く、静かな声が尾根道へ流れる。
スケルトンは足を止めない。
錆びた鉈を振り上げ、グンヒルダへ踏み込んだ。
戦槌の柄が鉈を受ける。
乾いた音。
グンヒルダは押し返さず、半歩だけ身体をずらした。
骸骨の足が泥へ滑る。
そこへ石突きを差し込み、道の外へ転がした。
「次!」
片腕のスケルトンが、倒れた一体を越えてくる。
アルマニアの声が、わずかに強くなった。
「こっちは見るな!」
グンヒルダの声が飛ぶ。
「歌を止めたら、最初からだよ!」
アルマニアは目を閉じなかった。
けれど、前へ出ようとした足は止めた。
二つ目の節へ入る。
ギンとニンが頭上を回っていた。
二羽の目を借りれば、墓所の奥まで見える。
何体が起き上がろうとしているか。
どこから回り込もうとしているか。
知りたい。
意識を伸ばしかけ、アルマニアはやめた。
三つの視界を扱いながら、初めての呪歌を崩さず歌えるとは限らない。
「ギン、ニン。左右だけ見てください」
歌の切れ目へ短く命じる。
二羽が分かれた。
自分の視界へつながず、鳴き声だけを聞く。
右から一声。
左から二声。
ニンの側で、何かが動いた。
「左です!」
講師が短い杖を構え、道を外れた骨の手を踏み止めた。
「歌を!」
アルマニアは三つ目の節へ入った。
喉が乾く。
夢の中では、死者たちは立ち止まってくれた。
現実のスケルトンは、そんなに素直ではない。
グンヒルダの肩を、錆びた鉈がかすめる。
ソフトレザーの表面が裂けた。
血は見えない。
それでもアルマニアの声が揺れた。
「続けな!」
グンヒルダは片腕のスケルトンへ戦槌の柄を押しつけ、墓標との間へ挟んでいる。
もう一体が起き上がれば、受け止めきれない。
助けなければ。
魔法なら。
杖なら。
その考えを、息と一緒に吐き出す。
いま、自分が空けた場所にはグンヒルダが立っている。
グンヒルダが空けた場所で、歌えるのは自分だけだった。
四つ目の節を歌う。
声を大きくはしない。
骸骨たちへ振り向けとも、ひざまずけとも命じない。
土の下にあった静けさを、同じ音で繰り返す。
雨が降る前まで、墓所に眠っていた時間。
炭焼きの火が消え、集落から人が去り、木々だけが墓標の間で育った長い時間。
戻るべき場所は、道の上ではない。
歌が、四度目の終わりへ届いた。
錆びた鉈が止まった。
スケルトンの頭蓋骨が、ゆっくりとアルマニアへ向く。
眼窩には、何もない。
それでも、歌を聞いていると分かった。
骨の足が一歩下がる。
もう一体も、墓所の方へ身体を向けた。
「届いた……」
「まだ止めるんじゃないよ!」
グンヒルダの声で、次の節を続ける。
スケルトンたちは、歌から離れようとするように後ずさった。
一体が崩れた土の穴へ戻る。
もう一体も、その後を追う。
だが、片腕のスケルトンだけは、倒れた墓標と戦槌の柄に挟まれて退けなかった。
逃げようと骨の足を動かし、何度も石へぶつける。
先ほどまでの鋭さはない。
「道を開けます!」
アルマニアが歌の間から叫んだ。
「余計なことをするんじゃない!」
グンヒルダが戦槌を引いた。
自由になったスケルトンが、彼女へ腕を伸ばす。
グンヒルダは柄の中ほどを握り、半歩下がった。
足を置く。
腰を回す。
背中から肩、肘へ力が流れ、槌頭が短い弧を描いた。
鉄が胸骨へ打ち込まれる。
骨の身体が宙へ浮き、墓所の土へ叩き戻された。
「逃げ道を作るのと、こっちへ来る道を作るのは違うよ!」
グンヒルダは戦槌を構えたまま怒鳴った。
アルマニアは返事の代わりに歌った。
◇
動く骨がすべて墓所へ戻っても、歌は止められなかった。
歌が続いている間だけ、死者は奥へ退いている。
講師の指示で、生徒たちが崩れた入口へ倒木を渡した。
その上へ石を積む。
完全に封じることはできない。
専門の神官が来るまで、道へ出る時間を遅らせるための仮の処置だった。
アルマニアは歌い続けた。
石を運べない。
倒木を支えられない。
地図へ印をつけることもできない。
今できることは、一つだけだった。
喉が痛み、息が浅くなる。
それでも、最後の石が置かれるまで同じ旋律を繰り返した。
「よし。止めなさい」
講師の声を聞き、アルマニアは歌を終えた。
急に静かになる。
墓所の奥で、骨の触れ合う音がした。
だが、積んだ石は動かない。
アルマニアは、その場へ膝をついた。
ギンとニンが左右の肩へ降りる。
グンヒルダが水筒を差し出した。
「少しずつ飲みな。いきなり流し込むと、むせるよ」
言われたとおり、一口だけ含む。
冷たい水が、焼けた喉へ染みた。
「鎮められたでしょうか」
「いいえ」
講師が、仮に塞いだ墓所を調べながら答えた。
「レクイエムが、彼らを退かせました。ですが、眠りへ戻ったとは確認できません」
「では、失敗ですか?」
「全員が無事で、墓所から距離を取る時間も作れた。それを失敗とは呼びません」
講師は地図を開いた。
「ただし、終わってもいません。位置、数、墓所の状態、仮に置いたものを記録し、学院と神殿へ伝えます。専門家へ引き渡すまでが、今日の仕事です」
アルマニアは立ち上がろうとした。
足に力が入らない。
翡翠色の三つ編みが、腕へ回った。
今度は首ではない。
グンヒルダが髪をつかみ、彼の身体を支える。
「地図は、あたしが持つよ。あんたは見たものを言いな」
「書けます」
「読める字で?」
「……お願いします」
「よろしい」
グンヒルダは地図を膝へ載せた。
先ほど、アルマニアが歩きながら引いた曲がった線の横へ、墓所の印をつける。
「スケルトンは?」
「起き上がったのが三体。土の中で動いていたものが、少なくとも二体です」
「見たのは自分の目?」
「三体は。残りは音と、出ていた骨の手です」
「なら、そう書くよ」
確かめたこと。
推測したこと。
まだ分からないこと。
グンヒルダは、一つずつ分けて記した。
最後に、アルマニアが歌ったレクイエムについて書き加える。
「効果あり、と」
「僕へ任せられますか?」
「何を?」
「アンデッドが出た時の、レクイエムを」
グンヒルダは筆を止めた。
「今日は届いた。一度できたところまでは認めるよ」
「やはり、まだですか」
「当たり前だろ。あんた自身、何が起きるか分からなかったじゃないか」
彼女は、破れた肩の革を指で確かめた。
「でも、届くまで歌い続けることは任せられる」
アルマニアは顔を上げた。
「違うんですか?」
「全然、違うね」
グンヒルダが笑った。
「歌で全部片づけるのは、まだ任せられない。あたしたちが前に立っている間、途中で別のことへ飛びつかず、歌をつなぐ。それなら、次も任せるよ」
墓所へ置いた仮の封鎖を、朝の光が照らしていた。
アルマニア一人では、死者を倒せなかった。
グンヒルダ一人でも、起き上がるすべてを押し戻せなかった。
歌が届くまで、槌が道を塞いだ。
槌が道を塞いでいる間、歌は止まらなかった。
八つ目の技能で初めて任された仕事は、死者を眠らせることではない。
仲間が作ってくれた時間を、最後までつなぐことだった。