アルマニアは、夢の中でも眠っていた。
こつん。
こつん。
硬い何かが、左右から交互に頭をつついている。
「……痛い」
こつん。
「痛いです」
こつん、こつん。
「痛いって言ってるでしょう!」
頭を押さえて飛び起きる。
目の前に、二羽の大鴉がいた。
普通の鴉よりも二回りは大きな黒い鳥が、右と左からアルマニアを見下ろしている。羽は闇よりも黒く、その縁だけが青白く光っていた。
足元には浅い水が広がっていた。
けれど、波紋の下に底はない。星も月もない暗闇が、どこまでも沈んでいる。
アルマニアは自分の身体を見下ろした。
頬はこけ、腕は細い。救い出される直前の、暗い旧区画で衰弱しきった姿だった。
「ここは……」
「ようやく起きたか」
右の大鴉が、錆びた鐘を鳴らすような声で言った。
「人の子は、よく眠る」
左の大鴉が、澄んだ鐘のような声で続けた。
二羽は大きく翼を広げ、揃って胸を張った。
「我が名は、運命の告知者、凶兆の大鴉アルケナが眷属、ギンギル」
「同じく、ニンギル」
「……どちらが、どちらですか?」
「我がギンギルだ」
「我がニンギルだ」
二羽が同時に答えた。
アルマニアには、やはり見分けがつかなかった。
「それで、そのギンギルとニンギルが、どうして僕の頭をつつくんです?」
「呼んでも起きぬからだ」
「なかなか起きぬので、少し面白くなった」
「面白がらないでください」
抗議したところで、二羽とも悪びれた様子はない。
右の大鴉が首を傾けた。
「さて、人の子アルマニアよ。よくぞ、かの泉を飲み干した」
「見事に一滴も残さなかった」
アルマニアの脳裏に、二羽の鴉を刻んだ石の水盤が浮かんだ。
あの暗闇で、自分の命をつないだ水だ。
「飲まなければ、死んでいました」
「責めてはおらぬ」
「泉とは、飲まれるためにある」
二羽は左右から近づき、アルマニアの顔をのぞき込んだ。
「かの水は、人の歩んだ日々を、ただ過ぎ去った時間で終わらせぬためのもの」
「痛みも、失敗も、発見も、次の技へ結び直す。その働きを、ほんのわずか助ける魔法の水よ」
「飲めば飲むほど、学びを受け入れる余地が魂に生まれる」
「もっとも、普通は柄杓で一杯ほどを分け与えるものだがな」
「貴様は水盤ひとつ分を、きれいさっぱり空にした」
「だから、仕方なかったんです」
「分かっておる」
「少し言ってみたかっただけだ」
どうにも調子のつかめない大鴉たちだった。
だが、二羽の眼差しが急に鋭くなった。
「問題は、最後の一滴よ」
「あれは泉の水ではない」
「水と交わらず、満ちた水盤の底で眠り続ける、時の霊薬」
「泉を最後まで飲み干した者だけが口にできる、ただ一つの雫だ」
アルマニアは、あの一滴を覚えていた。
二羽の石像の嘴が向かい合う、その真下。
水盤の底へ残っていた、かすかに光る雫。
「あれを飲んだから、僕に何か起きたんですか?」
「これより貴様は、一つの経験から、人の二倍を学び取る」
「同じ教えを受け、同じだけ鍛え、同じ失敗をしても、貴様の魂には二度刻まれる」
「剣も、魔法も、森を歩く術も、錠を解く指先も」
「歌も、祈りも、人の心を読む知恵もだ」
「……物事を」
アルマニアは息をのんだ。
魔法だけではない。
これから自分が学ぼうとする、すべてのことに及ぶ。
胸の奥で、消えかけていた火が揺れた。
「何もせず、技が身につくわけではないぞ」
ギンギルらしい方が嘴を鳴らした。
「教えを請え。手を動かせ。失敗せよ。考え、もう一度試せ」
ニンギルらしい方が翼を打った。
「歩まぬ者から、霊薬が学びを作り出すことはない」
「されど歩み続けるならば、貴様は常人の倍の速さで道を進める」
「一つの道へ専念すれば、若くして頭角を現し、名声を得られよう」
「魔術だけを選ぶなら、その頂へ至る日も遠くはあるまい」
「魔術の、頂……」
夢にまで見た言葉だった。
魔術師の家に生まれた。
古代語を学び、精霊の声を聞き、戦神マイリーへ祈りを捧げた。
異なる魔法のすべてを知りたかった。
剣も、野山を生き抜く術も、遺跡の仕掛けを見抜く技も、歌も学びたかった。
できることを増やせば、何が起きても困らない。
誰かが困っているとき、必ず手を伸ばせる。
そう信じていた。
だが——。
「僕は、もう少しで諦めるところだった」
二羽の大鴉が、同時に首を傾けた。
「暗い穴の底で、僕には何もできなかった」
声が震えた。
夢だと分かっていても、あの暗闇が足元から這い上がってくる。
「古代語魔法を知っていた。精霊にも呼びかけた。マイリーにも祈った。それでも扉は開かなかった」
灯りは作れても、出口は作れなかった。
傷を癒やせても、食べ物は作れなかった。
勇気を奮い起こしても、崩れかけた石壁を安全に壊す方法は分からなかった。
「僕は自分が無力だと嘆くしかなかった。いくつもの魔法を学んでも、あそこから一人では出られなかった」
「無力だと?」
二羽の声が重なった。
黒い羽が逆立ち、足元の水面が大きく揺れる。
「魔術の深淵をのぞいてもおらぬ身で」
「我らが主の業を無力と呼ぶか」
「凶兆の大鴉……アルケナ?」
「運命と時間を司る神獣、アルケナ」
「神々の大戦さえ予見した、運命の告知者」
「人は吉報を運ぶ者を愛し、凶報を運ぶ者を嫌う」
「されど、告げられぬ災いは避けられぬ」
「凶兆を知って初めて、人は運命へ抗うことができる」
二羽はアルマニアを挟み、ゆっくりと歩き始めた。
「我らが主は、神々さえ自在に扱えなかった時の流れを見つめ、その謎の一端を解き明かした」
「そして、古代王国と縁のなかった神獣の大陸クリスタニアへ、古代語魔法をもたらした」
「ゆえに影の民は、アルケナを魔法の祖とも仰ぐ」
「神ならぬ人が、言葉と意志によって神の真似事を行う。その可能性を、我らが主は時の彼方まで見通したのだ」
「なら、魔法は何でもできるんですか?」
「知らぬ」
あまりにあっさりと答えられ、アルマニアは目を瞬いた。
「知らないんですか?」
「我らは従者であって、答えそのものではない」
「答えを知らぬからこそ、問いには価値がある」
二羽は再び翼を広げた。
黒い翼が空を覆う。
星のない闇に、無数の青白い文字が浮かび上がった。
「ならば試せ、アルマニア」
「己が身をもって、魔法は万能たり得るのかを」
「魔法で足りぬものがあるならば、何をもって補うのかを」
「そして示せ」
「限りある人の身に、どれほど無限の可能性が宿るのかを!」
二羽が同時に羽ばたいた。
暴風が巻き起こり、アルマニアは腕で顔を覆った。
「待ってください! どうやって試せばいいんです?」
「それを考えるのが貴様だ」
「我らは言いたいことを言い終えた」
「そんな無責任な!」
「さらばだ、泉を空にした子よ」
「次に会うときまで、せいぜい励め」
大鴉たちは、本当に言いたいことだけを言って飛び去った。
二羽の姿が闇へ溶ける。
最後に、どちらかの嘴がもう一度だけアルマニアの頭をつついた。
「痛っ!」
アルマニアは寝台の上で飛び起きた。
いや、飛び起きようとして、わずかに頭を持ち上げただけで枕へ沈んだ。
見慣れない白い天井がある。
煮沸した布と薬草の匂いがした。
窓から差し込む朝の光が、ひどく眩しい。
賢者の学院分校にある治療室だった。
寝台の横では、ミレナが椅子へ座ったまま眠っていた。
アルマニアの片手を両手で握り、額を寝台の端へ預けている。
その髪を見た途端、夢の中では遠ざかっていた記憶が戻った。
崩れた壁。
差し込んだ光。
自分を抱き起こした腕。
「……ミレナ姉さん」
かすれた声に、長い耳がぴくりと動いた。
ミレナが顔を上げる。
眠気の残っていた瞳が大きく見開かれた。
「アル……?」
「おはようございます」
「おはようじゃない!」
抱きしめられた。
アルマニアの身体が折れないよう、力を抑えた抱擁だった。
「心配したんだから……本当に、もう目を覚まさないかと思ったんだからね」
「ごめんなさい」
「謝るのは後。話すのも後。今は水を飲んで、食べて、眠ること」
「でも僕、変な夢を——」
「後」
有無を言わせぬ声だった。
ミレナは片手で涙を拭い、卓上の小さな鐘を鳴らした。
その向こう、開け放たれた窓の縁に、二羽の鴉が留まっていた。
二羽は揃ってアルマニアを見つめている。
片方が一度、嘴を鳴らした。
もう片方が、いかにも偉そうに胸を張った。
「……ギンギルと、ニンギル?」
「何か言った?」
「いえ。どっちがどっちか、分からないなと思って」
「まだ夢を見てるの?」
ミレナが振り返るより早く、二羽は翼を広げた。
朝の空へ飛び立ち、王都オーファンの屋根の向こうへ消えていく。
治療室へ運ばれてきた薄い粥を前に、アルマニアは匙を握った。
魔法は万能なのか。
人は、どこまで多くのことを学べるのか。
答えは、まだ分からない。
ただ一つ、分かることがあった。
何もせずに得られるものはない。
そして、どれほど多くの道を歩めるとしても、今この瞬間に選べることは一つだけだ。
「まずは、食べます」
「うん。それが今の正解」
アルマニアは、温かな粥を一口ずつ飲み込んだ。
それが双鴉の祝福を受けた少年の、最初の選択だった。