傷は、戦いが終わってから見つかった。
古い墓所を離れて、四半刻ほど歩いた頃だった。
グンヒルダの手から、水筒が落ちた。
革張りの水筒は道の上で一度跳ね、斜面へ転がりかける。
アルマニアは足で止め、拾い上げた。
「珍しいですね」
「何がだい?」
「グンヒルダが、持っている道具を落とすなんて」
「水筒は道具じゃないよ」
「では、もう一度持ってください」
差し出しても、グンヒルダはすぐに手を伸ばさなかった。
右手の指を、一度ずつ曲げている。
短い指は動いていた。
だが、最後まで握り込もうとすると、小さく震えた。
「見せなさい」
茶色い外套の講師が一行を止めた。
グンヒルダは顔をしかめたが、逃げはしなかった。
裂けたソフトレザーを肩からずらし、その下を見せる。
皮膚は切れていない。
代わりに、肩から上腕へ青黒い痣が広がり始めていた。
「鉈が当たった時ですか?」
「かすっただけだよ」
「そのあと、戦槌でスケルトンを押さえ込んでいましたね」
「押さえなきゃ、アルマニアが歌えなかっただろ」
「理由を聞いているのではありません」
講師は右手の指先へ触れ、感覚を確かめた。
「骨が折れている様子はありません。ですが、学院へ戻るまで、戦槌と工具の使用を禁じます」
講師は応急用の布を取り出し、グンヒルダの右腕を胸の前へ固定した。
「歩けるよ」
「歩くことは禁じていません」
「槌も持てる」
「持つことと、振ることは違います」
グンヒルダの眉間へ、深い皺が寄った。
アルマニアは何も言わず、彼女の工具袋を取った。
「それは置きな」
「持つだけです」
「あたしの仕事道具だよ」
「使いません。落とさず運ぶだけです」
グンヒルダは左手で取り返そうとした。
その前に、講師が長柄戦槌を受け取る。
「得物は私が持ちます。工具はアルマニアに」
「二人とも、怪我人の扱いが雑じゃないかい?」
「まだ怪我人でないつもりでしたか?」
「歩けるって言っただろ」
「では、歩いてください」
講師は戦槌を肩へ載せた。
柄の長さに慣れず、後ろの生徒へ当てそうになって、すぐに持ち方を変える。
グンヒルダが反射的に口を開いた。
「槌頭を後ろへ出すんじゃないよ。前へ倒して、柄の中ほどを——」
「指示は歓迎します。手は出さないように」
今度こそ、グンヒルダは黙った。
◇
尾根道を下りきる前に、細い谷があった。
底には、雨水が削った茶色い流れが走っている。
その上へ、二本の太い橋桁を渡し、横板を並べた木橋が架かっていた。
荷車が通れる幅はない。
人と馬が、一列で渡るための橋である。
講師が足を止めた。
「昨日は、ここを通った班があります」
「昨日と同じ橋とは限らないね」
グンヒルダは、橋の手前へしゃがみ込んだ。
手では触れない。
目で、橋板の隙間、桁の沈み、石積みのずれを追っていく。
ギンとニンが左右へ飛んだ。
一羽は対岸の欄干へ降り、もう一羽は谷の上を回る。
「ギンの側から、橋桁を見ます」
「待ちな」
アルマニアは意識を伸ばしかけて止めた。
「何かありますか?」
「あんたが探す前に、何を探すか決めるんだよ」
グンヒルダは顎で、橋の右側を示した。
「手前の桁は、石の台へきちんと載ってる。向こう側だけ、少し下がってるだろ」
言われてから見れば、橋は対岸へ向かってわずかに傾いていた。
だが、坂と呼ぶほどではない。
「ギン。右の橋桁と、石の台の間へ」
黒い翼が欄干から下りた。
鳥の目に、濡れた木の肌が映る。
橋桁そのものは折れていない。
石の上から落ちないよう、横へ打ち込まれていた木の楔が、半分ほど抜けている。
先端は割れ、泥が詰まっていた。
「楔が抜けています」
「そのせいで桁が横へずれ始めてる。誰か一人なら渡れるかもしれない。全員が渡れるかは、賭けたくないね」
「引き返しますか?」
生徒の一人が尋ねた。
来た道には、まだ鎮まりきっていない墓所がある。
尾根を大きく回れば別の道へ出られるが、日暮れまでに森を抜けるのは難しい。
講師は、グンヒルダを見る。
「直せますか?」
「あたしの工具と、両手が使えるなら」
右手を握ろうとして、また震える。
「今日は無理だね」
その答えを口にするまで、グンヒルダはずいぶん長く橋を見ていた。
「では、迂回します」
「待ってください」
アルマニアは橋の前へ膝をついた。
「完全に直す必要はありません」
「何を言ってる?」
「今日の目的は、橋を直すことではありません。全員で学院へ戻ることです」
「だからって、壊れた橋を使うのかい?」
「全員が一人ずつ渡る間だけ、桁が横へずれないようにできませんか?」
グンヒルダは答えなかった。
橋を見る。
対岸の楔を見る。
次に、アルマニアが持っている工具袋を見た。
「できる」
「なら——」
「あたしならね」
「手順を教えてください」
「駄目だ」
「なぜです?」
「あんたは、橋を直したことがない」
「はい」
「木の楔を打ち込んだことは?」
「天幕の杭なら」
「別物だよ。桁へ強く打ち込みすぎれば、乾いた端から割れる。浅ければ、人が歩いた振動でまた抜ける。見た目だけ収まっても、荷重が掛かった瞬間に飛び出すこともある」
「分かりました」
「今の話を聞いただけで、分かったって言うんじゃないよ」
「できないことが分かりました」
グンヒルダの口が止まる。
アルマニアは、工具袋を地面へ置いた。
「僕は、橋を直せません。でも、グンヒルダが戻ってくるまで、壊さずにつなぐ方法なら教われます」
「あたしが戻るまで?」
「学院へ報告して、職人が来るまでです。それまで荷車を通せるようにする必要はありません。僕たちが渡ったあとは、通行を止める印を残します」
グンヒルダは左手で、翡翠色の三つ編みを握った。
いつもなら、その先がアルマニアの首へ伸びてくる。
今日は伸びなかった。
「あたしの代わりにならなくていい」
彼女は、工具袋を顎で示した。
「あたしが戻るまで、壊さずにつないでおくれ」
◇
最初にしたのは、楔を打つことではなかった。
全員の荷を下ろし、橋から離す。
太い麻縄を手前側の橋桁へ回し、道脇の樹へ掛ける。
桁を持ち上げるためではない。
横へずれようとする力を、少しだけ受けるためだった。
「張りすぎるんじゃないよ」
グンヒルダは橋から三歩離れた場所へ座っている。
「縄で桁を引き戻そうとすれば、今度は手前が動く。たるみが消えるところまでだ」
アルマニアは縄を引く生徒たちへ合図を出した。
一本の縄が真っすぐになる。
橋板が、かすかに鳴った。
「そこで止めてください」
次に、工具袋から白墨を出した。
グンヒルダの指示どおり、新しい楔へ線を引く。
入れてよい深さ。
上にする面。
槌を当てる場所。
記録を終えてから、アルマニアは橋へ乗った。
メイジスタッフは置いていく。
工具を持つ両手を空け、腰へ安全綱を結ぶ。
一歩。
橋板が軋む。
二歩。
対岸ではギンが首を傾け、楔の穴を見ていた。
ニンは上空を回らせず、アルマニアの後ろへ残した。
橋全体の様子を、鳴き声で知らせるためである。
目を増やしすぎれば、手元がおろそかになる。
アルマニアは自分の目で橋板を見て、ギンの目は必要な時だけ借りた。
対岸へ着く。
抜けかけた古い楔へ触れず、その隣へ新しい楔を差し入れた。
小槌を握る。
「一度、軽く」
グンヒルダの声が谷を渡った。
こつん。
乾いた音がした。
「もう一度」
こつん。
楔が、少しだけ木の間へ入る。
三度目。
音が変わった。
高く跳ねていた小槌の音が、低く、短くなった。
まだ、白墨の線までは指一本分ある。
そこまで打てと言われている。
アルマニアは小槌を止めた。
「どうした?」
グンヒルダが尋ねる。
「音が変わりました」
「線までは入ってないよ」
「でも、最初より木の返りが強いです。これ以上打つと、桁の端を割るかもしれません」
「それで?」
「ここで止めて、縄を残します」
グンヒルダは、橋桁と楔をしばらく見比べた。
「よし。それでいい」
アルマニアは楔を細い縄で結び、抜け落ちないよう桁へ回した。
完全な修理ではない。
橋の傾きも、元には戻っていない。
それでも、桁がこれ以上横へ動くのを遅らせることはできる。
「まず、僕が戻ります」
「向こうへ渡ったんだから、そのまま待てばいいだろ」
「一度、荷重を確かめます」
「誰の真似だい?」
「グンヒルダです」
戻りの一歩を踏む。
楔は動かない。
縄にも、急な張りは出なかった。
アルマニアがこちら側へ戻ると、グンヒルダは左手で新しい楔の位置を確かめた。
右手は出さない。
「一度できたね」
「できる、ではないんですか?」
「調子に乗るんじゃないよ」
いつもの返事だった。
だが、グンヒルダは工具袋を取り返さなかった。
◇
橋は、一人ずつ渡った。
荷物は分け、重い物は縄で対岸へ送る。
誰かが渡るたび、アルマニアは楔と桁を見る。
ギンは対岸から継ぎ目を見張り、ニンは手前から橋板の沈みを確かめた。
グンヒルダは最後から二人目に渡った。
右腕を胸へ固定し、左手で張った縄を握る。
途中で一度だけ立ち止まったが、アルマニアは手を出さなかった。
「手伝いましょうか」
「聞く前に引っ張らなかったことは褒めるよ」
「必要ですか?」
「いらない。自分で渡れる」
彼女は一歩ずつ、対岸へ着いた。
最後に講師が渡る。
全員が橋を越えてから、手前へ残した縄を外す。
渡り始める前に手前側へ。
全員が渡ったあとには、対岸へ。
橋の両側へ、白墨と赤い布で印を残した。
人だけ、一人ずつ。
馬と荷車は通すな。
応急処置。
学院へ報告する。
まだ報告してはいない。
だが、戻れば必ず伝える。
その責任まで含めて、書いた。
◇
王都の門が見えた時、日は西へ傾いていた。
一行は赤い布をすべて持ち帰れなかった。
谷沿いの近道も使わなかった。
途中で墓所を仮に封鎖し、壊れた橋へ応急処置を施したため、予定より帰還も遅れた。
それでも、出発した全員が同じ門をくぐった。
学院へ戻ると、講師は実習記録へ順番に書き込んだ。
鉄砲水の兆候。
墓所の位置と、動いた死者の数。
レクイエムの効果。
橋の損傷と、残した楔と縄。
最後に、アルマニアとグンヒルダの名を並べた。
「探索者科の実習は、これで修了とします」
「赤い布は一本、流されました」
「持ち帰ることより、流された理由を記録したことを評価します」
「橋も直していません」
「直したと報告される方が困ります」
講師は記録簿を閉じた。
「何を見つけたか。何をしたか。何ができなかったか。次に誰が来なければならないか。すべてを残して、初めて探索は次へつながります」
グンヒルダが、左手でアルマニアの工具袋を受け取った。
中身を一つずつ確かめる。
白墨。
細い縄。
小槌。
油。
どれも失われていない。
「橋を任せられるとは、まだ言わないよ」
「分かっています」
「あたしが横で見て、手順を一つずつ言った。あんたが一人で同じことをしていいわけじゃない」
「はい」
「でも——」
グンヒルダは白墨を一本だけ抜き、アルマニアへ返した。
「あたしが動けない間、壊さずにつなぐ仕事なら任せる」
アルマニアは白墨を受け取った。
「次も、ですか?」
「次に何を壊すつもりだい?」
翡翠色の三つ編みが、左手で投げられる。
いつものようにアルマニアの首へ回ったが、締める力はなかった。
「何も壊しません」
「よろしい」
◇
翌朝。
学院の掲示板から、探索者科の札が外されていた。
代わりに、新しい木札が掛けられている。
第三期。
神官戦士科。
アルマニアが読んでいると、隣へ翡翠色の三つ編みが垂れてきた。
グンヒルダの右肩は布で固定されている。
「神殿へ行かなくていいんですか?」
「行ってきたよ。治癒の祈りで肩の痛みは引いた。けど、使い続けた手の震えが止まるまでは休めだってさ」
「では、今日は休んでください」
「あたしが治療を受ける側だと、あんたが何をしでかすか見ておかないとね」
「神官戦士科で、しでかす前提なんですか?」
「治せるから傷ついてもいい、なんて言い出したら、左手でも三つ編みは投げられるよ」
アルマニアは木札を見上げた。
神聖魔法は、傷ついた仲間を立たせることができる。
だが、立てることと、立たせてよいことは同じではない。
治せることと、戦場へ戻してよいことも違う。
探索者科で最後に任されたのは、専門家の代わりになることではなかった。
専門家が戻るまで、途切れた仕事をつないでおくことだった。
次に学ぶのは、傷ついた仲間を立たせる方法ではない。
いつ立たせ、いつ退かせ、いつ戻ってくるまで待つべきかだった。