神殿で左腕に異常がないと確かめられた翌朝、アルマニアは学院の南門へ呼び出された。
神官戦士科と書かれた木札の下に、ミレナが立っている。
赤みがかった栗色の髪を編み、苔色の上衣へソフトレザーを重ね、背には深緑の外套。片手には、使い慣れた槍があった。
「腕、見せて」
「もう治っています」
「治ったと思ってるんじゃなくて?」
「神殿で診てもらいました」
「なら、よし」
ミレナは袖の上から左腕を軽く押し、アルマニアが顔をしかめないことまで確かめた。
「昨日は、グンヒルダを一度死なせたんだって?」
「誰から聞いたんです?」
南門の柱にもたれていたシャーナシアが、深紅の短外套を翻した。
「事実を伝えただけですわ」
「最初の一度だけです」
「一度で十分でしょう」
「二度目は連れて帰りました」
「わたくしが四歩も下がらせてあげたからです」
「今日は三歩にします」
「一歩も譲る気はありません!」
「朝から元気だね、二人とも」
ミレナが笑った。
双鴉の泉から救い出されて以来、ミレナはアルマニアが野外へ出るたび、荷物と帰る時刻を何度も確かめた。
今日も水袋と靴紐を見ているが、止めようとはしない。自分も槍を持ち、実習へ同行するつもりだった。
「三人とも来たな」
昨日の神官戦士が、門の外から声をかけた。
鎖帷子の上に外套を羽織り、左腕には丸盾をつけている。腰の剣には、厚い革が巻かれていた。
「今日は王都の南にある演習林を使う。課題は退却だ」
「また逃げるのですか?」
シャーナシアが不満そうに聞いた。
「前へ出る訓練なら、毎朝しているだろう」
「前へ出る訓練に、終わりはありませんわ」
「退く訓練をしなければ、人生の方が先に終わる」
神官戦士は取り合わず、革袋から二本の赤い帯を取り出した。
一方には腕、もう一方には脚を示す印が描かれている。
「演習林の奥で、斥候隊が敵と遭遇した。任務は、得た情報を学院まで持ち帰ること。シャーナシアは剣を持つ腕へ負傷。ミレナは片脚へ負傷。アルマニアは無傷だが、治癒の祈りを使えるのは一度だけとする」
「実際には、まだ祈れます」
「残った精神力を、すべて治癒へ使える戦場ばかりではない。帰路で別の魔法が必要になるかもしれん。最後の一度を、誰へ使うか選ぶ訓練だ」
男は赤い帯を二人へ渡した。
「負傷は芝居だ。マイリーへ偽りの傷を治せとは願うな。治癒を使うと決めた相手の帯だけを外せ。その結び目が、今日の奇跡だ」
「神へ芝居をさせるわけにはいきませんものね」
シャーナシアは納得すると、右腕を身体へ縛りつけた。
剣を抜くことはできないが、歩くことはできる。
ミレナは左膝と足首を短い革紐でつないだ。
一歩は踏み出せるが、普段の歩幅では進めない。
「ちょっと、きつくない?」
「傷は、都合よく歩幅を選んでくれん」
「分かってるけど」
ミレナが左足を引きずり、地面の具合を確かめる。
神官戦士は小さな書板をシャーナシアへ渡した。
「これが敵情だ。三人と書板が南門へ戻れば成功。俺は追撃役を務める。二つ目の鐘から追う」
「追撃役を倒しても?」
「構わん」
昨日と同じ答えだった。
シャーナシアが、右腕を縛ったまま胸を張る。
「アルマニア。わたくしを立たせなさい」
「まだ始まってもいません」
「始まってから迷うより、先に決めておくべきです。わたくしが剣を使えれば、追手など近づけませんわ」
「私も、それがいいと思う」
ミレナが言った。
「殿下を治して。道は私が教えるから、肩を貸してくれれば歩けるよ」
アルマニアは二人を見た。
シャーナシアを立たせれば、追手を正面から止める剣が戻る。
追撃役を止め、その間に逃げられるが——。
「誰が、ミレナ姉さんへ肩を貸すんです?」
「アル」
「僕の両手が塞がります」
「なら、わたくしが追手を倒します」
シャーナシアが答える。
「倒したあと、また別の追手が来たら?」
「それも倒しますわ」
「何人来ます?」
「知りません」
「僕も知りません」
アルマニアは、神官戦士へ顔を向けた。
「追手の数は?」
「教えん」
「帰路は?」
「演習林を抜ける道は三本ある。どれを使うかも自分たちで決めろ」
シャーナシアを立たせれば、目の前の追手には勝てるかもしれない。
だが、ミレナを支えるアルマニアは杖を使えず、隊も進まない。追手が一人とも、倒せる相手とも限らなかった。
「ミレナ姉さんを立たせます」
「アル」
「理由を聞きましょう」
シャーナシアの青紫の瞳が、まっすぐアルマニアへ向く。
「一番傷が重いからではありません。ミレナ姉さんを立たせれば、三人とも自分の足で動けます」
「わたくしは戦えませんわ」
「歩けます。書板も持てます。後ろも見られます」
「追手は?」
「僕が止めます」
「アルマニア」
ミレナの声が低くなった。
「私を治すなら、私が後ろへ立つよ。アルより、槍の扱いにも野外にも慣れてる」
「だから、前をお願いします」
「道なら、アルにも読めるでしょう?」
「少しは。でも、三本の中から今一番確かな道を選べるのは、ミレナ姉さんです」
アルマニアは、ミレナの左脚を縛る赤い帯へ手をかけた。
「姉さんの代わりに、僕が完璧な野伏になる必要はありません。僕は、姉さんが道を見る間だけ後ろをつなぎます」
結び目を解く。
今日一度だけの治癒が、使われた。
ミレナは自由になった左脚を見下ろしていた。
すぐには何も言わない。
「位置へ」
神官戦士の声が飛んだ。
最初の鐘が、演習林へ響いた。
◇
先頭はミレナ。
中央は、書板を持ったシャーナシア。
最後尾はアルマニア。
ギンとニンは木々の上を飛んでいた。
二羽の目を借りれば、追手の位置を早く知ることができる。
しかし、枝葉の下にある獣道の固さも、雨のあとに崩れやすくなった斜面も、上空から見ただけでは分からない。
ミレナは足元へ目を配り、迷わず西の道を外れた。
「そちらは、南門から離れますわ」
シャーナシアが言う。
「西の道は広すぎる。追手も走れるよ」
「東は?」
「昨日の雨で沢が増えてる。渡る場所を探す間に追いつかれる」
「なら、この道は?」
「古い炭焼き道。少し遠回りだけど、途中から尾根へ上がれる」
説明しながらも、ミレナの足は止まらない。
自分より優れた者が、いま役目を果たしている。
ならば、自分が見るべきものは別にある。
二つ目の鐘が鳴った。
「来ます」
ギンの目に、木々の間を走る人影が映った。
ニンの目には、前を行く二人の背中が見えている。
異なる二つの景色が、同時に頭へ流れ込む。
アルマニアは追手の位置だけを確かめ、二羽との感覚を浅くした。
これから杖を使う。
二つの空を見ながら、一つの身体で戦うことはできない。
「あと、どれくらいです?」
「尾根まで百歩」
「殿下、前を」
「あなたの背後を見てあげようと思いましたのに」
「前を見て、ミレナ姉さんへ危険を伝えてください。後ろは僕が見ます」
「命令するようになりましたわね」
「実習中です」
「よろしい。ミレナ、右の根が浮いています!」
「見えてるよ」
「なら、返事をなさい!」
「はいはい」
枝を踏み折る音が、すぐ後ろで響いた。
アルマニアは振り向き、メイジスタッフを横へ構える。
神官戦士が、丸盾を前へ出して迫っていた。
鎖帷子を着ているとは思えない速さだった。
「追いついたぞ」
「二人とも、止まらないで!」
アルマニアは杖の先を男の胸元へ向けた。
勝つ必要はない。
一撃を当てる必要もない。
こちらへ入れば杖が当たると示し、踏み込む前に止まらせる。
神官戦士の剣が、杖の先を払った。
アルマニアは逆らわず、半歩下がる。
追手も半歩進む。
もう一度、杖を間へ差し入れる。
剣が上から落ちてきた。
杖の中央で受ける。
腕ではなく、腰と足で衝撃を逃がす。
神官戦士の剣が消えた。
盾が前へ出る。
押し込まれる。
アルマニアは杖を盾へ当てたまま、斜め後ろへ下がった。
正面から押し返せないなら、押される方向を選ぶ。
根をまたぎ、倒木の脇を抜ける。
「アル!」
ミレナの声が、遠くから聞こえた。
振り向かない。
「前を見てください!」
「でも——」
「ミレナ」
普段の呼び方を捨てた。
「道を見るのは、あなたの役目です」
返事がない。
代わりに、シャーナシアの声が飛んだ。
「戻れば、治された意味がなくなりましてよ!」
「分かってる!」
ミレナの足音が、再び遠ざかる。
その音を聞き、アルマニアも下がった。
剣を受ける。
流す。
間合いを作る。
十歩下がる間に、肩へ一撃を受けた。
次の十歩では、腿を打たれた。
どちらも痛い。
それでも、足は動く。
杖も握れる。
「まだ、戦列に残るか」
神官戦士が問う。
「残りません」
アルマニアは即答した。
「僕の役目は、勝つことではありません」
杖を大きく横へ振る。
追手が一歩下がった。
その隙に身体を返し、尾根へ向かって走る。
前方に、赤い布が見えた。
シャーナシアはすでに線を越え、左手で書板を掲げている。
ミレナは線の手前に立っていた。
「戻ってきたら失敗でしょう」
アルマニアが叫ぶ。
「戻ってない。ここで待ってるだけ!」
「同じです!」
「違うよ!」
ミレナが一歩だけ前へ出る。
その後ろ襟を、シャーナシアの左手がつかんだ。
「あなたまで線の内側へ入りなさい」
「アルが、まだ」
「自分の足で来ていますわ」
ミレナが唇を噛んだ。
アルマニアの後ろでは、神官戦士が再び距離を詰めている。
あと六歩。
五歩。
「左へ!」
ミレナの声が飛んだ。
アルマニアは考えるより先に左へ跳んだ。
右側を、革巻きの剣が通り抜ける。
着地。
足がもつれる。
転びかけた身体を杖で支え、そのまま二歩進む。
赤い布を越えた。
「そこまで」
神官戦士が剣を止める。
アルマニアはすぐに振り向いた。
追手が止まったことを確かめる。
書板がある。シャーナシアも、ミレナも線の内側にいる。
「全員、帰還しました」
息を切らしながら言う。
ミレナが駆け寄ろうとした。
「先に書板を」
アルマニアが止める。
「怪我を見せて」
「先に、任務の確認です」
「アルマニア」
低い声だった。
アルマニアは黙って両腕を上げた。
ミレナが肩と腿を確かめる。
革を巻いた剣で打たれた場所は痛むが、骨にも関節にも異常はなさそうだった。
「歩ける?」
「はい」
「めまいは?」
「ありません」
「吐き気は?」
「ありません」
「本当に?」
「姉さんが大丈夫と言う時よりは、信用できます」
額を指で弾かれた。
「余計なことを覚えたね」
◇
神官戦士は、三人を赤い布の前へ座らせた。
「なぜ、ミレナを選んだ」
「全員を動かすためです」
「野伏を優先して治せばよいということか」
「違います」
アルマニアは首を横へ振った。
「今日の任務が、敵情を持ち帰ることだったからです。砦を守る任務なら、シャーナシアを立たせたかもしれません。道が一つしかなく、ミレナ姉さんを担いでも進めるなら、別の選び方もありました」
「ならば、決まりは?」
「誰を治せば、今の目的へ一番近づけるかを考えます」
「最も傷の深い者ではなく?」
「命に関わる傷なら、その人です。でも、二人の命にすぐ危険がないなら、傷だけを見て決めません」
「最も強い者でもなく?」
「強い人を立たせても、その場から動けなければ帰れません」
神官戦士は頷き、シャーナシアへ目を向けた。
「異論は?」
「ありませんわ」
シャーナシアは、ようやく右腕の帯を解いた。
「わたくしを治していれば、追手を倒せたとは思います。ですが、それは別の課題です。今日はアルマニアが正しい」
「ずいぶん素直ですね」
「勝敗をごまかすほど落ちぶれてはいません」
次に、男はミレナを見る。
「お前は、なぜ自分を治すなと言った」
「私なら、怪我をしていても道を教えられるからです」
「それだけか」
ミレナは答えなかった。
アルマニアには分かっていた。
自分が傷ついても、疲れても、年下より先に助けられることを嫌がる。
頼れるお姉さんでいようとする時ほど、ミレナは自分を後回しにする。
「僕を、後ろへ立たせたくなかったんですよね」
「……アルなら、そう言うと思ったから」
「僕が言う前に、僕の役目まで決めないでください」
「心配するなっていう方が無理だよ」
「心配しても、前へ進んでくれました」
ミレナが顔を上げる。
「途中で戻ろうとしましたけど」
「戻ってない。待ってただけ」
「赤い線の外で」
「足が少し出ただけだよ」
「三歩ほど出ていましたわ」
「殿下は、どちらの味方なんです?」
「正しい方です」
シャーナシアが胸を張った。
ミレナは頬を膨らませたが、やがて息を吐いた。
「分かった。次も前を見る」
「はい」
「でも、後ろから声がしなくなったら戻るからね」
「それは戻ってください」
「なら、ちゃんと返事をすること」
「分かりました」
「あと、実習中にミレナって呼ぶのはいいけど、終わったら姉さんへ戻すこと」
「そこは大事なんですか?」
「大事です」
即答だった。
神官戦士が、実習記録を開く。
プリースト技能の欄へ書かれたのは、治癒魔法の成功ではなかった。
全員が自分の足で動ける一人を選び、専門家の仕事を奪わず、自分は空いた最後尾をつないだことだった。
「今日は、覚えたまでですか?」
アルマニアが尋ねる。
「そうだ」
「できたとは?」
「一度の正解で、戦場の負傷者を選べると思うな」
グンヒルダと同じ答えだった。
神官戦士は記録の最後へ、一行を書き加えた。
誰を立たせるかは、何をして帰るかで決める。
アルマニアは、その言葉を読み返した。
隣では、ミレナが赤い帯をたたんでいる。
「帰ろう、アル」
「南門までが実習です」
「分かってるよ」
ミレナは先に立ち、演習林を下り始めた。
三歩進んだところで、振り返る。
手は差し出さなかった。
「道は私が見る。後ろは任せてもいい?」
アルマニアはメイジスタッフを握り、頷いた。
「任せてください」
今度のミレナは、前を向いたまま歩き始めた。