神官戦士科の最初の授業に、祭壇はなかった。
香も、聖典も、祈りを捧げるための長椅子もない。
あるのは、学院の屋内訓練場だった。
床へ白墨で二本の線が引かれ、その間に木剣、木盾、担架、包帯、水桶が並べられている。
壁際には、右腕を布で固定したグンヒルダが座っていた。
「どうして、まだいるんです?」
「あたしも実習生だからだよ」
「今日は治療を受ける側でしょう」
「だから、ちょうどいいんだとさ」
グンヒルダは面白くなさそうに、訓練場の中央を顎で示した。
そこには、鎖帷子を着た大柄な男が立っていた。
左腕に丸盾。腰には剣。胸元には、戦神マイリーの聖印が下がっている。
オーファン騎士団の神官戦士だった。
金属鎧を着たまま魔法を使えない古代語魔術師や精霊使いとは違い、神官の祈りには鎧も武器も発動体も必要ない。
信じる神へ、神聖語で祈る。
その願いが神の意思に沿うものであれば、奇跡は鎖帷子の上からでも戦場へ届く。
男はアルマニアのソフトレザーとメイジスタッフを見て、眉を上げた。
「神官戦士科でも、その装備で通すのか」
「はい。古代語魔法と精霊魔法を使えなくしたくありません」
「鎧を厚くし、盾を持てば、前へ立てる時間は延びる」
「代わりに、使えない魔法が増えます」
「どちらも正しい」
男は丸盾の縁を拳で叩いた。
「だから、自分が何を捨てているか忘れるな。選択肢を残した分、お前はこの盾と鎧に守られない」
「はい」
「返事はよい。では、最初の課題だ」
訓練場の扉が開いた。
赤金色の髪を高く結い、深紅の短外套を翻して、シャーナシアが入ってくる。
手には、厚い布を巻いた訓練剣があった。
「遅くなりました」
「時間どおりだ」
「なら、先に来た者が早すぎたのですわね」
シャーナシアは当然のように言い、アルマニアの前へ立った。
「なぜ、シャーナシアが?」
「追撃役です」
「初日から?」
「初日だからです。治癒の祈りだけを練習したければ、神殿の施療院へ行きなさい」
布を巻いた剣先が、壁際のグンヒルダへ向けられる。
「今日のあなたは、あちらを連れて逃げる役目です」
「あちらとは何だい」
「負傷者です」
「右手以外は動くよ」
「だから担架へ寝かせず、自分で歩かせるのです」
シャーナシアとグンヒルダの視線がぶつかる。
神官戦士が、二本の白線を順に示した。
「手前が戦場。奥が安全圏だ。アルマニアは負傷者を奥の線まで退避させろ。追撃役は二人へ攻撃する。急所は狙わん。負傷者へ有効な一撃が入れば、その時点で失敗だ。お前が受けた一撃は負傷として扱い、続けられるか自分で判断しろ」
「追撃役を倒しても?」
「構わん」
シャーナシアが笑った。
「できるものなら」
「倒す必要は?」
「ない」
神官戦士は即答した。
「課題は負傷者の退避だ。敵の撃破ではない」
アルマニアはメイジスタッフを握り直した。
グンヒルダなら自分で歩ける。
しかし、右手は震え、長柄戦槌も工具も使えない。
昨日、治癒の祈りを受けて肩の痛みは消えている。
それでも、戦える状態ではなかった。
「位置へ」
アルマニアとグンヒルダが、手前の線へ入る。
シャーナシアは三歩離れ、剣を下段へ構えた。
「始め」
アルマニアは、まずグンヒルダへ向き直った。
「戦場にて勇を示す者を守りたもう、戦神マイリーよ。傷つきし者へ再び立つ力を——キュアー・ウーンズ」
聖印は持っていない。
杖を両手で握ったままでも、祈りの言葉は唱えられる。
温かな光がグンヒルダの右肩を包んだ。
裂けた皮膚も、折れた骨もない。
それでも残っている痛みがあれば和らげようと、光は固定された腕へ染み込んでいく。
グンヒルダが右手の指を曲げた。
指先は、やはり小さく震えた。
「変わらないよ」
「もう一度——」
「死亡ですわ」
声は、アルマニアの背後から聞こえた。
振り向く。
シャーナシアの訓練剣が、グンヒルダの左肩へ触れている。
「いつの間に?」
「あなたが祈り始めた時には、もう動いていました」
「治療中です」
「敵に、待つ理由がありまして?」
シャーナシアが剣を引く。
神官戦士は、開始位置を指した。
「戻れ」
「ですが、祈りは成功しました」
「成功した」
「なら——」
「課題は失敗だ」
アルマニアは口を閉じた。
グンヒルダが、固定された右腕を持ち上げる。
「痛みは昨日より少ない。けど、手は震えてる。治せば槌を振れると思ったかい?」
「そこまでは」
「思わなかっただけで、確かめもしなかったね」
治癒の魔法は、失われた生命力を取り戻す。
だが、眠らずに歩いた疲れも、使いすぎた手の震えも、血で汚れた鎧も、折れかけた心も、一つの祈りですべて元へ戻るわけではない。
傷が塞がることと、戦列へ戻れることは違う。
そして何より——。
「僕は、治すことしか見ていませんでした」
「違う」
神官戦士が言った。
「治す相手さえ見ていなかった。お前が見ていたのは、自分の使える魔法だ」
胸の奥へ、重い言葉が落ちる。
古代語魔法。
精霊魔法。
神聖魔法。
剣、探索、歌。
できることが増えるたび、何を使うかばかり考えてきた。
その祈りが必要か。
祈っている間、誰が相手を守るのか。
そこまで選ばなければ、使える魔法は仲間を救う力にならない。
「もう一度、お願いします」
◇
二度目の開始位置へ立つ。
今度は、グンヒルダの肩へ手を伸ばさなかった。
「自分で歩けますか?」
「さっき言ったよ。右手以外は動く」
「走れます?」
「それは無理だね。橋を渡ってから、ずっと右側を庇って歩いてた。腰まで張ってる」
「では、僕の後ろへ。左手で、外套の帯を掴んでください」
「引っ張るんじゃないよ」
「歩幅を伝えるだけです。止まる時は声をかけます」
グンヒルダが、アルマニアの腰の後ろへ垂れた革帯を握った。
アルマニアはメイジスタッフを両手で構える。
治癒の祈りは、まだ使わない。
古代語魔法も使わない。
精霊へも呼びかけない。
今は、武器を持って前へ立つ。
「始め」
シャーナシアが踏み込んだ。
最初の一撃は、アルマニアの左肩を狙っている。
杖の中央で受ける。
木と木がぶつかり、乾いた音が訓練場へ響いた。
正面から押し返さない。
半歩下がり、剣先を外へ流す。
腰の帯が引かれ、グンヒルダも同じだけ下がった。
「遅いですわ」
シャーナシアの二撃目が、杖の下をくぐる。
アルマニアは石突きを床へ落とし、脇腹への剣を止めた。
手が痺れる。
それでも、杖は離さない。
「下がります」
「分かった」
一歩。
もう一歩。
シャーナシアを倒す必要はない。
打ち込む隙を探せば、足が前へ出る。
前へ出れば、グンヒルダとの間が開く。
だから攻めない。
剣を受け、流し、近づかせない。
かつては三度しのぐだけで、訓練場の円から押し出された。
今は、押される方向を自分で選ぶ。
後ろへ。
安全圏へ。
シャーナシアの剣が右へ消えた。
視界の端で、深紅の短外套が翻る。
回り込むつもりだ。
「止まって」
グンヒルダが帯を引いた。
アルマニアは足を止め、杖を横へ払う。
背後へ抜けようとした訓練剣とぶつかった。
「見えていなかったでしょう?」
「僕には」
「なら、なぜ止められましたの?」
「グンヒルダが見ています」
負傷していても、目と声まで失ったわけではない。
守る相手を、ただ運ばれる荷物にする必要もなかった。
「右から来るよ」
「はい」
「今度は左ですわ!」
シャーナシアが宣言どおり左へ踏み込む。
「言うんですか?」
「手加減です!」
剣と杖がぶつかる。
足が滑った。
片膝が床へ落ちる。
シャーナシアの剣が杖を押し下げ、そのままアルマニアの肩を狙う。
受けきれない。
杖を捨てて、グンヒルダを抱えて走ることもできない。
ならば、受ける場所を選ぶ。
アルマニアは身体をひねった。
訓練剣が、ソフトレザーに覆われた左腕へ当たる。
重い衝撃が、肩まで突き抜けた。
有効な一撃。
失敗——。
「続けろ」
神官戦士の声が飛んだ。
シャーナシアも剣を止めない。
アルマニアは歯を食いしばり、杖を拾い上げた。
「今のは?」
「鎧で受けられる場所を選んだ。腕は動く。負傷者も打たれていない」
男の言葉は短かった。
「まだ戦える」
左腕が痛む。
治すことはできる。
杖を握ったまま、マイリーへ祈ることもできる。
だが、その間にシャーナシアは進む。
アルマニアは祈らなかった。
「下がります」
「あと四歩だよ」
グンヒルダが答える。
一歩目。
剣を杖で止める。
二歩目。
剣先を外へ流す。
三歩目。
シャーナシアが踏み込むより先に、杖の端を胸元へ突きつけ、間合いを作る。
そして、四歩目。
腰の帯を握っていた力が消えた。
グンヒルダが、奥の白線を越えている。
「安全圏です」
「そこまで」
神官戦士の声と同時に、シャーナシアの剣が止まった。
アルマニアは杖を下ろさない。
グンヒルダが線の内側にいることを確かめる。
シャーナシアが追ってこないことを確かめる。
訓練場に、他の敵役が残っていないことを確かめる。
それから、ようやく息を吐いた。
「治療を」
左腕へ手を当てようとすると、神官戦士が首を横へ振る。
「先に負傷者を見ろ」
アルマニアはグンヒルダへ向き直った。
「息苦しさは?」
「ない」
「めまい、吐き気は?」
「どっちもないよ」
「歩いたことで、肩の痛みは増えましたか?」
「少しね。けど、朝より悪くはなってない」
「右手は?」
グンヒルダが指を曲げる。
震えは残っている。
けれど、感覚はある。
「今日は使わない方がいい」
「昨日から、そう言われてるよ」
「明日もです」
「神官みたいなことを言うようになったね」
「神官です」
「今日の最初に、あたしを死なせた神官だろ」
「それは忘れてください」
「記録へ残るよ」
グンヒルダが笑った。
ようやく、アルマニアは自分の左腕へ目を落とす。
ソフトレザーの下で、鈍い痛みが脈打っている。
骨は折れていない。
腕も上がる。
だが、次の訓練まで残す必要はない。
アルマニアは杖を握ったまま、戦神へ祈った。
「勇をもって仲間を守る者へ、再び立つ力を——キュアー・ウーンズ」
温かな光が、今度は自分の左腕へ染み込んだ。
痛みが薄れていく。
祈りは、最初の時と同じように届いた。
違ったのは、使った場所と順番だった。
◇
神官戦士は、実習記録へ二つの失敗を書いた。
一つ目。
安全を確保する前に治癒を行い、負傷者を無防備にした。
二つ目。
退避を終えたあとも、周囲の確認より先に自分を治そうとした。
「合格ではないんですか?」
「退避には成功した」
「では」
「成功した課題に、失敗がなかったと思うな」
グンヒルダが左手で記録をのぞき込む。
「覚えた、できる、任せられる。まだ、一つ目だね」
「最初の一度は失敗しました」
「だから覚えたんだろ」
神官戦士が、記録の最後へ短い一行を書き加えた。
「治癒魔法を使えるだけの者を、神官戦士とは呼ばん」
羽根筆が止まる。
「祈る時間を仲間に守らせるだけでも足りん。傷ついた者がいるなら、その者を守り、祈れる場所まで連れて帰れ。必要なら剣を持ち、必要なら盾となれ」
「僕は盾を持っていません」
「今日、お前が盾にしたのは何だ」
アルマニアは、痛みの消えた左腕を見た。
「自分の身体です」
「それだけではない」
杖。
後ろを見るグンヒルダの目。
止まれと伝える声。
自分が受けると決めた一撃。
倒すのではなく、下がるために使った足。
「仲間と、選んだ順番です」
「忘れるな」
記録簿が閉じられる。
学院の記録には、その日、アルマニアが戦士として一段先へ進んだことが記された。
ファイター、二レベル。
その横へ、グンヒルダの左手で一言が書き足された。
祈る前に、連れて帰ること。
「勝手に書いていいんですか?」
「必要な注意書きだよ」
「では、わたくしも」
シャーナシアが羽根筆を奪った。
さらに、その下へ書き加える。
次は四歩も下がらせない。
「実習記録へ決意表明を書かないでください!」
「必要な予告ですわ」
「次も追撃役なんですか?」
「当然でしょう?」
シャーナシアが胸を張る。
グンヒルダは左手で翡翠色の三つ編みを投げ、アルマニアの首へ巻きつけた。
「その前に、神殿へ行くよ」
「グンヒルダの診察ですか?」
「あんたの腕もだ。治したから診なくていい、なんて言ったら締めるよ」
「もう締まっています」
「なら、黙って歩きな」
治癒の祈りで、痛みは消えている。
それでもアルマニアは逆らわず、グンヒルダと並んで神殿へ向かった。
治せることと、確かめなくてよいことは、やはり同じではなかった。