演習林から戻った翌日、神官戦士科の授業から剣と盾が消えた。
代わりにあったのは、細長い講義室と、ぎっしり並んだ木机だった。
正面の黒板には、神聖語で一行だけ書かれている。
神の意思。
アルマニアは最前列の席へ腰を下ろし、羽根筆と紙を並べた。
ギンとニンは窓の外にある木の枝で、朝の羽繕いをしている。
神学の講義へ使い魔の目を借りる必要はない。
隣の椅子が引かれた。
グンヒルダが大きな欠伸をしながら座る。
右腕の固定は外れていたが、まだ長柄戦槌も工具袋も持っていない。工房へ戻すには早く、寝台へ縛りつけるほどでもないため、神官戦士科の座学へ放り込まれたらしい。
「どうして一番前なんだい?」
「聞き逃さないためです」
「後ろでも声は聞こえるよ」
「眠っている者には聞こえません」
「誰が眠るって?」
グンヒルダは机へ両肘をつこうとして、右肩をかばい、左肘だけをついた。
「あたしは仕事の話なら眠らないよ」
「今日は神学です」
「だから何だい」
「仕事の話ではありません」
「始まる前から喧嘩を売るんじゃないよ」
翡翠色の三つ編みが机の上を這い、アルマニアの手首を軽く叩いた。
講義室へ、先日の神官戦士が入ってきた。
今日は鎖帷子も丸盾も身につけていない。簡素な白い上衣の胸へ、戦神マイリーの聖印だけを下げている。
「神官戦士科は、剣を振り、傷を治すだけの課程ではない」
男は出席簿を教卓へ置いた。
「プリーストでない者も受けろ。戦場で神官へ何を頼めて、何を頼めないのか知らない者は、治癒を受ける側にも向かん」
グンヒルダが、わずかに姿勢を正した。
自分にも関係があると分かったらしい。
「古代語魔法には、発動体と身振り、鎧の制限がある。精霊魔法には、周囲の精霊と装備、両手の状態による制限がある」
神官戦士は、黒板の一行を指した。
「神聖魔法には、それらがない。鎧を着ていてもよい。剣を持っていてもよい。必要なのは、信じる神へ神聖語で祈ることだ」
アルマニアは紙へ書き取った。
神官戦士の指が、神の意思という文字の下で止まる。
「ただし、願いと目的が、信仰する神の意思に沿っていなければならない」
羽根筆が紙を擦る。
「これは、装備の制限より重い。杖は持ち直せる。鎧は脱げる。だが、神を欺いたまま正しい祈りの言葉だけ唱えても、奇跡は働かん」
アルマニアは、もう一行を書き加えた。
言葉ではなく、願いと目的。
隣から、規則正しい寝息が聞こえた。
「早すぎませんか?」
グンヒルダは左手で頬杖をつき、目を閉じている。
「まだ、四半刻も経っていませんよ」
「起きてるよ」
「目を開けて言ってください」
「まぶたを休ませてるだけさ」
「では、今の話を」
「神を騙すな」
グンヒルダは目を閉じたまま答えた。
「聞いているじゃないですか」
「寝ながら聞けるのも職人の技だよ」
「そんな一般技能はありません」
教卓から、硬い木片が飛んできた。
グンヒルダの額へ当たり、机へ落ちる。
片面に、アルマニア。
もう片面に、グンヒルダと書かれていた。
「今日から二人一組だ」
神官戦士が言った。
「アルマニア。そいつが眠ったら起こせ」
「なぜ、僕が?」
「隣へ座った」
「席は空いていました」
「選択には責任が伴う」
「そんな重い選択だったんですか?」
「グンヒルダ。アルマニアが神を便利な魔法の供給源として話し始めたら、お前が起こせ」
「あたしは眠ってるんじゃなかったのかい?」
「片方が眠れば、もう片方が起こせ。それで足りる」
グンヒルダは額をさすりながら、木片を裏返した。
「お守りをつけられた気分だね」
「どちらが、どちらの?」
「あんたが、あたしの」
「逆も言われていましたよ」
「あんたは起きてるだろ」
「目を開けていても、考え方が眠ることはあるそうです」
アルマニアは、黒板の一行を見た。
神官戦士は何も答えず、厚い紙を二人の机へ置いた。
◇
紙には、一人の負傷者について書かれていた。
村の門を守った若い兵士。
仲間を逃がすために一人で踏みとどまり、剣を持つ右腕へ傷を負った。
出血は止まっている。
生命に危険はない。
だが、指が震え、剣を握れば落とす。
敵が再び来るかもしれないため、本人は治癒を受け、門へ戻りたいと願っている。
祈るべきか。
祈るなら、何のために祈るのか。
「昨日と同じですね」
アルマニアは紙を読み終えた。
「負傷者を立たせるか、退かせるかを決める課題です」
「違う」
神官戦士が即座に言った。
「昨日は、お前に残された奇跡を誰へ使うか選ばせた。今日は、その願いをマイリーへ差し出せるかを問うている」
「仲間を守って負傷した者です。治癒を願うことは、マイリーの意思に反しません」
「ならば、門へ戻すのか」
アルマニアは紙へ目を戻した。
傷を治す。
戦列へ戻す。
昨日までなら、その二つを分けて考えられた。
だから、治癒だけを行い、門へ戻さないと答えればよい。
羽根筆を動かしかけたところで、三つ編みが手首へ巻きついた。
「何を書こうとした?」
グンヒルダが、片目だけ開けている。
「傷を治します。ただし、門へは戻しません」
「その祈りで、何を治すんだい?」
「右腕の傷です」
「血は止まってる。命にも別状はない」
「ですが、指が震えています」
「あたしの手も震えてたね」
墓所からの帰路。
水筒を落としたグンヒルダへ、治癒の祈りは届いた。
痛みは和らいだ。
傷も回復した。
それでも指の震えは止まらず、戦槌も工具も使えなかった。
「もう一度、祈れば治るとは限りません」
「祈ったら試してみよう、って顔をしてたよ」
「そこまでは」
「思わなかっただけで、確かめもしなかったね」
神官戦士科の最初の実習で言われたことと、同じだった。
神官戦士が、教卓から二人を見ている。
「アルマニア。お前は何を願う」
「この兵士が、門へ戻れるように」
口にしてから、違うと気づいた。
「それは、兵士の願いです」
「では、お前の願いは?」
仲間を逃がすために踏みとどまった者を、死なせたくない。
勇気を示した者が、その勇気のせいで二度と剣を握れなくなるのも嫌だった。
だが、戦えるようにしてほしいと願えば、治癒のあとに戦わせることを目的へ含めてしまう。
今の彼へ必要なのは、もう一度無理をする力なのか。
「傷ついた者が、生きて次の戦いを選べるように」
アルマニアは答えた。
「今すぐ門へ戻すためではありません。残っている傷を癒やし、休ませます。震えが止まらないなら、剣は持たせません」
「門はどうする」
「別の者が守ります」
「誰もいなければ?」
「僕が立ちます」
「お前は、その場にいない」
「なら、まだ動ける者が立ちます」
「いなければ?」
問いを重ねるほど、答えは苦しくなる。
全員が傷つき、門の向こうに逃がさなければならない者たちがいる。
若い兵士を戻さなければ、門を守れない。
それでも——。
「本人へ、剣を握れるか確かめます」
「本人は戻りたいと言っている」
「戻りたいかではなく、握れるかです」
グンヒルダが目を開けた。
「握れたとしても、任せられるかは別だよ」
「はい」
「剣を一度持てたからって、敵が来るまで持ち続けられるとは限らない。受けた衝撃で取り落とすかもしれない。利き手をかばって、足まで崩すかもしれない」
「なら、剣以外の役目を」
「声は出る。足も動く」
「警鐘を鳴らし、避難を急がせてもらいます。門へ立つ者へ、敵を見た場所と数を伝えられます」
「それなら、右手はいらないね」
アルマニアは、紙の余白へ新しい隊列を書いた。
門を守る者。
警鐘を鳴らす者。
負傷者を運ぶ者。
若い兵士を、元いた場所へ戻す必要はない。
彼が今もできる仕事へ移せばよい。
「治癒はします」
アルマニアは最初の答えを残した。
「ただし、門へ戻すためとは願いません。仲間を守った者が生きて帰り、今できる役目を果たすために、残った傷を癒やしてほしいと願います」
「そのあとも手が震えていたら?」
「治癒が失敗したとは考えません」
グンヒルダの目が、アルマニアへ向く。
「傷が治ることと、仕事を任せられることは違います」
「ようやく、そこへ戻ってきたね」
彼女は三つ編みをほどき、アルマニアの手首を解放した。
「では、書きな」
「起きているなら、自分でも書いてください」
「右手は、まだ長く使うなって言われてる」
「左手があります」
「字が汚くなる」
「読めれば十分です」
「職人へ、仕上がりを妥協しろって?」
「神学の回答です」
「あたしの名前で出す紙だよ」
「では、僕が書きます」
「最初からそう言えばいいのさ」
「お守りをしている気がしてきました」
「気のせいだよ」
グンヒルダは再び頬杖をついた。
今度は目を閉じなかった。
◇
組ごとの答えが読み上げられた。
すぐに治して門へ戻す。
命に危険がないため、治癒を使わず休ませる。
兵士本人の勇気を尊重し、選択を任せる。
どれも、まったく間違いとは言い切れなかった。
敵がどれほど近いか。
代わりに門へ立てる者がいるか。
兵士の傷が治癒でどこまで回復するか。
祈りを捧げる神官が、何をマイリーの意思と受け取るか。
書かれていない条件が変われば、答えも変わる。
「正しい言葉を選べば、神を動かせるわけではない」
神官戦士は黒板へ、新しい一行を書いた。
何のために願うのか。
「神聖魔法は、神への命令ではない。術者は、自分の願いも目的も隠さず差し出し、そのうえで力を願う」
講義室が静かになる。
「祈りが届いたから、自分の判断がすべて正しかったとも限らん。治癒が働いても、戦列へ戻す判断は別に残る。届かなかったから、神に見捨てられたとも限らん。願い方、目的、信仰、自分が見落としたことを問い直せ」
アルマニアは、その言葉を書き取った。
隣から寝息は聞こえない。
見ると、グンヒルダは黒板ではなく、アルマニアの紙を読んでいた。
「何か間違っています?」
「字が細かい」
「紙を節約しています」
「あとで読む者のことも考えな」
「僕しか読みません」
「今日から、あたしも読むよ」
グンヒルダは、二人の名前が書かれた木片を紙の上へ置いた。
「あたしが寝てたところを、あとで教えるんだろ?」
「全部です」
「そんなに寝てない」
「最初の一行からです」
「神を騙すな、は聞いてたよ」
「そのあとです」
「だいたい分かった」
アルマニアが顔を上げる。
グンヒルダも、自分の言った言葉へ気づいた。
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
「今のは、なしだ」
「聞きました」
「忘れな」
「忘れません」
三つ編みが飛んできた。
アルマニアは紙を抱え、椅子ごと横へ逃げる。
「病み上がりですよ」
「左手でも投げられるって言っただろ!」
「そこまで」
神官戦士の声で、三つ編みが止まった。
男は出席簿へ二人の名を書き込み、その間を一本の線で結んだ。
「神官戦士科が終わるまで、その席を使え」
「毎回、このお守りを?」
グンヒルダが不満そうに尋ねる。
「アルマニアは、お前が眠った時に講義をつなぐ。お前は、アルマニアが祈りで何でも解決できると思った時に、現場へ引き戻す」
「どちらがお守り役です?」
アルマニアも尋ねた。
「両方だ」
昨日、ミレナへ後ろを任された。
今日は、グンヒルダの隣を任された。
万能予備役は、空いた場所へ一人で入る者ではない。
隣にいる専門家が動けない時、その仕事が途切れないようにつなぐ。
そして、自分の考えが一つの技能へ寄りかかった時には、隣から起こしてもらう。
神官戦士は、実習記録を開いた。
プリースト技能の欄に、新しい段階は書かれなかった。
代わりに、一行だけ加えられる。
祈りは、できることを神へ命じる言葉ではない。
何のために願うのかまで、神へ差し出す。
「今日は、覚えたまでですか?」
「まだ、聞いたところだ」
「覚えたより前じゃないですか」
「だから次も、その席へ座れ」
グンヒルダが、机へ突っ伏した。
「まだ続くのかい……」
「眠らないでください」
「もう授業は終わったよ」
「復習が残っています」
「お守りの仕事が熱心すぎる」
「グンヒルダも、僕が間違えたら起こしてください」
「仕方ないね」
伏せた顔を少しだけ上げ、グンヒルダが笑った。
「寝る時は交代だよ、相棒」
「授業中は、二人とも起きていましょう」
窓の外で、ギンとニンが同時に鳴いた。
どちらの味方なのかは、分からなかった。