翌朝、アルマニアとグンヒルダの席には、二人の名前を記した木片だけが残されていた。
本人たちは、講義室にいない。
戦神マイリーの神殿にある施療院へ呼び出されていた。
白い漆喰の壁に、薬草と煮沸した布の匂いが染みついている。
長椅子には腕を吊った兵士や、頭へ包帯を巻いた職人が並び、神官たちが傷の具合を確かめていた。
治癒の祈りを受けた者も、まだ順番を待っている者もいる。
傷が塞がれば、その場で元の生活へ戻れるわけではないらしい。
グンヒルダは、その列から少し離れた診察台へ座っていた。
右肩を固定していた布は、もうない。
膝の上には、使い慣れた工具袋が置かれている。
「持ってきたんですか?」
「今日は実地だって聞いたからね」
「神殿で、何を削るつもりです?」
「あたしの手が戻ったか、確かめるのさ」
グンヒルダは工具袋の口を開いた。
小槌、たがね、やすり、拡大鏡。
ひと月分の仕事を始められそうな道具が、隙間なく収まっている。
「誰が、戻ってよいと言ったんです?」
「今から言わせる」
「誰に?」
「あんたに」
アルマニアは、嫌な予感がして振り向いた。
昨日の神官戦士が、診察室の入口に立っている。
鎖帷子も剣もなく、今日も白い上衣とマイリーの聖印だけを身につけていた。
その手には、二人の名前を書いた木片がある。
「本日の課題だ」
木片が裏返される。
そこには、短い一行が加えられていた。
グンヒルダを、工房へ戻せるか。
「戻せます」
本人が即答した。
「まだ、何も見ていません」
「痛みはない。指も動く。工具も持てる」
「昨日は、長く使わないよう言われていました」
「昨日の話だよ」
「一晩で、そこまで変わります?」
「だから確かめるんだろ」
グンヒルダは診察台から下り、右腕を肩の高さまで上げた。
動きに迷いはない。
指を開き、握る。
目に見える震えもなかった。
「ほら」
「一度、動きました」
「誰の口癖を真似してるんだい」
「一度できたことと、任せられることは違うそうです」
「使いどころが腹立たしいね」
神官戦士が木片をアルマニアへ渡した。
「昨日、紙の上にいた兵士は、傷を治して門へ戻ることを望んだ。お前は、元の場所へ戻す必要はないと答えたな」
「はい」
「今日は、本人が目の前にいる。言葉だけで同じ答えを出せるか、確かめろ」
「あたしは門番じゃないよ」
「違いはあるか」
「山ほどあるね」
「ならば、それも二人で確かめろ」
グンヒルダの工具袋が、アルマニアへ押しつけられた。
「工房まで持て」
「自分で持てるでしょう?」
「復帰できるか確かめる前に持たせて、悪くなったら、あんたの失敗だ」
「持てないなら、復帰できないのでは?」
「あたしが持てないんじゃない。あんたが持たせられないんだよ」
アルマニアは答えに詰まり、工具袋を抱えた。
神官戦士が小さく笑う。
「二人とも、よく起きているようだな」
◇
学院へ道具を納めている宝石工房は、神殿から歩いて半刻ほどの場所にあった。
石造りの一階には作業台が並び、天窓から差す光が、研磨粉の舞う空気を白く見せている。
壁際では、足踏み式の研磨盤が止まっていた。
水桶の隣には、切削途中の水晶や、金属の台座、欠けた留め具が収められた木箱が積まれている。
グンヒルダの作業台だけが、何日も前の姿で残されていた。
途中まで磨かれた水晶。
細い銅の輪。
赤い蝋で印をつけた、ひびのある原石。
誰かが勝手に続きを仕上げないよう、布がかけられている。
「触られていませんね」
「あたしの仕事だからね」
グンヒルダは少しだけ嬉しそうに言い、布を外した。
その手が、作業台の上へ伸びる。
「待ってください」
アルマニアは工具袋を抱えたまま、手首をつかんだ。
「何だい」
「何から確かめるつもりです?」
「仕事ができるか」
「それでは、失敗した時に仕事を壊します」
作業台にある水晶は、練習用の石ではない。
学院の魔術師が発動体へ使うため、工房へ持ち込んだものもある。
手が滑れば、石だけではなく、依頼人の財産と信用まで損なう。
「練習台は?」
「棚の下」
アルマニアがしゃがむと、欠けた色硝子を入れた箱があった。
宝石として売ることはできない。
工具の扱いや、石留めの練習に使うものらしい。
アルマニアは、その中から親指の爪ほどの青い硝子を一つ選んだ。
「これを、銅の輪へ入れてください」
「子供の練習かい?」
「十四歳に診られているのですから、諦めてください」
「そこは関係ないだろ」
グンヒルダは椅子へ座り、右手で小さなやっとこを持った。
硝子をつまむ。
銅の輪へ載せる。
四つある爪を、小槌で順に倒す。
乾いた音が四度響いた。
硝子は傾かず、爪にも傷がない。
「どうだい」
「できました」
「なら、戻れるね」
「もう一つお願いします」
「見てただろ」
「一日働けば、四度しか槌を振らないんですか?」
グンヒルダの琥珀色の目が細くなる。
アルマニアは、同じ大きさの硝子と銅の輪を並べた。
二つ目。
これも、問題なく収まった。
三つ目。
小槌の音が、わずかにずれた。
四つ目。
やっとこの先が硝子の縁を擦った。
傷はつかなかった。
だが、グンヒルダの右手が止まる。
「続けますか?」
「当たり前だよ」
「指が震えています」
「このくらい、仕事をしていれば誰だって——」
「普段のグンヒルダも?」
返事がなかった。
右手の震えを隠すように、グンヒルダは小槌を強く握った。
五つ目の硝子をつまむ。
やっとこが、細かく揺れる。
銅の輪へ載せる前に、硝子が落ちた。
革を敷いた作業台へ当たり、鈍い音を立てる。
割れてはいない。
「練習台です」
アルマニアは言った。
「本物なら?」
「落としてない」
「いま落としました」
「本物なら、もっと集中する」
「集中し続けられますか?」
「できる」
「何刻?」
「やってみなけりゃ分からない」
「分からない状態で、誰の石を使うんです?」
グンヒルダの右手から、小槌が作業台へ置かれた。
投げつけなかっただけ、まだ冷静なのだろう。
「治せばいい」
「何をです?」
「この震えを」
「治癒の祈りは、残っている傷を癒やします。使いすぎた手を、いくらでも働ける手へ変えるものではありません」
「やってみなけりゃ分からないだろ」
「そのために神へ願うんですか?」
アルマニアは、胸元へ手を置いた。
聖印はない。
神聖魔法には、発動体も身振りも必要ない。
この場で神聖語を唱えれば、祈りを捧げることはできる。
何のために願うのか。
昨日、黒板へ書かれた問いが浮かんだ。
グンヒルダの傷を癒やすため。
違う。
いま目の前に、新しい傷はない。
痛みを消し、震えを押さえ、仕事へ戻すため。
それは、休むべき身体をもう一度働かせるために、神の力を求める願いだった。
「僕は、祈りません」
「プリーストだろ」
「だからです」
「あたしが戻りたいと言ってる」
「昨日の兵士も、門へ戻りたいと言っていました」
「あたしの工房だよ。あたしの仕事だ」
「だから、壊させたくありません」
琥珀色の目が、アルマニアをにらむ。
「あたしの手が治ってないって言いたいのかい?」
「治っている途中です」
「同じだよ」
「違います。戻れないのではありません」
アルマニアは、作業台へ置かれた小槌を取り上げた。
自分の手で持ってみる。
重くはない。
だが、どの角度で振り、どれほどの力で爪を倒せば石を傷つけないのか分からない。
「僕が代わりに打てば、たぶん壊します」
「たぶんじゃない。確実に傷をつけるね」
「では、誰かが代わりに仕上げれば?」
「石の癖を見ていない。どこまで削ったかも、次にどの面を出すつもりだったかも知らない」
「グンヒルダなら分かります?」
「あたしの仕事だよ」
「右手を使わなくても?」
グンヒルダの目が、作業台へ向いた。
赤い蝋で印をつけた水晶。
途中まで倒された台座の爪。
研磨盤の横へ並べられた三本のやすり。
彼女は、左手で一つずつ指した。
「その水晶は、印の内側に細いひびがある。先に角を落とせば割れる。平らな面を出してから、最後にそこを避けて削る」
「はい」
「台座は右の爪が薄い。次に倒すのは左じゃない。奥を先に締める」
「はい」
「やすりは真ん中を使うな。目が潰れてる。右の細い方で形を整えてから、左で仕上げる」
アルマニアは紙を取り出し、言われた順に書き留めた。
「これなら、別の職人へ渡せます」
「あたしが仕上げるはずだった」
「最後の仕上げは、グンヒルダが戻るまで待てますか?」
「納期がある」
「全部、今日ですか?」
「違う」
「待てないものだけ、誰かにつないでください。待てるものには、触るなと書きます」
橋を完全に直せなくても、専門家が戻るまで通行をつなぐことはできた。
仕事を奪うのではない。
途切れさせない。
そして、今のグンヒルダにもできる仕事がある。
「石を見ることは?」
「できる」
「どれくらいなら?」
「一日中だって」
「右手は使いません」
「拡大鏡くらい持てるよ」
「台へ固定します」
「そこまでしなくても」
「何刻?」
「……一刻」
「半刻ごとに休みます」
「短い」
「では、今日は戻しません」
「分かったよ。半刻だ」
グンヒルダは不満そうに言い、作業台の上へ残った硝子を左手で集めた。
右手は使わない。
代わりに、アルマニアが拡大鏡の台を運び、角度を合わせる。
グンヒルダが石を見る。
ひび、欠け、削る順番を伝える。
アルマニアが書く。
自分では判断できない箇所が出るたび、聞き直す。
「だいたい、こうですか?」
三つ編みが飛んできた。
「だいたいで、他人へ渡すんじゃないよ」
「起きていますね」
「仕事だからね」
「では、正確にお願いします」
半刻で、六つの仕事が仕分けられた。
すぐ別の職人へ渡すものが二つ。
グンヒルダの手が戻るまで待つものが三つ。
傷が深く、加工そのものを中止すべきものが一つ。
小槌は一度も振らなかった。
それでも、止まっていた仕事は動き始めていた。
◇
神官戦士は、半刻が終わる頃に工房へ来た。
作業台の前には、六枚の札が並んでいる。
グンヒルダは椅子へ座ったまま、右手を膝の上へ置いていた。
「判定を聞こう」
「元の仕事へは、まだ戻せません」
アルマニアは答えた。
「小槌とやっとこを使う細工は、五つ続きませんでした。長柄戦槌も、工具袋も持たせません」
「ならば、工房へ戻すのは失敗か」
「いいえ」
六枚の札を示す。
「石の検品と、工程の指示なら任せられます。半刻ごとに休み、右手を使わず、書き手と運び手をつけます」
「ずいぶん条件が多いね」
グンヒルダが言った。
「一つでも守らなければ、神殿へ戻します」
「誰が見張るんだい?」
「午前は僕です」
「午後は?」
「休みです」
「勝手に決めるな」
「診る者がいません」
「一人で休めるよ」
「では、自分で右手を使わないと約束してください」
「信用がないね」
「小槌を握って、治せと言った人です」
グンヒルダは口を閉じた。
神官戦士が、六枚の札を一枚ずつ読んでいく。
「戻すか、戻さないか。その二つから選ばなかった理由は?」
「傷を負う前と同じ場所へ、同じ役目で戻る必要がないからです」
「本人が望んでも?」
「戻りたいという願いは聞きます。でも、できるか、任せられるかは別に確かめます」
「治癒を願わなかった理由は?」
アルマニアは、隣に座るグンヒルダを見た。
治癒の祈りを使えば、痛みが和らぐかもしれない。
震えも、一時は止まるかもしれない。
だが、それで明日も働けるとは限らない。
「奇跡が必要な傷を見つけられなかったからです」
「本人は求めた」
「僕は、グンヒルダを働かせるために、マイリーへ力を願えません」
「神が、そう望まぬと断言するのか」
「いいえ」
アルマニアは首を横へ振った。
「僕が、その願いを正しいものとして差し出せません。休ませるべき手だと分かっているのに、使えるようにしてほしいとは願えません」
神官戦士は、すぐには答えなかった。
グンヒルダも、何も言わない。
研磨盤の水滴が、石の受け皿へ落ちる音だけが続いた。
「よい」
神官戦士は、ようやく言った。
「祈らないことも、術者の判断だ。ただし、恐れて力を惜しむことと混同するな。必要な傷を前にした時は、迷わず願え」
「はい」
「グンヒルダ」
「何だい」
「判定に異論は?」
「あるよ。半刻は短すぎる」
「そこだけか」
グンヒルダは右手を見た。
五つ目の硝子を落とした手。
それから、六枚の札へ目を移す。
「……仕事へ戻れないわけじゃない。それは、認める」
「アルマニアへ、任せられるか」
「石を触らせなければね」
「触りません」
「あたしの言ったとおり、一字も落とさず書くこと」
「字が細かくても、文句を言わないでください」
「読む者のことを考えな」
「では、二人で書きます?」
「右手は使わせないんだろ」
「左手があります」
「仕上がりが悪くなる」
「読めれば十分です」
二人の言い争いを聞きながら、神官戦士は実習記録を開いた。
昨日まで、プリースト技能の欄には新しい段階がなかった。
今日は、アルマニアが一度も奇跡を使わなかった日に、その一行が加えられた。
プリースト、二レベル。
「祈っていませんよ」
「祈りの数を数える技能ではない」
「新しい奇跡を使えたわけでも」
「覚えるのは、これからだ」
神官戦士は記録を閉じた。
「今日は、神へ何を願わないかを、自分で選んだ。次は、願うべき時に選べるか確かめる」
アルマニアは、グンヒルダの工具袋を持ち上げた。
「神殿へ戻りますよ」
「工房へ戻してくれたんじゃなかったのかい?」
「半刻、終わりました」
「もう少しくらい」
「約束です」
「相棒に融通がない」
「相棒が、約束を守らないからです」
グンヒルダは椅子から立ち、作業台へ布をかけた。
右手ではなく、左手を使って。
「次は、あんたが祈る番だってさ」
「必要なら祈ります」
「必要じゃなければ?」
「別のことをします」
「何を?」
アルマニアは、六枚の札が置かれた作業台を見た。
治す。
休ませる。
元の場所へ戻す。
選べるのは、その三つだけではない。
「その人が、今できる仕事を探します」
「見つからなければ?」
「戻れるまで、つなぎます」
グンヒルダは、少しだけ笑った。
「なら、ちゃんと持ちな」
工具袋の革紐が、アルマニアの肩へかけられる。
「あたしが戻るまで、落とすんじゃないよ」
「重いんですよ、これ」
「仕事は重いものさ」
二人は並んで工房を出た。
ギンとニンが、朝から待っていたように屋根から舞い降りる。
一羽はアルマニアの肩へ。
もう一羽は、空いているグンヒルダの左肩へ止まった。
右肩には、まだ誰も乗らなかった。